第六話:極上の餌と、立ちはだかる最後の壁
峡谷の入り口付近に配置された我が軍の陣立ては、誰の目にも『烏合の衆』そのものだった。
急造の柵、バラバラの隊列。そして何より、陣の最後方にポツンと張られた、不自然なほど豪奢な王族用の天幕。
俺は天幕の奥に設えられた椅子に深く腰掛け、魔導具の遠眼鏡を使って、はるか前方の様子を観察していた。
地鳴りのような馬蹄の音が峡谷に反響し、ついに土煙を上げて帝国軍の先陣部隊が姿を現した。
黒地に金の双頭鷲が描かれた軍旗。統制の取れた重装騎兵の群れ。その数、およそ五千。対するこちらの前衛は、ガルド将軍が率いるわずか千の歩兵のみである。
「ひ、ひぃぃぃッ! 帝国軍だ! 本当に来やがった!!」
静寂を破ったのは、我が軍の最前線に立つガルド将軍の、魔法拡声器を通した情けない悲鳴だった。
遠眼鏡越しに見える将軍は、これ以上ないほど見事な『小物っぷり』を演じていた。悪趣味な金ピカの鎧をガチャガチャと鳴らし、手近な兵士を盾にするように背後に隠れる。
「わ、私は逃げるぞ! ルシエル殿下とアルフ殿下は置いていけ! あの方々が帝国軍の足止めになっている間に、私だけは安全な後方へ撤退するのだ! 皆の者、我先にと逃げよぉぉぉッ!!」
そう叫ぶが早いか、ガルド将軍は乗馬の腹を蹴り、味方の陣形を自ら乱しながら、一目散に後方へと逃げ出した。前衛の兵士たちも武器を放り出し、左右の丘の裏手へと蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
あまりにも無様で、滑稽な敵前逃亡劇。
戦果拡大に目が眩み、強烈な「噂」を信じ込んでいた帝国軍の指揮官には、それが真実にしか見えなかったのだろう。
「はーっはっはっは! 噂は真実であったか! 見よ! あの煌びやかな天幕に、王族のガキ共が残されているぞ!」
帝国軍の先頭を走る指揮官が高らかに笑い声を上げた。
「一番槍を入れた部隊には、皇帝陛下より莫大な恩賞が与えられるであろう! 全軍、一気に蹂躙せよ!!」
その号令で、恩賞という名のニンジンをぶら下げられた騎兵たちは陣形もかなぐり捨て、我先にと天幕を目指して峡谷の奥深くへと突撃を開始した。
敵の先陣が、峡谷の中程――あらかじめ設定しておいた『殺し間』に完全にすっぽりと収まった、その瞬間。
ヒュルルルルッ!!
崖の上から、一本の赤い火矢が空高く打ち上げられた。クラウスからの合図だ。
「――発破、開始ですわ」
俺が静かに呟いた直後。
峡谷の両側の断崖絶壁で、凄まじい轟音と共に大爆発が巻き起こった。大量の土砂と岩石が、密集していた帝国軍の頭上へと降り注ぐ。
罠にハマり、土砂崩れによって前後に分断された帝国軍。そこへ崖上の伏兵たちから、雨あられと魔法と弓矢の追撃が降り注いだ。
完璧な奇襲だ。
だが――俺の社畜センサーは、即座に「現場の異常」を察知した。
降り注ぐ魔法と弓矢の弾幕が、想定していたよりも早く、目に見えて薄くなり始めたのだ。
ちっ。やはり物理的なリソース不足か。
いくら資金があっても、準備期間は数日しかなかった。さらに俺たちは一度壊滅した『敗軍』を無理やり立て直した状態だ。市場の物資を買い占めたところで、大軍を完全に殲滅しきるだけの魔法石や矢の「在庫」が絶対的に足りていない。
弾幕が薄れたその隙を、歴戦の帝国軍指揮官は見逃さなかった。
「怯むなァァッ!! 敵の攻撃が息切れしたぞ! 所詮は敗残兵の掻き集め、物資が足りておらんのだ!」
土煙の中から、血塗れになった敵の指揮官が長剣を振りかざして咆哮した。
「これは罠だが、底の浅い罠だ! 後方は捨て置け! 前方の天幕にいる王族さえ手に入れれば、この戦は我らの勝利となる! 重装騎兵隊、俺に続けェェッ!!」
その号令と共に、土砂の包囲をすり抜けた数百の帝国重装騎兵が、地響きを鳴らして一直線にこちらへ突っ込んでくる。
魔導具による罠の足止めは終わった。もはや天幕との間に遮るものは何もない。
「お、おねえさま……っ!」
迫り来る鋼鉄の波と、鼓膜を揺らす殺意に当てられ、アルフが涙目で俺のドレスにしがみついた。
「大丈夫ですわ、アルフ」
俺はアルフの小さな背中を抱き寄せ、優しく撫でた。
「これが、最後の賭けになりますわ」
騎兵の突撃は、物理的な質量兵器だ。数百の馬の突進を止められる壁など、通常の軍隊には存在しない。
だが、俺の顔に焦りはない。
帝国軍の刃が天幕に届く直前。
天幕の左右に広がる、なだらかな丘の陰から――地を這うような野太い咆哮が、一斉に轟いた。
「「「おおおおおォォォォォッ!!!」」」
丘の陰から姿を現したのは、隙間なく大盾を構え、長槍をハリネズミのように突き出した、分厚い歩兵の壁だった。
それは、先ほど『敵前逃亡』したはずの、千人の王国歩兵隊。
彼らは逃げたのではない。帝国軍の視界から外れる丘の裏手へ回り込み、この決定的な瞬間のために、最も強固な防御陣形を再構築して待ち構えていたのだ。
「なっ……!? 逃げたはずの歩兵だと!?」
驚愕に目を見開く敵指揮官の前に、一人の老将が立ちはだかった。
悪趣味な金ピカの鎧などとうに脱ぎ捨て、歴戦の傷が刻まれた漆黒の武具を身に纏った、王国最強の盾。ガルド将軍だ。
「ハッ! このガルドが、愛する主君を置いて逃げるわけがなかろうがァッ!!」
ガルド将軍の大剣が、先頭を走っていた敵指揮官の馬の足を無慈悲に薙ぎ払った。
「ここから先は一歩も通さん! ルシエル殿下とアルフ殿下に指一本でも触れてみろ、帝国の豚共! 貴様らの肉をミンチにして、この峡谷の肥やしにしてくれるわ!!」
怒号と共に、帝国の重装騎兵と、ガルド率いる重装歩兵の壁が激突した。
凄まじい衝撃音。だが、我が軍の最後の壁は、ミリ単位すら後退しなかった。
完全に勢いを殺された重装騎兵は、ただの重い的でしかない。そこへ、体制を立て直した崖上のクラウス部隊からの弓矢が、再び正確に降り注ぎ始める。
俺は完璧に機能する最終防衛線を天幕から見つめながら、勝利を確信して優雅に扇子を広げた。
これぞ、我が社が誇る鉄壁の布陣。
さあ、残業代の分まで、きっちり働いてもらおうか。




