第19話 すれ違うまなざし
朝の光は穏やかだった。
けれど、光源次の胸の内には、昨夜の夢の冷たさがまだ残っていた。
名を呼ぶな…
近づくな…
恋では、辿り着けぬ…
出社前、コーヒーを淹れながらも、その言葉が頭から離れない。
ただの夢ではない。感情の延長でもない。
何かに“止められている”感覚だけが、妙に現実味を持っていた。
源次はネクタイを締め直し、鏡の中の自分を見つめる。
(……これ以上、近づかないほうがいい)
その判断が正しいのかどうかは分からない。
けれど今は、それしか思いつかなかった。
午前。
藤ヶ原グループ本社、経営企画部。
紫はいつものように自席に着き、端末を立ち上げた。
メールボックスに新着通知が入っている。差出人は光源次。
件名は業務連絡そのものだった。
「次フェーズの窓口について」
本文:「今後、外部連携の一次窓口は木村主任に変更します。
藤木さんには分析と社内調整に集中してもらう方が適切だと判断しました。
詳細は後ほど共有します。」
紫は文面を二度読み返した。
間違ったことは書かれていない。
むしろ、合理的だった。
自分の今の業務量を考えれば、その方が妥当だと頭では分かる。
でも、胸の奥で小さく何かが沈んだ。
(……あ)
たったそれだけのことなのに、妙に息苦しい。
光さんが、自分から一歩引いた。
ただそれだけが、はっきり伝わってきた。
紫はそっと画面を閉じ、手元の資料を抱え直した。
(仕事だから。
……ちゃんと、分かってる)
昼前。
会議用資料を持って廊下を歩いていた紫は、木村主任に声をかけられた。
「藤木さん、今後この件、私が窓口を引き取ることになったから。
でも、分析部分はそのまま頼るよ。君の資料、評判いいから」
「あ……はい。よろしくお願いします」
主任はにこやかに去っていく。
その背中を見送りながら、紫は小さく笑顔を作った。
評価されている。必要ともされている。
なのに、どうしてこんなに心が追いつかないのか、自分でも分からなかった。
午後。
フロアの端で資料を整理していた源次のもとに、葵がやってきた。
「少しいい?」
「葵さん」
源次はファイルから目を上げる。
「窓口、変えたのね」
「……ああ」
「育てるため?」
問いの形は穏やかだった。
「だが、その声は何か見透かされたように聞こえる。」
源次は少し黙ってから答えた。
「それもある」
「それ“も”?」
葵は壁に軽くもたれ、源次をまっすぐ見る。
「優しさのつもりなら、たぶん逆効果よ」
源次は視線を落とした。
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるつもりだ」
葵はその答えに、かすかに息を吐いた。
「源次さんは、いつもそう。
自分が一歩引けば丸く収まると思ってる」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ、どういうわけ?」
問いかけは静かだった。責める響きはない。
それでも、源次には刺さった。
答えようとして、言葉が詰まる。
夢の中で言われた言葉。
近づくな。恋では辿り着けぬ。
それを、現実の誰かに説明することなんてできない。
葵はそれ以上追及せず、視線を和らげた。
「……まぁ、いいわ。
でも、相手が藤木さんなら、あなたの“気遣い”は、ただの距離に見えるわよ」
それだけ言うと、葵は踵を返した。
源次は呼び止めなかった。
代わりに、机の上の資料に目を落としながら、胸の中でだけ認める。
(距離だよ。
……分かってる)
同じ頃。
六条玲香は会議室のガラス越しに、フロアの動きを見ていた。
源次の視線が紫を避けていること。
窓口変更のメールが朝一番で飛んでいたこと。
玲香はそのどれにも気づいていた。
「……やっぱり、そうするのね」
誰にも聞こえないほどの小さな声。
正しい判断だとも思う。
でも、それを“正しさ”だけで選ぶところが、光源次らしいとも思った。
(あなたは、そうやって自分だけ傷つく側に回る)
玲香は目を閉じる。
責めたいわけではない。責められる立場でもない。
ただ、その不器用さを知っているからこそ、苦い。
夕方。
紫は分析室で追加データを整理していた。
他の社員はほとんど外出や会議に出ていて、部屋には静かなキーボードの音だけが残っている。
そこへ、足音がひとつ。
「……藤木さん」
顔を上げると、源次が立っていた。
「光さん」
「少し、いいかな」
「はい」
源次は部屋の入口で立ち止まったまま、少しだけ言葉を選ぶように沈黙した。
「窓口変更の件。急で悪かった」
「いえ……合理的だと思います。
木村主任の方が外との調整は慣れてますし」
紫は笑おうとした。
でも、自分でも分かるくらい、うまく笑えなかった。
源次はそれを見て、少しだけ目を細める。
「私……何か、してしまいましたか」
静かな声だった。
詰問ではない。ただ、確かめたいだけの声。
源次はすぐに首を振った。
「違う。君は何も悪くない」
「じゃあ……どうして」
その先を、紫は自分で止めた。
聞いてはいけない気もしたし、聞かなければ前へ進めない気もした。
源次は視線を逸らさずに言った。
「藤木さんは、ちゃんと進める人だから」
「……それが、理由ですか」
「今の君には、目の前の仕事を積み上げてほしい。
僕が近くにいると……たぶん、余計なものが混ざる」
言いながら、自分でも苦いと思う。
優しさのつもりで選んだ言葉が、どこか突き放して聞こえることを、源次は分かっていた。
紫は何も言わなかった。
ただ、指先がかすかに冷たくなる。
「……はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。
源次はしばらく動かずにいたが、やがて低く言った。
「無理はしないで。
君は、ちゃんと進んでる」
その言葉は励ましのはずだった。
でも紫の胸には、ちいさな棘のように残る。
(近づいていたはずなのに……)
源次が部屋を出ていったあと、紫はモニターに映る自分の顔を見つめた。
(……前より、遠い)
夜。
源次は帰宅後、ネクタイも外さないままソファに腰を下ろした。
部屋は静かだ。
なのに、心の中だけが落ち着かない。
(離したかったわけじゃない)
ただ、あの夢のあとでは、簡単に手を伸ばすことができなかった。
名前を呼ぶことさえ、どこか禁じられているようで。
一方、紫もまた、自室の窓を開けて夜風を受けていた。
(好き、だけじゃ足りないのかな)
仕事の評価も、信頼も、少しずつ積み重なってきた。
でも、そこにある感情が“好き”だけなら、光さんにとっては余計なものになるのだろうか。
同じ夜、違う場所で、二人は眠れずにいた。
近づけば壊れる。
けれど、離れれば忘れられるわけでもない。
その矛盾だけが、静かに胸の奥に残っていた。




