第9話
それだけを言って、俺は瓦礫から身を乗り出した。
感覚が研ぎ澄まされている。
どこに奴がいるのか、すぐに分かった。
踏みしめた瓦礫を破壊しながら、俺は一気に距離を詰めた。
「――ほう、自ら来たか。クラウス」
「こんな形で再開することになるとは思ってなかったぜ。騎士団長」
俺が知る中で、『勇者』を除き最も強い人間。
そして、俺を『勇者』として見出した張本人。
それこそが目の前の人物、騎士団長アークウェル。
豪奢な白の鎧の上からでも見て取れる鍛え抜かれた肉体。
馴染み深い出で立ちだ。
しかし異なる点が幾つか。
戦場にありながら味方を鼓舞する金髪は黒に染まり。
その額から生える角は、色を映しとったかのように金に輝いている。
「まさか、敵としてとは、な。報せを聞いた時は驚いたぞ」
「そういう意味じゃねぇよ。なんだその角。魔族の真似事か?」
「……ハハハハ、もはや知らぬはずもあるまい。面白い冗談だ。……真似事? 否、これこそが完全たる魔の象徴よ」
「生憎と学がなくてな。何を言いたいのかさっぱりだ」
「人間の可能性は、この俺を以て更新される。俺こそが到達点、新たなる人類。世界は、この俺によって生まれ変わる――!」
アークウェルは腕を天へと掲げ、拳を握りしめる。
再び走る予感。
しかし、前の比ではない。
あの時以上に、危険で、理不尽。
「――このようにな」
空が煌めいた。
分かったことは、たったそれだけ。
気づけば俺は、全身の激痛と共に地に伏していた。
「が……ぁ!?」
「ほう、まだ息があるか。さすがは『勇者』だっただけはある。お前はやはり、この俺に並ぶ逸材であったよ」
何を……何をされた?
全身に残る痛み。
それに……これは痺れか?
まるで、雷で貫かれたかのような――
「――まさ、か!?」
「気づくか。そう、俺は天を操った。神に等しき力を得たのだ」
天候を操作する。
それは、魔王にも可能な範疇である。
ただし、それなりの手順と魔力、そして前兆を必要とする。
その一切がなかった。
消耗した様子も発動の前兆もない。
避けられるはずがない。
「長きにわたる我らが悲願は遂に結実する。魔王が現れたことはある意味都合が良かった。俺たちの目的を隠す、敵となってくれたのだから」
「……く、っうぐ!」
「はっ! 尚立つか! その威勢は買ってやろう!」
言うことを聞かない身体に鞭を打って立ち上がれば、楽し気なアークウェルの声が聞こえた。
駄目だ。視界が滲む。正確な位置が掴めない。気配を探ろうにも意識が朦朧としていて使い物にならない。
魔法の威力もこれまで経験したどれとも比較にならん。
……考えるな。
頼りになるかも分からない第六感を当てにして剣を振れ。
俺は、魔王の前を切り開くのだ。
「――つまらんな」
「……何、が……だ」
――気持ちだけで乗り切れる試練があるのなら、それを試練とは呼ばない。
確か、アークウェルが過去に言っていた言葉だったか。
今になって思い出すのは、それだけ俺がその真理を痛感しているからだ。
当然だ。敵うはずもない。
研ぎ澄まされた身体能力と、魔王を凌ぐ魔法の腕。
それらを前に勝利を収められると本気で思うほど、俺は命知らずではなかった。
全身の感覚がない。
今立っていられるのは、恐らく奇跡か何かだろう。
浅い呼吸は、十全な回復の暇を身体に与えられない。
負けだ。完膚なきまでの。
俺がどうにかできる相手ではなかったのだ。
それでも、魔王がまだ生きているのなら問題はない。奴ならきっと、この状況を打開できる。
だから、俺はその捨て駒に――
「――その、自己犠牲の精神よ。何故己が身を顧みない。お前はこの俺に匹敵する強者。それが何故、他者のために捧げる」
「言ってる意味が……分かんねぇよ」
「弱者とは、強者にひれ伏すことが唯一絶対の喜びだ。そして、お前は俺に並び立つ者。であれば、その身は尊ばれてこそ本懐であろう。お前には人を統べる器がある」
「俺にそんなもんが、あるかよ」
「……そうであったな。この俺が、お前をそのような脆弱な檻に詰め込んだのだ。ならばこそ、やはり惜しい」
「……あ?」
アークウェルは俺に向けて手を伸ばした。
神々しいまでの悪辣さに、思わず目を細める。
「『勇者』と呼ばれた者よ。人類の希望を背負った歪なる者よ。その在り方、変えられぬなら俺に捧げろ。この俺と共に、新たな世界を見届けるがいい」
「はぁ? ……頭でも打ったか」
「至極簡単なことだ。俺という強者に従え、それだけだ。お前はもう、『勇者』などというくだらぬ肩書きに縛られる必要はない」
「……だから、頭打ったかって聞いてんだよ。今更……何様のつもりだ。『勇者』である必要はない? そのくだらねぇもん背負わせたのはどこの誰だ? そう在るように仕向けたのはどこの誰だ? 何より……捧げることを強いたのはどこの誰だ?」
足に力が入る。
全身に怒りが巡る。
「――お前だろうが、アークウェル!」
この邪悪をこそ滅ぼさなければと、俺の中の本能が言っていた。
「お前なんぞに言われなくても、俺はとっくの昔に『勇者』なんて捨ててんだ! もとより似合ってもない上っ面だけの襤褸切れを、どうしてまだ大事にしてると思うよ!? 人類の希望!? 勇気ある者!? どの口が、誰に向かって言ってんだ!」
自分に制御が効いていないことを実感する。
捨てたと思った感情の全部が、堰を切ったように溢れ出た。
「俺がそんな大層なもんなわけないだろ! ただ人より強かっただけの! どこにでもいる凡人だ! 俺は『勇者』じゃ……勇者じゃない! 勇者であったことなんて、一度たりともない! どいつもこいつも俺のことその名で呼びやがって! 俺に――背負えるわけないだろうが!」
息が切れる。
上下する肩と、ただでさえ朦朧としていた脳が、やけに滑稽だった。
きっと俺は今、酷い顔をしているんだろう。
アークウェルはそんな俺を、やはり滑稽そうに見ていた。
だというのに、こちらへ伸びた手はそのままで。
「そうか。ならクラウス、『勇者』ならざる者よ。お前には素晴らしい道行きを用意しよう。その慟哭に見合った未来を提示しよう」
「……あぁ?」
「――この俺の駒になれ。お前の感じた一切の苦しみは、この先一生、未来永劫訪れないことを約束しよう。捧げるだけでは足らんようだ。この俺の、純粋たる所有物となるがいい」
どこまでも不遜な物言いに、腹が立つ。
手を取る気は欠片もない。この男の手を取った先に待つのは、あの未来だ。
例えこれが夢であったとしても、同じ夢を見るつもりはない。
もう決めている。
命の捨て場所はここだ。
全身全霊で、死のうとも、殺す。
俺は駆け――
「――聞き捨てならん」