第四話:最強の餌と、忠義の老将に命じる最悪の任務
アムール峡谷での迎撃。クラウスの提案した作戦は、まさに起死回生の一手だった。
だが、作戦机の上に視線を落とした俺は、ふと冷静な思考を取り戻し、一つの懸念に行き当たった。
「クラウス大将。あなたの作戦は素晴らしいけれど、一つ問題がありましてよ」
「問題、でありますか?」
「ええ。いくら帝国軍が自らの衝撃力を過信し、戦果拡大に目が眩んでいるとはいえ、敵の指揮官が完全な無能でない限り、大軍にとって致命的な死地である峡谷へ、何の理由もなく全軍で突っ込んでくるかしら?」
俺の指摘に、クラウスは琥珀色の瞳を細めた。
「……ご慧眼です、殿下。おっしゃる通り、敵の足を峡谷に向けさせ、かつ警戒を解かせるほどの『強烈な理由』がなければ、この罠は成立しません」
「そう。敵が罠を疑う理性を吹き飛ばし、何がなんでも一番槍を入れたくなるような、極上の『餌』が必要になりますわね」
そう言って、俺は傍らで不安そうに俺のドレスを握りしめている弟、アルフの銀髪を優しく撫でた。
最上級の餌。それはもう、ここにしかない。
「……わたくしとアルフが、自ら前線に出ますわ」
「なっ!?」
俺の言葉に、軍議室の空気が凍りついた。
真っ先に声を上げたのは、先ほどまで絶望に打ちひしがれていた白髭の老将軍、ガルドだった。
「で、殿下! 何を狂気なことを! 国王陛下たちを失った今、殿下とアルフ殿下こそが我が国の希望! その御身を最前線の死地に晒すなど、言語道断にございます!!」
「ガルド将軍。狂気ではありませんわ。極めて論理的な戦術ですのよ」
俺は激昂する老将軍を冷ややかな視線で制し、クラウスの方を見た。クラウスも驚きはしたようだが、すぐに意図を察したのか、顎に手を当てて思考をフル回転させている。
「……なるほど。王族の生き残りであるお二人が峡谷の奥に陣取れば、帝国軍は確実に目の色を変える。他隊に出遅れまいと、我先にと峡谷へ殺到するでしょう。……ですが、いかに餌とはいえ、なぜ王族が最前線にいるのか、敵も不自然に思うのでは?」
「そこで、もう一つ仕掛けを使いますの」
俺は扇子を広げ、口元を隠す。非好戦的で真剣な表情は崩さぬまま、内心でだけほくそ笑んだ。
「敵軍に、そして我が国の民にも、まことしやかな『噂』を流すのですわ」
軍議室の全員が、息を呑んで俺の次の言葉を待つ。
「『王国軍の老将が、幼き王族姉弟を傀儡にして軍を掌握した。彼は徹底抗戦を叫んでいるが、それは建前。本当は王族を人質として帝国に引き渡し、自分一人の命と地位を保証してもらうために、王族を前線に引きずり出したのだ』……とね」
静寂。
その意味を理解した瞬間、ガルド将軍の顔が怒りで真っ赤に染め上がった。
「ふ、ふざけるなァァァッ!!」
老将軍の怒声がビリビリと空気を震わせる。
「このガルド、陛下と先代陛下に生涯の忠誠を誓い、この国のために命を懸けて戦って参った! それを、国を売り、幼き主君を敵に売り渡す卑劣漢を演じろと仰るか! そのような恥辱、断じて受け入れられませぬ! ならばいっそ、今ここで自刃して――」
剣の柄に手をかけようとする将軍。
当然の反応だ。武人としての誇り、長年培ってきた名誉。それを全て泥に沈め、国中の、いや世界中の人間から「卑劣な裏切り者」と罵られる役回りを押し付けられようとしているのだから。
だが、俺にはこの役を彼以外に任せる気は毛頭なかった。
「ガルド将軍」
俺は扇子を閉じ、蒼い瞳で真っ直ぐに将軍を見つめた。
その声には、冷徹な響きも、おどけた色もない。ただ、深く、静かな真心を込めて。
「本当に帝国軍が迫り、己の命が危うくなった時。我が身可愛さに、あるいは絶望に駆られて、本当にわたくしたちを敵に売り渡そうとする者は必ず現れますわ。……人間の心は、そこまで強くありませんもの」
前世で、会社の危機に際して手のひらを返し、責任を押し付けて逃げていった人間たちを、俺は嫌というほど見てきた。保身に走るのが人間の本質だ。
「でも……」
俺はゆっくりと歩み寄り、ガルド将軍の武骨で分厚い手をとった。
「将軍、あなただけは違う。あなただけは絶対に、どんな窮地にあっても、わたくしたちを裏切らないと、わたくしは確信しておりますの」
「で、殿下……」
「この役回りは、少しでも心に私欲や怯えがある者に任せれば、必ず本物の裏切りに転じます。……不器用で、怒りっぽくて、でも誰よりも陛下を愛し、わたくしたちを愛してくれたあなたにしか……この国で一番信頼できる、あなたにしか、わたくしたちの命は預けられませんのよ」
将軍の目が、大きく見開かれた。
握りしめた彼の手が、微かに震え始める。
「わたくしとアルフを、あなたのその手で、守っていただけないかしら?」
沈黙が落ちた。
ガルド将軍の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
それは先ほどまでの、希望を失った老人の悲哀に満ちた涙ではない。主君からの絶対的な信頼という重圧と、それに報いようとする武人としての熱い魂が流させる、誇り高き涙だった。
死んだ魚のようだった老将軍の目に、爛々とした生気が、恐ろしいほどの闘志が宿っていく。
「……このガルド。ルシエル殿下とアルフ殿下をお守りするためならば、喜んで天下の卑劣漢、外道に成り下がりましょう。敵を完璧に欺き、我が名誉もろとも、帝国軍を地獄の底へ引きずり込んでご覧に入れまするッ!」
ガルド将軍は、床が割れんばかりの勢いで片膝をつき、深く、深く首を垂れた。
「ありがとう存じます、将軍。頼りにしておりますわよ」
俺は慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、内心でだけニヤリと笑った。
よぉし、これで完璧だ。
最高の頭脳を持つ現場指揮官と、どんなヘイト管理も完璧にこなしてくれる最強の盾役が揃った。おまけに宰相から巻き上げた軍資金もある。
盤面は整った。さあ帝国軍よ、首を洗って待っていろ。社畜の執念と知略で、お前らの常勝神話を完膚なきまでに叩き潰してやる!




