第18話 「名を呼べぬ夢」
午前のフロアは、いつもより少し硬い空気をまとっていた。
プロジェクトは次のフェーズに進み、作業の速度が求められている。
紫は差し替え資料の束を抱え、関連会社対応の窓口に向かった。
席に近づくほど、背筋が自然と伸びる。
六条玲香のデスク。
「失礼します。差し替えの件で……」
玲香は顔を上げ、穏やかに会釈した。
「藤木さん。お願い。座って」
声は冷静で、余計な感情がない。
“重役補佐”という肩書きにふさわしい、端正な仕事の温度だった。
玲香は画面を指し、短く要点を並べる。
「このスライドの順番、逆。こっちが先。
それと、数値の根拠は注釈で逃がさず、本文に入れて。読み手は急いでるから」
「はい」
「あと、用語統一。『稼働率』と『稼働』が混ざってる。細部は信用に直結するわ」
「……すみません。すぐ直します」
玲香は責めない。
ただ、淡々と“完成形”を見せる。
紫はふと、昨日の会議で言われた言葉を思い出した。
――あなたの言葉を入れなさい。
玲香の指摘はいつも“正しい”。正しいからこそ、怖くなる時がある。
修正作業が一段落し、紫は資料を閉じて頭を下げた。
「ありがとうございました。すぐに反映して、光さんにも共有します」
その瞬間だった。
玲香の指が、ほんのわずか止まった。
視線が、紫の手元ではなく――宙を見たような間。
「……光さんに?」
声は平静なのに、空気が一拍だけ固くなる。
「はい。昨日、“この方向で行こう”って……」
紫が言い終える前に、玲香はすっと視線を外した。
まるで、そこに触れてはいけない線があるかのように。
すぐに彼女は笑った。
明るい笑いではない。自分を笑うような、薄い笑い。
「……あなた、強いのね」
「え……?」
紫は思わず、固まった。
玲香はモニターから目を離さずに続ける。
「私はね。強く見せるのが上手いだけ。
“平気”な顔をして、それで……たいてい、手遅れになる」
紫は返す言葉を探したが、見つからなかった。
玲香は紫を責めていない。
ただ、自分自身の何かをこぼしている。
しばらく沈黙が落ちた後、玲香はようやく紫を見る。
「藤木さん。ひとつだけ言う」
声色は変わらない。けれど、そこに“頼む”が混ざっていた。
「近づくなら、軽い気持ちはやめて。
あの人は、あなたが思うほど簡単じゃない」
紫の喉が、小さく鳴る。
「……はい」
「……あなたが壊れたら、光さんも壊れる。
それだけは、覚えておいて」
玲香は言い切ると、すぐに椅子を引いて立ち上がった。
仕事の人間に戻るために、感情を片付けるように。
「資料、二時間後までに。間に合う?」
「はい。やります」
紫は頭を下げ、席を離れた。
背中に残るのは、玲香の言葉の温度だった。
(怖い……でも、優しいわけでもない。
……ただ、痛い)
それが玲香の“感情の一歩”だった。
昼休み。
紫は給湯室で紙コップを握ったまま、ぼんやりしていた。
自分の心がどこに向いているのか、輪郭が掴めない。
背後から声。
「紫さん」
葵雅だった。
「葵さん……」
葵は紫の顔を一目見て、すぐに分かったように言う。
「六条さん、言い方が下手でしょう」
紫は小さく笑いそうになり、でも笑えなかった。
「……怖かったです。
でも、嫌な人だとは思えなくて……余計に」
「うん。それが一番やっかい」
葵は淡々と、ペットボトルのキャップを開けた。
「聞いて。
怖いなら、まず仕事に戻しなさい」
「……え」
「恋に飲まれた瞬間、主導権を失う。
紫さんは、そういうタイプじゃないでしょう?」
紫は言い返せず、頷いた。
「六条さんの言葉、全部が嘘じゃない。
でも、あの人の痛みを紫さんが背負う必要もない」
葵は紫を見た。
「紫さんは、紫さんの足で立つ。
それだけ。光さんのためでも、六条さんのためでもない」
紫は胸の奥が少し落ち着くのを感じた。
「……はい。ありがとうございます」
「礼はいらない。
私は、私の美学で動いてるだけ」
葵はそう言って、軽く笑った。
優しいだけではない。甘やかさない。
けれど確かに、紫を立たせる人だった。
夜。
紫は帰宅し、シャワーを浴びても、玲香の言葉が消えなかった。
“光さんは簡単じゃない”
“壊れたら、彼も壊れる”
スマートフォンを伏せ、目を閉じる。
――意識が沈んでいく。
夢。
石畳の路地。鈴の音。揺れる灯。
以前の夢に似ている。
だが今夜は、空気が少しだけ澄んでいた。
御簾がある。
紫はその前に立ち、そっと手を伸ばした。
向こうに、人影。
背中が見える。
細い肩。まっすぐな立ち姿。
――光さんに似ている。
「……光、さん……」
呼びかけた瞬間、空気が凍った。
> 「名を呼ぶな」
どこからか、静かな声が落ちる。
紫の指先が止まる。
御簾が揺れ、距離が裂ける。
届きそうだったのに――遠い。
そのとき、紫は確信した。
向こう側にも、誰かがいる。
自分だけの夢じゃない。
――同じ夜。
光源次もまた、眠りの底に落ちていた。
月明かりの庭。白砂。桜の影。
彼の前に、灯の下の横顔が現れる。
紫に似ている。
だが、輪郭が少し違う。
それでも、胸が痛む。
手を伸ばす。
> 「近づくな」
声が、はっきり響いた。
> 「恋では、辿り着けぬ」
源次の胸が強く脈打つ。
(……まただ。これは夢じゃない)
息を呑む。
同時に、鈴の音が鳴った。
御簾が揺れる気配。
――どこかで、誰かも同じ場所にいる。
源次は、声にならない声を喉元で押し殺した。
「藤木さん……?」
名前を呼びかけた瞬間、世界が裂けた。
距離が、崩れる。
灯が消える。
月が翳る。
そして――二人は同時に目を覚ました。
午前四時。
紫は息を荒げ、枕元のスマホを掴んだ。
通知はない。けれど、胸の奥がまだ震えている。
(いまの夢……光さんも……?)
源次は天井を見つめたまま、低く息を吐いた。
「……名を呼ぶな、か」
誰の声なのか。
何を止められているのか。
恋では辿り着けない――それは何を意味する?
答えは出ない。
ただ、“同じ場所に誰かがいた”感覚だけが、確かに残っていた。
翌朝。
社内ロビー。
紫がエレベーターを待っていると、源次が視界に入った。
目が合う。
「……おはようございます、光さん」
「ああ。おはよう、藤木さん」
一拍の沈黙。
昨夜の夢の残り香が、言葉を邪魔する。
「……昨日の資料、助かった。ありがとう」
「いえ……こちらこそ」
それだけ。
いつもなら続くはずの言葉が、今日は続かない。
源次は少しだけ視線を落とし、静かに言った。
「無理はしないで。
……君はちゃんと進んでる」
紫は頷いた。
けれど胸の奥が、ちくりと痛む。
(近づけば、壊れる?)
源次もまた、同じ痛みを抱えていた。
(近づけば、何かを壊す)
二人は、すれ違うように歩き出す。
その背中を、少し離れた場所から六条玲香が見ていた。
嫉妬ではない。怒りでもない。
ただ、苦い微笑。
玲香はスマホを取り出し、メモアプリを開く。
打って、止める。
「光さん。
忘れたいのに、忘れられない」
数秒、画面を見つめた後、玲香はそれを消した。
そしてスマホを伏せ、背筋を伸ばす。
(……私は、まだ立っていられる)
そう自分に言い聞かせるように。
ロビーのガラスに映る三人の距離は、近いのに交わらない。
それぞれの矜持が、それぞれの痛みを抱えたまま――。




