ディジー・エスティバンとキアラン・バータル 5
教室から図書館へ急いで走り込み、図書部としての活動をする。私は本を抱えて、無数の本棚の間を歩き回る。頭の中では、いかにフラグを回避するかということでいっぱいだ。
まず、第一の懸案事項は、今日の生卵事件の発端となったディジー・エスティバンだ。ディジー・エスティバンが、私に対して嫌がらせをするのは、キアラン・バータルが私に放課後、幾何学の勉強を教えているということが原因だ。そして、なぜ私が勉強を教えてもらっているかというと、私のテストの成績が壊滅的であったからだ。そして、何故テストの成績が悪かったかと言うと、主人公補正がかかっているからだ。私自身も幾何学の勉強を頑張ったけれど、ダメだった。キアランから勉強を教えてもらうようになって久しいが、理解の向上があまり見られない。
主人公補正という名の呪いを、解除するというのは現実的ではないように思える。このまま惰性的にキアランに勉強を教えてもらっても、はっきり言って無駄であろう。キアランに勉強を教えてもらう期間が長くなればなるほど、ディジー・エスティバンからの嫌がらせは苛烈を極めていくだろう。
フラグが立ってしまったのは今さら言ってもしょうがない。必要なのは、このフラグをへし折ることだ。キアラン・バータルに関して言えば、ディジー・エスティバンと恋仲になるようにすれば良いのだ。その方法を考えなければならない……。
二つ目の懸案事項は、ブリキット・アレクサンデルである。今日、彼が何を思って教室で私に絡んできたかは知らないが、今後、そんなことをしないように釘をさしておくことが重要だろう。まぁ、釘を刺すといっても、直接的に言い過ぎると不敬となってしまうから、言い方を注意しなければならないと思う。もしくは、二度と彼から興味をもたれないようにするかだ……。そうしないと、ブリキット・アレクサンデルを慕う女子生徒たちからの嫌がらせが始まってしまう。
三つ目の懸案事項は、まだ接触していない攻略対象だ。彼らとは、今後も接触しないという方針で良いだろうと思う。
そんなことを考えながら、図書部の活動をしていたら、キアラン・バータルとの勉強の時間となってしまった。
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「今日は、三平方の定理の証明方法を理解してもらう」とキアラン・バータルは言った。私には、ピタゴラスの定理、と言われた方が馴染みがあるのだけど、まぁ、それはどうでもいい。
キアラン・バータルは、『aの2乗 + bの2乗 = cの2乗』という数式をノートに書いた。
「直角三角形の斜辺の長さをc、他の2辺の長さをa, bとすると、この方程式が成り立つのだ。授業で習った方法で、証明をしてみろ」と、私に無茶な振りをする。確か、授業で習ったと思うのだけど……。しかも、数通りの証明方法を習って、先生が、「真理は1つしかないが、真理に至る道は、多いのだ」とか言っていたことを薄らと覚えているだけだ。恐るべき主人公補正である……。
キアラン・バータルは、辛抱強く待っている。私の筆は、10分の間、全く動いていない。まぁ、頭も動いていないけど……。
「この証明方法を今日のところは理解してもらおう」とキアランは言って、正方形を1つ書き、そしてその中に斜めの正方形を書いた。最初にキアランが描いた正方形の中には、4つの直角三角形と一つの正方形が出来た図形となる。直角三角形の斜辺にキアランはcと書いた。直角を挟む2辺がaとbになる形だ。
「この正方形の長さをa+bとするぞ。そうすると、この正方形の面積はいくつになる?」
「四角形の面積は、盾×矛だから、矛盾だったかしら?」
「いや、縦×横だから、この場合、(a+b)の2乗になる。これはいいよな?」とキアランは不安そうに私を眺める。
「大丈夫なはず……」と私は答える。
「次に、この正方形の中にできた4つの直角三角形の面積を求めるぞ。1つの三角形の面積は、a×b÷2ということになる。4つではいくらだ?」
「4を掛ければいいだけでしょ。つまり、4×a×b÷2ということになるわね」と私は答える。
「正解だ。やればできるじゃないか!」と、キアランはぎこちない笑顔を私に向ける。
褒めて伸ばすという教育方針に転換したのかしら? なんて私は思う。笑顔を作っているけど、メガネの奥に見える目が笑ってないし……。
「次に、中の正方形の面積を求めるぞ。長さはcだから、面積は?」
「cの2乗ね!」と私は言う。
「その通りだ」と、キアランは私の頭を撫でる。
完全に、私を子供扱いしている……。一応、ホリー・ヴァレンティノとキアランは同じ年のはずなのだけど……。私の年齢からすると、キアランよりも年上のはずなのだけど……。
「では、話をここで整理するぞ。大きな正方形の面積は、(a+b)の2乗だ。その面積は、この4つの直角三角形とこの正方形の面積の和と等しいということになる。いいな?」
私は頷いた。
「つまり、(a+b)の2乗=4×a×b÷2 + cの2乗ということになる。そして、この式を整理していくと……」
キアランは、ノートに数式を書いて計算していく。
(a+b)の2乗=cの2乗+4×a×b÷2
(a+b)の2乗=cの2乗+2ab
aの2乗+2ab+bの2乗=cの2乗+2ab
aの2乗 + bの2乗 = cの2乗
「これで、証明できた、というわけだ」とキアランは言った。
「なんとなく分かった気がするわ」と、私はキアランが書いた数式と睨めっこをする。
どうも、この数式と睨めっこをしていても頭に入ってこない。主人公補正のせいだろう……。
この数式が頭に入ってこない代わりに、似たような数式が頭に浮かんできた。
aのn乗+bのn乗=cのn乗
さっきの数式の「2」の数字のところが「n」に変わっただけの数式なのだけど、こちらの方は、すんなりと頭に入ってくる。
さらに、「3以上の自然数nについて、aのn乗+bのn乗=cのn乗を満たす、自然数a、b、cは存在しない」という文言まで頭に浮かんできた。
あ! これ、フェルマー・ワイルズの定理だわ、と私は思い出したのだった。




