第二十八話:先頭突撃の玄人と、一人勝ちの軍神
冷たい大河の水を掻き分け、対岸へと上陸した『赤き暁』の首魁ことザックは、内心で激しく安堵の息を吐き出していた。
彼の視線の先では、陣形を組んで待ち構えていたはずのエルネア王国軍が、「お終いだーっ!」などと情けない悲鳴を上げながら、重そうな長槍を放り捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げていくところだった。
(よしっ! あいつら、ビビって逃げてくれたぞ!)
ザックは歓喜した。
彼が何よりも恐れていたのは、両軍が真正面から激突する、血みどろの白兵戦(殺し合い)であった。
軍神などと祭り上げられてはいるが、彼の本質はただの食い詰めた小作農である。武器も使い慣れた『鍬』しかない。屈強な正規兵と槍を突き合えば、一瞬で串刺しにされる自信があった。
だが、敵が背を向けて逃げてくれるなら話は別だ。追撃戦になれば陣形はばらけ、適当なところで混戦のどさくさに紛れて逃げ出す(死んだふりをする)という、彼の生存戦略が極めて実行しやすくなるからだ。
「逃がすな! 追えぇぇぇっ!!」
狂信に当てられた味方の兵士たちが、血走った目で喚きながらザックの背中を追い越していく。ザックもまた、「おおーっ!」と適当な声を上げながら、先頭集団に混じって走り出した。
だが、その追撃戦は、ザックが思い描いていたような『楽な展開』にはならなかった。
不意に、鋭い風切り音が幾重にも空気を切り裂いた。
「ぎゃあっ!」
「ぐっ、足が……!」
直後、ザックの斜め後ろを走っていた男の首筋と、隣の男の太ももに、深々と矢が突き刺さった。
見れば、確かに敵の戦列は崩れて潰走していた。しかし、それを援護するためなのか分からないが、不格好な馬に二人が乗り、後ろの兵士が弓矢を放ってきている。
決して、一度に部隊を全滅させるような濃密な矢の雨ではない。そして二人乗りであるからか馬の動きも人が追いつけそうなくらいに遅い。だが、チクチクと、しかし確実に、前を走る味方が削り取られて倒れていく。
(おいおいおい! 話が違うぞ、これを逃げているって表現するのはおかしくないか!?)
ザックは顔面を蒼白にした。
足を止めれば、後ろから押し寄せる狂信的な味方の波に飲み込まれて踏み潰される。かといって走り続ければ、いつ前から飛んでくる矢が自分の眉間を射抜くか分からない。
(ええい、こうなったらもう運試しだ!)
ザックは完全に思考を放棄し、腹を括った。どうせ農民の自分に、複雑な回避運動などできはしない。ならば、当たるか当たらないかは神頼み。ひたすらに先頭を走り続けるしかない。
――その瞬間。ザックの内側で、パチンと何かのスイッチが切り替わった。
極限の恐怖と重圧の中でヤケクソになって最前線を走り続けた結果、これまでの戦場を奇跡的に生き延びてきたザックの肉体は、いつの間にかある種の特異な生存本能を身につけていたのだ。いわば『先頭突撃の玄人』とでも呼ぶべき、奇妙な技能である。
矢が飛んでこようが、隣の仲間が倒れようが、決してパニックを起こすことなく、心を『無』にして無限の持久力で走り続けることができるという、局地的すぎる集中状態。
この無意識の極致により、ザックの呼吸は極限まで整い、足の疲労は完全に消え去り、その走りは一切のブレがない完璧なフォームへと昇華された。
傍から見れば、矢の雨をものともせずに無表情で突撃を続ける、まさに『恐るべき軍神』の姿そのものである。
だが、覚悟を完了させ、心を無にして走り続けていたザックの内心(脳内)は、全く別のことで埋め尽くされていた。
(神様! どうか矢が当たっても、頭とか心臓には当たりませんように! ちょっとかすめるくらいの軽傷で済みますように……っ!!)
ザックは必死の形相で祈っていた。彼の顔面が鬼気迫る恐ろしい形相に見えたのは、単に『いつ矢が刺さるか』と痛みに備えて顔を引き攣らせていただけである。
そうして、己の身の安全だけを神に祈りながら、どれくらいの距離を走っただろうか。
ふと、ザックは奇妙な違和感に気づいた。
(……あれ? なんか、後ろが静かじゃねえか?)
自分を追い抜いていこうとしていた狂信者たちの怒号が、いつの間にか聞こえなくなっている。「人民の光が!」だの「貴族の犬め!」だのといった威勢のいい声も、全く響いてこない。
無心の走りを維持したまま、ザックは首だけを捻って、背後を振り返った。
そして、その光景を目にした瞬間、彼の心臓は文字通り凍りついた。
「…………えっ、なにこれ?」
そこには、地獄のような惨劇が広がっていた。
いつの間にか、戦場の北側から突進してきた漆黒の重装騎兵部隊が、味方の主力部隊の横腹に深々と突き刺さり、人間を文字通り物理的に粉砕・蹂躙していたのだ。
それだけではない。
さっきまで「お終いだー!」と情けない声を上げて逃げ惑っていたはずのエルネア王国軍の歩兵たちが、皆一様にクルリと反転し、腰からショートソード(短剣)を抜き放っていた。そして、騎兵の突撃によって完全に瓦解し、パニックに陥った反乱軍の生き残りを、まるで畑の雑草を刈り取るような手際で、ノリノリで次々と刺し殺し始めているではないか。
(罠だ。完全に、最初から全部罠だったんだ……!)
ザックは瞬時にすべてを理解した。
これ以上走っても無駄だ。というか、味方が後ろで全滅しているのに、自分だけが最前線で敵の弓兵に向かって元気に突撃している状況は、あまりにも間抜けで、そして致命的だった。
ザックは一切の躊躇なく、ピタッと足を止めた。
そして、ずっと握りしめていたトレードマークの鍬を地面にポイッと放り捨てると、両手を天高く突き上げた。
「降参! 降参!! 俺、ただの農民です! 降伏します!!」
なりふり構わぬ絶叫。
軍神としての威厳も、革命の誇りも、そこには微塵も存在しない。あるのはただ、生への執着だけである。
「動くな、反乱軍のゴミめ!」
直後、残党狩りに参加すべく駆け寄ってきたエルネア軍の一兵卒が、ザックの顔面を容赦なく殴りつけた。
「ぶべっ!?」
派手な音を立てて、ザックは地面に仰向けに倒れ込んだ。鼻血が噴き出し、頭がジンジンと痛むが、意識を刈り取るほどの致命打ではない。
「そこで大人しく寝てろ! 少しでも動いたら殺すぞ!」
「あ、はい」
血気盛んな兵士の怒声に、ザックは素直すぎる返事をし、言われた通りにダンゴムシのように丸くうずくまった。
抵抗する気など、最初から一ミリもない。むしろ、殺されずに捕虜として扱ってもらえたことに、心の底から感謝したいくらいだった。
――それから、どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、戦場を支配していた怒号と悲鳴が完全に静まり返り、代わりに軍馬の嘶きと、エルネア兵たちの勝ち鬨だけが響くようになった。
「……終わった、のか?」
ザックは恐る恐る顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
殴られた頬をさすりながら周囲を見渡すと、見渡す限りの平原は、血と泥に塗れた反乱軍の死体と、後ろ手に縛り上げられて座り込む捕虜たちで埋め尽くされていた。
三万近くいたはずの『赤き暁』の軍勢の中で、自らの足で立っている者は、文字通り一人もいなかった。エルネア軍の完璧な戦術の前に、あの狂信の集団は一時間と保たずに完全にすり潰されてしまったのだ。
「…………」
ザックは、無傷(顔面の打撲以外)のまま、ポツンと一人で戦場に立ち尽くしていた。
彼は、縛り上げられて絶望に顔を歪めるかつての『部下』たちを見下ろし、そして、静かに空を見上げた。
(……これ、俺、賭けに勝ったんじゃね?)
反乱軍は壊滅した。もはや自分を神輿に担ぎ上げ、「最前線で突撃しろ」と狂気を押し付けてくるインテリ崩れの官僚も、熱狂する農民たちもいない。
敗戦という形ではあるが、ザックはついに『軍神』という忌まわしい呪縛から解放されたのだ。
「……やった。これで、田舎に帰れるかもしれない……」
あまりにもあっけない結末に、ザックは誰にも聞こえない声で呆然と呟き、安堵の涙をひとしずく、その汚れた頬に流すのだった。




