第二十話:定時退社の幻と、燃え広がる革命の火
魔狼騎士団の面々と、互いの誇りを懸けた確かな敬意を結んだあの夜から。
帝国皇宮における俺たちエルネア王国陣営の立場は、かつてないほど盤石なものとなっていた。
エドワード派の武闘派貴族たちは、完全に俺を「派閥の精神的支柱(頼れる姐さん)」として崇め奉っている。
エドワード本人との関係も極めて良好だ。政略結婚のドロドロとした駆け引きなど微塵もなく、まるで気の合う武術の同門のような爽やかな空気が漂っている。早朝から訓練場で共に木剣を振り回し、互いのステップや剣筋について熱く語り合いながら汗を流す日々は、前世の俺が夢見ていた部活動のようで純粋に楽しい。
だが、問題はもう一人の皇族である。
「ルシエルお姉さま……えへへ、お姉さまは今日もすっごくいい匂いがします……」
深夜の豪奢なベッドの中。俺の腕の中には、プラチナブロンドの髪を散らしたクロエがすっぽりと収まり、幸せそうに頬を擦り寄せてきている。
日中のスキンシップに留まらず、最近の彼女はごく自然な流れで俺のベッドに潜り込み、腕枕を要求してくるようになっていた。薄いネグリジェ越しに伝わってくる、同年代の美少女の柔らかい体温と、甘い花の香り。
……ちょっ。これ、流石にマズくないか?
いくら俺の身体が美少女(合法の百合空間)とはいえ、中身は三十年近くを生きた男なのだ。こんな無防備で純真な美少女に毎晩べったりと抱きつかれ、耳元で甘い寝息を立てられては、俺の中のアラサー男の理性がいつ決壊してもおかしくない。
これ、絶対に行き着くところまで行っちゃうやつだ。一歩間違えれば、俺が取り返しのつかない道徳的敗北(百合の園への完全なる堕落)を喫してしまう。
政治的パフォーマンスという大義名分を盾にして大いに役得を満喫していた俺だが、迫り来る理性の限界値に、夜な夜な一人で冷や汗を流しながら悶絶する羽目になっていた。
そんな、胃が痛くも甘美な皇宮での生活も、ついに予定されていた滞在期間の期日を迎えた。
「……これでようやく、わたくしたちの長かった出張も終わりですわね。クラウス大佐」
自室のソファで向かい合い、香り高い紅茶を傾けながら、俺は深い安堵の息を吐き出した。
「ええ。此度のルシエル殿下の外交的成果は、控えめに言って完璧であります。エドワード殿下との婚約成立、同派閥の結束強化、そして帝国武人たちからの絶対的な信頼の獲得。本国で待つ陛下やボルマン宰相も、両手を挙げて喜ぶことでしょう」
琥珀色の瞳を細め、クラウスが満足げに頷く。
俺も心の中で特大のガッツポーズを決めた。大型のM&A(政略結婚)プロジェクト、これにて大成功のまま完遂である。
本国に戻ってアルフに政務を引き継いだ後は、エドワードと正式に婚姻を結び、彼に与えられるであろう帝国の領地で悠々自適な余生(?)を送るのだ。
多少の領地経営の補佐くらいはあるにしても、今の王国で過ごすのと同じくらいには穏やかなスローライフが送れるだろう。しかもエドワードは稽古の相手としても最高だ。愛する夫(予定)と一緒に、ほどよく働いて、ほどよく鍛えて、かなり楽しい日々になるに違いない。
俺がバラ色の定時退社(寿退社)プランを脳内に描き、最後の一口の紅茶を飲み干そうとした、その時だった。
重厚な客室の扉が、乱暴に押し開かれた。
ノックもなしに飛び込んできたのは、顔面を蒼白に引き攣らせ、激しく息を切らしたエドワードだった。
「エドワード殿下? いかがなさいました、そのように慌てて」
「ルシエル姉、クラウス先生! 大変だ、東の隣国から早馬が来た……っ!」
いつもの呑気な皇子の顔はそこにはない。
俺とクラウスは即座にカップを置き、彼がもたらす凶報に耳を傾けた。
「エルネアのさらに東に位置する隣国……『ガレリア王国』からの早馬だ。あそこで数年前から長期化していた反体制派の武装蜂起が、ついに大規模な会戦に突入して……正規軍であるガレリア王国軍が、完膚なきまでに大敗北を喫したそうだ。王都は陥落し、ガレリア王室は崩壊した」
室内の空気が、一瞬にして凍りついた。
ガレリア王国といえば、エルネア王国と国境を接する歴史ある大国だ。それが、反乱軍の手によってひっくり返されたというのか。
「……それは、由々しき事態ですな。ですが殿下」
クラウスが、冷静な軍師の顔のまま、淡々と疑問を口にする。
「ただの王位簒奪やクーデターであれば、あくまで隣国の内政問題です。もちろん、国境を接する我がエルネアにとっては国難となり得ますが……なぜ、緩衝地帯を挟んだこの帝国本国にまで、血相を変えて早馬が駆け込んでくるのです?」
その問いに、エドワードは重々しく首を横に振った。
「ただのクーデターじゃないんだ。反体制派を名乗る連中の正体が……全ての王政や皇室の解体を掲げる、無政府主義者の集団『赤き暁』だったんだよ」
「無政府主義者、ですと……?」
クラウスの目が、驚愕に見開かれた。俺の背筋にも、冷たい汗が伝う。
彼らが掲げているのは、単なる権力闘争ではない。身分制度そのものを破壊し、貴族や王族という存在を根絶やしにしようとする、極めて過激なイデオロギーだ。
彼らがガレリア王国を掌握したということは、どういうことか?
既存の体制を憎むその『革命の火』は、必ず他国への武力侵攻と扇動という形で、外へ向かって燃え広がる。地続きであるエルネア王国、そしてルビコン領を越え、最終的にはこの巨大な帝国にまで、国家転覆の火の粉が降りかかってくることは明白だった。
「……王族と皇族にとっての、絶対的な天敵の誕生というわけですか」
クラウスが直ちに最悪のシチュエーション(ドミノ倒し的な周辺諸国の転覆リスク)を計算し始め、地図を広げるべく立ち上がる。
その隣で、俺は空になったティーカップを見つめながら、内心で血の涙を流していた。
嘘だろ……。
せっかく大型プロジェクトが片付いて、念願の定時退社が見えてきたっていうのに。
なんでここにきて、業界の構造(王制)そのものを根底から破壊しにくるような、特大の不祥事(国難)が飛び火してくるんだよぉぉぉっ!!
俺のささやかな平和への夢は、東の空から迫り来る革命の足音によって、無情にも打ち砕かれようとしていた。




