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ストレートウォーカー

作者: リーブス

 音高くヨーロッパの地図を描いている中野先生が、黒板の右端に立っている。先生のちょうど真後ろ――右端から二番目の列、その一番後ろに九条の席はある。この学校の教室はまことに珍しく、後ろのドアにしか窓ガラスがついていない。なので九条とその右隣の篠原だけが、授業中に廊下の状況を覗くことが出来る。左隣の茶髪の大海となると、席が離れていて窓の正面ぐらいしか見ることが出来ない。

 席替えのくじを引いてから二週間、先生が時間のかかりそうなものを書いているとき、なんとなく窓ガラスの向こうを見る習慣が出来てしまった。篠原は真面目なので、黒板以外に目を向けることはあまりない。

 九条が外を見ようとすると、篠原の横顔が視界に入った。以前篠原は裸眼だったが、席替えで一番後ろの席になってから、眼鏡屋で度の合ったものを作ってきていた。今もナイロールフレームの眼鏡をかけており、もともとの知的さに拍車がかかっている。眼鏡をかけてからの篠原は視力の煩わしさから解放されたようで、笑っているように見える。目をはっきり見開いている篠原は可愛いと九条は思った。

 中野先生が地図を書き終わると、外で物音が響いた。「ぎぎぎぎ」という掃除用具入れを開いた時に発する独特な音だ。この音にはクラス中の人間が気付いた。いつもの清掃のおじさんが箒か何かを取り出しているのだろう。しかしその音と重なった「あっ」という声には、ドアの近くの生徒以外ほとんど気付かなかった。

 九条は外を睨み続けた。しかし清掃のおじさん以外誰も廊下を通らない。聞き馴染みのある、おじさんの古びたスニーカーの足音のみが廊下を支配していた。

 外を見ていてもつまらないので、黒板に視線を移した。

 世界史には多少興味があるから良いものの、一時間目の古典は酷かった。その時間は終始俯いて睡眠をとっていた。寝貯めしたから今寝るはずはない、と気を緩めていたらうとうとしていた。手の平をシャーペンで軽く刺す。時計を見ると、一〇時ごろだった。正味二〇分間、真面目に授業を受ける運びとなった。

 授業が終わると、九条は日差しが降り注ぐ渡り廊下に躍り出た。ひゅうっと心地よい風が通り過ぎる。空はくっきりとした青色で、雲が点在していた。

 九条は胸ポケットから目薬を取り出した。最後席になった所為で、先生に内職を咎められる確率は下がった代わりに、目が疲れるようになったのだ。双眸に一滴ずつ垂らし、あふれた液をハンカチに吸わせると、ポケットの携帯がメールを受信した。見知らぬアドレスだ。

「私は暇だ」

「は?」

 考える暇も与えられずに意識が途切れてしまった。

 

 気付くとそこは、どこかで見た場所だった。もしや突発性睡眠病と夢遊病が併発したのか、と思ったが、そんな病気起こるわけがない。後ろを見上げると先程まで居たはずの渡り廊下があった。なるほどこの場所は学校の敷地かと気付いた。しかしおかしなことになったという不安は消えなかった、それを拭うようにして目元をこすると、まだ目薬は僅かに残っていた。時間はどうなっているのだろう、とポケットにあった携帯を確認する。九時前だった。

「九時……?」

 時間が巻き戻っている。

 しかしそんなことに考察の時間を割いている場合じゃない。既に一時間目の古典が始まっている。早急に校舎に突入し、階段を駆けた。そして大きく左にカーブすると、二年D組の扉がある。

 九条は窓ガラスを見て驚愕した。

 『九条』が九条の席で俯いていた。

 それを見た瞬間、猫のように音も立てず素早く踵を返した。

 忍び足で渡り廊下に出た。かつてないほどの大ストロークで深呼吸をし、再び携帯を開く。

「私は暇だ」などというメールは無かった。そこで、タイムスリップをしたのだと確信した。時間遡行だ。

 九条はストレッチやヒンズースクワット等を行い、高ぶった気持ちを空に発散した。

 そして再びあの教室を見に行こうと決心した。まず遠目に、誰からも気付かれないよう距離を取った。しかしこれではこちらからも良く見えなかった。窓ガラスはこうして見ると意外と小さかった。九条は静かに歩み寄った。教室内から外を観察出来るのは、今は寝ている『九条』と篠原だけだ。しゃがみ歩きで扉に近づく。しかし、頭をひょっこり出すのは危険なことだ。もし誰かが偶々窓を見ていたら? 適当に誤魔化せる気もするが、タイムパラドックスか何かの有無は神に尋ねなければわからない。とにかく、今この世界に自分が二人いることがばれたらまずいことになるだろう。

 廊下で手と膝をつくという高校生としてあるまじき態勢のまま、九条は逡巡していた。すると、扉と壁の僅かな隙間から、紙が飛び出てきた。そっとつまみ、夢中で読んだ。

「誰ですか?」

 端正な字でそう書かれてあった。

 篠原しかありえない。位置的にも、この字体からもそう感じた。篠原の字は見たことないが、おそらくこんな丁寧な字なのだろう。

 誰と言われて九条だと主張する訳にもいかず狼狽していると、隙間からシャーペンの芯が転がってきた。これで名を記せということか。

 すまない篠原、俺は名乗るわけにはいかない、と後退し始めると視線が突き刺さるのが感じられた。九条は顎を目いっぱい上げて窓ガラスを見た。

 そこを篠原に目撃された。

 篠原は口をつぐんだまま眼鏡の向こうの目を丸くした。

 三秒ほど目が合い、九条は渡り廊下の方へ逃げ出した。

 欄干に背中を預け、突き抜けるような天を仰いだ。身体全体が震えている。額から汗が染み出てきた。

 携帯を開くと、九時五分だった。一時間目が終わるまで、あと一五分ある。慌てない。まだ慌てる時間じゃない。

 九条はブレザーの内ポケットにボールペンを入れていたことを思い出た。そして雑な字で「どうやらタイムスリップしたみたいだ」と書いた。

 これを篠原に見せたらどんな反応をするか。タイムパラドックスが起こるだろうか。宇宙の法則が乱れるだろうか。いや、そんなことが起こるのであれば、先ほど篠原に目撃された時に一波瀾起きるはずだろう。何も無いということは、大丈夫なのだろうか。とにかく、何かしなければ現状は打開できないと思い、教室に接近することにした。手紙を入れたらすぐに戻り、返事を待とう。

 九条は教室の扉の隙間から教室内にそっと手紙を入れた。先程は気が回らなかったが、まだ一時間目だ。いつどこで遅刻した生徒が廊下に出現してもおかしくない。細心の注意を払いつつ直ちにその場を去った。今回も背中に視線を感じたが無視した。

 渡り廊下で深呼吸をしてから廊下を偵察すると、予想通り返事が落ちていた。素早く掴み取り、渡り廊下に戻って読む。

「本当に? じゃあ、一階休憩所に居ててくれる? 会いに行くから」

 なかなか聡い選択だと思った。一階休憩所は校長室の前に位置しており、著しく人通りが少ない。校長が通行している可能性もあるが、チャイムが鳴るまでは隣の男子トイレにでも潜伏していればいいだろう。

 行動開始だ、という指令を脚に伝達している途中で携帯がうなった。あの見知らぬアドレスだ。

「こんにちは」

 白々しい。九条は舌打ちをし、音高く携帯を閉じた。

 階段を下りている途中、二階と一階の間の踊り場に箒が棄てられていた。登った時には気づかなかった程に存在感が無い。そしてその箒は見えない糸で引っ張られたかのように、掃く部分を下にして立ち上がった。

「は?」

 ほとんど音は出さず空気音だけを発した。メールが来た。

「この学校の霊をやっている者だ」

 幽霊に者もあるかと思ったが、箒は物だ。汗が頬をつたう。直立する箒と対峙しながら、試しに返信をしてみた。

「この動乱、お前の仕業か」

 同じアドレスからメールが来た。

「暇だったのだ」

 ふざけている。こちらは多大な迷惑を被っているというのに。その怒りを放出するように、高速で携帯のキーを打鍵する。

「いったい俺はどうなるんだ」

「とりあえず、恭しく用具入れに戻してほしい」

「それをしたら、元に戻るのか」

「そうだ」

 不承不承、箒をそっと手に取り二年D組に接近した。立ち上がることはできるのに宙を飛んだりすることはできないのかと、この霊の無能さを嘆いた。

 教卓側の扉と反対側に用具入れがある。音を立てないよう努めてゆっくりと開けた。中にはモップが数本、アルミ製塵取りが一つあった。九条は箒を入れようとした。その瞬間、チャイムが鳴り響いた。

 残響が脳を揺さぶり続ける。鼓動が徐々に加速していった。チャイムの半分が流れたころ、携帯が震えたのが分かった。サブディスプレイに、「件名:用具入れの中に入れ」と映っている。九条はそれに従った。そして塵取りを収納するスペースを掴んで手前に引っ張った。

 内部は思いのほか暗くなかった。長年使われているため立てつけが悪く、完全に閉じることは出来ないからだ。しかし外から中が見えてしまうほどの隙間ではない。この狭さでは、携帯を開くことはおろか、体の向きを変えることすら困難だった。更に雑巾のような、埃っぽい臭いがするのも耐え難かった。

 しかたなく耳をそばだてていると、各教室から続々と生徒が吐き出されているようだった。この用具入れが休み時間中に開けられたのを見たことは一度もない。それでも不安ではあった。

 九条は灰色の扉をぼんやりと見つめながら考えた。こんなところに隠れないでも、他に良い隠れ家はあったのではないか。トイレの個室にでも飛び込めばよかったのでは。いや、トイレは不良が器物破損事件を働いて出入り禁止になっていた。さっさと階段を下りて学校を抜け出せばよかったのでは。いや、どこかのクラスが体育の授業から戻ってくる足音がしていた。やはり渡り廊下に戻るべきだったか。いや、向かいの校舎で授業を受けていた生徒が戻ってくるのに鉢合わせてしまうだろう。どうして篠原に目撃されたのに、何も起こらないのだろう。タイムパラドックスなんて、もともと存在しなかったのか。しかし平行世界に迷い込んだりというファンタジックな話でもない。自分はまっすぐ、同じ世界を、時間を、一回回帰したものの、辿り続けている。

 ストレートウォーカー。そんな雰囲気のタイトルのゲームがあったかな、と九条は首を捻った。

 九条の思考を邪魔するようなホワイトノイズが静かに現れ、学校のスピーカーが一斉にチャイムを鳴らした。休み時間に世界史の準備をしていなかった生徒たちが、ロッカーの教科書を取り出しにかかる。ビートを刻むような開閉音に、心臓が張り裂けそうになった。やがてその音も聞こえなくなり、平穏を取り戻した。

 一〇分ほど経っただろうか。そろそろ、廊下には誰もいないだろうと思われた。万全を期するために、暫く神経を尖らせて廊下の気配を読み取った。

 そろそろいいだろうと思った矢先、廊下から足音が聞こえてきた。もう少し待つしかないなと思った時、その足音に何か閃くものがあった。

 聞き馴染みのある、あの古びたスニーカーの音だ。

 目の前の扉が揺れた。そして「ぎぎぎぎ」という独特な音を発しながら、外の光を取り入れ始めた――

「あっ」

 九条は気を失った。

 

 目を覚ましたのは、心を落ち着かせる場所としてすっかり定着した渡り廊下だった。心地よい太陽の光が身体を包み込む。つま先立ちで思い切り伸びをした。

 携帯を取り出すと、一〇時二三分と表示されている。しかし受信ボックスを見ると、れいのメールはなくなっていた。夢を見ているようだった。

 九条は夢かどうかを確かめるべく、篠原に話しかけようと教室に行った。居ない。まさかと思い、一階休憩所に走った。

 休憩所とは名ばかりの空間には、賞状やトロフィーが壁際に展示されている。篠原は腕を組んで、ひっそりと窓に寄りかかっていた。

「篠原」

「あ、九条君。さっきは大丈夫?」

「ああ、えっと」

 九条は一瞬考え、「ルーズリーフの件?」と言った。

「そうに決まってるじゃん」

「それについてはもう解決したよ。ありがとう」

「そうなの? じゃあ、もう九条君のドッペルゲンガーは居ないってこと?」

「ああ」と言ってから一応付け足した。

「多分ね」

「ふーん……そう」篠原はそう言ったが、あまり納得していないように見えた。

「まあ、追求はしないでおいてあげる。この話はなかったことにする?」

「そうしておいてくれよ」

 二人は解散した。


 その放課後、九条は掃除当番でもないのに用具入れから箒を持ち出した。そして人気の少ない渡り廊下の下――ちょうど今朝時間を遡った場所に行った。

 九条は箒をおどしたりすかしたりしてみたが、言うまでもなく無念に終わった。項垂れながら教室に戻ろうと後ろを向くと、渡り廊下にいた茶髪の大海に一部始終を目撃されていた。九条は青ざめた。 

 翌日、平常通り惰性で授業を受けていると、窓ガラスに茶髪の頭が覗いた。その人影はすぐに消えた。左隣の席では、大海が携帯をいじって内職をしていた。

 ――まさかな。

 もう一度右を向くと篠原も首を少しかしげて外を確認していた。やがて九条と視線が合った。

 口元を緩めた篠原の顔は、「やれやれ」と言っていた。


要するに主人公が過去にタイムスリップして遊ぶだけなんですが……

少しでも感じ取っていただけたものがありましたら、ありのまま、感想を書いて頂けると幸いです。

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