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下着ドロボーの息子

居場所のない人に読んでもらいたいです。

 高校二年の一学期が始まってまだ間もないというのに、桜が散る前に、田中流「ながれ」はいきなり人生の設計図を変えられることになるのであった。

 いやそもそも人生の設計図も何も、さてこれから自分にはどんな夢があり、そうなるにはどのような道を歩み、どのような努力をするべきかといったことを考え始めている最中にあの恥ずべき事件が起こったのであった。

 あんなことが起こるなど夢にも思っていなかった流は、事件当日もいつものように自転車で二十分かけて高校に到着し、教室の一番後ろの左端というお気楽な座席に着席し、前の席のおかっぱ頭でニキビ顔の山田と、昨日の推理ドラマや野球の試合の結果等について、話に花を咲かせたりするのであった。

 流れにとってこの平凡な毎日は、卒業まで続くものだと思っていたし、そしてそれはありがたいことでもなんでもなく当たり前のこととなっていた。

 喉が乾けば水を飲む、水を飲むためには水道の蛇口をひねればそれでよい。そんな当たり前の日々が何の前触れもなく変えられてしまう。そんなことがあるとしたらそれは特別に選ばれた不幸の星の下に生まれてきた人たちなのだろうと流は思っていた。

 だからニュースなどで、子供が車にひかれて死亡するとか、借金のため一家が心中するとか、子供が両親を殺すだとか、そういった不幸な事件に巻き込まれるのは、遠い国の物語、あるいはニュース自体が一種のフィクションであるのではないかといった錯覚さえも感じていた。

 流は若干裕福で平凡な家庭に生まれたのでニュースに出てくるような「不幸な家庭」になることはありえないのだといった根拠のない自信があったのである。

 事件当日、学校から帰り、マウンテンバイクから降りる前、流は家の雰囲気がいつもと違うということに気づいた。

古びた貨物用大型トラックが、門の脇に横付けされている。

玄関の扉を開けようとすると、その時、「田中」の表札がないことに気づいた。

 何かが起こっている。表札がない理由について、あまりよい理由には思えない。

流が玄関の扉を開けると、中には多くのダンボールが置いてあり、ガラの悪そうな四人の男がソファーを運んでいるところだった。

 流はリビングの荷物がほとんどなくなっているのに愕然とした。

母親は眉間に皺を寄せ、焦りの表情を浮かべながらテレビの前で黙々と書籍類をダンボールに入れていた。

流は恐る恐るつぶやいた。

「な、何してんだよ…」

「………」

「なあ、おい、何とか言えよ」

 すると母親は流と目を合わせることもせず、

怪談話でも語るような震えた声で、

「流…これから私の実家近くのアパートに引っ越すことになったから。詳しいことは後でいくらでもゆっくり話すから、お願い。今は黙っててちょうだい」

「はあ?な、何言ってんの…?」

「………」

「何があったんだよ!」

「…後で話す」

「な、なあ!母さんの実家って…ここから四十キロも離れているじゃねえか!転校しろってのか!」

「……」

「おい!なんとか言えよ!」

 しかしその後の母親は「後で詳しく話す」の一点張りだった。

 寝耳に水どころの騒ぎじゃない、熟睡時にプールに投げ出される以上の衝撃とわけのわからなさであった。


 全ての荷物が運び出されると流は母親の白の軽自動車に乗せられた。

普段安全運転の母親がすごいスピードで民家を駆け抜け、あっという間にそのまま高速道路に入ったのであった。

 車の中、母親はラジオでニュースを聴いていた。

顔は青ざめ、どことなく唇が震え、目には涙を貯めているように感じる。

「…なあ、父さんって、まだ会社だろ…?」

「黙って!今日中に全て話すから!」

 思わず息を飲み、穏やかなはずの母親の尋常ではない態度に言葉を失った。

 車内で友人の山田にメールを打つ。

「わけわかんないことが起こっている…。今母親の車。これから母親の実家『平和町』に行くなう。俺転校するかも…?いやマジで」

 携帯をいじっている流に母親が言った。

「携帯はしまって」

「メールもダメなのかよ」

「メールなんか絶対にしないで!」

「な、何でだよ…」

「いい?間違っても私たちの行き先を誰かに伝えちゃダメよ!」

「はあ?」

 普段の母親からは想像もつかない程恐怖に怯えるような態度に、さすがに今メールを送ったとは言うことができず、流は無言にならざるを得なかった。


 車内は沈黙のまま、約一時間後、高速道路を降りて左折し、下町っぽい雰囲気が漂う「平和町」へと着いた。

商店街は狭いにも関わらずバスが通ったり、路上駐車がいたるところにしてあった。そしてその間を主に高齢者が自転車でふらふらと飛び出したり、押し車を押しながらマイペースに生活していた。

 商店街を超え、車はとある一軒家に着いた。

母親の実家である「西山家」である。

最近立て替えたばかりの家であり、夫婦が高齢のため玄関などにスロープや手すりが備え付けられておりバリアフリーな作りになっている。

 中から出迎えた祖母はと言えば、これまたやはりいつものような満面の笑みではなく、眉間に皺をよせて笑顔一つない。


「下着ドロボー?」

 流は思わず大声をあげた。

「じょ、冗談だろ?」

「本当なんだよ。私だって信じられないよ。最初その電話があったときは『振り込め詐欺』の一種だと思ったさ。でも話があまりにも具体的なことと、何時まで経っても振り込めとかそういう話題にもならない。それどころか署まで来てくださいなんて言い出すもんだから、まさかとは思いつつも警察に出向いたら、お父さんが、見たこともないほど憔悴しきった表情で個室の椅子に座っていて…一言『ごめん』って言ってね…」

 警察からの話では、流の父親は昨日、家族には仕事に行くと言っておいて、隣町の民家を彷徨き、完全に留守と思われる家のベランダによじ登り、干してある女性用下着を三枚取るや否や道を歩いていた近所の年配の主婦に見つかり、大騒ぎされ、そのまま逃走、しかし駆けつけた警官にあっけなく取り押さえられたのだという。

 その後警察の取り調べで、余罪が数十軒あり、父親の書斎の金庫から女性用の下着が四十枚程見つかったのだという。

 流にとって父親と言えば常にヒーローだった。大手銀行の専務であり、また休みの日は社会人野球チームに所属、そして地域でも町内会の行事を積極的に引き受ける。

まさに理想の父親であった。

女性からの人気もあったが、線引きがしっかりしており、飲みに行っても泥酔する前に引き上げる。

 そんな父親が下着ドロボーなどという史上最低で恥ずかしいことこの上なく、世間から最も軽蔑される犯罪に手を染めていたなどと誰が想像できただろうか?

 

 それからの一週間について流はほとんど覚えていない。

 不動産屋に行ったり、これから母親と二人だけで住む新しいアパートに荷物をたくさん運んだり、市役所に行ったり、新しく入ることになった学校の校長にあったりと、右から左へとたらい回しにされながら、一切の質問疑問を遮断され、とにかく母親の言う通りに

動き、二週間ほどして生活が落ち着き始めてからようやく事の重大性が認識できるようにのであった。

 最初のうちは毎日母親は怯えまくっており、外に行くにもマスコミが追っかけてきているのではないかという恐怖心からマスクやサングラスを着用して行動しており、流にもそれの着用を勧めていたのだが、流石に芸能人でもない一市民の下着ドロボーのために追いかけてくる程マスコミも暇ではなかった。

 そして一ヶ月が経過し、梅雨時で悪天候の日々が続いている最近となっては母親は一見落ち着きを取り戻したかのように感じられた。

 しかし世間体という恐怖から逃れられたという安心感と共に母親を次に襲ったのは大仕事を成し遂げた後の何とも言えない虚脱感、と鬱状態であった。

 引越し後すぐハウスクリーニングの仕事に就いた母親は家に帰るやいなやアルコール分の強い缶チューハイを三本空け、その後ウイスキーの瓶の半分を飲み干すという状態になり、それからも徐々に酒量が増えていき、流が「もうやめなよ」と注意する程になっていた。

 しかし母親の酒は止まらず、食費の半分以上が酒代となっていった。

 一方流の方は新しい高校で落ち着いた生活をしているかといえばそうではなかった。

 元々友人を作るのが苦手な流は前の高校で折角三人の友人が出来たというのに、今やその友人らとはあの事件以降、車内でのメールのやりとり以来一切連絡を取っていなかった。

 そして新しい高校では友人どころか事務的な会話以外で人と話すということがなかった。

 流は友人は欲しかったが、新しい環境で、どうやって作ればいいのかさっぱりわからなかった。

 恐らく前の高校で友人が三人できたのは運がよかっただけなのかもしれない。話しかけてきてくれたのも向こうからだったからだ。

 新しい高校では不思議と誰も流に話しかけてくる者はおらず、流は休み時間になると携帯でメールを打っているフリをするか、机にうつぶせて眠ったフリばかりをしていた。

 こんな生活が楽しいわけがなかった。

「下着ドロボーの息子」という情けない現実を背負わされ、自分の人生をめちゃくちゃにして母親を酒浸りにさせるようになった父親に対し、流は徐々に恨みを覚えるようになっていった。


 六月も下旬を迎えたある日、教室に行くとクラスメイトの視線が一気に流に突き刺さった。

 疑問を感じた流が次に見たものはそこにいたほぼ全員のうすら笑いであった。

 なんだか知らないが不愉快だと思いつつ自分の席に座ろうとすると机にマジックでこう書かれていた。


 「下着ドロボー」


 そしてその横書きの大きな文字の周囲にはパンティーのイラストが幾つも描かれており、流はその場で凍りついた。

 

 なぜバレた…?

 苗字も父親の田中から母親の西山に変わったのに…。

 世間からの嘲笑を避けるために母親が迅速な行動を起こし、俺のことを必死で守ったのに…?

 誰がバラした…?


 思いつくのはただひとり、引越しの際、母親の車内でメールを打った相手、山田。

 アイツなら俺が母親の実家に向かったことは少なくともわかる…。

 しかしもはや流にとっては「誰がバラした」ということは問題ではなかった。

 流は一瞬で悟ったのだった。その場でいくら教室の奴らに怒りをぶちまけたところで、机に書いた犯人を見つけたところで、一度発覚したこの特ダネは決して消えないということを。そしてこんな恥さらしの人間にはもはや味方も友人も彼女もまずできることはありえないのだという絶望的な事実を…。

この瞬間、流は新しい高校での居場所を完全に諦めてしまったのであった。

 絶望的な気持ちで流は授業がはじまる前に教室を飛び出し、どこにも寄り道せずに家にたどり着いた。

 布団の中で思いっきり泣こうと思ったのである。

 塩害と砂埃でボロボロのアパートに着き、玄関の鍵を開けようとすると、なぜか鍵は空いたままだった。

 恐る恐る扉を開けると玄関には見慣れない男性の靴があり、寝室から聞こえてきたのは甘えるような男の声と、女の悦びに満ちた母親と思われるネコナデ声であった。

 無論その靴は明らかに父親のものではない。

 父親がこんな先の尖ったタイプの白い革靴を履くわけがないからだった。

 母親は度重なる心労からアルコールだけでなくオトコにも現実逃避の場所をもとめたのであった。

 母親のそんな生々しい声に衝撃を受けた流は全身の血の気が引いていくのを感じずにはいられなかった。

 流はそれ以上実の母親の生々しい淫らな声を聞くに絶えず、震える手で扉を閉め、街を彷徨い始めた。

 夕方近くまでどこをどう彷徨っていたのか流には全く記憶がなかった。


 自分は完全に居場所を無くしてしまった。


 いっそのこと不良か暴走族にでも入ろうかと思いつつも、自分がそのような世界に入れる程度胸がないことも知っていたし、流は大の喧嘩嫌いであった。

 自分はどこに行けばいいのか…

 母親が一生懸命動いて自分が世間の笑いものにならないように配慮してくれたというのに、今日の高校での事実を知らせると、母親はどうなってしまうのだろう?

 転校して間もないのに、まさか再度転校をするわけにもいくまい。

 新しい高校でいきなりその事実が発覚したなどと知ったら母親は気が狂うのではないか?

 母親は俺が想像している以上に弱い人間だったのだ…。

 どこかに依存して精神を保つ弱い人間だったのだ。

 このままいくともしかしたら今度はギャンブルか覚せい剤にでも手を出すのではないか…。

 流は母親のことは嫌いではなく、むしろ好きな方だった。だからこそあんな風に酒とオトコに溺れているような醜態は見たくはなかった。

 酒はともかくオトコと交わっているなど、あまりにもおぞましくて、流にとっては何かとてつもなく大きな物に裏切られたような気持ちであった。

 しかし流はオトコと母親が交わっている時のあのえげつなく下品な声をその後もどうしても頭から消し去ることが出来なかった。

 母親は現在四十代の中盤だと思う。

今はアラフォーなる言葉が現れたせいか、世間では昔と違い、なんだかまだまだ自分は若いという第二の青春的なイメージすらもつきまとっているようだ。

でも四十代等、昔だったらそれこそ誰がどう考えても枯れ始めたオバさん、少なくとも流にとって母親など一人のどこにでもいる地味なオバさんだったため、オトコに自らのくたびれた体をさらけ出しているのかと思うとグロテスクにしか思えなかった。

四十代の性を否定するのではなく、自分の母親だからこそ尚更グロテスクに感じられたのであろう。


下着ドロボーの息子…

 母親は今や単なるアル中の淫乱ババア…

 高校では笑いモノ…

 一生つきまとう汚名…


歩道橋の上、八方塞がり状態の流の脳裏に一瞬だけ「自殺」という文字が浮かんだが、歩道橋から下を除きこみ、猛スピードで行き来する車の群れに飛び込む勇気など到底なかった。

 気づいたら午後三時、流は街を彷徨うとはいっても同じところを延々とぐるぐる回っていることに気づいた。

 今やアル中淫乱ババアと化した母親の顔等見たくもなかったが、どう考えてもそこ以外に帰る場所がない…。

 

 自分の人生終わったな…。



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