第十話:激昂の若き王と、有能宰相が提示した『一次面接』の折衷案
木っ端微塵に粉砕された黒檀の扉の残骸を踏み越え、ずかずかと執務室へ踏み込んできたアルフの全身からは、目に見えるほどの濃密な魔力が立ち上っていた。
だが、俺のデスクに身を乗り出してきたそのエメラルドの瞳に宿っていたのは、単なる怒りではない。大切なものを奪われようとしている子供のような、ひどく悲痛な光だった。
「……姉上。本気で、ご自身を犠牲になさるおつもりですか?」
絞り出すような弟の問いかけに、俺は表情を一切崩さず、努めて優雅に、冷徹な啓蒙君主としての顔を保ったまま口を開いた。
「アルフ。王族とは、民が血と汗を流して納めた税によって、何不自由なく生かされている存在ですわ。その恩恵に見合うだけの重責を果たすのは、上に立つ者として当然の義務。国が再び戦火に焼かれる危機と比べれば、わたくし一人が嫁ぐ代償など安いものですわ」
心の中では、嫌だ、絶対に嫌だ、言葉も通じるか怪しい体育会系企業に一人で出向なんて冗談じゃないと泣き叫んでいる。だが、為政者としての矜持が、俺にこの正論を吐かせていた。
俺の自己犠牲的な理屈を聞いたアルフは、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めた。
そして、その怒りの矛先は俺ではなく、この理不尽な要求を突きつけてきた元凶へと向かった。
「……姉上を犠牲にして得る平和など、クソ食らえだ。エルネアの誇りを泥で塗るような要求、断じて呑めない! 今すぐあのふざけた使者を斬り捨てて、帝国に宣戦布告してやる!」
アルフは踵を返し、腰の儀礼剣に手をかけながら、粉砕された入り口へと向かって歩き出した。
本気だ。このシスコンを極めた弟は、俺を守るためなら本気で帝国の正使を物理的に排除し、国を挙げた全面戦争を引き起こす気でいる。
だが、そのアルフの前に、滝のような冷や汗を流しながら宰相ボルマンが立ちはだかった。
「お待ちください、陛下! 使者を斬るなど言語道断! 感情論で開戦の口実を与えれば、この五年間でようやく立て直した国庫と平和が完全に吹き飛びますぞ! ルシエル殿下のご覚悟を無駄になさるおつもりか!」
ボルマンの必死の制止。彼とて、俺を体よく帝国に売り払いたいわけではない。彼にとっても俺は最高のビジネスパートナーであり、できれば手放したくないはずだ。だが、一国の宰相として、ここで感情に任せて国を滅ぼすわけにはいかないという『理』で食い下がっているのだ。
「どけ、ボルマン! 姉上が自らを犠牲にするというのなら、僕が力でそれを叩き潰すまでのことだ!」
「なりませぬ! これは帝国を平和裏に取り込む、あるいは強固な不可侵を確約させるまたとない好機なのです! ここで意地を張れば、エルネア王国は今度こそ地図から消滅いたします!」
一歩も引かないボルマンに、アルフの放つ魔力の威圧がさらに膨れ上がった。執務室の窓ガラスがビリビリと共鳴し、ひび割れさえ生じ始めている。
おいおい、やばいぞ。
このままじゃ、我が国の超優秀なCFOが、ブチギレたワンマン社長の凶刃によって物理的にリストラされてしまう。感情で有能な部下を切り捨てるなんて、典型的なブラック企業の破滅ルートじゃないか。
俺は小さく息を吐き、静かに立ち上がった。
そして、今にも剣を抜き放ちそうなアルフの背後に回り込み、その震える右手に、そっと自分の手を重ねた。
「……姉、上?」
殺気に満ちていたアルフの瞳が、俺を見た瞬間にすっと揺らぐ。
俺はあえて微塵も感情を交えない、冷徹で、けれど底知れぬ愛情を込めた視線で弟を真っ直ぐに見つめ返した。
「アルフ。わたくしを想って怒ってくれるのは、姉としてとても嬉しいわ。……でも、あなたはエルネアの『国王』ですのよ」
俺の静かな声に、アルフがハッとして息を呑む。
「心と頭を切り離しなさい。怒りも、悲しみも、姉を想う私情も、全て一旦金庫の奥にしまい込むのです。そして、王として盤面だけを見なさい。……この取引、為政者の目から見ればどう映りますの?」
突き放すような、冷酷な問いかけだ。十二歳の少年に背負わせるには、あまりにも重すぎる決断。
だが、ここで感情論に逃げるようなトップでは、この過酷な世界で国という組織を維持していくことなどできない。
アルフは唇を強く噛み締めた。ギリギリと噛み、握りしめていた剣の柄から、ゆっくりと、震える指を離していく。
長い、息が詰まるような沈黙が執務室を支配した。
やがて、アルフは深く、血を吐くような重いため息をつき、魔力の威圧を完全に収めた。その瞳からは先ほどの激情は消え失せ、冷たく冴え渡る『王』の理性が宿っていた。
「……理屈だけで言えば。姉上一人を代償に、大国との間に強固な地盤を引き出せるのなら……国家としては、悪い選択ではありません」
よく言った。
自分の感情を完璧に殺して、合理的で冷徹な決断ができるなんて。立派なトップに成長したじゃないか。前世の記憶もひっくるめて、親心ならぬ姉心で俺は猛烈に感動したぞ。
……でもこれ、俺の帝国への出向が正式に確定しちゃったってことだよね? やっぱり扉の修繕費と一緒に俺の平穏なスローライフも粉砕されたのか、と心の中で泣き崩れた、その時だった。
「――ご慧眼にございます、陛下。そしてルシエル殿下。しかし、絶望なさるには少々早すぎますぞ」
ボルマンが、額の汗をハンカチで拭いながら、大きく咳払いをした。
「どういう意味ですの、宰相閣下。わたくしはもう、荷造りをする覚悟を決めておりますのに」
「むろん、国益を考えればこの縁談は前向きに検討すべきです。ですが……直ちに輿入れが確定し、逃げ道がなくなるわけではございません。帝国側もいきなりの本婚姻ではなく、まずは両名の『顔合わせ』の場を設けることを提案してきております」
ボルマンは手元の釣書をパラリとめくり、その一文を指差した。
「帝国が申すには、エドワード殿下が近々、五年前の戦で我が国が割譲した『ルビコン領』の視察に赴かれるとのこと。かの地は、たった五年では領民の意識改革も進んでおらず、事実上の緩衝地帯……中立地帯に近い状態となっております。そのルビコン領にある帝国騎士団の駐屯地にて、ルシエル殿下とのささやかな茶会を行いたいと。本契約の調印は、その後でも遅くはないと記されております」
ナイスアシスト、ボルマン!!
俺は心の中でガッツポーズを決め、スタンディングオベーションを送った。
なんだ、いきなりの本契約じゃなくて、まずは一次面接の打診じゃないか! 顔合わせというプロセスが挟まるのなら、いくらでも交渉の余地はある。
向こうの皇子がとんでもないパワハラ気質だったり、王国にとって不利な裏の条件を隠し持っていたりすれば、適当な理由をつけて「今後のご活躍をお祈り申し上げます」とお祈りメールを叩きつけてやる隙があるということだ。
「……なるほど」
アルフが、低く、酷く冷たい声で呟いた。
先ほどまで抑え込んでいた殺気が、今度は極めて理知的な、研ぎ澄まされた刃のような形を持って再び現れる。
「相手が姉上の隣に立つに相応しい男か、まずは見極める時間があるということですね。……いいでしょう。その茶会、受けて立ちます」
「ですが陛下、一国の王が易々と国境を越え、帝国の駐屯地へ赴くわけにはまいりませんぞ」
ボルマンの当然の指摘に、アルフはニッコリと、見た目は極上の天使のような、しかし中身は絶対零度の微笑みを浮かべた。
「分かっています。ですから、僕の『代わり』を向かわせます。……クラウス大佐と、ガルド将軍。二人に姉上の護衛を命じます。もしそのエドワードとやらが、少しでも姉上を軽んじるような無礼を働いた時は――」
言わなくても分かる。その時は、外交問題など知ったことかと、即座に物理的に首を撥ねろと密命を下す気満々だ。
面接官の代わりに、超過激派の身内が放った軍の重鎮と次代のトップ(武力の最高峰と知略の最高峰)が同席する、最悪の一次面接。
俺は強烈な胃の痛みを覚えながらも、とりあえず即時の出向命令が保留になったことに安堵し、優雅に扇子を広げた。
「決まりですわね。では宰相閣下、帝国へは『顔合わせの儀、喜んでお受けいたします』と返書を。……さあ、忙しくなりますわよ」
五年ぶりの、帝国との直接対決。
今度は泥沼の戦場ではなく、優雅な茶会という名の交渉のテーブルだ。
元社畜の交渉スキルと、怒れるシスコン王が放つ最強の護衛陣。この手札で、帝国の皇子殿下の手腕、きっちり査定させてもらおうじゃないか。




