ディジー・エスティバンとキアラン・バータル 4
ブリキット・アレクサンデルが秘密の花園を去ったあと、私は食事をした。
噴水の音。秘密の花園を囲んでいる生垣の葉が風で擦れる音。花園の隅にあるルピナスも、紅色の大きな花穂を風に揺らしている。
食事をして、私はベンチで背筋を伸ばした。そしたら何だか悲しくなった。
・
教室に戻るのに気後れするが、午後の授業を流石にサボるわけにもいかない。教室に私が入ってから席に座るまで、教室中の視線が密かに私に集まっているのが分かる。私がポニーテールからストレートに髪型を変えたせいではないだろう。当然、「髪型変えたんだ~」なんて話しかけてくる人もいない。
修辞学の授業が始まったが、集中ができない。後頭部と背中に意識がいってしまう。教室の後ろの席の空気や音に神経がいく。すぐ後ろの人の筆が、インクの入った壺に当たった音に過剰に反応してしまう。本を捲る音が、やけに頭に響く。
授業が終わったが、その内容はまったく思い出せなかった……。
授業が終わった。私はさっさと教室から抜け出し、キアラン・バータルとの勉強会の時間まで、図書館の奥底に逃げ込もうと思い、本を急いで鞄にしまっていたら、教室の空気が変わる。
ざわつきが生まれ、それは波紋のようにそれが教室全体に拡がり、私にも届いたようだ。何故だろうと教室を見渡すと、全員の視線が、一人の人間に集まっていた。ブリキット・アレクサンデルが教室の入り口に立っていたのだった。
別のクラスであるブリキット・アレクサンデルがこの教室にやってくるというのも大事件だけれど、それよりももっと皆が驚いていることは、前方の扉から入ってきたからであろう。身分の高い人は、当然、教室の後ろの出入口を使う。暗黙の了解で、前方の扉を使うのは、身分が低い人、後方の扉を使うのが、身分の高い人。教室の中段に座る人は、それぞれ自尊心と周りからの反応を確認して出入り口を決めているのだ。そんな中で、前方の入口から貴族の頂点、王族たるアレクサンデル家のブリキット様が、何故、教室の前方の出入口から入ってくるのか。その理由を知りたくて、ブリキット・アレクサンデルを見ているのだろう。
ブリキット・アレクサンデルの視線と私の視線が重なる。ブリキット・アレクサンデルは、私の方へと歩み始める。私は、嫌な予感がして、教室から出ようと荷物を持ち上げる。
「久しぶりだな、ホリー・ヴァレンティノ。本日の授業ご苦労であった」とブリキットが言った。なぜ、私に話しかけてくる! というのが私の感想だった。
ブリキットはわざとやっているのか、昼休みに花園で話した声量よりも大きな声だ。自分の声を教室全体に響かせるためにやっているのだろうが、私にはその意図がまったく分からない。というか、私に話しかけてくる意図が分からない。このクラスの身分の高い侯爵の人だって、まだブリキットと知り合えていない人がいるだろう。そんな中で、子爵家の私がブリキットと知り合いというのは、非常に上手くない。嫉妬の対象となり、虐めが加速する可能性がある。まじで勘弁して欲しい……。
「ブリキット・アレクサンデル様、御機嫌よう。労いの言葉をおかけいただき、誠に光栄の至りでございます」と、私は荷物を机に置いて、淑女の礼を取る。
本音では、「ご苦労であった」なんて、別に彼のために勉強しているわけではないから、労ってもらう筋合いはないわよ、と思っている。まぁ、将来、貴族として王族に良く仕えるために、この学園に学びに来ているというのが本来的な意義なのは知っているけど……。
そして、「私に何か、御用でございますか?」と私は言った。私に話しかけてくんな、という意味を込めて。私の言葉を聞いた周りの貴族から批判めいた声が微かに上がった。
貴族のルールとして、何か御用ですか、と王族に問うのは、自らが王の心を推し量ることができない無能ものだと自白しているようなものだから、決して言ってはいけない言葉の一つではあることは自覚している。それに、用事がなかったら、わざわざ来ないしね。
「特に用事があるわけではない。今日のお前の髪は、いつにも増して美しいと思ったから話しかけてみただけだ。まるで、月明かりに照らされた絹のようではないか」
そして、ブリキットは私の髪の毛を触ろうとした。もちろん、私は一歩引いて、それを避けたけど。
「そのようなことは…」「言わなくても分かっているぞ」と彼は私の言葉を打ち消す。
「最近、王都で流行っていると聞いた、あれであろう。卵を、髪の毛につけるだったか?」
は? 何を言っているのか? 私はその言葉が理解できなかった。昼休みに、それは大嘘だと、会話をしたばかりではないか。それに、ブリキット・アレクサンデル自身でも嘘だとわかっていたはずではないか……。
「ヴァレンティノ家は、もともと商家であるだけあって、情報が早いな。ヴァレンティノ家の耳は王都まで届いていると、憶えておこう」と彼は言って、去って行った。
「憶えていただきありがとうございます」と、たぶん彼には聞こえていないだろうけど、淑女の礼を取りながら一応、私は言った。そして、彼が教室から出ていくのを見送った後、私は全力で図書館へと逃げ込んだのであった。私の頭の中は、こんなシナリオ、ブルスプに無かったし、という叫びだった。




