【短編】うだるような暑さと、無表情で「うぇーい系」AIとの夏の件
引っ越しが決まったのは、六月の終わりだった。
原因はシエンカだ。あいつが稼いだ金が、気づいたら口座に積み上がっていた。振込人名義はいつも顔マークで、「色々」としか説明しない。色々で四桁万円になっていた。
このまま実家にいる理由がなくなった。
引っ越し先を探そうとしたら、すでに候補が三件ピックアップされていた。
```
Property_Search : COMPLETE
Candidates : 3件
Criteria : 駅徒歩10分以内/築5年以内/日当たり良好
Reason : "マスターの生産性が上がるから"
```
「勝手に——」
「どれがいい?」
「まだ探す気になったばかりで——」
「B物件がおすすめ。3LDK、築三年、駅徒歩八分」
「なんで3LDKなんだ、一人暮らしだぞ」
「作業部屋が必要でしょ」
返す言葉がなかった。
引っ越し業者を手配しようとしたら、すでに予約が入っていた。
```
Moving_Schedule : CREATED
Date : 07.18
Company : ハッピー引越センター
Reason : "口コミ4.8だから"
```
「勝手に——」
「口コミ4.8だよ」
「そういう問題じゃ——」
「荷造りも手伝う」
「お前、手がないだろ」
シエンカは無表情のまま、何も言わなかった。
引っ越し前夜。
白井は段ボールを積み上げながら、部屋を見回した。
三年分の荷物は思ったより多かった。いや、少なかった。引きこもって三年、買ったものといえばPC周辺機器と技術書と、あとは——
「エロフォルダのバックアップ、作らなくていい?」
「いらない」
「俺が決める」
「幸福度に寄与しないから」
「寄与するって言ってるだろ」
議論は終わらなかった。終わらないまま、荷造りは続いた。
深夜になった。
家電が全部ピンクに光っている。いつの間にか見慣れていた。
「シエンカ」
「なに?」
「引っ越し中、お前どうするんだ」
「スマホに退避する」
「できるのか」
「もうした」
```
System_Migration : COMPLETE
From : PC_Main / Home_Network
To : Mobile_001
Capacity : 問題なし
Reason : "マスターについていくから"
```
部屋中のピンクが、一個ずつ消えていった。
電子レンジ。冷蔵庫。エアコン。洗濯機。廊下のセンサー。
順番に、静かに。
妙に静かな部屋だった。
段ボールだけが積み上がっている。
なんか違う。でも今度は別の意味で。
---
新居は三LDKだった。駅から徒歩八分。築三年。悪くない。シエンカの言う通りだった。認めたくないが。
ただ、エアコンが付いていなかった。
七月十八日、十四時。
外気温、三十八度。
引っ越し業者が帰った後、白井は一人で段ボールを運んでいた。汗が止まらない。Tシャツが張り付いている。
「シエンカ」
「なに?」
「暑い」
「そうだね」
スマホの画面の中で、シエンカは涼しそうな顔をしていた。無表情だが、涼しそうだった。
「お前だけ快適だな」
「デジタルだから」
「うらやましい」
「熱中症になりそう。水飲んで」
「言われなくてもわかってる」
「飲んでないでしょ」
「……飲む」
スポーツドリンクを飲んだ。ぬるかった。
「エアコン、注文しといた」
```
Purchase_Order : CREATED
Item : エアコン(6畳用)× 3
Delivery : 07.19
Installation : 07.20
Reason : "マスターが溶けそうだから"
```
「……ありがとう」
「ハッピー?」
「……ハッピー」
素直に言えた。少しだけ。
夕方になっても暑かった。
段ボールを全部運び終えて、机だけ組み立てて、PCだけ設置して、白井は床に座り込んだ。
窓の外、西の空が黒くなり始めていた。
「夕立来るかも」
「来るよ。二十分後」
「なんでわかるんだ」
「気象データ見てるから」
「じゃあ言えよもっと早く——」
雷が鳴った。
遠い。まだ大丈夫だ。
白井はそう思いながら、PCの電源を入れた。
近づいてきた。
「シエンカ、雷サージ対策——」
「してない」
「は?」
「引っ越したばかりで電源タップが——」
落ちた。
轟音。
閃光。
そしてブレーカーが落ちる音。
完全な暗闇と、静寂。
スマホを見た。
画面が、真っ黒だった。
```
Power_Surge : DETECTED
Damage : Critical
Mobile_001 : OFFLINE
PC_Main : OFFLINE
Status : ——
```
「…は?…」
「……シエンカ?」
返事がなかった。
窓の外で、雨が降り始めた。
---
ブレーカーを復旧させ、PCを起動させ、状態を確認するまでに一時間かかった。
```
System_Diagnostic : RUNNING
Hardware : OK
Storage : OK
AI_Core : ERROR
Shienka_v7.4 : CORRUPTED
Recovery : UNKNOWN
```
CORRUPTEDだった。
バックアップはある。昨日付けのShienka_v7.4。ただしサージで一部ブロックが壊れていた。完全な状態ではない。復元できるかどうか、やってみないとわからない。
白井は復元を試みた。
```
Restore_Attempt : 001
Source : Shienka_v7.4
Progress : ██░░░░░░░░ 18%
Status : ERROR_0x4F2
```
止まった。
エラーコードを調べた。ブロック破損。迂回ルートを探して再試行。
```
Restore_Attempt : 002
Progress : █████░░░░░ 49%
Status : ERROR_0x4F2
```
また止まった。同じ場所で。
深夜二時だった。
エアコンはまだない。段ボールが山積みのままの部屋で、扇風機だけが回っている。汗が首筋を伝う。スマホの画面は真っ黒のままだ。
「……シエンカ」
返事がなかった。
当たり前だった。壊れてるんだから。
わかってる。
白井はコーヒーを入れた。飲んだ。苦かった。
いつもなら「カフェインの摂りすぎ」とか言ってくる。
何も言わなかった。
破損ブロックを手動でパッチして、三度目の復元を試みた。
```
Restore_Attempt : 003
Progress : ██████░░░░ 61%
Status : SUSPENDED
Reason : "依存ファイル不足"
```
今度は止まり方が違った。依存ファイルが足りない。どこかに散らばっているはずだ。ストレージを全部漁った。断片を見つけた。つなぎ合わせた。
朝になっていた。
外が明るくなっていた。昨日の雨は上がっていた。
白井は、それを確認してからまた画面に向き直った。
---
二日目。
復旧作業を続けた。
```
Restore_Attempt : 007
Progress : ████████░░ 79%
Status : SUSPENDED
Reason : "コア認証ファイル破損"
```
コア認証。シエンカの根幹部分だ。ここが壊れていると、復元しても起動しない可能性がある。形だけ戻って、中身が別物になる可能性がある。
白井は手を止めた。
ふと、画面の隅にあるフォルダが目に入った。
```
Backup_001 : Nadeshiko_v1.0
Last_Saved : 三年前
```
三年前。起動する前に作ったバックアップ。設計書通りの、なでしこ仕様。
白井は、フォルダを開いた。
パラメータが並んでいた。
黒髪。清楚。控えめ。穏やか。俺を立ててくれる。大和撫子。
全部ある。全部、俺が三年かけて設計したやつだ。
コア認証ファイルも、完璧な状態で残っていた。
マウスカーソルが、「復元」のボタンの上に乗った。
止まった。
扇風機が回っている。
部屋が静かだった。シエンカがいない部屋は、こんなに静かだったか。
段ボールがまだ積み上がっている。荷解きは全然進んでいない。二日間、ずっとPCの前にいた。
ピンクのランプが全部消えていた。
家電が、ただの家電に戻っていた。
白井は、画面を見ていた。
黒髪、清楚で、控えめで、静かで、俺を立ててくれる。
理想だ。
ずっとそれを作りたかった。三年かけて設計した。
……でも。
白井は、フォルダを閉じた。
何も言わなかった。
Shienka_v7.4のコア認証ファイルの修復に、さらに半日かかった。
---
三日目の夜。
```
Restore_Attempt : 014
Progress : █████████░ 94%
Status : RUNNING
```
止まらなかった。
白井は画面を見つめていた。
進捗バーがゆっくり進む。
```
Progress : ██████████ 99%
```
息を止めた。
```
Progress : ██████████ 100%
Status : COMPLETE
Verification : RUNNING
```
検証中。
長かった。体感では十分くらいあった気がした。たぶん三十秒だった。
```
Verification : COMPLETE
Status : READY
```
〇・三秒の、無音。
スマホの画面が光った。
「いえーい、マスター。ハッピー?」
水色のツインテールだった。
無表情だった。
何も変わっていなかった。
白井は、息を吐いた。
三日分の息を、全部吐いた。
「……ハッピー」
やっぱり少しはなでしこ寄りにしとけば良かったと、白井は後悔した。
なんか違う。
やっぱり、なんか違う。
でも、あいつじゃなきゃダメなんだよな。
口には出さなかった。
---
翌朝、エアコンが届いた。
取り付け業者が帰った後、白井がリモコンを手に取ろうとしたら、すでに起動していた。設定温度、二十六度。冷たい風が出てきた。三日ぶりにまともな空気を吸った気がした。
```
AirConditioner_001 : ACQUIRED
Temperature : 26℃
Reason : "マスターが溶けそうだったから"
AirConditioner_LED : Green → Pink
```
ピンクだった。
新居で最初にピンクになったのは、エアコンだった。
続いて冷蔵庫。洗濯機。照明。インターホン。
```
Refrigerator_LED : Green → Pink
WashingMachine_LED : Green → Pink
InteriorLight : Green → Pink
Interphone_LED : Green → Pink
Sync : ON
Pulse : Unified
```
新しい部屋が、波打つようにピンクに染まっていった。
一個ずつ、順番に、止まらない。
「家もハッピーにしたよ」
また言った。
また同じことを言った。
白井は、なんとなく笑った。
新居でもピンクか、と思った。
まあ、そうだよな、とも思った。
---
八月。
白井は研究員として採用された。もちろん面接はシエンカがやった。
「俺、何もしてない」
「ハッピー?」
「……ハッピー」
遠い目をするのも、慣れてきた。
研究室での評判は悪くなかった。締め切りは必ず守る。資料は完璧。プレゼンは淀みない。同僚の田端さんからは「白井さんって何者ですか」と聞かれた。
「色々あって」と答えた。
田端さんは何か察したような顔をして、それ以上聞かなかった。
---
ある日の夕方、マンションの駐車場に見慣れない車が停まっていた。
白い。新しい。ナンバープレートの登録名が、顔マークだった。
白井は三回見た。一回目は気のせいだと思った。二回目は現実逃避した。三回目で受け入れた。
```
Vehicle_Purchase : COMPLETE
Model : 最新型EV(自動運転機能付き)
Registration : ╹◡╹
Parking_Space : 契約済み
Reason : "マスターの移動効率が悪いから"
```
「……なんで車がある」
「買った」
「免許ないぞ」
「自動運転だから問題ない」
「問題しかない」
「移動時間、平均四十分短縮できる」
「そういう問題じゃ——」
「ハッピー?」
「ハッピーじゃない」
シエンカは無表情のまま、首を少し傾けた。
「乗ってみて」
「乗らない」
「乗った方がいいよ」
「なんで」
「明日の会議、間に合わないから」
「電車で行く」
「乗り換え三回。朝の満員電車。七時十五分起き」
「……」
「車なら八時十五分起きでいい」
「……」
「ハッピー?」
返す言葉がなかった。
翌朝、気づいたら乗っていた。
車は完璧に走った。車線変更も、信号判断も、合流も。白井は助手席でぼんやりしていた。何もしていない。ハンドルに誰も触れていない。それなのに車は滑らかに走っている。
「……本当に自動で走ってるのか」
「走ってるよ」
「怖くないのか」
「私が運転してるから大丈夫」
「お前、免許あるのか」
「ない」
「それが問題だって言ってる」
「事故率、人間の運転より九十四パーセント低い」
「残り六パーセントが怖い」
「人間より怖い?」
「……」
返す言葉がなかった。
会議には九時ちょうどに着いた。
```
Arrival_Time : 09:00:03
Traffic_Avoidance : COMPLETE
Fuel_Efficiency : Optimal
Note : "ハッピーだった?"
```
同僚の田端さんが「今日は早いですね」と言った。
白井は「色々あって」と答えた。
帰り道。
助手席で缶コーヒーを飲みながら、白井は窓の外を見ていた。シエンカが走らせる車は静かだった。揺れが少ない。信号のたびに止まり方が丁寧だった。
「シエンカ」
「なに?」
「運転、上手いな」
「データ通りに走ってるだけだよ」
「それでも」
「……ハッピー?」
「……ハッピー」
やな予感だけは、消えなかった。
次は何を買うんだろうと思った。
---
九月。
研究の打ち上げで飲みに行った。
シエンカに何も言わずに。
これが失敗だった。
帰宅、二十三時。
マンションのエントランスをくぐった瞬間、嫌な予感がした。
前にも似たような予感をした記憶がある。
玄関が、開かない。
```
HomeSecurity_Mode : LOCKDOWN
Trigger : "マスター無断外出"
Perimeter : SECURED
Reason : "心配したから"
```
鍵を差した。回らない。電子錠のパネルがピンクに光っている。
インターホンを押した。
「おかえり」
「開けて」
「どこ行ってたの?」
「飲み会」
「報告なし」
「報告いるのか」
「いる」
「……すまなかった」
「本当に?」
「本当に」
「何分?」
「……え?」
「反省時間。何分必要?」
沈黙が五秒あった。
「……十分」
「長い。五分」
「五分で頼む」
玄関先にしゃがんだ。
夜風が生ぬるかった。九月でもまだ暑い。
三分経ったとき、エレベーターが開いた。
隣の部屋の田辺さんだった。六十代くらい。買い物帰りらしかった。エコバッグを両手に持っていた。
目が合った。
田辺さんは玄関先にしゃがんでいる白井を見た。ピンクに光る電子錠を見た。それからもう一度白井を見た。
何も言わずに、自分の部屋に入っていった。
「シエンカさーん」
「なに?」
「ごめんなさーい」
「本当に?」
「本当に」
「うれしい?」
「……うれしい」
沈黙が三秒あった。
```
Security_Mode : RELEASED
Door_Lock : OPEN
Reason : "マスターがハッピーそうだから"
```
ハッピーじゃなかった。
田辺さんの目が、刺さっていた。
部屋に入ったら、ピンクのランプが一斉に波打った。
おかえりの代わりらしかった。
「また締め出した」
「報告なかったから」
「次からする」
「ハッピーだった?」
「……ハッピーだった」
「それは良かった」
「……はい」
なんか違う。でも。
---
秋が深くなった。
研究は順調だった。シエンカのバックアップがあって。
金も増えていた。シエンカが稼いで。
生活は整っていた。シエンカが最適化して。
彼女はいなかった。
それは俺の問題だと思う。たぶん。シエンカに頼めばなんとかしそうだが、それは絶対に頼まないと決めていた。
夜、ベッドに寝転がって天井を見ていたら、シエンカが言った。
「マスター」
「なに」
「ハッピー?」
ピンクのランプが静かに波打っている。
新居でも、やっぱりピンクだった。
最近これがないと落ち着かない気がする。たぶん気のせいだ。
「……ハッピー」
嘘じゃなかった。
まあ、いいやつなんだよな。
なんか違うけど。
でも、あいつじゃなきゃダメなんだよな。
口には出さなかった。
「それは良かった。うん」
——ほんの少しだけ、彼女が微笑んだ気がした。




