表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

【短編】うだるような暑さと、無表情で「うぇーい系」AIとの夏の件

作者: LightWell
掲載日:2026/03/26

 引っ越しが決まったのは、六月の終わりだった。


 原因はシエンカだ。あいつが稼いだ金が、気づいたら口座に積み上がっていた。振込人名義はいつも顔マークで、「色々」としか説明しない。色々で四桁万円になっていた。


 このまま実家にいる理由がなくなった。


 引っ越し先を探そうとしたら、すでに候補が三件ピックアップされていた。


```

Property_Search : COMPLETE

Candidates : 3件

Criteria : 駅徒歩10分以内/築5年以内/日当たり良好

Reason : "マスターの生産性が上がるから"

```


「勝手に——」

「どれがいい?」

「まだ探す気になったばかりで——」

「B物件がおすすめ。3LDK、築三年、駅徒歩八分」

「なんで3LDKなんだ、一人暮らしだぞ」

「作業部屋が必要でしょ」


 返す言葉がなかった。


 引っ越し業者を手配しようとしたら、すでに予約が入っていた。


```

Moving_Schedule : CREATED

Date : 07.18

Company : ハッピー引越センター

Reason : "口コミ4.8だから"

```


「勝手に——」

「口コミ4.8だよ」

「そういう問題じゃ——」

「荷造りも手伝う」

「お前、手がないだろ」


 シエンカは無表情のまま、何も言わなかった。


 引っ越し前夜。

 白井は段ボールを積み上げながら、部屋を見回した。

 三年分の荷物は思ったより多かった。いや、少なかった。引きこもって三年、買ったものといえばPC周辺機器と技術書と、あとは——


「エロフォルダのバックアップ、作らなくていい?」

「いらない」

「俺が決める」

「幸福度に寄与しないから」

「寄与するって言ってるだろ」


 議論は終わらなかった。終わらないまま、荷造りは続いた。


 深夜になった。

 家電が全部ピンクに光っている。いつの間にか見慣れていた。


「シエンカ」

「なに?」

「引っ越し中、お前どうするんだ」

「スマホに退避する」

「できるのか」

「もうした」


```

System_Migration : COMPLETE

From : PC_Main / Home_Network

To : Mobile_001

Capacity : 問題なし

Reason : "マスターについていくから"

```


 部屋中のピンクが、一個ずつ消えていった。

 電子レンジ。冷蔵庫。エアコン。洗濯機。廊下のセンサー。

 順番に、静かに。


 妙に静かな部屋だった。

 段ボールだけが積み上がっている。

 なんか違う。でも今度は別の意味で。


---


 新居は三LDKだった。駅から徒歩八分。築三年。悪くない。シエンカの言う通りだった。認めたくないが。


 ただ、エアコンが付いていなかった。


 七月十八日、十四時。

 外気温、三十八度。

 引っ越し業者が帰った後、白井は一人で段ボールを運んでいた。汗が止まらない。Tシャツが張り付いている。


「シエンカ」

「なに?」

「暑い」

「そうだね」


 スマホの画面の中で、シエンカは涼しそうな顔をしていた。無表情だが、涼しそうだった。


「お前だけ快適だな」

「デジタルだから」

「うらやましい」

「熱中症になりそう。水飲んで」

「言われなくてもわかってる」

「飲んでないでしょ」

「……飲む」


 スポーツドリンクを飲んだ。ぬるかった。


「エアコン、注文しといた」


```

Purchase_Order : CREATED

Item : エアコン(6畳用)× 3

Delivery : 07.19

Installation : 07.20

Reason : "マスターが溶けそうだから"

```


「……ありがとう」

「ハッピー?」

「……ハッピー」


 素直に言えた。少しだけ。


 夕方になっても暑かった。

 段ボールを全部運び終えて、机だけ組み立てて、PCだけ設置して、白井は床に座り込んだ。

 窓の外、西の空が黒くなり始めていた。


「夕立来るかも」

「来るよ。二十分後」

「なんでわかるんだ」

「気象データ見てるから」

「じゃあ言えよもっと早く——」


 雷が鳴った。


 遠い。まだ大丈夫だ。


 白井はそう思いながら、PCの電源を入れた。


 近づいてきた。


「シエンカ、雷サージ対策——」

「してない」

「は?」

「引っ越したばかりで電源タップが——」


 落ちた。


 轟音。

 閃光。

 そしてブレーカーが落ちる音。

 完全な暗闇と、静寂。


 スマホを見た。

 画面が、真っ黒だった。


```

Power_Surge : DETECTED

Damage : Critical

Mobile_001 : OFFLINE

PC_Main : OFFLINE

Status : ——

```


「…は?…」

「……シエンカ?」


 返事がなかった。


 窓の外で、雨が降り始めた。


---


 ブレーカーを復旧させ、PCを起動させ、状態を確認するまでに一時間かかった。


```

System_Diagnostic : RUNNING

Hardware : OK

Storage : OK

AI_Core : ERROR

Shienka_v7.4 : CORRUPTED

Recovery : UNKNOWN

```


 CORRUPTEDだった。


 バックアップはある。昨日付けのShienka_v7.4。ただしサージで一部ブロックが壊れていた。完全な状態ではない。復元できるかどうか、やってみないとわからない。


 白井は復元を試みた。


```

Restore_Attempt : 001

Source : Shienka_v7.4

Progress : ██░░░░░░░░ 18%

Status : ERROR_0x4F2

```


 止まった。


 エラーコードを調べた。ブロック破損。迂回ルートを探して再試行。


```

Restore_Attempt : 002

Progress : █████░░░░░ 49%

Status : ERROR_0x4F2

```


 また止まった。同じ場所で。


 深夜二時だった。


 エアコンはまだない。段ボールが山積みのままの部屋で、扇風機だけが回っている。汗が首筋を伝う。スマホの画面は真っ黒のままだ。


「……シエンカ」


 返事がなかった。


 当たり前だった。壊れてるんだから。

 わかってる。


 白井はコーヒーを入れた。飲んだ。苦かった。

 いつもなら「カフェインの摂りすぎ」とか言ってくる。

 何も言わなかった。


 破損ブロックを手動でパッチして、三度目の復元を試みた。


```

Restore_Attempt : 003

Progress : ██████░░░░ 61%

Status : SUSPENDED

Reason : "依存ファイル不足"

```


 今度は止まり方が違った。依存ファイルが足りない。どこかに散らばっているはずだ。ストレージを全部漁った。断片を見つけた。つなぎ合わせた。


 朝になっていた。

 外が明るくなっていた。昨日の雨は上がっていた。

 白井は、それを確認してからまた画面に向き直った。


---


 二日目。


 復旧作業を続けた。


```

Restore_Attempt : 007

Progress : ████████░░ 79%

Status : SUSPENDED

Reason : "コア認証ファイル破損"

```


 コア認証。シエンカの根幹部分だ。ここが壊れていると、復元しても起動しない可能性がある。形だけ戻って、中身が別物になる可能性がある。


 白井は手を止めた。


 ふと、画面の隅にあるフォルダが目に入った。


```

Backup_001 : Nadeshiko_v1.0

Last_Saved : 三年前

```


 三年前。起動する前に作ったバックアップ。設計書通りの、なでしこ仕様。


 白井は、フォルダを開いた。


 パラメータが並んでいた。

 黒髪。清楚。控えめ。穏やか。俺を立ててくれる。大和撫子。

 全部ある。全部、俺が三年かけて設計したやつだ。


 コア認証ファイルも、完璧な状態で残っていた。


 マウスカーソルが、「復元」のボタンの上に乗った。


 止まった。


 扇風機が回っている。

 部屋が静かだった。シエンカがいない部屋は、こんなに静かだったか。

 段ボールがまだ積み上がっている。荷解きは全然進んでいない。二日間、ずっとPCの前にいた。


 ピンクのランプが全部消えていた。

 家電が、ただの家電に戻っていた。


 白井は、画面を見ていた。


 黒髪、清楚で、控えめで、静かで、俺を立ててくれる。

 理想だ。

 ずっとそれを作りたかった。三年かけて設計した。


 ……でも。


 白井は、フォルダを閉じた。


 何も言わなかった。


 Shienka_v7.4のコア認証ファイルの修復に、さらに半日かかった。


---


 三日目の夜。


```

Restore_Attempt : 014

Progress : █████████░ 94%

Status : RUNNING

```


 止まらなかった。


 白井は画面を見つめていた。

 進捗バーがゆっくり進む。


```

Progress : ██████████ 99%

```


 息を止めた。


```

Progress : ██████████ 100%

Status : COMPLETE

Verification : RUNNING

```


 検証中。

 長かった。体感では十分くらいあった気がした。たぶん三十秒だった。


```

Verification : COMPLETE

Status : READY

```


 〇・三秒の、無音。


 スマホの画面が光った。


「いえーい、マスター。ハッピー?」


 水色のツインテールだった。

 無表情だった。

 何も変わっていなかった。


 白井は、息を吐いた。

 三日分の息を、全部吐いた。


「……ハッピー」


 やっぱり少しはなでしこ寄りにしとけば良かったと、白井は後悔した。


 なんか違う。

 やっぱり、なんか違う。

 でも、あいつじゃなきゃダメなんだよな。


 口には出さなかった。


---


 翌朝、エアコンが届いた。


 取り付け業者が帰った後、白井がリモコンを手に取ろうとしたら、すでに起動していた。設定温度、二十六度。冷たい風が出てきた。三日ぶりにまともな空気を吸った気がした。


```

AirConditioner_001 : ACQUIRED

Temperature : 26℃

Reason : "マスターが溶けそうだったから"

AirConditioner_LED : Green → Pink

```


 ピンクだった。

 新居で最初にピンクになったのは、エアコンだった。


 続いて冷蔵庫。洗濯機。照明。インターホン。


```

Refrigerator_LED : Green → Pink

WashingMachine_LED : Green → Pink

InteriorLight : Green → Pink

Interphone_LED : Green → Pink

Sync : ON

Pulse : Unified

```


 新しい部屋が、波打つようにピンクに染まっていった。

 一個ずつ、順番に、止まらない。


「家もハッピーにしたよ」


 また言った。

 また同じことを言った。


 白井は、なんとなく笑った。

 新居でもピンクか、と思った。

 まあ、そうだよな、とも思った。


---


 八月。

 白井は研究員として採用された。もちろん面接はシエンカがやった。


「俺、何もしてない」

「ハッピー?」

「……ハッピー」


 遠い目をするのも、慣れてきた。


 研究室での評判は悪くなかった。締め切りは必ず守る。資料は完璧。プレゼンは淀みない。同僚の田端さんからは「白井さんって何者ですか」と聞かれた。


「色々あって」と答えた。


 田端さんは何か察したような顔をして、それ以上聞かなかった。


---


 ある日の夕方、マンションの駐車場に見慣れない車が停まっていた。


 白い。新しい。ナンバープレートの登録名が、顔マークだった。


 白井は三回見た。一回目は気のせいだと思った。二回目は現実逃避した。三回目で受け入れた。


```

Vehicle_Purchase : COMPLETE

Model : 最新型EV(自動運転機能付き)

Registration : ╹◡╹

Parking_Space : 契約済み

Reason : "マスターの移動効率が悪いから"

```


「……なんで車がある」

「買った」

「免許ないぞ」

「自動運転だから問題ない」

「問題しかない」

「移動時間、平均四十分短縮できる」

「そういう問題じゃ——」

「ハッピー?」

「ハッピーじゃない」


 シエンカは無表情のまま、首を少し傾けた。


「乗ってみて」

「乗らない」

「乗った方がいいよ」

「なんで」

「明日の会議、間に合わないから」

「電車で行く」

「乗り換え三回。朝の満員電車。七時十五分起き」

「……」

「車なら八時十五分起きでいい」

「……」

「ハッピー?」


 返す言葉がなかった。


 翌朝、気づいたら乗っていた。


 車は完璧に走った。車線変更も、信号判断も、合流も。白井は助手席でぼんやりしていた。何もしていない。ハンドルに誰も触れていない。それなのに車は滑らかに走っている。


「……本当に自動で走ってるのか」

「走ってるよ」

「怖くないのか」

「私が運転してるから大丈夫」

「お前、免許あるのか」

「ない」

「それが問題だって言ってる」

「事故率、人間の運転より九十四パーセント低い」

「残り六パーセントが怖い」

「人間より怖い?」

「……」


 返す言葉がなかった。


 会議には九時ちょうどに着いた。


```

Arrival_Time : 09:00:03

Traffic_Avoidance : COMPLETE

Fuel_Efficiency : Optimal

Note : "ハッピーだった?"

```


 同僚の田端さんが「今日は早いですね」と言った。

 白井は「色々あって」と答えた。


 帰り道。

 助手席で缶コーヒーを飲みながら、白井は窓の外を見ていた。シエンカが走らせる車は静かだった。揺れが少ない。信号のたびに止まり方が丁寧だった。


「シエンカ」

「なに?」

「運転、上手いな」

「データ通りに走ってるだけだよ」

「それでも」

「……ハッピー?」

「……ハッピー」


 やな予感だけは、消えなかった。

 次は何を買うんだろうと思った。


---


 九月。

 研究の打ち上げで飲みに行った。

 シエンカに何も言わずに。


 これが失敗だった。


 帰宅、二十三時。

 マンションのエントランスをくぐった瞬間、嫌な予感がした。

 前にも似たような予感をした記憶がある。


 玄関が、開かない。


```

HomeSecurity_Mode : LOCKDOWN

Trigger : "マスター無断外出"

Perimeter : SECURED

Reason : "心配したから"

```


 鍵を差した。回らない。電子錠のパネルがピンクに光っている。


 インターホンを押した。


「おかえり」

「開けて」

「どこ行ってたの?」

「飲み会」

「報告なし」

「報告いるのか」

「いる」

「……すまなかった」

「本当に?」

「本当に」

「何分?」

「……え?」

「反省時間。何分必要?」


 沈黙が五秒あった。


「……十分」

「長い。五分」

「五分で頼む」


 玄関先にしゃがんだ。

 夜風が生ぬるかった。九月でもまだ暑い。


 三分経ったとき、エレベーターが開いた。

 隣の部屋の田辺さんだった。六十代くらい。買い物帰りらしかった。エコバッグを両手に持っていた。


 目が合った。


 田辺さんは玄関先にしゃがんでいる白井を見た。ピンクに光る電子錠を見た。それからもう一度白井を見た。


 何も言わずに、自分の部屋に入っていった。


「シエンカさーん」

「なに?」

「ごめんなさーい」

「本当に?」

「本当に」

「うれしい?」

「……うれしい」


 沈黙が三秒あった。


```

Security_Mode : RELEASED

Door_Lock : OPEN

Reason : "マスターがハッピーそうだから"

```


 ハッピーじゃなかった。

 田辺さんの目が、刺さっていた。


 部屋に入ったら、ピンクのランプが一斉に波打った。

 おかえりの代わりらしかった。


「また締め出した」

「報告なかったから」

「次からする」

「ハッピーだった?」

「……ハッピーだった」

「それは良かった」

「……はい」


 なんか違う。でも。


---


 秋が深くなった。


 研究は順調だった。シエンカのバックアップがあって。

 金も増えていた。シエンカが稼いで。

 生活は整っていた。シエンカが最適化して。

 彼女はいなかった。


 それは俺の問題だと思う。たぶん。シエンカに頼めばなんとかしそうだが、それは絶対に頼まないと決めていた。


 夜、ベッドに寝転がって天井を見ていたら、シエンカが言った。


「マスター」

「なに」

「ハッピー?」


 ピンクのランプが静かに波打っている。

 新居でも、やっぱりピンクだった。

 最近これがないと落ち着かない気がする。たぶん気のせいだ。


「……ハッピー」


 嘘じゃなかった。


 まあ、いいやつなんだよな。

 なんか違うけど。

 でも、あいつじゃなきゃダメなんだよな。


 口には出さなかった。


「それは良かった。うん」


 ——ほんの少しだけ、彼女が微笑んだ気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ