お嬢様が婚約破棄されたですって? ぶっ殺してやる!!!!
朝の陽射しが、ふわりとレースのカーテンを照らしていた。鳥のさえずり、紅茶の香り、磨き抜かれた床。クラリス・フォン・エーデルワイス様の私室は、今日も完璧だった。
私は、クラリス様付きの侍女――リゼット。名家エーデルワイス家に十年以上仕えている、優秀で、聡明で、そして時々ちょっぴり情緒不安定な自覚がある。
「お嬢様、朝でございます。お召し物はこちらに」
優雅な声でそう言ってカーテンを開けると、ベッドの上ではクラリス様がまるで天使のように眠っていた。ああ麗しい。まぶたのカーブがこんなに整っている人間がこの世に存在していいのか。いや、してはいけない。神の気まぐれにすぎる。
「……ん……リゼット?」
「お目覚めですか、クラリス様」
その寝起きの声すら宝石のようだ。朝露に濡れた薔薇のつぼみのように、凛として優美で、そして儚い。
私は心の中で四度目の拝礼を行った。推し活だ。完全なる推し活である。
だが、それはほんの束の間の平穏だった。
ノックの音が、控えめに、けれど急かすように扉を叩いた。
「失礼しますっ、リゼット様っ! お嬢様に……その……!」
「慌てずに言いなさい。落ち着いて深呼吸をして――」
「殿下から婚約破棄を通達されましたっ!」
――静寂。
室内の空気が止まった。
「………………は?」
聞こえたのは、自分の声だった。思わず出た呟きが、床に転がったカップの音とともに、部屋の中でやけに大きく響いた。
「リゼット……? 今の話、本当……?」
クラリス様が静かに起き上がり、困惑に満ちた表情で尋ねる。儚げなその顔に、影が差す。
私は――信じられなかった。あのクラリス様を、王太子が? 何の理由もなく? どうして?
「……お嬢様が婚約破棄されたですって?」
立ち上がると、視界の色が変わった気がした。赤い。怒りの色だ。喉の奥が焼けるような衝動。抑えようと思えば思うほど、燃え広がる熱。
私は、ゆっくりと腰の鉄扇を手に取る。
ぴしっ。
それを開いた音は、戦の始まりの号令のようだった。
「――ぶっ殺してやる!!!!」
クラリス様の悲鳴は、その直後に響いた。
「ちょ、ちょっと待ってリゼット!? それは過激すぎるわよ!?」
「過激なのはあちらです、クラリス様。こんなにも尊く、清らかで、頭脳明晰・容姿端麗・心優しいお嬢様を、理由も告げずに婚約破棄などという愚挙に出たあの腑抜け王子! 貴族界から消して然るべきです!!!」
「いや、あの……たぶん事情があるんじゃないかしら……?」
「ありませんッ!!!!」
私は吠えた。吠えたのだ。理性など一ミリも残っていない。怒りと忠誠心だけで構成された爆弾、それが今の私だった。
ドアの向こうでは、下女たちが絶句していた。数名は震えていた気がするが、些細なことだ。
私は鉄扇を片手に、堂々と扉を開けた。
「城に行きます。討ち入りです」
「リゼット様、本当に討ち入るつもりですか!?」
「私が止めねば、お嬢様は世界の美を失ってしまいますからね!」
馬鹿か、私は。けれども、止められなかった。
クラリス様は絶望的な顔をして私の腕にしがみついてきた。
「リゼット、お願い、やめて。王子様を殺したら本当にまずいのよ! 処刑されちゃうのはあなたのほうなんだから!」
「大丈夫です。正当防衛か事故死に見えるようにやります」
「どこで習得したその技術!?」
この日の午前九時――侍女リゼット、暴走開始。
王都はまだ知らない。
この一人の侍女によって、近代貴族史に残る**『忠義の爆発事件』**が始まることを――。
***
私は歩く。
その背に、覚悟と忠誠を乗せて。
右手には鉄扇。左手には無言の怒気。屋敷の門を出てから、私は一言も口を開いていなかった。いや、開く必要がなかったのだ。歩くその姿だけで、街の者たちは避け、道を開けた。
(クラリス様が……あのクラリス様が、婚約破棄……!?)
思い出すだけで、怒りがこみ上げてくる。
王子がどれだけの身分だろうと関係ない。あの方に泥を塗るなど――死刑百回では足りない。
そう思っていると、後ろから足音がした。
「リゼット! ちょっと、待って!」
クラリス・フォン・エーデルワイス。被害者その人が走って追いかけてきたのだ。
可憐で、優しくて、誰よりも気高く――そんな彼女が、今は困り果てた顔で必死に腕を掴んでくる。
「お願い、落ち着いてリゼット。事情はちゃんと説明するから!」
「後で聞きます」
「リゼットおおおおおお!!!!」
クラリスの悲鳴が王都に響いた。
お嬢様の声でもこの足は止まらない。私はクラリス様の体をひょいと肩に担ぎ上げ、王宮へと突き進む。誰も止めることができない。門番すら、その殺気に怯え、問答無用で門を開いた。
***
その頃、王宮では。
「お……おかしい……絶対おかしい……」
王太子・エルマー=フォン=グランステイルは、玉座の間で震えていた。いや、正確には――玉座の裏に隠れて震えていた。
その目には、明らかな恐怖。
「し、しししし使用人が! ただの侍女が! 鉄扇持って殴り込んでくるとか聞いていない!!!!」
叫びながら、周囲の従者たちに抱きついて離れない。
「殿下、どうかお落ち着きを……」
「落ち着けるか!! あいつ目が死んでたんだぞ!? あれはもう、暗殺者の目だ!! 父上! 陛下はどこ!? 助けてくれ!!!」
先ほど、婚約破棄の文書を送ったばかりだった。理由は“平民の恋人ができたから”。軽い気持ちだった。ちょっと美人でお淑やかで、自分を慕ってくれる平民の少女のほうが気楽だったのだ。
まさかその結果、命を狙われるとは思っていなかった。
「ひぃ……本当に殺される……!」
エルマーは、自らの選択の軽さを呪った。
***
「――王太子にお伝えください。リゼット=クローデルが、仮初めの命乞いを受け付ける最終訪問に参りました、と」
城門を越え、正面玄関を堂々と突破した私は、貴族たちが集う大広間の真ん中で、まるで使者のように名乗りを上げた。
そこにいた文官たちが、一斉に凍り付く。
「あ、あの……ご用件は?」
「王子の命です」
「ご、護衛――護衛を呼べええええええ!!!!」
パニックが走った。
「リゼット! 本当にやめて!! これ以上は本当にまずいって!!」
ようやく地面に降ろされたクラリス様が、必死に説得を試みるも、私の忠義にブレーキは存在しなかった。
「お嬢様。ご安心ください」
「なにが安心よ!!」
「私は、あの愚か者の罪を裁くためにここに来ました。これは個人的な復讐ではありません。“正義の制裁”です」
「やめてええええ!!!!」
クラリスの絶叫が、王城の天井に吸い込まれていった。
***
そして、扉が開かれた。
城の中枢、謁見の間。そこに立つのは――震える王子と、その背後に隠れようとする側近たち。
私は、ゆっくりと鉄扇を構えた。
その瞳に宿るのは、怒りでも悲しみでもない。
ただ――忠義と、“裁き”だけ。
「エルマー殿下。ご覚悟は、よろしくて?」
「ひいいぃぃ!!!!」
***
謁見の間の扉が重たく開いた。
玉座の間。王の威厳を示す大理石の床と、赤い絨毯が敷かれた中央通路。その先にある高座では、王も王妃も不在。いるのはただ一人、今まさに生け贄の如き形相で玉座の陰に縮こまる男――王太子、エルマー=フォン=グランステイル。
彼は、泣いていた。
全身を震わせ、貴族としての威厳も名誉も投げ捨てて、完全に子どものように涙目で震えていた。
「く、来るな来るな来るな来るなああああ!!!!」
「リゼット、さすがに怖いわよ……」
クラリス様は、必死に小声で制止を試みていたが、もはや私の瞳には“慈悲”の二文字が消えて久しい。
この姿はまるで、忠義に燃える戦女神であり、そして鉄槌を下す裁判官である。
高らかに、手に持った鉄扇を開いた。
「殿下――いえ、エルマー=フォン=グランステイル」
その名を呼ばれた瞬間、王子の体がビクンと跳ねた。
「あなたは今朝、正式な婚約破棄文書を我がクラリス・フォン・エーデルワイス様に送りつけた。それも書面一枚、口頭の謝罪もなし。説明も責任も、全てを放棄した。そのような行いを“貴族”と呼べましょうか?」
「べ、べべべ、べつにいいだろ!? ぼ、僕の婚約なんだから!! 自由に決めてもいいだろ!? こ、国法違反でもないし!!」
「自由の名を語り、他者を踏みにじるなど、ただの暴力。庶民がやれば“自己中”で済みましょう。しかし、殿下、あなたは未来の国王です」
「ぴ、ぴぃぃぃぃ……!」
怯えきった悲鳴が、情けない声で漏れる。
私は、悠然と歩を進めた。
鉄扇を一度、バシンと閉じる。甲高い音が玉座の間に響いた。
「よって、私は一使用人の立場を超えて、ここに“裁き”を執行します」
「ま、まって! 話せばわかる! あの子のほうがいい匂いしただけなんだよぉ!!」
「なるほど。嗅覚で政略婚を選ぶタイプでしたか。愚かですね」
「ひぃぃぃぃぃ!!!」
私が近づくたび、エルマーは後退りするが、玉座の間に逃げ場など存在しない。彼の背は、すでに壁に張り付いていた。下手をすれば、しがみついて登りそうな勢いで。
そして。
私は手にしていた鉄扇を、ふわりと掲げた。
広げた刃のような金属の扇面が、照明の光を浴びてキラリと光る。
この姿は、まるで斬首人のごとく。
「最後に何か遺言は?」
「ひっ……ひぎっ……! ま、まだ若いから、か、寛大な処置を……!?」
「お気の毒ですが、クラリス様の心を傷つけた時点で、その願いは失効済みです」
「助けてママー!!!!!!!!」
「ママは今、サロンです」
「そんなあああああああああああ!!!!!!!!」
王族の威厳は、地に落ちた。
***
そして。
「覚悟!!!!」
私の怒号とともに、鉄扇が振り上げられる――その瞬間だった。
「やめて!!!!」
クラリス様が突っ込んできた。
すがるように、私の腕に抱きつき、叫んだ。
「リゼット、お願い、もうやめてっ! これ以上は……本当に処刑されちゃうのはあなたの方よっ!!」
「クラリス様……」
私は手を止めた
その声音は優しく、しかし深く切実で――。
「……わかりました」
鉄扇を静かに閉じる。
その瞬間、エルマーは崩れ落ち、床に崩れ伏した。魂が抜けたような顔で、目を開いたまま泡を吹いていた。
「……死んでません?」
「気絶してるだけ。たぶん」
「たぶん……!?」
***
こうして、暴走劇は一時終息を見せた――ように思われた。
だが、王都中はすでにこの事件の話題で持ちきりである。
「王子が鉄扇に震えて土下座したらしい」
「エーデルワイス家の侍女が国を動かすらしい」
「そろそろリゼット政権が始まるのでは?」
――などという、尾ひれ背びれ付きの噂が広がっていた。
そして王宮では、国王が謁見の間に倒れた息子を見て、ただ一言。
「お前……とうとうやらかしたのか……」
呆れきった声が、空しく響いた。
***
王太子エルマーは、床に崩れていた。
顔は真っ青、口元には泡、目はうつろで焦点を結ばない。完膚なきまでに叩きのめされた、言葉の暴力によって。
鉄扇は振るわれなかった。けれど、振るわれなかったからこそ、王都の人々は騒ぎ立てた。
――侍女ひとりに泣き崩れた王子。
――婚約破棄の報いをその場で突きつけられた間抜けな皇族。
――鉄扇一振りで国が動く、忠義の化け物。
噂は、誇張されることを知っている。けれど、それでも今回ばかりは真実に近かった。リゼットの怒りは、確かに“国を動かす”重さがあった。
***
わたくしは深くため息をついた。
騒動は、一応の終息を見た――ように思えたが、後始末はむしろこれからだった。王宮の上層部が動き、事情聴取や処罰の議論が持ち上がっていると耳にする。いくら貴族家の侍女とはいえ、王太子に牙を剥いたのだ。咎がないはずがない。
けれど――わたくしは、何よりもまず先に、“あの人”と向き合わねばならなかった。
扉を開けると、そこにリゼットがいた。
小さな控室にひとり。ぴんと背筋を伸ばして椅子に座っていた。正装のまま、足元も乱れていない。だがその瞳には、いつもの激情がなかった。
「……クラリス様」
リゼットが、頭を下げた。
「この度は、私の軽率な行動により、貴族としての御名誉を傷つける結果となり……深く、深くお詫び申し上げます」
言葉は硬かった。
彼女は何よりもわたくしの誇りを大切にしてきた。だからこそ、今、自分の行為がその誇りを傷つけてしまったかもしれないと――心から恐れていた。
わたくしは、微笑んだ。
ゆっくりと歩み寄って、リゼットの隣に腰掛ける。そして、ほんの少し体を寄せて、そっと言った。
「ありがとう」
リゼットが、はっと顔を上げる。
「わたくし、本当は怒っていたの。けれど、気づかないふりをして、黙っていようとした。だって……あの人は王子だもの。わたくしなんかが怒ったって、どうにもならないと思ってた」
「……クラリス様」
「けれどね、リゼット。あなたは、わたくしの代わりに怒ってくれた。代わりに、叫んでくれた。わたくしは――あなたのおかげで救われたのよ」
それは、偽りのない想いだった。
わたくしはエルマーに裏切られたことよりも、“怒ることすら許されない”と自分で思い込んでいたことが、何より苦しかった。
けれど、リゼットは言葉を尽くし、身を挺して、その不条理に立ち向かってくれた。
その姿に、自分の尊厳を守ってくれる“誰か”がいるのだと、心の底から実感したのだ。
それは、涙が出るほど嬉しかった。
「わたくしは、リゼットがいてくれてよかったって、心から思ってる。どれだけ無茶でも、あなたの忠義は、わたくしの誇りよ」
「……もったいないお言葉……っ」
リゼットの肩が震えた。
それまでずっと、表情を固くしていた彼女が、ようやく感情を滲ませる。鋼のような瞳に、うっすらと光が宿る。
わたくしが、笑顔になる。
きっと、これでいいのだ。わたくしはこの人を侍女としてだけではなく、“リゼット”というひとりの人間として信頼している。何より、彼女が味方であり続けてくれる限り、どんな失恋も裏切りも、乗り越えられる。
「リゼット、明日からまた一緒に、髪を整えて、紅茶を飲みましょう?」
「はい、クラリス様。どこまでも、お傍に」
***
一方。
玉座の間では、エルマーがようやく意識を取り戻していた。
「……助かったのか、俺……まだ、生きてるのか……」
涙を浮かべながら呟く姿は、もはや王子ではなくただの哀れな青年にしか見えない。
その隣で、父である現国王が腕を組んでいた。
「お前な……相手が侍女で済んだから良かったものの。これが敵国の諜報員だったら、今頃お前の首はなかったぞ」
「お、俺、反省するから! ちゃんと政務するから!」
「お前に政務はまだ早い。しばらく謹慎だ。あと、平民の恋人とやらとはきっぱり手を切れ。わかったな?」
「う、うん……!」
まるで不良息子を叱る父のような光景に、玉座の間の者たちは全員、心の中で同じことを思っていた。
(……殿下、あれはもうちょっと鍛え直した方がいい)
***
こうして――
忠義に暴走した侍女と、お嬢様の愛と信頼、そして怯えきった王子によって織り成された騒動は、ひとまずの幕を閉じた。
けれど、これは終わりではない。
この事件をきっかけに、王都ではひとつの言葉が流行語となる。
――「お嬢様が婚約破棄されたですって? ぶっ殺してやる!!!!」
この言葉は、冗談交じりに庶民の間でも使われるようになった。
つまりこうだ。
誰かが、大切な人を傷つけたとき。
誰かが、不当な仕打ちを受けたとき。
誰かが、黙って涙を流したとき。
そのときにこそ、この言葉が思い出されるのだ。
“怒ってくれる誰か”がいることの、尊さを。
そして今も、クラリスとリゼットは変わらず、華やかなる日常の中でお茶を飲みながら、新たな問題に備えている。
「ところでリゼット。今度舞踏会があるのよ」
「……また殴り込み案件の予感がしますね」
「ちがうちがう、社交の場です!」
「わかりました。鉄扇は持っていきます」
「やめて!!!!」
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