004 マムシ
――冷たい水。どこまでも深い暗闇。
アンナは、ぼんやりとした夢の中で、懐かしい香りに包まれていた。
「アンナ、覚えておきなさい。特別な力は、みんなのために使うもの。でも、絶対に誰にも――」
やさしい母の声。
そばで父が笑う。「困ったときは、薬草の声を聞くんだよ」
「どうして隠さないといけないの?」
「きっと、君の力を恐れる人がいるからさ。でも、本当に困っている人がいたら、その時は迷わず力を使いなさい」
小さなアンナは頷いた。両親の手の温もりを、いつまでも感じていたかった――
……誰かの呼ぶ声。
頭が重い。全身がしびれたようにだるい。
かすかな灯りの中、アンナはまぶたをゆっくり開けた。
「……やっと目が覚めた!」
アンナがゆっくりとまぶたを開けると、そばには見知らぬ少年が心配そうに覗き込んでいた。
少年は栗色の髪をくしゃっとさせ、まだあどけなさの残る大きな瞳をこちらに向けている。
「よかった! お姉さん、すごく苦しそうだったんだよ」
声は少し裏返りながらも、どこか親しみやすい響きがあった。
アンナはまだ体が重く、ぼんやりとした頭で周囲を見回す。
少年は泥のついた手で水差しを差し出してくれる。
「無理しないで、少しずつ飲んでね。」
見知らぬ少年はライルと名乗った。
彼は丁寧にアンナの額に濡れた布を当て、水を飲ませてくれた。
「三日も寝てたんだよ。心配したんだから」
体を起こそうとしても、すぐに目の前がくらむ。
アンナはその後数日間、ただベッドの上で天井を見つめていた。
――何度も眠っては目覚める。そのたびに、夢の中の両親の言葉が心に響く。
「誰にも知られてはいけない。でも、本当に必要な時は――」
ライルとその家族は非常に献身的に看病をしてくれた。着替えや体を拭くのは妹のミナが手伝ってくれた。
体が少しずつ楽になってきたころ、ライルが村の事を少しずつ教えてくれた。どうやらここは迷いの森の中、シーの村というらしい。そして、迷いの森を彼らは「精霊の森」と呼んでいた。
アンナが起き上れるようになったころ、ライルはアンナを連れて村長の家へ赴いた。
質素な板張りの部屋の奥、囲炉裏の前に座る村長は、アンナを見るなり険しい表情を向ける。
「……よそ者が、この村に足を踏み入れることは本来なら許されん。回復したなら、すぐに出て行くがいい」
低く冷たい声。
「でも…」
「ならん!」
ライルが何か言おうとしたが、村長はぴしゃりとはねのける。
「ライルよ、お前は正しいことをした。だが、これ以上は看過できぬのだ。」
「……」
「森の出口まで送ってやれ」
アンナが言葉を探していると、突然戸が大きく開く。
「村長!大変です!」
息を切らした若い村人が飛び込んできた。
「ミトが……ミトがさっきから息も苦しそうで……!」
村長は一瞬、顔をしかめる。
「ミトが……」
村人は不安げにアンナを一瞥し、さらに村長にすがりつく。
「どうか助けてください!」
村長とライル、そして数人の村人が急ぎ足で一軒の家へ向かう。アンナはライルに袖を引かれ、気配を消すように後をついていった。
茅葺き屋根の小さな家の中では、幼い女の子がぐったりと横たわっていた。
その隣で、30歳くらいの女性薬師が腕を組み、低く鋭い声を響かせていた。
鋭い目つき、男勝りな口調だが、手つきは驚くほど丁寧だ。
「薬も飲ませたが…、熱がなかなか下がらない」
母親が涙ぐむと、薬師はため息をつき、でも優しく声をかける。
「…できることは全部やった。あとはミトの力次第だ。」
村長も深刻な表情で黙り込む。
ライルがアンナの袖をそっと引く。
「アンナ、なにかできないかな…?」
アンナは小さく手を挙げる。
「すみません、少し診てもいいですか?」
その声に、一同が一斉に振り返る。
「なぜお前がここに? 部外者は出て行け」
村長の叱責に、アンナは淡々と続けた。私にできる事をするだけだ。
「私なら治せます。」
アンナはゆっくりと子どもの枕元に近づき、熱にうなされているミトの額に手を当てた。息は荒く、顔色も悪い。毛布をそっとめくると、足首が赤く腫れ、二つの小さな傷跡が残っている。
「……ヘビですか?」
薬師が短くうなずく。
「そうだ、マムシだよ。山の裏手で遊んでたらしい。すぐ血を吸い出して薬も飲ませたが、この熱と腫れだ。なかなか手強いね。」
アンナはベッド脇に置かれたドクダミの煎じ薬を見つけ、そっと手に取った。薬師が訝しげな視線を向ける。
「それはもう使ったさ。」
アンナは静かに首を振り、「ちょっとだけ」と言う。
両手でカップを包み込み、そっと力を込めた。やわらかな光が一瞬、ドクダミの煎じ薬の表面に波紋のように広がる。ふわりとレモンの香りが立ちのぼり、薬師も村長も思わず息をのんだ。
アンナは布を使って口の中に少しずつ、煎じ薬を湿らせた。
30分過ぎるころには額に薄っすらと汗が浮かび、ミトの呼吸が少し楽になった。
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。
「……これは…」
薬師がぽつりと呟く。
アンナは静かにミトの手を握りながら、ほっと息をついた。