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選外 ー 墓碑銘的な作品一覧 ー

火星のパンドラの箱

作者: 浅葱秋星

 青い、凪いだ海原を滑るように船は走る。日は西に傾いて、薄い雲の向こうで空に丸い虹を描いていた。


「ターナーさん、ご気分は?」

 声に振り返ると、笑顔の日本人スタッフが立っていた。

「そうだね。ギネスを三杯ほどひっかけたくらいかな」

 笑顔の細い目が心持ち広がったような気がしたが、言葉は返ってこなかった。

「まあ、特に問題は無いよ。カレンにはそう連絡しておいてくれ」

「了解です。御気分が悪いようでしたら、直ぐに周りのものに伝えてください」

 彼は笑顔を崩さずそう言って去って行った。周りはてきぱきと動き回る日本人でいっぱいだ。船べりの手すりにもたれて振り返ると、私が詰め込まれていた宇宙船がワイヤーで固定されていた。周りを動き回るスタッフを眺めていると、あれに自分が乗っていたとは俄かには信じ難いものがあった。私はたまたまこの船に乗り合わせただけの乗客で、周りの騒動は関わりのない他人事のようだった。


 ISSⅡでの半年間の訓練を終えて、私は地球に帰還した。火星への有人探査計画、マルス・ボヤージュの宇宙飛行士に選抜されて二年。私の火星への旅は、来年に迫っていた。


 マルス・ボヤージュ計画は、欧州と日本、アメリカの民間企業等が参加して行われている火星探査計画だ。最初の探査機、マルスⅠは、四年前に打ち上げられ、人類初の有人火星探査機となった。

 マルス・ボヤージュ計画自体は、先行していたアメリカのNASAや民間企業、ロシアや中国といった国々の計画に遅れて始まったが、NASAやロシア、中国が、政治的、財政的理由や技術的な問題で遅れているうちに、マルス・ボヤージュ計画の方が先に打ち上げまでこぎ着けたのだった。

 最初の探査機、マルスⅠには、フランス人、ドイツ人、アメリカ人が搭乗し、三人とも火星の大地に降り立った。誰が最初に降り立つか、という一見重要に見えつつもくだらない問題は、三人同時に降りる、という安直かつ公平な方法で解決した。ただし、その映像から実際には誰が先に降り立ったかという不毛な論争は未だに続いてはいた。公式には飽く迄も三人同時となってはいたが。

 主要な参加国であった日本は、最初の探査機には飛行士を送らなかった代わりに、次の二号機、マルスⅡでは主体となって探査を行うこととなり、探査機の愛称も『なつひぼし(夏火星)』と命名していた。

 私の乗る予定のマルスⅢは『スキアパレッリ』という愛称で、これまでの三人から五人に乗員が増え、船長がイタリア人で、乗員はフランス、カナダ、日本から各一名、それとイギリス人の私の五人だった。フランス人とカナダ人の飛行士は女性だったが、火星に初めて到達した女性飛行士は、去年NASAが初めて送った探査機の女性飛行士に先を譲っていた。


 私は火星探査の飛行士に内定はしていたが、マルスⅢへの搭乗は先に決まっていた飛行士のトラブル等での繰り上がりによるものだった。マルス・ボヤージュでは五回の探査が計画されていたが、現在建造中のマルスⅣ(ローウェルという名に決まっていた)までは行われるものの、マルスⅤ(ウェルズ、と言う名になるとの話だった)の予定はキャンセルされるとの噂もあった。ロケットエンジンなど機関部分は使いまわしだが、他に、有人宇宙船に前後してピークス(PICUS)という名の補給機も打ち上げられていて、NASAが火星探査を実現させ、マルスⅢ『スキアパレッリ』の後には民間の火星探査機も控え、これまでの探査計画にかかった膨大な費用に見合った成果が上げられているかという批判も常にあった。こういう状況で繰り上がりで搭乗が決まった私は幸運だったと言えよう。

 幸運。果たしてそうなのか?


               ***


 子供の頃の私は、星空よりは鳥の卵や、珍しい貝殻などを収集するのが趣味で博物学と言った方面に興味があったと言えるだろう。そこから化石などに手を出して、それから地質学・鉱物学と言った方面へ進んでいった。もっとも、星に興味が無かった訳ではない。家に有った誰のものだったかも良く分らない古い二インチの望遠鏡で星を眺めたりしたことと、それが、ある時裕福な級友の家で覗かせてもらったクエスター社の望遠鏡とは雲泥の差だった事を覚えているくらいには星や宇宙に興味があった。 両親はそういう私の趣味嗜好はあまり好ましいものだとは思っていなかったようで、変わり者として見ていたようだ。またそれは、母方の祖父との類似として見られていたようでもある。

 母方の祖父は、若い頃に画家を目指したり、老いて故郷に戻るまで船乗りとして商船や客船に乗り込んで海外を渡り歩いた人物だった。子供の頃の博物学的な趣味は国内外の珍しい貝や蝶の標本などを持っていたこの祖父の影響が多分にあるのだろう。


 ある時私は、この祖父の家を尋ねた際に、古い画帳を祖父の書斎の片隅で見つけた。パステルで描かれた、どこか、中東の砂漠を思わせる赤茶けた風景画だった。マントとベールで体を包んだ人物。吹き荒れる砂塵。めくっていくうち、一つの絵が目に留まった。砂礫が連なる、これも砂漠の絵に、地平近くに丸い、太陽か月のようなものが描かれていて、周囲が薄青く塗られていた。私には登る満月と見えた。 祖父にこの絵のことを尋ねると、若い頃に師事した画家の物であったという。挿絵画家としても活動していたというその師はかなり老齢で、この画帳は亡くなった折の形見分けのようなものだということだった。絵は何かの本の挿絵として使われるはずのものであったらしい。実際私は、裏表紙に、”火星文明期 ウィリアム・オサリバン”という掠れて読みずらい文字が書かれていることに気付いていた。とすれば、これは火星の絵なのか?

 やがて祖父も亡くなり、画帳は私の引き出しに仕舞われることとなった。時折取り出して眺めることもあった。どこが気に入ったのか、妙にこの絵には惹かれるものがあった。裏表紙の”火星文明期 ウィリアム・オサリバン”は、祖父の師が挿絵画家であったというのなら、書名と著者名だろう。聞いたことも無い書名だったが、ウェルズのようなSFなのか、十九世紀のオカルト的な書物なのか。画帳をつぶさに見ていた私は、他に、”May1889””ルツェルン-デニケン商会”という文字を他のページに見留めていた。

 学校の図書館や、市の公立図書館などで書名と思しきタイトルを探してみたこともあったが、ついぞ見つからなかった。インターネットが利用できるようになると、書名で検索をかけたこともあったが、それらしいものは見つからなかった。十代の私には他にも興味を惹かれることは多く、やがてこの画帳のことも次第に忘れ去って行った。


 それから二十年程の歳月が流れて、私は地質・鉱物学で学問を修めて、大学の研究室から鉱物資源メジャーが出資するロンドン郊外の研究所で働くこととなった。主に鉱物の解析機器の開発を手掛ける部門に関わっていたが、ある時、そこで開発していた計測機器で変わった鉱物の計測を行うこととなった。変わった鉱物、というのは、火星探査機が火星で採集した鉱物だった。まだ人類が火星に到達する前で、探査ロボットにより自動採集されたものだった。

 火星の鉱物資源、といっても、地球で暮らす我々に経済的・社会的に必要なものかというと、経済性という面ではまったくお話にならないものだ。それでも各国は夢やロマンなどではなく、未来への現実的な先行投資として火星探査を行っていた。

 持ち込まれた火星の鉱物自体は特に珍しい特性などがあるわけではなく、これまでの火星観測や探査で知られていたものと大差ないものだった。問題にされたのは、それを計測する側で、新たに作られた小型の計測機器による分析が、従来の計測設備で出されたものと遜色ないものかの確認の意味合いもあった。この小型の計測機器はロケットに積まれて火星へと送られて、実際に火星で使用することを念頭においたものだった。そしてそのテストとして行われた分析は関係者を満足させるものだった。


「火星へ行ってみたいと思いませんか?」


 ある時、火星の鉱物の分析を依頼してきた火星探査プロジェクトの女性担当者から、不意にそんなことを言われた。分析などに当たった研究所の所員らと一緒の昼食を終えて、のんびりとコーヒーを片手に雑談していて、まるで世間話のような口調だった。

「そうですね。火星でお勧めの三ッ星ホテルなど紹介いただければ」

「これから建設予定ですが、当面三つ星は難しいでしょうね。一つ星ならなんとか」

 カレンというその女性は短く切った黒髪を傾げて微笑みながら言った。

「火星にホテルが建っているとは知りませんでした」

「今はまだ、ヒマラヤの登山隊のベースキャンプ程度で、しかも無人ですが、そのうちアルプスの山小屋くらいにはなるでしょう」

 アルプスの山小屋と聞いて、以前行った、電力を太陽電池で賄っている都市部の近代建築のようなデザインの山小屋が思い浮かんだ。

「私の様にホテルからの眺めを楽しむ観光客には良さそうですね」

「火星に興味はおありではないのですか?」

「そうですね。昔、望遠鏡で最接近だという火星を見たことと」

 そこで私は不意に、あの祖父が持っていた画帳を思い出した。

「火星を表現したらしい、古い本の挿絵をよく眺めていたことはありました」

「あら。どんな絵本ですか?」

「絵本ではないですよ。たしか、”火星文明期”とかいう本の挿絵だとか。本自体は私は目にしたことはありません。挿絵の元絵を祖父が保管していたので」

「火星文明期?」

「SFか何かでしょう。ウィリアム・オサリバンという人が著者のようですが、実際にどんな本なのかは知りません」

 カレンは興味を惹いたのか、スマートフォンを取り出して書名か著者名で検索しているようだった。

「見当たらないでしょう?」

「ええ。もう調べたんですね」

「ちょっと気にはなっていましたから」

「火星に興味は無くとも、縁はあったんですね」

 スマートフォンを仕舞うと、そう独り言のように言ってカレンはコーヒーを啜った。

「エン?」

「ああ。巡り合わせ、というような意味です。運命、というと大げさかな。私の母は日本人だったので、よくそう言っていました」

 巡り合わせ。運命。確かに大げさだ。

「私たちのプロジェクトでは、探査計画の宇宙飛行士として有能な方を募集していますから、推薦枠に入ることも出来ますよ」

「ブックメーカーは火星に行けるオッズをどれくらに見ているんですか?」

「推薦枠に入れば、ざっと二十倍、と言ったところです」

 カレンは、にっこり微笑んでそう言った。私の言葉を肯定と受けて止めたのか、その後、推薦枠へ登録したという連絡があった。私は特に支払うこともない賭けとして、乗ってみることにした。

 電子ではない、紙のメールで届いたその連絡には、追伸として、こんなことも書き添えられていた。

『そうそう、前にお聞きした”火星文明期”という本は、スイスのある出版社から少しだけ印刷された私家本らしいです。火星に纏わる本なら何でも収集しているという人が居て、チューリッヒの骨董品店で見かけて買い求めたそうですが、なんでも、お金だけでは譲れない、と言われたとか』

 カレンは、そう記して、骨董品店の名前まで書いてあった。

 チューリッヒ。スイス最大の都市。あの画帳に書いてあったルツェルンもスイス。これがカレンの言う”縁”なのだろうか。


               ***


 チューリッヒ中央駅は避暑や観光で訪れた人々が行き交っていた。私はシュトゥットガルトでの学術会議に出席した後、時間をとってチューリッヒへ来ていた。雲がやや多いが晴れた八月初めの昼下がり。涼を求めるなら湖畔へでも行った方が良さそうな暑い日だった。私はスーツケースを片手に、もう片手に上着を肩から掛けて歩いた。


 トラムで目的の場所近くまで移動し、街中を歩く。チューリッヒは初めてではないが、知っていると言えるほど詳しくも無い。裏路地を暫く彷徨って、漸くそれらしい建物の前に出た。通りに建ち並ぶ中世辺りからそう変わっていない様な建物の一階。特に店名など出ていない。入り口横に、木の看板があって、”Antik”の金の飾り文字は薄れ、その横に二匹の蛇が巻き付いた杖が彫り込まれていた。

 鉄の取っ手を押して中に入る。石段を少し下った中は薄暗く、ヒンヤリとした、黴臭いとまでは言わないが、古い屋根裏部屋か倉庫の様な匂が漂っていた。白塗りの壁際に古い家具や棚があって、壺や花瓶、皿に燭台、時計などが骨董品店らしく並んでいる。他に客らしい者は居ない。部屋の奥、左手の机に白い髪の、痩せて額の禿げあがった老人が座っていた。入って来た私の方は見向きもしない。机のライトが、かけている眼鏡に反射し、奥の目は見えなかった。

 奥の壁の棚には本も何冊か置かれている。そちらへ歩み寄って見てみたが、背表紙の文字からは目的の本は見当たらない。

「ご主人、本はこちらに置いてあるものだけかね?」

「ええ。古本屋ではないので」

 ちらりとこちらを見て、店主はまた顔を戻した。若干訛りのある英語。

「”火星文明期”という本が、こちらにあると聞いて来たのだが」

「その名をどちらで?」

「知り合いから。手に入れたいとまでは言わない。ちょっと見せてもらえればいいんだ」

「あれは、預かりもので。持ち主に許可をとらねば、見せることもできません」

 私はスーツケースから紙を取り出して店主の間に広げた。砂漠や人物の絵が三枚。

「ここに描かれている絵がどう使われているか見たいだけなんだが」

 店主はその紙を横目で見ていたが、手に取ると眼鏡を外して仔細に眺めだした。

「これはコピーですね。本物をお持ちなので?」

「祖父のものだったが、今は私が所有している」

 店主はまた紙に目を戻し、三枚とも矯めつ眇めつ眺めている。

「お名前をお聞きしても?」

「ターナー。ジェイムズ・ターナー」

 店主は、暫く待て、というように片手を挙げると、席を立って奥の扉から部屋を出て行った。私は一人残され、手を後ろに組むと、周りを見回した。骨董の類は特に好きでも嫌いでもない。蚤の市を見て廻ったこともある。

「お待たせいたしました」

 十分程して店主は戻って来た。意外に早かったと言うべきか。

「持ち主の方が、お会いになりたいそうです。お時間はありますか?」


 ”火星文明期”の持ち主は、車で迎えに来るという。私が店の前で待ってると、程なくして黒塗りの車が止まった。研究所に時折訪れる客人の車にも見かけたがことがあるが、メルセデスのマイバッハだった。


「ターナー様ですね?」

 運転手が降りてきてドアを開けた。ドアの向こう側に、女性が座っている。

「ご足労願ってすみません。ターナー様」

「いいえ。あなたは?」

「失礼。カリーナ・シュティフターと申します」

「ジェイムズ・ターナーです」

 カリーナという若い女、というよりは、娘と言った方が良いだろう。栗色の長い髪に青い目が印象的だ。服は、まるで喪服のような黒いワンピースだった。運転手がドアを閉めて乗り込むと走り出した。高級なソファのような革張りの座席。乗り付けないながら、変にゆったりした気持ちにもなる。今日会ったばかりの見知らぬ人の招きを受ける、という、私としては少々冒険とも言えるようなことをしているという気持ちも薄れるようだった。

「”火星文明期”という本には、何やら曰く因縁があるようですね」

「ええ。それについては、屋敷で祖父が詳しく説明するでしょう」

 カリーナはそう言って窓の方へ眼をやった。あまり表情の変わらない、物静かな娘と見えた。見かけよりは落ち着いてしっかりした受け答えだった。

 車はチューリッヒ湖沿いを走り、暫くして丘の上に向かった。路を逸れて門を潜る。石造りの三階建ての屋敷が見えて来た。車が止まり、運転手がドアを開けると、屋敷の正面の階段には、この屋敷の使用人、執事か何かだろう、男が一人待ちかまえていた。私はカリーナに続いて石段を上がると屋敷の中へ招き入れられた。

「こちらでお待ち下さい。祖父を呼んでまいります」

 応接室に通された私は、マイバッハと変わらぬソファに座って待った。ソファやテーブルは高価なものだろうと思われたが、見た目はシンプルで、部屋も石造りの簡素なもので、壁の燭台以外特に装飾らしいものも無い。ここに来て、事の成り行きを楽しむような心持にもなってきた。

「やあ、よくいらっしゃった」

 応接室のドアが開いた。濃いめのブラウンのグレンチェックのスーツを着て杖を突いた老人が入って来た。背中を丸めてはいるが長身で、歳は八十は超えているように見受けられた。髪は真っ白で薄かったが七三にわけられて禿げあがっても居ない。カリーナに付き添われて、私に向かって手を差し伸ばした。

「お呼び立てして申し訳ありませんな。ターナーさん。リヒャルト・シュティフターです」

 握手する手は意外に力強かった。声も若々しいと言わないまでもしっかりとしている。

「どうぞ、お掛け下さい」

 促されて私も腰を降ろした。先ほど玄関で迎えた男が紅茶を並べると部屋を出た。向かいの二人を見つめる。白髪の老人と、若い娘。特に似ているということもない二人だったが、目の色は同じ青だった。

「”火星文明期”という本を探してあの店を訪れると、こちらへ招待されることになっているのですか?」

「招待したのは、あなたが初めてですよ。ターナーさん。あの本の、挿絵の元絵を持っておられるとか」

 私はスーツケースからコピーを取り出して、テーブルに広げてた。老人は眼鏡を出して掛けると、それを一枚一枚手に取って眺めた。カリーナは車の中と同じように手を膝に置き、それを横目に見ている。

「元絵は色付きだったのですな。私も初めて見るものです。何処で手に入れたのですか?」

「祖父が、その絵を描いた画家の弟子だったそうで、亡くなった後に譲り受けたのだとか。いったい、”火星文明期”とは、どんな本なのですか?」

 私は気になっていたことを勿体ぶらずに聞いてみた。

「あれは、正確には、『プロメテウスの火星文明期』と言い、我々の祖先を生み出した者の歴史なのです」

「祖先を生み出した者の歴史?」


 遠い昔、人が地上を歩き回るよりも以前、故郷を主に背いた罪人として追われ、星々を越えて火星の地へ降り立った者たちがおりました。乗って来た船が傷つき、仕方なしに立ち寄ったまでの事だったようですが。そのような事態に陥った場合、取るべき手段は二つありました。独力で危機を乗り切るか、主に許しを請うか。許しを請う場合、主が与え、携えてきた”箱”を開ければ良かったのですが、その場合、主の恩寵により危機を乗り越えても、主の忠実な僕となる他はありませんでした。

 それを嫌った彼らは、その地に”箱”を封印し、船の余力で火星を離れ、地球へと降り立つこととなりました。しかし、危機により数えるだけになってしまった一族を永らえさせることも難しくなり、地球で彼らはこの地の生物を改良し、新たに後継者として育てあげることにしたのです。それが我々の祖先となりました。祖先は、彼らから他の人類種を超える知恵を与えられたのです。このことから、彼らを何時の頃からかプロメテウスとなぞらえるようになりました。

 時は経ち、プロメテウスは滅び去った、あるいはまた何処へともなく旅立ったとも言われ、姿を消しました。我々の祖先は他の人類種と次第に交ざり、何時しか我々は歴史の中へと埋もれていきました。しかし、ごく僅かではありましたが、このことを護り伝える一族もありました。それが私たちです。


「”火星文明期”は、火星へ降り立った種族の歴史を火星を離れ地球へ降り立つまでの部分を纏め、翻案した物語です」


「何故、そのようなことを?」

 私には荒唐無稽な、予想だにしない話に困惑しつつ、訊ねた。

「地球での文明も進歩し、火星への関心も高まりつつあった頃、我々の間で、出自を世に問うべきか否かということが協議されたことがあったのです。他に、互いに知ることも無く、遠い昔の歴史を伝える者たちがいることも想定されていました。そこで、伝承の一部を明かし、時流に合わせて出版を行うことを考えたのです。時折、そういったことはあったようで、あなたのお国の作家が火星の衛星のことなどの知識を仕入れたのもそうでしょう」

 老人は紅茶を一口啜った。

「それが世に知られるような本とは成らなかったのはどうしてですか?」

「何時でも、何かを行おうとすれば反対派というものが存在するものです。折に触れて妨害したりしたため、あからさまな形では公になりませんでした」

 話の突飛さからそうそう公に広まることになどになりそうも無いのだが、それは口に出さなかった。

「これまでに知り得たのは、我々以外に遠い祖先からの歴史を受け継ぐ者は無く、時折外へ出した情報が巡り巡って再び我々の前に現れることになるだけだということでした」

「今回も、そうだったという訳ですな」

 若干皮肉を込めて私は言った。老人は目を細めると口元に笑みを浮かべた。

「今日は、あなたがお持ちだという挿絵に興味があったことと、もう一つ、あなたの今の立場にも惹かれるものがあったものですから」

「私の立場?」

「ええ。あなたは今、火星探査計画の宇宙飛行士の候補に挙がっているのだとか」

 荒唐無稽な話から、急に胡散臭い調子に変わって来た。これは何か、面倒なことに巻き込もうとでも言うのだろうか?

「よくご存じですね。候補とはいえ、私はまあ、当て馬のようなものですよ」

 火星人の子孫(とは多少違うようだが)を自認するような人々。十九世紀末のオカルト的な新興宗教か、はたまた古代から続く(と自称する)秘密結社か。火星へ人類が到達したことで、表舞台へ躍り出ようとでも言うのだろうか。私をそれの広告塔にでも使おうとでも言うのか。

「火星にはまだ手で数えられるほどしか人間は到達していない。その候補というだけでも大したものですよ」

 案の定、持ち上げてきた。

「私が火星に向かうことがあったとして、それがそちらとどのような関係が?」

 こういう返事は相手を喜ばせるだけかもしれないが、ここはストレートに訪ねてみた。

「そうですな。可能ならば、ある場所へ行ってもらいたいのです」

「ある場所?」

「火星の。遠い星から来たという、言うなれば我々の造物主の遺跡へ。其処には、我々の造物主たるプロメテウスが封印した、言わば、パンドラの箱があるはずなのです」

「パンドラの箱……」

「そう。それを開ければ、様々な災いを被るという。プロメテウスにとっては、主たる神に隷属することは災厄以外の何物でもなかったのでしょう。それを拒んで罪人として故郷を追われることになったのですから」

「プロメテウス、あなた方の造物主とやらが開けるとそうなったのかもしれませんが、人間が開けるとどうなるのですか?」

「我々は造物主に似せて作られたと言われています。同じようなことになる可能性は高いでしょう」

「隷属するとどうなるのですか。宗教に無関心だったものが、熱い信仰心を持つ異星の神の信徒となるわけですか」

「どうなるかはわかりません。ただ、伝承からはそれまでの思想、信条、思考の自由を奪うような作用があると考えられています」

 遠い昔の話(事実であるなしに関わらず)を今現在の状況の中で語られても困惑するばかりだが、相手は真顔だった。

「開けたとしても、希望が残っているかもしれませんよ」

 それまで黙って聞いていた、カリーナが言った。その目には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいるように見えた。

「希望、ね。火星に遺された遺物がパンドラの箱では無く、宇宙船そのものがパンドラの箱で、それに乗っていた者たちが災厄だったのだと言う者も居ります。人類の歴史を諍いと災いばかりの混沌の連鎖と想えば、そういう考えに至る者も出るのでしょう。そういった見方から、火星に残された物が、希望、主たる神の叡智を修めた、聖櫃だと言う者も我々の一部には居ります。異端とでもいうべき思想ですが」

 老人は困ったことだというように、眉根に皺を寄せた。

「火星へ行って箱を見つけたとして、どうしろというのですか?」

「出来れば破壊、若しくは、今の場所から、人知れず隠蔽してしまえれば良いのです」

「私が火星に行くことを前提にしていますが、それ自体、希望的観測でしかありませんよ」

「あなたが火星へ行けるよう、我々も協力は惜しみません。”火星文明期”をあなたにお渡しします。その中に遺跡のことも記されている。無論、強制はしません。今日ここでお話したことで、どうするかは、あなた次第です」

 馬鹿げた話だと断っても良かったが、”火星文明期”という本には惹かれるものがあった。引き受けるとも、断るともその場では口にしなかった。

 屋敷を辞するときに、カリーナから”火星文明期”を手渡された。想像と違って薄い小冊子と言った感じ。真四角に近い変わった版型で赤い布張りの装丁。書名は金文字で書かれていたが、背表紙の文字は判読し辛い。経年の劣化はあるが、あまり人の手が触れた様子は無く、小口も手垢などで特に黒ずんではいない。

「あなたも、パンドラの箱の存在は信じているのですか?」

 受け取るとき、こんな言葉をかけた。

「分かりません。子供の頃から話を聞かされてきましたが。火星にあるのがパンドラの箱にしろ、箱に残った希望だったにしろ、人間は希望も無しに過ごしてきたことになるのでしょう? 希望が見つかるのなら、それは喜ばしいことなのかもしれませんよ」

 皮肉というよりは、どこか寂しげな微笑みを浮かべてカリーナは言った。


 私はその日チューリッヒに宿泊し、翌日ロンドンへ向かうこととした。宿で開いた、”火星文明期”は、挿絵が多く使われた、絵物語的なものだった。


 前書きとして、著者によりこの本を書くに至った理由がくだくだしく書かれていた。大意としては、伝承を伝える者から特異な話を聞いて、その一部を纏めることにしたというものだった。あの老人の言った通りだ。著者のウィリアム・オサリバンについては実在した人物かどうかも解っていない。筆名の可能性もある。

 プロメテウス一族(と呼びならわすことにする)が故郷を追われた理由は詳らかではない。彼らは、”赤と青に滲む星の雲を越え、星を渡る船に繭にくるまれ”送りだされたという。長い航海の末、船の故障により到着したのは、火星のテンペ大陸で、不時着に近い状態だったようだ。

 パンドラの箱、を封印したという場所は、クリュセ平原にあり、あるクレーターに、”水晶の天蓋、石のオベリスク。オベリスクは丸い部屋を抱き、石の祭壇にそは置かれたり”と記されていた。遺跡を中空から眺めたような挿絵も付いていた。

 前後の文章から、火星の地形図と突き合せれば、ある程度場所は特定できそうではあった。こういうことは、この本を所有していた彼らなら、既に行っているだろうに、私にそれをさせるというのは、この件に関する興味の度合いを推し量ってでもいるのだろうか。

 私が画帳で親しんだ絵も使われていた。全てモノクロだったが。私が好きだった青い月のような天体は、火星の夕日を現しているとのこと。文章で火星の夕日は青いと記されている。このことは、百年以上前には判明していなかったはずだ。そういことを予想したものも居なかっただろう。幾分、この本の信憑性に寄与する表現だが、この本が実際に百数十年も前の本なのかは、私には判定出来ない。


               ***


 火星の周回軌道にマルスⅢが入ったのは、地球の衛星軌道を発ってからほぼ三ヶ月が過ぎてからだった。これでも、マルスシリーズは新型の電磁プラズマロケットにより従来の探査機よりもかなり早い到着だった。マルスシリーズは全長約七十メートルの円筒形の宇宙船。船の三分の二はロケットエンジンと核融合炉からなる機関部で、居住区は宇宙ステーション、ISSⅡとほぼ同じ構成になっていて、全長十二メートル、直径五メートル。 三ヶ月。この間、私は五人の飛行士の一人として、他の四人と閉鎖された狭いこの居住区という空間で生活してきた。実際の飛行に先立ち、ISSⅡで半年一緒に生活するという訓練も行っている。ほぼ、今回の火星への旅の往復に相当する期間だ。


 ミッションを一緒に過ごす他の四人のクルー、マルスⅢの船長は、ニコロ・ピアッツィ。イタリア人で、元空軍のパイロット。マルスⅢのチームでは最年長の四十五歳。クルーカットの頭の、物静かな職人のような男だ。アン・スコットは、カナダ人。ブリュネットの髪をいつも後ろに束ねたグラマーな医師で三十三歳。陽気な性格なので、ムードメーカーと言っていいだろう。マノン・マスネはフランス人。二十八歳。チームで最年少。プラチナブロンドの髪をボブカットにしたグリーンの目の人形みたいな娘だ。船のシステム担当。いつも澄ました顔をしているがわりと口数は多い。ユウジ・アカギ。三十八歳。日本人の工学者。船のエンジンやローバー等の機材担当。日本人らしい真面目な男で船長のニコロとは気が合うらしい。私は火星で使用する機器の観測機材を担当している。開発に携わったものもあるが、担当といっても私だけが観測を行う訳でもない。観測機材に不調があればユウジにアドバイスするくらいだろう。火星に降り立ってからは、地質や鉱物の調査に当たる予定だ。


 クルーはもう一年以上付き合いがあるので、火星までの三ヶ月で特に問題も無く過ごして来た。他の四人は、各国から順調に推薦、選抜されてこの場にいるのだろうが、私は最初に飛行士として選抜された者が、汚職事件に関わっていたのだとかで逮捕までは至らなかったものの辞任し、その後任となるはずだった者は長期の宇宙飛行には厳しいという身体的な問題が見つかって候補から外れた。それでも私にお鉢が回ってくるという訳でもなかったが、マルス・ボヤージュ計画の事務局からも推薦があったという。たぶんカレンだろう。こうして、他の四人に途中からクルーとして加わることとなった。それについては、初めて会った時に、アンは

「MI6から来たの?」

 などと冗談めかして言い、マノンは

「経歴を調べましたが地質学博士というのは本当のようです」

 と真顔で言った。ニコロは顎に当てた手を動かさずに表情も変えず、ユウジは女性二人の発言に困惑したような笑みを浮かべていた。

 私は無論MI6などと係わりは無い。とはいえ、隠していることが全くないわけでは無かった。”火星文明期”に纏わるチューリッヒで会った一族だ。あれ以来表立って接触は無いものの、私が飛行士として選ばれたことに彼らが関わっているのではないかという獏とした懸念を抱いたこともあった。リヒャルト・シュティフターという人物は、後で調べたところでは、財界の大立者ではあるらしい。

 本気で火星の遺跡を探す気などは無かったし、そんな時間も余裕も無い。とは言え、あの本、”火星文明期”を今回の旅に持ち込むことなどできなかったが、それに記された場所だけは覚えていた。この件に関わったのは、これまで起こった事が馬鹿馬鹿しくとも興味を惹かれるものではあったからだ。


「私とマノンで基地のメンテナンスはどうにか間に合うでしょう。ピークスⅢの補給物資の方は頼みます」 宇宙服のユウジが頭を下げる。マルスⅢは火星軌道上に到着した後、本船にニコロとアンを残し(着陸艇には三人しか乗れない)、先に私、ユウジとマノンの三人がマルスⅠ、Ⅱで使用し拡張した基地に到着していた。

 基地は直径十メートルと五メートルのジオデシックドームから成り、酸素や水の循環システムと先に送り込まれた補給物資によって五名の人員で三ヶ月は生活可能となっていた。私たちの滞在予定は二週間。これまでの循環システムから新型に変え、さらに滞在期間を延長することも目的の一つだ。機材の換装が終われば五名で半年は生活可能となるだろう。その後も計画が進行すれば、ゆくゆくは年単位で、最終的には恒久的な滞在が可能な施設とすることが目標とされていた。

 私は、補給機のピークスⅢから投下された物資の回収へ向かうこととなっていた。補給物資なども人を下す時のようにロケットで軟着陸などしていたのでは効率が悪いので、梱包された資材を上空から放りだしていた。基地近くに投下されるのだが、場合によっては遠くに落ちることもある。

 今回は基地から七キロほど離れた位置にあった。ソフト・ハードのエンジニアであるマノンとユウジは基地のメンテナンス、それが済むまでは特に仕事のない私が補給物資の回収担当だった。回収には以前に送り込まれたバギーを使用する。火星の砂漠地帯でも最高時速三十キロで走行可能だった。

 基地はクリュセ平原の北に位置していて、テンペ大陸近くにあった。北東のアキダリア平原にはロシアや中国にインドと言った国々の基地が点在している。

『我々が降りるまでは頼むよ諸君』

 ニコロ船長から通信が入る。

『ジェイムズ、興味があっても、他所の基地には近づかないでね』

 わざわざ通信でアンが茶々を入れる。未だにMI6ネタを時折入れてくる。

「観測器だけの無人基地に挨拶に行く必要はないだろうな。ジョークの解るロボットでも居れば別だが」

 私も適当に返事をしておく。アンの笑い声がヘルメットに響いた。実際、補給物資は基地から北東に七キロ程の位置にあるはずだったが、その先に行く必要も無い。

 地球以外の惑星等では国家による土地の所有は禁止されているとはいえ、基地へ予告も無く不用意に近づくのはトラブルの元だ。個人の所有は禁じられていないといって、過去に火星の土地の架空の売買などが行われたが、双眼鏡で海の向こうに見える島を自分のものだと言い張っても、実際に船で渡って上陸した者には勝てない。実効支配は宇宙でも健在だったし、月では資源採掘も行われていて、そういう場所は企業や国家の所有物も同様だった。法整備も追い付いていないし、都合が悪い協定は参加や批准はしないという手は相変わらず使われていた。それは何れ争いの元となることだろうが、話し合いによる平和的な解決というのは、力による順位付けがある程度終わった後になるというのは過去に例を見るまでも無い。

 今のところは表立った諍いも無いし、今の私には未来の政治的な問題を憂慮する気も無かった。今の私にとっての懸案事項というのは、例の遺跡とやらの所在が、これから向かう補給物資の位置から南へ六キロ、基地からは十キロ弱の位置にあることだった。

 火星の地図は衛星により詳細に作成されていたし、地球に居る誰もが気軽にネット等で閲覧できるものでもある。クリュセ平原は半世紀以上に渡って探査機が何度も到着した場所でもあり、そんな場所に遺跡などというものが人目につかず残っているとは考え難かった。シュティフター家に伝わる話が本当だとすれば、数十万年前という年月で崩れ去っているということなのだろう。そうであればパンドラの箱など気にする必要も無さそうだが。


 私は赤茶けた荒野にバギーを走らせた。地球で言うと午後三時過ぎ。大きな車輪にフレームだけの剥きだしの車体だが、時速二十五キロほどであまり揺れることも無く軽快に走っていた。ドイツと日本が共同で開発したとかで、クッション性も良かった。この調子なら十数分で目的地へ到着するはずだ。


『ジェイムズ、ちょっと天候が変化しています。あまり大規模ではないが、砂嵐が発生している。どれくらいで戻れそうですか?』

 ユウジから連絡が入る。

「荷物の積み込みを考えて、三、四十分といったところか」

『了解。状況は随時連絡します』

 マノンではなくユウジからの通信だったのが若干気になったが、気を取り直して、バギーのモニターでも砂嵐を確認してみた。もう基地の方には砂嵐が到達しそうだった。私がバギーに荷物を積み終えるまでには砂嵐の中になっていそうだ。火星仕様の宇宙服といっても砂嵐に晒されるのは得策ではない。周りに遮蔽物になるようなものも見当たらない。砂嵐の進路からすれば、南に移動すれば、避けられそうではある。南へ。

 私はバギーを走らせた。やがてパラシュートがついたままの円筒形の補給物資のパッケージが見えてきた。全部で三つ。バギー後部に積み込み固定させる。荷物を積んだまま砂嵐に突っ込んでいくのは無謀だろう。火星での運転は初心者だ。

「クリュセ基地。こちらジェイムズ。砂嵐を回避するために一旦南へ向かう」

『了解。こちらはもう砂嵐の中です。衛星からの天気予報だと、一時間後くらいには治まりそうです』

「了解。ユウジ、マノンはどうしている?」

『サブドームのメインシステムをチェック中ですね。マノンに何か連絡が?』

「いや、通信はマノン担当かと思っていたんでね」

『システムチェックで暫く手が離せないようだから、今は私に代わっています』

「了解。こちらも砂嵐をやり過ごしたら、そちらへ戻る」

 遺跡のある南へ、これで周りに違和感を抱かせずに向かうことが出来る訳だ。偶発的な出来事とはいえ、奇妙にことは上手く運んでいく。


 積荷を積んだバギーのスピードはあまり上げられない。時速二十キロ以下で南下する。左手後方には茶褐色の靄のようなものが次第に大きくなっている。砂嵐が迫っていた。 ここら辺りのはずだが。バギーの座標データは遺跡に接近していることを示していた。やがて進行方向は緩やかに登りになった。そこのピークを越えると少し急な下り。下り終えると座標は遺跡の位置を示していた。小さなクレーターの中。まるで板のような岩の影にバギーを止めた。風避けには良さそうだった。

 ここがあの本に書かれた場所なのか?

”水晶の天蓋、三枚の石のオベリスク。オベリスクは丸い部屋を抱き、石の祭壇にそは置かれたり”

 クレーターの丸い縁を、温室のようなガラスの屋根が覆っているのを想像してみた。すると、この倒れた岩がオベリスクの成れの果てなのか?”水晶の天蓋”は影も形も無い。

 風が強くなって、空が薄暗くなった。砂嵐の南の端でそれほど風は強くないがクレーターの中を風が舞っている。私はバギーを止めた岩の横に入った。ブーツの足音が少し響くような気がした。足元の砂を掃ってみると、敷石のように平らな石が現れた。少し開いた隙間から見ると、地下に空洞があるようだ。石の隙間に手をいれて引き揚げてみる。重くて最初は無理かと思ったが、続けて力を込めるとゆっくり持ち上がった。ひっくり返すと同時に自分も尻餅を突いた。穴から中を覗く。暗くて良く見えない。ヘルメットのライトを点灯する。中は砂で覆われているようだ。穴の縁に手をかけて、下へ降りてみる。バックパックが擦れたが降りることが出来た。砂に膝まで埋まる。直径七、八メートルくらいの円形の部屋だ。半分近く砂に埋もれている。石の祭壇などは見当たらない。砂に埋もれているのか。

 不意に、辺りが薄青い光に包まれた。部屋の中で何かが光っている。その時、穴を降りて砂の中へ誰かが滑り込んだ。

「これが、聖櫃、かしら? 箱って訳では無かったようね」

 喋った者は、手に光るものを持っている。青緑色に光るデザートローズのように見えた。もう片手には銃のようなものを下げている。

「マノン、か。どうやってここへ?」

「あまり驚いてもいないようね。彼方は本当にMI6のエージェントだったの?」

「いいや。君の態度が、ISSⅡで訓練したころとちょっと違っていたのが気になっていただけだ」

「あら、けっこう勘がするどいのね」

 どことなく、監視しているような視線が時折気になっただけだが。三ヶ月も一緒でなければ気にも留めなかっただろう。

「それについて、良く知っているようだな」

「これは私が回収する予定だったのよ。私の依頼主から正確な位置が知らされるはずだったけど。なかなか来なくて。あなたも目的は同じと聞かされて、位置も知っているようだし、利用させてもらうことにしたの。カレンは上手くやったようね」

「カレンもエージェントか」

「知らなかった? エージェントというより、変わった一族の一員らしいけど」

「それをどうするんだ? 誰にも知られず持ち帰るなんてことは難しいぞ」

「あなたが採集した鉱物標本とかではどうかしら? 地球に戻るまでは休戦といかない? あなたも他の三人には秘密にしたいでしょう?」

 ヘルメットの中のすまし顔が見えるような気がした。

「有り難い申し出だが、私の方では、それをここから持ち出さないように依頼されているんだ」

「そう、残念ね」

 マノンの手にしていた光る石のようなものは、光がだいぶ弱まっていた。マノンはライトを点灯していない。私はライトを消して横へ飛んだ。パシュっという音と、何かがカチン、と石壁に当たったようだった。起き上がった私の目に、青緑色の光が穴から出ていくところが映った。私も外へ出ようとしたが、マノンのように素早くは行かない。砂の上に立ち、穴の縁に手をかけてようよう這い出した。

 辺りを見回すと、三輪バイクがクレーターの縁を登っていくところだった。私もバギーに走り寄って飛び乗ったが、エンジンがかからない。パネルを見ると電池がEmptyと表示されている。バギーの傍らには、マノンが持っていた銃のようなものが放り出してあった。何かの機材を使って作った圧縮空気を使う空気銃のようなものらしい。見たところ、連射などは出来ないようだ。


「クリュセ基地、こちらジェイムズ、クリュセ基地? 応答願います」

 返答は無い。無音。ユウジは基地のシステムをマノンがチェックしていると言っていたか。バックパックに予備も含めて四時間分は酸素が残っている。あまり動かずじっとしていれば循環システムで倍は持つだろう。歩いて基地へ向かう? 平地の道路ならこの宇宙服でも三時間もあれば着いただろうが。重力の低い火星でも起伏の多い歩き辛い砂漠を越えていくのは厳しい。

 私はクレーターの縁へ登ってみた。走り去るバイクは見当たらない。風は収まって、太陽は西に傾いていた。青い夕日。思ったよりは、淡い青。あの挿絵を思い出す。一度見ておきたいと思った光景だが、こういう状態で見ることになるとは思いもよらなかった。


『こちらクリュセ基地、ジェイムズ、応答願います』

 日も暮れて、岩陰に補給物資の梱包材で作った急造のテントの中にいる私に、基地から通信が入った。ユウジだ。

「こちらジェイムズ」

『ジェイムズ。無事ですか。今どこです?』

 私は位置を知らせた。

「私のビーコンは探知出来なかったのか?」

『システムがまだ上手く稼働していないみたいなんです。暫く通信障害もあって。どうして戻ってこれなかったんですか?』

「バギーの電池があがってしまったみたいだ。身動きが取れない。そっちにマノンはいるか?」

『ああ。それなんですが、マノンはサブドームで意識を失っていて。今アンが診ています』

「アンが。船長も降りてきているのか?」

『ええ。緊急事態ですし。地球にも連絡しましたが、マノンの容体次第では、予定は切り上げて戻るようにとのことです。そちらは大丈夫ですか? 酸素は?』

「補給物資に酸素パックもあったから、明日までは持つだろう」

『了解です。船長が今からそちらへ向かうそうです』

「了解」

 三十分ほどして、三輪バイクに乗って船長がやって来た。バッテリーパックを持ってきたので、バギーにセットし、私はバギーで基地へ向かうことになった。

「いろいろと説明してもらう必要がありそうだな」

「ええ。信じ難いこともあるでしょうけど」

 船長のバイクの先導で風のない静かな夜を基地まで辿り着いた。マノンはまだ眠ったままだった。

「マノンは特に異常は無いようだけど。眠っている理由が良く分らないの」

 アンがベッドの上のマノンを見つめて言った。

「サブドームに、何か変わったものは無かったか?」

 私はユウジに訊ねた。

「いいえ。特に気がつきませんでしたが? ああ、マノンが何か石を握っていたので、鉱物採取用のケースにはいれましたけど」

 クリーンルーム内のケースにそれは収まっていた。もう光を発してもおらず、放射線など計測出来なかった。

「ユウジ、君は特に問題ないんだな? アン、マノンから放射線などは検出されたか?」

 腕を組んだまま、船長がアンに向き直った。

「いいえ。何も。脳に影響があったような形跡も見られませんが、ここではこれ以上詳しい検査は出来ません」

「マノンが君のいたクレーターまで行っていたのは、バイクの轍から確かなようだが、一体何があったんだね?」

 腕組みをした船長が言った。

「長い話になりますが……」

 私は、遺跡についてかいつまんで話した。チューリッヒでのことはだいぶ端折った。マノンがエージェントであったこと。奇妙な石。

「信じ難い話だな」

「火星の遺跡とか、オカルトマニアの好きなネタの類かと」

「ジェイムズ、あなたやっぱりエージェントだったんじゃない」

 アンが何故か得意げに言った。

「もう、そういうことにしておいてくれ」

 アンの言うエージェントで思い出した。

「マノンは、サブドームのコンソールで倒れていたそうだが、何か地球へ送信したんだろうか」

 ユウジの方を向く。

「通信履歴をみると、定時連絡以外に何か圧縮した大容量のデータを送信したようですが、中身は何かわかりません。地球にも問い合わせたんですが、それについては何故か返信がありませんでした」

 マノンは一体何を送信したのだろう?

 地球側がこの件に関して特に詳しい説明を求めてこないことも気がかりだった。どこからか圧力でもかかっているのか。地球と火星とのタイムラグで、スムーズな意思疎通が出来ないことがもどかしかった。

「そうだ、ジェイムズ、先ほど、あなた宛てに事務局のカレンから私信がありましたよ」

「カレンから?」

 私はそれをユウジから手持ちの携帯端末へ転送してもらった。ドーム内は個室などは無い。ベッドが置かれた空間をパーティションで仕切っているだけだった。カレンの言う、山小屋だった。

 私は携帯端末でカレンのメッセージ映像を再生した。眉を顰めたカレンの姿が映った。

『カレンです。ターナーさん。私はシュティフター氏から依頼を受けて、火星へ送り込むに最適な人物としてあなたを推薦しました。ですが、”火星文明期”のことは、偶然の一致でした。縁を感じたのです。それもあって、実際に手引きしたのです。

 あなたをこの目的に利用したことは謝罪します。本来なら、地球へあなたが帰って来てから告げるはずでしたが、状況が変わりました。シュティフター家に伝わる伝承に基づいて行動している者が他にもいることは分かっていましたが、同じ火星行きの探査機に搭乗しているとまでは把握出来ていませんでした。これはこちらのミスです。

 マノンの送ったデータはまだ解析できていませんが、データからは、何らかの物質を生成するような化学式が含まれているそうです。マノンのデータは、ここ、マルス・ボヤージュ計画の管制センターから、データを傍受していた各国へ転送された模様です。このデータだけはセキュリティレベルが低く設定されるようになっていたようで、情報が意図的に漏れるように仕向けられていたようです。マノンが設定したのか協力者がいるのかもしれません。データを取得した先はほぼ特定出来てはいますが、素直にデータを取得したことを認める者は少ないでしょう。

 これによって、今のところまだ混乱などは起こっていません。こちらの状況に変化があればまた連絡いたします』

 マノンと一騒動あったにしては、大きな影響はまだ出ていない様だが安堵できるような気分でもない。影響があるのはこれからなのだろうか。


 マノンは半日以上眠っていたが、翌日の昼過ぎには目覚めた。遺跡での私との間であったことは認めたが、帰ってから目覚めるまでのことは覚えていないと言う。アンの診断では異常は見られないということだった。

「君たち二人は、重大な規律違反を犯していることは承知しているだろうね。立場はどうあれ、我々はマルス・ボヤージュ計画の任務を遂行することが目的でここに来ている。地球側とも協議したが、ひとまずこの件に関しては帰ってから裁定を下すことになった。それまでは処分保留だ。他のクルー二人も特にこの決定に異論は無いそうだ。寛大な仲間に感謝するんだね。

 この惑星上には現在我々五人しかいない。各自職務を遂行しないと帰還もままならない。地球に帰還するまでは、これ以上のトラブルは起こさないで貰いたい」

 マノンと私は船長から説教を食らってから予定していたスケジュールをこなすべく任務に戻った。マノンは暫くアンが監視役と言わないまでも、常に様子を見ることになっている。火星基地ので様子は、大部分が地球へと送られ、ネット上などで公開もされているが、遺跡に関すること、マノンと私のことは一切触れられていない様だった。

 私たちは基地のリフォームを最優先に、観測は予定を一部省略するなどして、早めに帰還することとなった。火星での滞在期間を数日省略しても、宇宙船で過ごす時間が大部分を占めている探査計画では、帰還にかかる時間の短縮にはさして寄与しなかった。それもあって、船の軌道などを考慮して早めに帰還できる航路を地球側で算定していたようだった。それによると、二週間ほど短縮出来ると言う。


 トラブルはあったが、想定していたスケジュールは一部を除いてほぼ完了となり、上空で待機するマルスⅢへ乗船することとなった。マノンと私は特に会話も無く、関係はISSⅡでの訓練以前に戻ったようだった。

 明日はマルスⅢに搭乗するという日の夕刻。火星の青い夕日も見納めとばかりに、時間を見て、私は宇宙服で外へと出た。夕日を眺めていると、傍らに誰かやって来た。

「最期に夕日を眺めようなんて、ロマンチストなのね」

 マノンだった。

「あそこであの結晶体を奪って逃げたのは謝るわ。他に方法は思いつかなかったし、何かに操られていたというわけでもないから」

「まあ、そのことはいいだろう。処分を下すのは私じゃない。君は、本当にもう体調は問題ないのか? 記憶はまだ戻らないままか?」

「ええ。帰ってからサブドームへ入ったところまでは覚えているけど。それほどでも不安にも感じないし。何か夢を見ていて途中で覚めたような感覚しかないの」

「そうか」

 太陽は地平の端にかかっていた。こうして二人ならんで夕日を見ていると言うのも不思議な気がしたが、この先まだ閉鎖された空間で顔を突き合わせていかなければならないことを想えば、マノンとしての気遣いというかけじめのようなものなのだろう。


 遺跡は船長やユウジ、私で再度訪れて調査を行ったが、特に目新しいことも見つからなかった。地下の空洞が自然に形成されたとは考えられないほど綺麗な円筒形という以外、人工物らしきものは見つからなかった。あの結晶体は、内部に多層構造を有していて、まるで半導体に作られた回路の様なパターンが階層状に積み重なっているらしいことが分った。一種のコンピュータのようなものと言えるかもしれない。それを含めた火星で採取した標本などは、マルスⅢの格納庫に納められ、地球へ持ち帰ることになった。結晶体が及ぼす影響について懸念はあったが、マノンの件を調査するにあたっては地球の研究施設で厳密な調査を行う必要性もあった。私がシュティフター家から依頼された内容には反しているが、今は異を唱えられる立場にはなかったし、私自身、持ち帰って調査する方が賢明だという意見だった。

 火星に降り立ってから十日後、我々はマルスⅢへ戻り、地球への帰途に着いた。帰路は支障なく、火星へ向かった時と同じく順調に進んでいた。火星でマノンと私の間にトラブルがあったことななど、忘れてしまいそうなくらいだった。マノンも他のクルーも身体的に変調を来すこともなかった。

 そして地球へ。青い惑星の姿は、ISSⅡで眺めていた時とはまた違った感動があった。


 帰還船を待つあいだ、地球軌道上のマルスⅢで私たちは記者会見を行うこととなった。予想はしていたが、誰も遺跡やマノンの件には触れない。マノンが体調を崩したとして伝わっているだけで、それを気遣う質問があったくらいだった。見事なまでに情報は隠蔽されていた。誰も何も言わないが、各クルーへは自国から何らかの要請があったようだ。私にはカレンからその旨連絡はあった。

 初めて火星へ到達したマルスⅠや、初の女性飛行士が乗ったNASAの探査機とも違い、マルス・ボヤージュ計画でも三度目、これまでで一番人数が多い、ということくらいしか特筆することも無いマルスⅢは、そもそもの関心も低かったと言えるだろう。

 地球へ帰還してからは、各種の検疫で一週間ほど拘束されたが、マノンも含め特に異常は無く、解放された。その後は式典など行われることも無くマルスⅢのミッションクルーはあっさり解散となった。

 ここまでは表向きで、私は今回の件で発足した調査委員会で何度か取り調べを受けた。マノンも同様だろうが、その情報は私には知らされていない。火星から持ち帰った結晶体についても同様で、探査計画で鉱物等の分析にあたり、火星で結晶体を分析した私は全くの蚊帳の外に置かれていた。それは、マノンが送ったというデータに関しても同じで、カレンからもそれに関しては新たに連絡はなく、カレンとも次第に疎通になっていった。


               ***


 火星から帰還して半年ほど経った。私は、元の鉱物資源メジャーの研究所が運営する鉱物資源博物館という施設の職員という閑職に就いていた。研究所でやるべきことは火星探査前にほぼ終えたという気持ちでいたので、ここでのんびりと鉱物資料を眺めて過ごすことに特に不満もなかった。火星での出来事に関しては、何か行動を起こすべきかという自問があったが、具体的なことは決めていなかった。 あるとき、そこへ変わった客が訪れた。

「ターナーさん、お久しぶりです。カリーナ・シュティフターです」

 三月の暖かい午後。カリーナは、モスグリーンのコートを着て、閑散とした博物館のロビーに現れた。私はカリーナを研究室へと案内した。私以外に使う者も無く、はぼ私室のようなものだった。コートを脱いだカリーナは黒のブラウスに黒のロングスカートと、春らしいコートと違い、相変わらず黒ずくめだった。窓際の席を勧め、淹れたてのコーヒーを出した。

「今日はどのようなご用向きで?」

 天気の良い日で、カリーナの向こうの窓の外は、晴れた空の下、博物館の庭にはクロッカスが咲き乱れていた。

「火星での件では、こちらからの要請で、いろいろとご迷惑をおかけしました。あなたには、今、どういうことが起こっているのか、お知らせした方が良いかと、祖父とも話合って私が参りました。祖父は高齢で長旅は難しいのです」

 黒のレースの手袋をしたほそい綺麗な指でカップを持ち、優雅に口元へと運ぶ。

「今起こっていることとは?」

「火星から送られたデータとそれによる影響です」

 カップを置いてカリーナは言った。


「マノンの送ったデータを解析した結果、幾つかの化学物質とそれを組み合わせ結晶体を生成させるものだったようです。結晶体は少し緑がかった透明なもので、解析して作られたのはそれだけでした。しかし、暫く経過したところ、結晶内に非常に微細な電子回路の様なものが出来て、発光するようになったそうです。遺跡にあったという結晶体に類似しているところから、データはそれを複製させるためのものだったと仮定しています。ただ、データから解析して出来たのは結晶体だけで、それ自体で電子回路のような構造を作り出すことは出来ないということでした。まるで我々には検知できない放射線のようなものが結晶体に作用しているかのようだと言う話でした」

「火星にあった結晶体と組成や形状が同じものを作れば自動的に後は複製されると。グリセリンの結晶化に纏わる都市伝説のような話ですな」

「マノンのデータを取得した者たちも同じように結晶体を作成している可能性は高いでしょうね」

 カリーナは表情も変えず淡々と話す。

「それによって、何が起こっていると? マノンのように意識を奪われる者が出ているのですか?」

「特に、そういう事例はありません。マルス・ボヤージュの探査局で生成した結晶体からもそうです。ただ、結晶体にある波長のレーザー光線を照射すると、奇妙な映像と音が発生するそうです。これには、視覚や聴覚を通して脳に刺激をあたえる可能性はあるようです」

 一口、コーヒーを飲む。

「先ごろ行われた国際宇宙開発会議で、宇宙開発を各国が独自に行っていたものを、国連に特設の機関を設けて国を超えた一大事業として今後行っていく方向で調整していくということになったそうです。これまでそういったことは提案されてもこなかったし、そういった機運も無かったのですが、欧州、米国、日本に加えてロシア、中国、インド等、宇宙開発を推進してきた国々がこの声明で、今後の火星探査や金星などの内惑星や木星を超えた外惑星域はもとより、太陽系を超える探査も目指すと、気味が悪いほど急に協調性に溢れた声明を発表しました。今後のマルス・ボヤージュ計画も影響を受けるでしょう」

 関連した話なのか。私は黙って聞いていた。

「本来なら、これは喜ぶべきことなのでしょうが。声明に賛同した国々はマノンのデータを取得していると見られています。今ではネット上に、これを元に作られたVRシステムを使用する電子ドラッグというものも見つかったそうです。送られてきたデータがこれ以上拡散しないよう手を打ってはいますが、止めるのはたぶん、無理でしょう」

「遥かな過去の異星人の陥穽に嵌まったとでも?」

「陥穽。そうですね。火星へ到達し、結晶体を生成できるだけの科学技術を発達させるまでは陥ることはなかったのでしょう。火星に行ったのがあなただけだったとしても同じ結果になったのかもしれません」

 カリーナは目を伏せながら言った。

「私の周りでは、異星の神を称えるような新興宗教は勃興していなようですが」

「それも時間の問題かもしれませんよ」

 私の言葉にカリーナは真顔で答えた。

「あなたは以前、火星にあるのは希望かもしれないと言いましたね」

 カリーナの青い目を見つめて私は言った。

「混沌とした先の見えない世界が一つに纏まり諍いを治めていく光明と見えなくもないですからね。異星の神の思し召しであったとしても」

 少し寂しそうな微笑みを浮かべてカリーナは言う。

「あなたの言う事は、皮肉に聞こえますな」

 カリーナは青い澄んだ目で私をひたと見据えた。

「祖父の言うことも、マノンが与した者たちの云いにしても、人間にはこの世界をより良い道へと統べて行くことは出来ないと言っているように思えるのです。そうでは無かったとしてももう確かめようも無いかもしれませんが」

 静かな口調ではあったが、何処かやり場のない怒りのようなものを感じた。

「火星のパンドラの箱について、あなたたちが火星から持ち帰ったものについて、何も知らなければ、今の世界情勢は忌憚なく喜びをもって迎えたかもしれません」

「私は、何がなくとも急に世界が理想を語り始めたら、胡散臭く感じるでしょうね。実際にそれが現実になるまでは」

 それは偽らざる私の考えだった。

「実際に。そうですね。まだ現実にはなってもいないのですね」

 カリーナはそう言って窓の外を見つめた。

「もし、異星の神の力をもってしても何事も変わらないとすれば、どうなるのでしょうね」

 少々、皮肉に過ぎる云いだと思ったが、そう私は口にした。

 チューリッヒで別れた時と同じような、寂しげな笑顔をカリーナは浮かべた。

 その目をみて、ふと、火星で見た淡い青い夕日をその中に見たような気がした。




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