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双剣のエルナは二度と仲間を持たない ——それでも、その夜だけは走った  作者: アズマ マコト


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死の森の咆哮、紅蓮の舞踏

夜の森は、死そのものが呼吸しているかのような、底なしの静寂に満たされていた。



 湿った土と腐葉土が発酵する甘い腐臭。その粘つくような匂いが、万物を呑み込まんとする濃霧と共に淀んでいる。



 その闇の中を、一つの影が音もなく滑っていた。



 エルナ。濡れた落ち葉一枚、霜が降りた小枝一本すら踏み鳴らすことなく、彼女は獣よりもなおしなやかな足取りで木々の間を抜けていく。五感は極限を超えて研ぎ澄まされ、闇に潜むあらゆる生命の気配を、まるで皮膚で感じ取るかのように探っていた。鼻腔を掠める森狼の野卑な獣臭。ゴブリンの巣穴から漂う、糞尿と腐肉が混じり合った淀んだ悪臭。だが、それらは彼女が求めるものではない。雑音に過ぎなかった。




 彼女が追っているのは、もっと微かで、それでいて魂の根源を直接揺さぶる『異臭』。




 それは死臭ではない。腐敗臭でもない。世界の法則が軋むような、存在そのものが冒涜であるかのような、ただひたすらに不快な歪みの気配。




 不意に、前方の羊歯の茂みが僅かに揺れた。




 エルナの動きが、水面に落ちた木の葉のように静かに止まる。闇に順応した彼女の瞳は、そこに潜む二つの矮小な影を正確に捉えていた。ゴブリンだ。錆びた鉈を握り、口の端から粘液を垂らしながら、無警戒な獲物を待ち構えている。並の冒険者であれば、その存在に気づくことすらできず、致命的な一撃を受けていただろう。




 だが、エルナは彼らが殺意の気配を発するよりも刹那早く、その存在を感知していた。




 腰の鞘から抜き放った双剣の一振りが、空気を切り裂く音すら置き去りにして闇を穿つ。一拍の間。くぐもった断末魔が霧に吸い込まれた。一体目のゴブリンが、喉に深々と突き刺さった剣を掴もうとしながら崩れ落ちる。相方が何事かと振り向いた瞬間、エルナの影はその背後に溶け込んでいた。もう一振りの刃が冷たい弧を描き、二体目の首がだらりと垂れる。





 一連の動作に、一切の無駄も躊躇もなかった。それは殺戮というよりも、練り上げられた舞踏。静謐で、冷徹で、そして絶対的に致命的だった。エルナはゴブリンの骸に一瞥もくれず、喉から刃を引き抜くと、死体の汚れた腰布で無造作に血糊を拭った。






「……違う」






 吐き捨てた呟きが、白い息となって霧に溶けた。




 こいつらではない。この程度の雑種が放つのは、陳腐な殺意とありふれた悪臭だけだ。彼女が追う不吉な『異臭』の源泉は、もっと森の深奥、光の届かぬ中心に潜んでいる。






 それから幾度、同じような遭遇を繰り返したか。飢えた森狼の群れを音もなく屠り、潜んでいたファングスパイダーの巣を魔導の火で焼き払った。しかし、夜の闇はその深さを失い始め、東の空が死人の肌のように蒼白く染まりつつあった。夜明けが近い。






「……見つからない、か」






 徒労感が、鉛のように両肩にのしかかる。一晩中、森を駆け巡ったというのに、確かな手応えは何一つない。目的の『異臭』は、まるで彼女を嘲笑うかのように捉えどころなく森全体に薄く拡散し、その源泉を巧妙に隠していた。これ以上闇雲に探しても、精神をすり減らすだけだ。






 エルナは天を仰ぎ、白み始めた空から落ちる霧の雫を頬に受けた。焦りが、冷たい蟲のように胸の内を這い回る。あの『異臭』の正体を突き止め、根絶しない限り、この森はもはや安全な狩り場ではない。いずれ、より大きな災厄となって牙を剥く。その予感が、肌を粟立たせた。






「一度、ギルドへ戻るべきか……」






 情報を再編し、別の角度から調査をやり直す。それが熟練者としての正しい判断。彼女は踵を返し、森の出口へと向かうべく数歩を踏み出した。






 その、瞬間だった。






「――だから言ったろ!昨日のゴブリンなんて、俺一人でも余裕だったって!」




「カイル、調子に乗るな。あれは群れからはぐれた雑魚だ」




「うるせえな!次はもっと奥まで行って、でかいのを狩ってやるんだよ!」






 霧の向こう、森の入り口の方角から、複数の人間の声が届いた。若く、浮ついて、実力不相応な自信に満ちた声。静寂と畏怖に満ちているべき未明の森には、あまりに不釣り合いな騒音だった。






 エルナの全身が、弾かれたように硬直する。思考よりも速く、傍らの巨大な羊歯の茂みへと身を滑らせた。呼吸を殺し、気配を完全に断つ。まるで彼女自身が森の一部、一本の木、一つの岩になったかのように、その存在感を闇に溶解させた。






 やがて霧の中から、三人の若い冒険者の姿が現れる。先頭を歩くのは、見覚えのある顔。鍛冶屋の息子、カイル。ここ一年半で多少は様になったかと思っていたが、その足取りには未だに根拠のない自信が滲み出ている。彼らの武具は磨かれてはいるが、使い込まれた深みがない。何より、森に対する根本的な警戒心、生命への畏敬が絶望的に欠けていた。






「もっと奥に行けば大物がいるって!そいつを狩れば、一気にランクアップだぜ!」




「無茶はよせよ。ギルドのエルナさんにも、いつも注意されてるだろ」




「あの人は心配性なんだよ!俺たちはもう、ただの駆け出しじゃねえんだからさ!」






 意気揚々と交わされる会話が、エルナの耳の奥で不快に反響する。その言葉の端々にある無知と万能感が、彼女の神経をやすりのように削った。






(……愚か者どもが)






 内心で、血が滲むほど強く舌打ちが響く。




 なぜ来る。なぜ、よりにもよってこの時に。まだ、この森は牙を隠しているというのに。私が一晩かけても正体を掴めなかった脅威が、この深い霧のどこかで息を潜めているというのに。






 怒りと共に、苦い鉄の味がする記憶が蘇る。仲間を信じ、己の力を過信し、そして全てを失ったあの日の光景。絶望に呑まれていく仲間たちの最後の叫び。何もできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった自分の無力さ。あの光景を、二度と見たくはない。この若者たちに、同じ轍を踏ませるわけにはいかない。






 警告すべきか?




 ――否。エルナは即座にその選択肢を切り捨てた。今の彼らに何を言っても、年長者の戯言としか受け取らないだろう。功を焦る若さとは、そういう病だ。正面からの忠告は、かえって彼らを頑なにさせるだけだ。






 ならば、どうする。このまま彼らを放置し、ギルドに戻って凶報を待つか?




 ――冗談ではない。






 エルナの瞳に、氷のような光が宿った。




 見捨てることなど、できるはずがない。あの日、守れなかった者たちの顔が、瞼の裏で次々と明滅する。






 彼らに気づかれてはならない。彼らの矮小な自尊心を、無闇に傷つけるべきでもない。だが、死なせることは絶対に許さない。






 エルナは茂みの中で深く、静かに息を吸い込んだ。撤退という選択肢は、もう彼女の中から完全に消え失せていた。






 カイルたちが森の奥へと消えていく。その数分後、彼らが残した足跡を、影が踏むかのように一定の距離を保ちながら、一つの気配が追跡を開始した。






 エルナは、彼らの『影』となることを決意した。




 その存在を誰にも知られることなく、迫り来る脅威から若き命を守る、名もなき守護者として。彼女の表情からは焦りも徒労も消え去り、ただ鋼のごとき決意だけが刻み込まれていた。






 東の空が、まるで裂傷から滲み出た血のように、不吉な赤みを帯び始めていた。




 それは夜明けの光か、あるいはこれから訪れる惨劇の予兆か。エルナはただ黙して、前を行く無垢な光の跡を追った。






 ***






 陽光は死んだ。世界樹の如き巨木群が編み上げた天蓋が、その骸から漏れる最後の光さえも貪り尽くし、地上には墓標めいた影だけがまだらに落ちている。湿り気を帯びた腐葉土の甘い腐臭が森の肺を満たし、吐き出される空気は鉛のように重かった。エルナは、巨大な樫の樹幹にその身を溶け込ませ、呼吸の音すら殺していた。彼女の凍てついた視線の先、三十メートルほど離れた場所を、若葉のように脆い冒険者の一党が、死地へ向かう巡礼者のように進んでいく。






「ははっ、見たかよ今の! ゴブリンのクソッたれが飛び出すより先に、俺の剣が閃いたぜ!」






 先頭を歩くカイルの、自信に満ちた声が粘つく空気を震わせた。まだ声変わりも済んでいない幼さを残しながら、その実力には到底見合わぬ傲慢が滲む。彼の仲間たち――小柄な魔術師の少年と、やや年嵩の弓使いの少女――が、その虚栄心を煽るように甲高い笑い声を上げた。






「さすがカイル! もうDランクじゃ物足りないんじゃない?」




「本当よね。この調子なら、すぐにCランク昇格だわ」






 エルナは音もなく嘆息した。愚か者どもが、と灼けつくような言葉を喉の奥で飲み下す。彼らが屠ったゴブリンは、ただの斥候だ。その死角には、少なくとも五、六匹の伏兵が牙を研いでいた。エルナが茂みの奥から放った小石が別の獣を驚かせ、伏兵の注意を逸らさなければ、今頃彼らの無傷の肉体は、無数の鉤爪によって引き裂かれていただろう。






(死に場所を探しているのか、あの雛共は……)






 焦燥が胸の内を掻き乱す。ギルドでカイルがこの依頼を受けるのを見た時から、胸騒ぎはしていた。東の森は、入り口付近こそ新人の修練場として知られているが、見えざる一線を越えれば、そこは捕食者たちの饗宴場へと変貌する。彼らが踏み入れているのは、疑いようもなくその「一線」の向こう側だった。縄張りを主張する魔物の殺気が、肌を針で刺すように密度を増していく。






 エルナの脳裏に、数年前の光景が烙印のように焼き付いて蘇る。鼻腔を焼く血の臭い。耳を劈く仲間の絶叫。そして、自らの無力さを呪った、どこまでも冷たい雨。あの過ちだけは、二度と繰り返すわけにはいかない。だからこそ、彼女はこうして亡霊のように彼らを追っているのだ。






「おい、見ろよ! あそこに光苔が群生してるぜ。高く売れるやつだ!」






 カイルが指さした先は、切り立った岩壁の窪みだった。確かに、亡者の魂のような青白い光を放つ苔がびっしりと生えている。だが、その真上、巧妙に枝葉で偽装された闇には、粘液を滴らせる巨大な蜘蛛の巣が、死の揺り籠のように張られていた。






「よし、俺が取ってくる!」




 功を焦るカイルが、無防備に一歩を踏み出そうとする。エルナは舌打ちし、足元の石を拾い上げると、狙いを定め、手首のスナップだけで弾き飛ばした。石は鋭い放物線を描き、カイルたちの頭上を越え、岩壁から大きく外れた藪の中へと乾いた音を立てて落ちる。






 ガサガサッ!






 物音に反応した巨大な影が、巣の奥へと素早く身を翻した。






「ん? なんだ?」




 カイルは足を止め、訝しげに音のした方角を睨む。無論、そこには何もない。




「……気のせいか。まあいい、とにかくあの苔を……」




「待って、カイル!」弓使いの少女が彼の腕を掴んだ。「なんだか、空気が……変じゃない?」






 ようやく、彼らも気づいたらしい。森の生命を謳っていた鳥の声が、いつの間にか完全に沈黙している。風が死に、世界から音が消えたかのような、冒涜的なまでの静寂が支配していた。






 グルルルゥ……。






 地の底から響くような、低い唸り声。それは一つではなかった。右から、左から、そして背後から。悪夢のこだまのように、唸り声が次々と重なり、彼らを取り囲んでいく。






 カイルたちの顔から、血の気が引いていくのが遠目にも分かった。ゆっくりと、彼らの周囲の茂みが揺れる。その隙間から覗く、飢えと殺意にぎらつく無数の燐光。大型の森狼フォレストウルフ。子牛ほどもあるその巨躯は、鍛え上げられた鋼のような筋肉に覆われている。一匹でも新人には死を意味する捕食者が、完璧な包囲陣を敷いていた。






「ひっ……」




 魔術師の少年が、恐怖に引きつった悲鳴を漏らす。カイルは震える手で剣を握り直し、虚勢を張って叫んだ。




「う、うろたえるな! 円陣を組め! 背中は任せろ!」






 だが、その声は哀れなほど上ずり、もはや何の権威もなかった。恐怖は病のように伝染する。弓使いの少女は矢をつがえようとするが、その指は裏切り者のように震え、弦を引くことすらできない。完全に機能を失った組織は、もはや狼たちのための肉塊でしかなかった。






 一匹の狼が、痺れを切らしたように地面を蹴った。それが開戦の合図だった。十数匹の鋼の獣が一斉に襲いかかる。






「うわあああっ!」




「来ないで!」






 悲鳴と怒号が森に響き渡る。カイルは眼前の狼に必死で斬りかかるが、その丸太のような前脚の一撃で剣を弾かれ、無様に体勢を崩す。その死角を、別の狼が見逃すはずもなかった。






「しまっ……!」




 横から飛びかかってきた狼に肩を噛み砕かれ、カイルは地面に叩き伏せられる。仲間たちもそれぞれが狼に囲まれ、陣形などという概念はとうに霧散していた。






 そして、エルナの視界の端で、最も恐れていた事態が起こる。防御が手薄になった魔術師の少年が、狼の強烈な体当たりを受けて吹き飛ばされた。無防備に背を晒して倒れた彼の上に、巨大な影が躍りかかる。






「ギャッ!」




 短い悲鳴。狼は少年を地面に縫い付け、その喉笛に涎を滴らせる牙を剥いた。銀色の牙が森の鈍い光を反射し、まさにそのか細い喉を噛み切ろうとした、その刹那――。






(間に合わんか…!)






 エルナの思考が、灼熱の怒りと焦燥で白く染まる。影から守る、その甘えの限界だった。守ると決めたのなら、この身が汚れる覚悟など、とうにできている。






 彼女は樫の木の陰から、黒い流星となって撃ち出された。






 ザッ、と地面を蹴る音は、殺戮の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかっただろう。ただ、一陣の鋭い風が狼たちの間を駆け抜けた。






 キィンッ!






 甲高い金属音。それは、少年の喉元に迫っていた狼の牙を、エルナが抜き放った双剣の一振りが弾いた音だった。少年を組み伏せていた狼は、何が起きたのか理解する間もなく、首筋に走った銀の閃光によって宙を舞い、絶命して地面に落ちた。






 エルナの動きは止まらない。それは舞踏だった。新人たちの必死の攻防とは、あまりにも次元の違う、死の舞踏。狼の爪を紙一重でいなし、牙を剣の腹で受け流し、その返す刃で急所を寸分違わず切り裂いていく。






 一閃。狼の眉間が割れる。




 二閃。別の狼の心臓が穿たれる。




 三閃。飛びかかってきた狼の腱が断ち切られ、無様に転がる。






 彼女の剣技は、力任せのそれではない。最小限の動きで最大の効果を生む、洗練され尽くした鋼の賛歌だった。狼の群れは、この予期せぬ闖入者の絶対的な暴力に怯え、統率を失い始める。数合と打ち合うまでもなく、生き残った狼たちは恐怖の咆哮を上げ、蜘蛛の子を散らすように森の闇へと逃げ去っていった。






 数秒後、森には再び静寂が戻ってきた。残されたのは、数体の狼の亡骸と、立ち込める鉄錆の匂い。そして、眼前の惨劇と、それを一瞬で終わらせた女剣士の姿に、恐怖の石像と化したカイルたちだけだった。






 エルナは双剣を軽く振って血糊を払い、鞘に収めた。そして、まだ地面に座り込んだまま震えている魔術師の少年に歩み寄り、血に汚れていない方の手を差し伸べる。






「立てるか? 怪我は?」




「あ……は、はい……」




 少年は、まるで女神か悪魔を見るような目で彼女を見上げ、夢遊病者のようにその手を取り、よろよろと立ち上がった。幸い、噛み傷は浅いようだった。






 ***






 安堵の息を吐き、エルナがカイル達へと向き直る。その双眸に安堵の色が浮かんだのは一瞬。直後、堰を切ったように怒りの炎が揺らめいた。




「お前たち、ここで何を――」






 無謀な若者たちへ厳しい叱責を飛ばそうとした、まさにその刹那だった。






 森が、死んだ。






 狼の群れが沈黙し、束の間の安寧が支配していたはずの空間から、音が消えたのだ。風のそよぎ、虫の羽音、遠くで響いていた夜鳥の声。あらゆる生命の気配が、まるで巨大な真空に吸い込まれたかのように、ぷつりと途絶える。水底に引きずり込まれるような粘性の圧力が、肌に纏わりついた。






「……どうしたんですか?」






 誰かが不安げに呟く。その声すら、分厚い壁に阻まれてすぐに消えた。






 そして、狼どもの死骸から立ち上る血の匂いを塗り潰すように、それは来た。






 腐臭と獣脂、そして濃密な死そのものを煮詰めたような悪臭。単なる獣臭ではない。脳髄を直接掴んで揺さぶるような、魂の根源にこびりつく冒涜的なまでの異臭。生命が本能で拒絶する、絶対的捕食者の『匂い』。






 エルナの表情から、急速に血の気が引いていく。全身の産毛が総毛立ち、背骨に氷の杭を打ち込まれたかのような激痛に近い悪寒が走った。






 忘れられるはずがない。魂に焼き付いた絶望の烙印。決して、忘れてはならなかった匂い。






「な……なんだ、この匂い……」




「気持ち悪い……吐きそうだ……」






 カイルたちが顔を顰め、嘔吐感を堪えるように口元を押さえる。だが、彼らの覚える生理的な不快感と、エルナを苛む恐怖の質は、次元が違った。これは、彼女の過去を喰らい尽くした絶望の香りそのものだった。






 森の深奥。陽光さえ届かぬ昏い闇の向こうで、対の燐光が静かに灯った。それはゆっくりと、しかし揺るぎない捕食者の歩みで、こちらへと近づいてくる。ざっ……ざっ……と枯葉を踏みしめる音は、大地の奥底から響いてくるかのように重い。






 やがて、木々の隙間から差し込むわずかな光の下に、その異形の全身がぬらりと浮かび上がる。






 悪夢の具現。筋骨隆々たる獅子の胴体に、蝙蝠を思わせる皮膜の翼。見るからに猛毒を湛えた巨大な蠍の尾が、鎌首をもたげて不気味に蠢いている。そして何よりおぞましいのは、その頭部だった。鬣に縁取られた貌は、苦悶に歪む人のそれを模した冒涜的な造形であり、その双眸には獣の獰猛さとは異質の、冷酷な理性の光が宿っていた。






 マンティコア。神話に謳われる最悪の捕食者。伝承に聞くほどの巨体ではないことから、まだ成体ではないのだろう。だが、その幼体から放たれる存在感と威圧は、この森の生態系の頂点に君臨する者であることを疑いようもなく示していた。カイルたちは呼吸さえ忘れ、金縛りにあったようにその場に縫い付けられた。






 グルルルルゥ……。






 喉の奥で、地を這うように低く唸る。それは獲物を前にした悦びと、絶対的な強者の傲慢さに満ちていた。






 だが、エルナの耳に、その咆哮は届いていなかった。




 強烈な『匂い』が、固く閉ざした記憶の扉をこじ開け、過去の悪夢を溢れさせる。視界が歪む。ぐにゃり、と。目の前の景色から、色が抜け落ちていく。狼の死骸が転がる地面は、かつて見慣れた仲間たちの血で濡れた大地と重なった。恐怖に引き攣るカイルの顔が、血の海に沈み、虚ろな瞳でこちらを見上げていた後輩の顔と溶け合う。






『エルナ先輩……』






 すぐ耳元で、囁く声がした。幻聴だ。分かっている。それでも、あまりに鮮明なその声に、エルナの意識は過去の奈落へと引きずり込まれていく。






 あの時も、そうだった。格上の魔獣。半壊したパーティ。絶望に染まる仲間たち。ただ一人、まだ立てていた自分。守らなければ、と焦る心とは裏腹に、恐怖で身体が動かなかった。そこへ、この匂いが漂ってきたのだ。






『逃げ……て……』






 自分を庇って致命傷を負った後輩が、最後の力を振り絞って紡いだ言葉。その懇願を最後に、彼の瞳から光は永遠に失われた。






 エルナの呼吸が止まる。喉が灼けつくように痙攣し、空気を拒絶する。指先から急速に熱が失われ、思考が凍てつき、鉛と化した四肢が意思を裏切る。目の前には血の海に沈む後輩の幻影。その向こうで、マンティコアがゆっくりと歩を進めてくる。






(……同じだ)






 砕けた硝子のような声が、心の中で響く。






(この匂い。この絶望。何もかも……あの時と、同じじゃないか……)






 過去と現在が混濁し、時間の感覚が溶けていく。守ると誓ったはずの者たちが、また目の前で命を散らす。歴史は繰り返される。自分は、またしても間に合わない。






(また、守れないのか……? 私が、ここにいる意味は……?)






 後悔と無力感の津波が、彼女の心を呑み込んでいく。握りしめた剣の柄が、ひどく冷たく、遠い。戦うという意志そのものが、トラウマという猛毒に蝕まれ、麻痺していく。心が、ぽっきりと折れる音がした。






 その、絶望の深淵に意識が沈み切る寸前。






「エ、エルナさんッ……!」






 不意に響いたのは、悲鳴にも似た絶叫だった。






 カイルの声だ。恐怖に喉を凍らせていたはずの彼が、全身を震わせながら、最後の希望を託すように彼女の名を叫んでいた。それは幻聴ではない。今、ここで、すぐ隣で響いている、紛れもない『現実』の音。






 ――エルナさん。






 その呼び声が、過去の悪夢に突き立てられた一本の楔となった。






「俺は……これ以上、誰かの背中で震えてるだけの『荷物』は御免だッ!」





「エルナさんだけじゃない……あいつらも、俺の仲間なんだ……ッ! 俺にも、守らせてくださいよぉッ!!」





 目の前にいるのは、血溜まりに倒れる後輩ではない。




 肩から鮮血を流し、恐怖に膝を震わせながらも、硬直したエルナを庇うように立ち塞がるカイルの姿だった。




 その向こうには、紛れもない現実の脅威として、マンティコアが悪意に満ちた瞳で自分たちを品定めしている。





 ハッと、エルナは息を呑んだ。





 パリン、と硝子が砕ける音を立てて、視界を覆っていた血の幻影が霧散する。




 耳元で囁いていた後輩の声がかき消され、代わりに、未熟で、しかし熱を持った生身の声が鼓膜を打った。




 視界に映るのは、もはや絶望の残滓ではない。





 そこには、恐怖に顔を歪ませながらも、必死にこちらを見つめるカイルがいる。






 そしてその向こう。






 石化の魔眼すら溶解させるほどの濃密な殺気を放ち、異形が今まさに、そのあぎとを開こうとしていた。





(……違う)






 心の中で、彼女は強く首を振った。






(まだ、終わっていない。誰も、死んでなどいない!)






 過去は過去。今は、今だ。同じ絶望を繰り返すために、ここに立っているのではない。






 硬直していた指先に、ゆっくりと力が戻る。冷え切っていた身体の芯に、小さな熾火のような熱が灯った。それは怒り。悔恨。そして何よりも強い、守る者としての覚悟。






 エルナは、悪夢を振り払うように一度強く目を閉じ、そして、再び開いた。






 その双眸に宿る光は、もはや絶望の色ではない。過去の亡霊をその身で断ち切り、眼前の『現実』と対峙する、鋼の如き戦士の瞳だった。




 エルナは腰のベルトから、あの琥珀色の小瓶を引き抜いた。栓を歯で食い千切り、粘つく液体を双剣の刀身へと垂らす。




 刹那、鼻を突く強烈な樹脂の香りが立ち込めた。それはマンティコアのような高位魔獣の闘争本能を強制的に沸騰させ、対象を「捕食」ではなく「排除すべき敵」として認識させる、狩人専用の『激化香』だ。




 これで奴の標的は、間違いなく私一人に固定される。




 ***






 万物を圧し潰すかのような咆哮が、世界そのものを揺るがした。






 音の濁流のただ中で、しかし彼女の動きだけは、時が凍ったかのように静謐だった。






 革巻の柄を、指が白むほどに握り締め、構え直された剣の切っ先は、ただ一点。咆哮の震源たる異形の顎に向け、氷の宣告のように、微動だにしなかった。






 ***






 風を裂く音よりも速く、マンティコアの巨躯が掻き消えた。






 次の瞬間、エルナの眼前に死の塊が迫っていた。横薙ぎに振るわれた前脚。丸太のごとき太さと、鋼鉄すら容易く断ち切る鉤爪の暴威。






「ッ!」






 呼気一閃。エルナは半歩踏み込み、双剣をX字に交差させてその衝撃を受け流す。






 ガギィンッ!!






 脳髄を揺さぶる衝撃音が森に木霊し、火花が闇を焦がす。受け止めた腕の骨が悲鳴を上げ、ブーツの底が地面を削って溝を作った。膂力の差は歴然。まともに受ければ挽肉にされる。だが、エルナは引かなかった。彼女が退けば、その背後にいる若者たちが肉塊に変わるからだ。






「グルゥァッ!」






 エルナは衝撃を利用して空中に身を躍らせた。





 だが、それは単なる回避ではない。





 空中で身体を捻り、回転の遠心力を全てのせた双剣が、死神の鎌の如き軌道を描く。





 一閃目が鼻先を切り裂き、獣がのけぞったその刹那――。






 遅れて走る二閃目が、針の穴を通すごとき精度でマンティコアの右眼を深々と抉り抜いた。







「ギャオォォォッ!!」







 噴き出す鮮血と硝子体。





 ただでは退かない。死の淵にあってなお、相手の急所を喰らい尽くそうとする底知れぬ執念。





 それが、戦場で生き残ってきた『双剣』の実力スキルだった。





 激昂したマンティコアが吠える。その咆哮だけで大気が振動し、平衡感覚が狂わされそうになる。




 間髪入れず、闇の奥から凶刃が奔った。蠍の尾だ。毒液を滴らせた紫色の針が、鞭のようにしなってエルナの心臓を狙う。






「させ、ないっ!」






 エルナは腰のポーチから手探りで何かを掴み、地面に叩きつけた。




 ボンッ! と白煙が爆ぜる。視界を奪うための煙幕。だが、マンティコアの翼が生み出す暴風が、それを瞬時に吹き飛ばした。





 (――その隙を、待っていた)





 風を生むために翼を大きく広げた、その一瞬。エルナは腰の薬品帯(ポーション・ベルトから『黒い小瓶』を引き抜き奥歯で噛み砕いた。喉を焼く劇薬が、戦士特有の体内魔力循環オド・サーキットと激突し、爆発的な冷気を精製する。




 左手の剣が、瞬時に蒼白く凍てついた。





「シッ!」





 追撃の尾が迫る中、彼女はあえて死地へと踏み込む。氷結の刃が、無防備に晒された翼の皮膜を切り裂き、その付け根を一瞬にして凍結させた。パキパキと不気味な音を立てて、飛翔の機能が破壊される。





 だが、その代償として――回避が遅れた横腹を、蠍の尾が容赦なく抉った。






「がはっ……!」






 革鎧が裂け、熱い痛みが走る。毒こそ食らわなかったが、打撃の重さが肋骨に響いた。






「エルナさん!」




 カイルが叫び、剣を構えて飛び出そうとする。




「来るなッ!!」




 エルナは血を吐くように叫んだ。その一瞬の隙が命取りになる。マンティコアの視線がカイルに向いた刹那、エルナは死地へと自らの身体を割り込ませた。






 襲い来る爪の連撃。一合、二合、三合。




 防ぐたびに双剣の刃が欠け、腕の感覚が麻痺していく。回避に徹すればどれほど楽か。だが、背後の雛鳥たちを守るという鎖が、彼女の動きを致命的に制限していた。






 投げナイフを放つ。硬い剛毛に弾かれる。




 罠を仕掛ける暇などない。




 最後の回復薬を呷る余裕すらない。






 ジリ貧などという生易しいものではない。これは、緩やかな処刑だ。




 圧倒的な暴力を前に、エルナの手持ちのカードは、一枚、また一枚と、無慈悲に破り捨てられていった。






 ***






 エルナの喉から、獣の喘ぎにも似た呼気が漏れた。腰帯で虚しく揺れるポーションの小瓶はとうに干涸らび、最後の煙幕も罠も、闇に呑まれて久しい。選択肢などという言葉は、もはや欺瞞に過ぎなかった。






 視界の端、恐怖に縫い付けられたように立ち尽くす三つの影。カイルと二人の、あまりに若い冒険者。その双眸に映るのは、理性を焼き切った純粋な死への畏怖。こんな終わりを望んで、彼らは剣を取ったわけではあるまい。






(守る…)






 灼けつく肺の痛みが、記憶の蓋をこじ開ける。守れなかった者たちの、声なき絶叫が鼓膜の内側で蘇る。






(――二度と)






 その誓いだけが、砕け散りそうな身体を繋ぎとめる最後の楔だった。






 背後で地が鳴る。マンティコアの鉤爪が腐葉土を掻きむしり、巨岩を砕く音が、死の宣告のように迫る。






「…これしか、ない…」






 覚悟、というにはあまりに脆い決意を固め、エルナは震える指を革鎧の内ポケットへと滑り込ませた。指先に触れる、氷のように冷たい硬質な感触。フォルティアの都で、来年一年分の生活費と引き換えに手に入れた拘束系の魔法結晶。万が一の、そのまた万が一のための保険。――その「万が一」が、牙を剥いてすぐそこにいた。






 躊躇は心臓の一拍分。彼女はそれを引き抜くと、振り返りざま、闇よりなお暗い巨大な影の中心へと、祈りを込めて投げつけた。






 空を裂いた結晶が、マンティコアの胸郭で弾ける。






 刹那、世界から音が消えた。






 網膜を白く焼き切る閃光が森を真昼に変え、遅れて鼓膜を突き破るような甲高い衝撃波が空間を震わせた。






「――ッ!」






 眩暈がするほどの光が収束した時、マンティコアの巨体は光で編まれた無数の鎖に縛められていた。光の枷は魔獣の鋼の筋肉に深く食い込み、その動きを完全に封じている。だが、商人が口にした効果時間は、永遠に等しい、ほんの数秒。






「今だ! 走れ!」






 閃光に目が眩み立ち尽くすカイルたちの腕を、骨が軋むほど強く掴む。構っていられなかった。






「エルナさん!?」




「問答は後! 川へ! 生きたいなら走れ!」






 死に物狂い、という言葉では生温い。剥き出しの生存本能だけが四人を突き動かしていた。木の根が足を攫い、鞭のような枝が容赦なく頬を裂く。とうに限界を超えた肺が血の味を送り込み、心臓が肋骨を内側から叩き割らんと狂おしく脈打つ。痛みも苦しみも、もはや遠い世界の出来事だった。ただ前へ。この地獄を抜けた先にある、川という名の希望へ。






 背後で、硬質な玻璃が砕け散る音が甲高く響いた。光の鎖が、マンティコアの規格外の膂力によって引き千切られたのだ。






 グルォォォオオオオオオッ!!






 天蓋を揺るがす怒りの咆哮が、森羅万象を震わせた。束縛という屈辱が、魔獣の凶暴性に火を点けた。先ほどとは比較にならぬ殺意と速度を伴った追跡が、再び始まる。巨大な心臓が真下で脈打つかのような地響きが、足裏から内臓を揺さぶる。姿は見えない。だが、いる。肌を粟立たせる死の圧力が、背中にぴったりと張り付いてい た。






「くそっ…! 速すぎる…!」






 カイルの悲鳴に、絶望の色が滲む。






(まだだ…まだ間に合う…!)






 エルナは奥歯を砕けんばかりに噛み締める。闇に慣れた瞳が、木々の隙間に揺れる微かな光を捉えた。木漏れ日を反射する、鈍い水のきらめき。






「見えた! あそこだ!」






 最後の力を振り絞り、四人はもつれるようにして森の縁を転がり出た。眼前の、轟々と咆哮をあげる濁流が広がっている。川岸まで、あと数メートル。






 だが、背後の気配は、手を伸ばせば届くほどにまで肉薄していた。マンティコアの吐く、血と獣脂の混じった熱い息が首筋を舐める錯覚。






 振り返るな。考えるな。






「行けぇっ!!」






 川岸に辿り着いた瞬間、エルナはカイルたちの背中を躊躇なく突き飛ばした。悲鳴とも驚愕ともつかぬ声が上がり、三つの体が冷たい水面を叩く。






  そして自らも、最後の一歩で強く地を蹴り、身を躍らせた。





 宙を舞う世界がスローモーションになる。





 眼下には濁流。そして背後には――右眼を抉られ、隻眼となった魔獣が、血涙を流しながら虚空を切り裂いていた。




 その傷は、もはや浅くない。恐怖の対象だった怪物は、今や手負いの『宿敵』へと堕ちたのだ。






 (――次こそは)






 確かな因縁マークをその身に刻みつけ、エルナの体は冷たい水面へと吸い込まれていった。






 燃えるように火照った全身を、心臓を鷲掴みにするような川の冷たさが貫く。一瞬、呼吸が止まった。だが、この冷たさこそが生命線。濁流が、汗と血に染まった絶望的な匂いを掻き消し、洗い流していく。






 水面に顔を出すと、対岸の森から躍り出たマンティコアが、川岸で苛立たしげに地を掻いていた。見失った獲物を前に、荒れ狂う川の流れを越える術はないらしい。






「…渡るぞ…! 岸に上がれ…!」






 エルナは最後の気力を振り絞って叫び、仲間と共に必死で腕を掻いた。水を吸った革鎧が鉛のように体に絡みつき、一掻きごとに体力を奪っていく。それでも、生への渇望だけが、彼らを対岸へと押しやった。






 泥に塗れながら、四人は岸へと這い上がる。カイルが、仲間たちの無事を確認し、震える声で安堵の息を漏らした。






「…やった…助かった…エルナさん、あなたのおかげで…」






 カイルが感謝の言葉と共にエルナを振り返った、その時だった。






 張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。






 立っていたはずのエルナの身体が、まるで糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと傾ぐ。彼女の瞳から意志の光が消え、ただカイルたちの姿をぼんやりと映す硝子玉に変わっていた。全身を駆け巡っていた極度の緊張とアドレナリンが霧散した瞬間、蓄積されたダメージと疲労の奔流が、限界をとっくに超えていた肉体と精神を、完全に沈黙させたのだ。






「エルナさん!?」






 カイルが駆け寄るより早く、彼女の身体は音もなく濡れた地面に崩れ落ちた。






 薄れゆく意識の闇の中、仲間たちの焦燥に満ちた声と、自分に駆け寄る足音を、エルナはどこか遠くに聞いていた。全身が泥に沈み込んでいくように重く、指一本動かせない。だが、不思議と恐怖はなかった。視界の端に映る、泥だらけでずぶ濡れだが、確かに生きて呼吸をしている若者たちの姿。






(…間に、合った…か…)






 守りきれた。その事実だけが、冷え切っていく心の芯に、熾火のような小さな温もりを灯す。微かな安堵と共に、彼女の意識は深く、静かな闇へと完全に溶けていった。






 ---






 夜の帳が下りた冒険者ギルドの酒場は、一日の死線を生き延びた者たちの熱気と、安堵という名のアルコールがない交ぜになった独特の喧騒に満ちていた。遠くで交わされる武勇伝や高らかな笑い声が、分厚い水の底から聞こえてくるように、エルナの耳には届かない。






 数時間前、医務室で喉に流し込まれた回復薬の苦い後味と、古傷に食い込む真新しい包帯の感触だけが生々しい。彼女は酒場の最も隅、影が澱むように溜まるテーブルで、一人静かにエールを呷っていた。琥珀色の液体が喉を焼く感触は、今日の戦いで失った血よりも、心を削り取った疲労の味によく似ていた。






 身体は鉛。思考は泥。それは単なる疲れではなかった。死線を越えた後に必ず訪れる、魂が肉体から乖離したかのような虚脱感。全てを吐き出し、燃やし尽くし、何も残っていない空虚な器だけが、この隅の席に縛り付けられていた。






 ***






 不意に、テーブルに三つの影が落ちた。




 顔を上げれば、治癒を終えたばかりのカイルと二人の仲間が、石像のように直立していた。森の泥と乾いた血がこびりついた顔には、まだ死線の生々しい記憶が張りついている。






 エルナは応えない。感情の光を失った、凍てついた湖面のような瞳で三人を見返すだけだった。言葉を発するだけの熱量が、身体のどこにも残っていなかった。






 次の瞬間、三人は揃って腰を折った。




 儀礼ではない。床に額を擦り付けるような、悲痛なまでの深々とした礼。革鎧の軋む微かな音だけが響く。それは謝罪であり、感謝であり、言葉にならない畏怖の発露だった。






 酒場の喧騒が、幻のように遠ざかる。






 やがて、カイルがおずおずと顔を上げた。恐怖と混乱に揺れていた瞳の奥に、今は、炉で赤められた鉄のような、揺るぎない光が灯っている。彼は一度固く唇を結び、喉の奥から声を絞り出した。






「エルナさん……。俺たちに、『生きて還る』ということを、教えてくださって……ありがとうございました」






 その言葉が、凍結した記憶の扉をこじ開けた。






 叩きつける雨音。鉄錆と泥の匂い。自分を庇い、獣の爪に切り裂かれていく若い背中。助けを乞う声に、応えられなかった自分の、麻痺した指先。あの日から、エルナの世界は凍てついた森の中で止まっていた。誰かを導く資格など、とうに失った。新米たちの真っ直ぐな瞳は、罰のように胸を抉るだけだった。






 だが、その冷え切った残像の上に、今日の光景が音もなく重なる。




 咆哮を上げるマンティコア。泥濘に踏み込み、がむしゃらに剣を振るうカイル。恐怖に顔を引き攣らせながらも、それでも指示を信じようとした魔術師と弓使いの瞳。






 ――死なせなかった。




 ――守り抜いた。






 過去の惨劇が消えるわけではない。失われた命が還るわけでもない。だが、凍てついていた心の湖に、今日という名の熱い石が投じられ、微かな、しかし確かな波紋が広がっていく。その感覚が、エルナの呼吸をわずかに乱した。






 何も言えなかった。感謝も、労いも、喉の奥で形をなさずに霧散する。ただ、死の匂いを引きずりながらも懸命に立っている三つの命を、見つめることしかできない。






 張り詰めた沈黙を破ったのは、カウンターの奥で重い木椅子が軋む音だった。






 このギルドのすべてを見てきた女主人、エン・ブーザーが、年季の入った腕でエプロンを締め直し、静かにこちらへ歩いてくる。彼女はテーブルに着くと、エルナの前に、ことりと木製の椀を置いた。






 ふわり、と湯気が立つ。




 飾り気はないが、身体の芯まで温めてくれそうな、干し肉と野菜のシチューの香り。






「お帰り。……全員、揃ってるとは上出来じゃないか」






 無骨で、短い、だが何より慈しみに満ちた声。




 エルナの視線が、カイルたちの真摯な顔と、湯気の立つ椀とを、緩慢に行き来する。






「……座れ。腹が減っているだろう」






 自分でも驚くほど、声が掠れていた。






 カイルたちが戸惑いながらも向かいの席に腰を下ろすのを見届け、エルナは細く、長い息を吐いた。それは疲労ではない。凍てついた何かが、ほんの少しだけ内側から融解するような、深い安堵の息だった。






 ほんの僅か、彼女の口元が緩んだ。




 微笑と呼ぶにはあまりに些細な、影に溶けるほどの輪郭。誰の目にも触れなかったであろう、彼女の中に生まれた救いの萌芽。






 エルナはゆっくりと木匙を手に取り、湯気の立つシチューを、静かに口へと運んだ。




 じんわりと広がる熱が、冷え切った身体の芯へ、そして止まっていた心の奥深くへと、ゆっくりと沁み渡っていく。






 過去は消えない。刻まれた傷も、悔恨も、これからも彼女の裡に在り続ける。




 だが――確かな温もりが、今、ここに在る。




 今は、それだけで良かった。

最後までお読みいただきありがとうございます!

この物語の「その後」――

成長したカイルや、彼らが生きる世界については、本編『アルケリア・クロニクル』で描かれています。

(※現在、執筆中です。ブックマークして頂けると通知が届きます!)

エルナの過去と、ルシアンの現在がどう交錯していくのか。

ぜひ、本編もお楽しみください。

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