第11話
ふわふわと浮いているような心地だ。
ぬるま湯に浸かっているような、そんな感覚。
この形容しがたい幸福に身を任せてしまうことがいかに素晴らしいことかは、これまでの人生が証明している。
あぁ、心地良い。
ふとした瞬間に感じる微かな揺れすら、その要素の一つとなって流れていく。
「――――ちゃーん」
ふと、何かが聞こえた気がした。
けれどそれを無視しても問題がないと脳が瞬時に判断するほど、今は幸福だ。
いっそこのまま……この微睡みの中に、
「――いちゃーん!」
はて。
今『私』は、微睡みと考えたのだろうか。
であるならば、おっとこれはいけない。
「おじいちゃーん! 起きてー!」
いつの間にやら、眠りこけてしまっていたらしい。
瞼を開くと、そこには青空が広がっていて、目の前には見知った人物がいた。
「……すまんすまん、寝ていたよ」
「もー、おじいちゃんったらお昼寝大好きなんだからさー!」
――頬を膨らませる少女に、私は微笑みを浮かべながら立ち上がる。
外に置いた椅子と、良い天気の風はもはや老いぼれの私には少々心地が良すぎたようだ。
「ほらー、行こ行こ! 始まっちゃうよ、おじいちゃん!」
「あぁそうだった。遅れるわけにはいかなかったな」
「そうそう! ようやくお披露目だからね!」
快活な少女は、私の手を引いてある場所へと連れていく。
いつものことだ。
この少女――孫のアイラは随分と元気に育ったことだ。
それが玉に瑕なのだが……と、そう考えるのも昔を思えば贅沢な悩みである。
「おーい! おじいちゃん連れてきたよー!」
「アイラ、あまり義父上に無理をさせては……」
「構わんよ。身体を動かさんと鈍ってしまうわい」
「ほらこう言ってる! 母様、ちょっと心配性すぎー」
「アイラ、後でお話があります」
「……おじいちゃん助けて」
「すぐ父上に頼るな」
私の後ろに隠れたアイラを摘まみ上げ、諭すように叱るのは、大きく育ったガレウス――あの時に助けた子どもである。
今や一国の主として玉座に座る彼には、もはやあの時の面影はないに等しい。立派な王へと成長してくれた。
その隣では、困った顔をするガレウスの妻アイリス。
目に入れても痛くない、私の家族たちである。
「父上、お体はいかがです?」
「ガレウス、あまり年寄り扱いしてくれるな」
「いえ、今の父上は全盛期とは比べ物になりません。いつ体調を崩してもおかしくは……」
「……生意気になったもんだな。昔はもっと可愛かったのに、父上父上ーって」
「……いつの話をしてるんだ父上」
「恥ずかしがるなよ大の大人が」
「はぁ……昔っからそうだ。初めて会った僕に王になれなんて言った時と何も変わってないな父上は。人を振り回すのが好きな御方だ」
「まだまだ現役なんだよ」
今でも軽口を叩き合える息子の存在に内心嬉しく思いつつ、私はその場を後にした。
折角の機会だ、会っておきたい奴がいるのだ。
と、そんなことを考えていれば、すぐに見つかった。
「ハハハハハ! 相も変わらず仲が良いな其方ら親子は!」
「久しぶりだな、魔王……」
「む、クラウスよ。いつになったら直るのだ、その癖は?」
「……デルトロ。ふむ、中々直らんわ」
「このまま行くと、死ぬまでそのままのようだな!」
「笑うな縁起でもない」
豪快に、尊大に笑う魔王――デルトロに変わりはない。
唐突に名を思い出したと告げた魔王の名こそがそれだった。
何故名を忘れていたのか。
そこにもまた、幾人もの想いと願いの交錯があったのだが、さておき。
魔族は魔法という超常によってか、寿命が人間よりも長い。
そのせいで、老いるたびに奴との差を感じて、こう……何とも言えない気分になる。
まぁ、それはさておき。
「まさか……ここまで来れるとはな。私が生きているうちに」
「そうだな。……あれから、もう三十年になるか。老けたな、クラウス」
「あくまでも私は、人の延長線上の存在だからな。デルトロたちには勝てん」
人間には、限界が備わっている。
それは体力であったり、成長であったり、再生力であったりする。
私は他よりも再生力が人並外れて高かった。
それがどうやら、老いの早さに関係しているらしい。
――三十年。
アークウェルとの戦いから、それだけの時が経った。
死力の末勝利を収めた私たちは、遂に新たな世界を作ることに尽力することができるようになった。
デルトロと、そしてガレウスの手腕によって復興と発展を繰り返し、交流を重ねたこの世界は、人間と魔族の共存という形で基盤を整えたのだ。
無論、そこに至るまでにも険しい道のりこそあったが、この場で思い出すほど野暮でもない。
ともあれ、そんな共存の集大成こそが、今日の目玉であった。
「……大きいな」
「あぁ、数百人を乗せられる」
「人間の技術と魔族の魔法を合わせて、遂にか」
「たかだか三十年で、よくぞここまで積み上げられたものよ」
「お前の力だろう」
「ガレウスも優秀だった。それに……其方もいるしな」
「私は何もしておらんよ」
「何を言うか、後世に語り継がれる『勇者』よ。人間と魔族の懸け橋となった其方を誰が認めぬと言うのだ」
「……そうだな」
見上げるのは、大きな大きな――船。
無骨ではなく優美な装飾のそれは、紛れもなく技術の粋を詰め込んだ傑作だ。
「それにしても、其方があのような発想力を持っているとは驚きであったな」
「……何、夢で見たのよ」
「まさか――空に浮かぶ船とはな! いや愉快愉快!」
「笑い飛ばされると、あの時は思っていたんだがな……」
「何を言うか、素晴らしい。あれは其方と同様、象徴になるであろうよ」
「そう言われると恥ずかしいがな」
頬をかくと、デルトロは笑った。
照れ隠しに持っていた杖を振ってみるが、老いた一閃が当たるはずもない。
軽く避けられ、やはり老いを実感する。
「父上! 間もなく時間です! デルトロ様も!」
「うむ、今行く!」
乗り込みながら、私はもはや遠い昔であるはずの、ゆーえんちを思い出していた。
まさか、あの時の経験が、こんな形で人類の発展に貢献するとは思わなんだ。
支配人様も、或いはこの光景を見て笑っておられるかもしれんな。
どこまでも続きそうな青空に目線を合わせる。
背中から聞こえる喧騒が、どうにも耳に心地良い。
自然と笑みが零れた。
いや、或いは笑いであろうか。
たった一人、『勇者』を不要とされ老いぼれた私と。
親愛なる隣人に、『勇者』と呼ばれる老いた私とは。
これほどまでに違うのだから。
「――飛空艇、発進!」
掛け声と同時に、魔法の気配を感じ取る。
推進力を得た船は、その巨体をあろうことか空に浮かべるのだ。
そして、遂に――




