第16話 それぞれの場所、それぞれの矜持
朝の会議室には、まだプロジェクターのランプだけが灯っていた。
ブラインド越しの光がテーブルの上に薄く落ちている。
紫は、一番端の席でノートパソコンを開きながら、そっと深呼吸をした。
(だいじょうぶ……今日の資料は、何度も見直したし……)
今日の午後には、藤ヶ原グループと関連会社の合同ミーティングがある。
その事前打ち合わせとして、午前中に「予備レビュー」が設定されたのだ。
紫の担当は、社内アンケート結果の分析パート。
まだ入社して間もない彼女にとっては、大きなチャンスでもあり、同時にプレッシャーでもあった。
会議室の扉が開く。
「おはよう、藤木さん」
振り向くと、光源次が資料のファイルを片手に立っていた。
「あ……おはようございます、光さん」
自然と背筋が伸びる。
源次は紫の画面を一瞥し、スライドの構成を確認する。
「……うん。ここのグラフの見せ方、いいね。色分けも分かりやすい」
「よかった……昨日、何度も直したので」
「君の言葉で書けてる。そこがいちばん大事だよ」
短いけれど、その一言は紫の胸をふっと軽くした。
ほどなくして、ほかのメンバーも集まってくる。
そして、少し遅れて、六条玲香が会議室に姿を見せた。
「お待たせしてごめんなさい。前の会議が押してしまって」
落ち着いた声。黒のタイトスカートにジャケット、視線を受け止めるような冷静な瞳。
関連会社の重役補佐としての存在感は、会議室の空気を一段引き締める。
「では、始めましょうか」
玲香が席につき、進行役の部長が軽く会釈する。
何本かの資料レビューが進み、やがて紫の番が回ってきた。
「それでは、社員アンケート分析のパートについて、藤木さんから」
「は、はい」
立ち上がり、プロジェクターの前に出る。
紫は少し震える声を抑えながら、事前に練習した通りに説明を始めた。
――内容は、悪くない。
数字の扱いにも、予想よりずっと慣れてきている。
だが、最後のまとめのスライドに差しかかった時だった。
「……以上の結果から、社員のモチベーション向上には、情報共有とフィードバックの――」
「ちょっといいかしら」
玲香の声が、すっと入った。
紫の言葉が途切れる。会議室の視線が一斉に玲香へ向いた。
「今のまとめ、“よくある結論”としては正しいと思うわ。でも――」
玲香は組んでいた腕をほどき、指先でテーブルを軽く叩いた。
「藤木さん、あなた自身は、ここから何を感じたの?」
「……わ、たし……ですか」
「ええ。数字やアンケートのコメントじゃなくて。
あなたが、同じフロアで働いていて、日々の空気を感じてきた、その感覚」
紫は一瞬、言葉を失った。
スライドには、きれいに整理された結論が並んでいる。
しかしそこに“自分の声”がどれだけ乗っているのか――尋ねられた途端、自信が揺らいだ。
「わたしは……その……」
沈黙が落ちる。
「……“社員の声を大事にしたい”って書いてあるけど、それは誰の言葉? 会社のスローガン? それとも、あなた自身?」
玲香の声は落ち着いている。責めるような調子ではない。
なのに、紫の胸にはじわじわと熱がこみ上げてくる。
(わたしの……言葉……)
頭の中が真っ白になりかけたそのとき――
「補足してもいいですか」
横から、柔らかな声が入った。
葵雅だった。
いつの間にか、会議室の後方の席に座っていたらしい。
手元の資料に目を落としたまま、静かに口を開く。
「このアンケートのコメント欄、私も全部読ませてもらいました。
“最近、話を聞いてもらえる場が増えた気がする”って書いている人、多かったですよね?」
「……はい」
紫がうなずくと、葵は続ける。
「ここ数ヶ月で、現場からの意見を拾うミーティングを増やしたのは、光さんと……藤木さんの提案です。
だから、この“情報共有とフィードバック”という言葉には、ちゃんと“彼女の仕事”が反映されていると思います」
玲香の視線が、少しだけ葵へ向く。
「つまり、これは単なるスローガンじゃなくて――」
葵は、ほんの少しだけ微笑んで言った。
「“自分の足で立とうとしている新人の視点”だと、私は受け取りました」
会議室の空気が、すこし和らぐ。
部長も「そうだな」とうなずき、他の社員たちも資料に目を落とし直した。
玲香は数秒、紫とスライドを見比べてから、小さく息を吐いた。
「……なるほど。言いたかったことは、そちらのほうね」
そして、紫をまっすぐに見る。
「藤木さん。私はね、“綺麗な結論”が嫌いなわけじゃないの。ただ――あなた自身の言葉が、一行でも入っていたら、もっと強く届いたと思う」
「……はい」
紫は緊張した喉をなんとか動かし、頭を下げた。
「ご指摘、ありがとうございます。もう一度、自分の言葉で整えてみます」
玲香はそれ以上追及せず、「期待してるわ」とだけ言って目を伏せた。
そのやりとりを、光源次は黙って見ていた。
紫の手が、かすかに震えているのを、彼だけが気づいていた。
昼休み。
オフィスの隅の休憩スペースで、紫は紙コップを両手で包み込むように持っていた。
(……わたしの、言葉……)
アンケートの数字も、グラフも、コメントも、全部、自分なりに読み取ったつもりだった。
だけど、「自分はどう感じたのか」と問われた途端、足元が揺らぐ。
「……紫さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、葵がトレーを片手に立っていた。
「あ、葵さん……」
「隣、いい?」
「はい」
葵は紫の向かいの席に腰を下ろし、ペットボトルの紅茶のキャップを開けた。
「午前中、お疲れさま。ああいう場、緊張するわよね」
「……はい。正直、足がまだ少し震えてます」
紫の正直な言葉に、葵はふっと笑った。
「でも、ちゃんと言い返せたじゃない。“もう一度、自分の言葉で整えます”って」
「……あれは、葵さんが助けてくださったからです。
わたし、自分のやってきたことを、自分で信じきれてなくて……」
視線が落ちる。
葵はストローをくるくると回しながら、少しだけ真面目な顔つきになった。
「紫さん。さっきの六条さんの質問、きつく感じた?」
「……正直に言えば、怖かったです」
「うん。……怖いよね」
あっさりと認めるその言い方に、紫の肩から少し力が抜けた。
「でもね、あの人は“壊すため”に聞いてるわけじゃないのよ」
「え……?」
「六条さんは、自分が一度“全部を失った側”だから。
中途半端な覚悟で何かを掴んで、それで壊れるくらいなら、最初から問い直すタイプ」
紫は目を瞬いた。
葵は、視線を少しだけ遠くに投げる。
「……それでも、紫さんが潰されそうになったら、私は止めるけどね」
その声色には、柔らかさと同時に、芯の強さが含まれていた。
「葵さん……?」
「勘違いしないで。
私、紫さんが“いい子だから”守るとか、そういうつもりじゃないの」
葵は紫を真正面から見た。
「私ね、昔、自分の気持ちをちゃんと説明できなくて、
仕事と感情をごちゃまぜにして、ひとりで暴走して、結果的に――大事な人との関係を壊したの」
紫は、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「それが……源次さんとの……?」
問いかけると、葵は少しだけ目を伏せて笑った。
「……さぁ、どうかしら」
肯定とも否定とも取れる曖昧な返事。
けれどその笑いには、少しだけ滲んだ痛みがあった。
「だからね。紫さんには、ちゃんと自分の言葉で話せる人でいてほしいの。
“誰かのため”じゃなくて、“自分の矜持”のために」
「……矜持」
「うん。六条さんにも、光さんにも、私にも、それぞれの矜持がある。
紫さんにも、きっとあるはずよ」
紫は、自分の手のひらを見つめた。
震えていた指先が、すこしだけ落ち着いていく。
「……わたし、怖いです。
光さんにどう見られるかとか、六条さんにどう評価されるかとか、葵さんにどう思われるかとか……」
「怖くていいのよ。それ、ちゃんと向き合おうとしてる証拠だから」
葵はすっと立ち上がった。
「紫さん」
「はい」
「もし、誰かが――たとえば六条さんが、あなたを“仕事のための駒”みたいに扱おうとしたら、
そのときは、遠慮なく私の名前を出して」
「え……?」
「“葵さんに相談します”って。
それだけ言えばいい」
紫は目を丸くした。
「……そんなことしたら、葵さんに迷惑が……」
「そのくらい、背負える自信はあるわ。
元婚約者の顔も、立場も、全部使ってあげる」
そう言って微笑む葵の横顔は、どこまでも静かで、どこまでも強かった。
夕方。
合同ミーティング本番を前に、会議室前の小さなホールがざわついている。
紫は印刷し直した資料の束を抱えながら、深呼吸をひとつ。
(……大丈夫。さっき、ちゃんと直したし……)
そのとき、横から声がかかった。
「さっきの資料、見せてもらったわ」
六条玲香だった。
紫は反射的に姿勢を正す。
「六条さん……先ほどは、失礼しました」
「謝る必要はないわ。あれくらいのやりとりで折れるようなら、ここの空気ではやっていけないもの」
言葉は相変わらず辛口だが、表情は朝ほど硬くはない。
「さっきの“修正版”――ちゃんとあなたの言葉が入っていたわ」
「……本当ですか?」
「“情報共有の場が増えたことで、社員の表情が変わってきたと感じます”――あの一文」
紫は、小さくうなずいた。
「あれは、わたしの、実感でした」
「ええ。だから、それでいいの」
玲香は少しだけ視線を落とす。
「……正直に言うとね。私、あなたを見ると落ち着かないの」
予想もしなかった言葉に、紫の胸が跳ねた。
「わたし、ですか……?」
「そう。――あなたが、彼のそばにいるから」
沈黙。
玲香は、自嘲気味に微笑んだ。
「私は、一度あの人を失っている。
自分の感情の処理の仕方を間違えて、勝手に傷ついて、勝手に距離を取って……気づいたら、戻れなくなってた」
紫は息を呑んだ。
「だから、また誰かに取られるんじゃないかって、どうしても怯えてしまうのよ。
その“誰か”が、今のところ――あなたに見えるだけ」
その声は、嫉妬というよりも、深い恐れと悲しみが滲んでいた。
「……六条さん……」
「勘違いしないで。あなたを責めてるわけじゃないの。
ただ――私の中に、そういう“醜い部分”があるって、ちゃんと自分で認めておきたかっただけ」
玲香は、少しだけ視線を外に向けた。
「でもね。だからと言って、あなたを潰すつもりもないわ。
そんなことをしたって、あの人は、きっと私を選ばない」
その一行が、静かに紫の胸に刺さる。
「……わたし、まだ自分の気持ちが何なのかもよく分かっていません。
ただ、光さんと一緒に仕事をしていると、前を向ける気がするだけで……」
「それで十分よ」
玲香は、紫を正面から見た。
「あなたが自分の足で立とうとしている限り――私はあなたを認める。
ただ、その影でうずくまっている私の醜さも、どこかで覚えておいて」
そう言うと、玲香は踵を返した。
その後ろ姿を見送る紫の隣に、ふと気配が現れる。
「……藤木さん」
「光さん」
いつの間にか、源次がそこに立っていた。
さっきの会話をどこまで聞いていたのかは分からない。だが、彼の表情は穏やかだった。
「緊張してる?」
「……はい。少しだけ」
「さっきの資料、見たよ。
“表情が変わってきたと感じます”――あの一文、僕は好きだな」
紫の胸が、少しだけ熱を帯びる。
「それは……光さんが場を作ってくださったからで……」
「違うよ。場は用意できても、そこに出てきてくれるかどうかは、みんな次第だ。
それを“変わってきた”って感じられたのは、藤木さんがちゃんと周りを見てるからだと思う」
「……ありがとうございます」
「僕は僕で、自分のやり方しかできない。
でも――君が君の言葉を持ってくれるなら、それがいちばん心強い」
そう言って、源次は扉のほうを向いた。
「行こうか。そろそろ時間だ」
「……はい」
紫は資料を抱き直し、隣に並んで歩き出す。
合同ミーティングが終わり、夜のオフィスに静けさが戻った頃。
フロアの端の、誰もいないラウンジスペース。
自販機の明かりだけがぽつんと灯るその場所で、葵は窓の外の夜景を眺めていた。
「――珍しいわね。こんな時間まで残ってるなんて」
背後から聞き慣れた声がして、葵は振り返る。
「六条さん」
「さっきのミーティング、お疲れさま。
藤木さん、ずいぶんと頼もしくなったわね」
「ええ。……負けそうで、ちょっと悔しいくらい」
葵は冗談めかして笑った。
玲香は、少しだけ葵に近づく。
「あなた、さっき彼女のことをフォローしたでしょう。
“自分の足で立とうとしている新人の視点”とか、綺麗な言い回しをして」
「事実ですから」
葵は、視線をそらさずに答える。
「それとも……気に障りました?」
「いいえ。ただ――」
玲香は、少しだけ目を細めた。
「あなたが“紫さんの味方”に回ったのは、正直、意外だった」
「そうですか?」
「だってあなた、私と同じ側に立つ人間だと思っていたから」
その一言に、空気がぴたりと張りつめる。
葵は、ほんの少しだけ目を伏せ、それから言った。
「……今でも、似ている部分はあると思いますよ。
失うのが怖いところとか、素直になれないところとか」
玲香は苦笑した。
「否定できないわね」
「だからこそ、です」
葵の声音が、すこしだけ低くなる。
「紫さんを“駒”にするような真似は、私は見たくないんです」
玲香の瞳が、わずかに揺れる。
「……私を、そんな風に見ているの?」
「いいえ。六条さんは、そんなに安っぽい人じゃない。
だからこそ、言っておきたかったんです」
葵は窓の外に目を向けた。
「源次さんは、誰かを踏み台にして笑う人が嫌いです。
たとえその結果、自分が選ばれなくても」
玲香は、ゆっくりと息を吐いた。
「あなた、随分とはっきり言うのね」
「昔の私は、ぼかしてばかりでしたから。
そのツケを払ったのが、今なんだと思っています」
沈黙。
やがて、玲香は背筋を伸ばした。
「安心して。
私のやり方は、きっとあなたの想像よりは“上品”よ」
「信じてます」
「でもね――彼を諦めるつもりもないわ」
その宣言は、静かで、揺るぎがなかった。
葵は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「それでいいと思います。
私も、自分の立場から紫さんを守るだけですから」
ふたりの視線が、夜景の向こうに並ぶ。
それぞれが、それぞれの矜持を胸に抱いたまま――
まだ、誰も知らない結末に向かって、静かに歩き続けていた。




