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第17話 「触れられない距離」

――夢の中で、紫は立ち尽くしていた。

 石畳の路地。

 どこか懐かしく、それでいて見覚えのない街並み。

 軒先に吊るされた灯が揺れ、遠くで鈴の音が鳴る。

 ふと視線を上げると、御簾の向こうに人影があった。

 白い衣。

 顔は見えない。

 けれど、確かに――こちらを見ている。

 > 「……まだ、名を呼んではなりません」

 声だけが、静かに落ちてくる。

 その瞬間、景色が歪んだ。

 御簾はガラスに変わり、石畳はアスファルトに溶ける。

 見慣れた通勤路。

 朝の交差点。

 ――そこに、光源次が立っていた。

 呼ぼうとした瞬間、距離が一気に遠ざかる。

 伸ばした指先は、空を切った。

 「……っ」

 紫は、はっと目を覚ました。

 胸の奥がざわついている。

 切なさとは違う。

 恋の高鳴りとも違う。

 (……なんだったの、今の……)

 枕元のスマートフォンが、朝の光を反射していた。

 午前。

 藤ヶ原グループ本社。

 紫は資料を抱え、会議室へ向かっていた。

 一区切りついたプロジェクトは、次のフェーズに進もうとしている。

 ――責任者選定。

 その言葉が、紫の胸に重くのしかかっていた。

 会議室の中。

 資料に目を落としながら、六条玲香が静かに口を開く。

「藤木さんの分析、合理的です。感情に寄らず、現場と数字の両方を見ている」

 一瞬、室内の空気が動いた。

 紫は息を呑む。

 玲香は紫を見ず、あくまで資料に視線を落としたまま続けた。

「このフェーズでは、彼女の視点が有効でしょう」

 それは、擁護でも譲歩でもなかった。

 純粋な評価だった。

 会議後。

 廊下に出た紫は、思わず足を止めた。

 (評価された……でも……)

 胸の内に広がるのは、喜びよりも重圧だった。

 給湯室。

 紫がカップを手にしていると、背後から落ち着いた声がした。

「藤木さん」

 振り返ると、葵雅が立っていた。

「……葵さん」

 自然に、そう呼び合える距離。

 

葵は紫の表情を一目見て、少しだけ目を細めた。

「今にも責任感に押しつぶされそうな顔ね」

「……そんな…ことは……」

「いいえ。

評価され始めた人は、必ず一度、ひとりになるの」

葵はそう言って、カップに静かにお湯を注いだ。

「周りは期待するし、

でも代わりに“簡単に助けてもらえなくなる”」

紫は黙って、その言葉を受け止めていた。

「源次さんはね、

守ってくれる人じゃないわ」

一拍、間を置いてから、葵は続ける。

「仕事でも、人でも。

無意識に“隣に並べるかどうか”を見ている人」

紫の胸が、静かに鳴った。

「だから、怖くなるのは自然よ。

でも……逃げないで」

葵は紫を見つめ、はっきりと言った。

「あなたは、ひとりで立てる。

 それが分かってるから、私は……応援する」

 その言葉に、紫の胸が少しだけ軽くなる。

「……ありがとうございます」

「礼はいらないわ。

 これは、私自身の選択でもあるから」

 葵はそう言って、微笑んだ。

 その夜。

 光源次は、静かな部屋で眠りに落ちていた。

 夢。

 炎はない。

 代わりに、月明かりに照らされた庭が広がっている。

 白砂。

 桜の影。

 その奥に、人影が立っていた。

 紫に似ている。

 けれど、確かに違う。

 > 「近づいてはなりません」

 声が、はっきりと響く。

 > 「恋では、辿り着けぬ」

 源次は、はっと目を覚ました。

 心臓が強く脈打っている。

「……これは、夢じゃないな」

 恋の延長ではない。

 感情の投影でもない。

 何かを思い出しかけている感覚――。

 源次は天井を見つめ、低く息を吐いた。

 翌日。

 社内ロビー。

 紫と源次は、すれ違うように立ち止まった。

「……おはようございます、光さん」

「ああ。おはよう、藤木さん」

 一拍の沈黙。

 言葉は、喉元まで来ているのに出てこない。

「昨日の件……」

「……はい」

 だが、その先が続かない。

 源次は視線を逸らし、静かに言った。

「無理はしないで。君は、ちゃんと進んでる」

 それは優しさだった。

 けれど、どこか距離を保つ声。

「……はい」

 紫はそう答えたが、胸の奥がちくりと痛んだ。

 (好き、だけじゃ……足りない)

 源次もまた、同じことを思っていた。

 (近づけば、何かを壊す)

 二人は、それ以上何も言わず、それぞれの方向へ歩き出す。

 その背中を、少し離れた場所から葵が見ていた。

 夜の窓ガラスに映る二人の距離は、

 近くて、決して触れ合わない。

 ――触れられない距離。

 それが、今の二人の正確な位置だった。


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