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やわらかきもの

 可愛い子羊がいた。


 少なくとも私の目にはこの上なく愛らしく映る羊であったのだが、その親にはそのように映らなかったようで、どうも兄弟と比べてつれない扱いを受けているように見られた。

 これも私の目から見ての話である。しかしこれまでもこれからも、私の目は二つしかなく、そこから見た景色はおよそ一律と言ってよい映りばえであるので、わずらわしく思われるのも望むところではない。よってこの文句はここまで。


 羊である。要はそれなのだ。

 右から見ても、左から見ても可愛い。何せこちらが顔を動かせば、常に正面を見ようと追いかけて同じ角度の表情を見せる羊であるのだ。可愛くないはずがない。

 その潤んだ瞳は、むしろこちらに罪悪感をさえ呼び起こしそうな代物である。見つめ続けるのはまさしく罪悪であった。

 思わずわずか目を上に向ければ、恥ずかしげな角が慎ましくある。いや、この羊の持つ空気がそのように感じさせるのであって、ただ角は小さいということを書き留めおく。

 なんと言ってもその毛皮……羊毛……こう表すとこの生き物の本質は伝わるまい、正確に伝える努力が求められるに因って、私はこれをここのみにおいてやわらかきものという。

 なんにせよ、離れがたき力を持つのがこの羊であり、さびしげな視線をすら体得した彼か彼女か、私はそれを連れ出し、家の中で養うことにした。


 

 可愛い。

 何という表面的な言葉だろう。


 彼女であると分かったこの羊は、いざや後の祭り、目的は果たしたと言わんばかりに、猫でもあるまいに傍若無人な顔をして宅を歩く汚す逃げ回る。

 成程、悪魔とは人を誘惑する存在であるからして、醜いものはいないのだ。目の前の毛玉がそれなのだ。


 私は一つ賢くなったが、およそ古今東西その種の賢さは二度と役に立たないのが常である。

 結局、私はこの愛らしいろくでなしを外の風に曝させぬようにいさせ続けた。


 家主は羊となった。


 

 遅ればせながら、私自身も養われる身分である。


 父母に多大な苦労をかけながらも、悪魔の目論見どおり私は彼女をかくまい続けた。


 さても、実家の牧場の手伝いも済み、暑気から逃れるを目途とするだろう長い休みも終って私は学業に専念する時が来た。

 さてもかくや、健全とは言いがたいかもしれないが、あの可愛い悪魔と離れる事もあわせれば畢竟安堵と喜びを感じ、私は学び舎に赴いた。


 久方ぶりの旧友達と仲良く言葉を交わすに、最初の一人は挨拶後絶句、二人目も同様、三人目に至っては腹を抱えて大笑した。


 この無礼は捨て置けぬ、人の顔を見て笑うとは、と詰め寄れば、その者は未だ言葉も出ない様子のまま、私の背後を指差した。従い見る。


 羊である。

 成程逃がしはしないという事か。


 言葉には人間性、恥を偲んでいうなら品性が潜むと信じる私にとっては屈辱であるが、口を突いて出たのはその対極にあるが如きの驚愕の叫び。

 しかし小心な悪魔めが、それに怯える様子をみせるものだから、彼女からの調教が既に済んでいる私はすぐさま機嫌を伺う。


 彼女の目を見るに、さびしくなってついてきたのであろう心持ちが手に取るように読み取られた。今や私の主人と言って相違ないこの悪魔の悪性とはまさしくこれで、思わず撫ぜてしまった。

 責められよう。

 咎めも受けよう。

 なんとなれば甘んじて、いや、私は望んで己が身を烏の声も届かぬ穴の底に放り出そう。


 机の下に彼女を隠したが、無論先生の目は節穴ではない。

 牛小屋に閉じ込めてしまいなさいと彼は言ったが、この悪魔を怯えさせるのは全くもって私の本意から外れている。

 万が一にも不遜なるあの牛共めが彼女を角で突いて傷つけでもしたら私は生きていけない。


 嘆息とともに、私は羊を家に連れ帰ることにした。


 皆の囃し立てる声を背に、私は学び舎に戻ってきた際の叱責と今後の補習の面倒を思い、陰鬱な気分になる。


 自然、私の後ろをついてくる彼女を度々振り返っては見下ろす。目は潤んでいた。


 ああ、悪魔め。畜生抱きしめてやる。

 もう離すものか。

参考:マザーグース「メアリの羊」

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