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第15話「春にほどけた手」

春の風が、夜桜の花びらをさらっていく。

 街灯の光が淡く揺れ、舗道を淡い薄紅に染めていた。


 仕事を終えた光源次は、ひとり歩道橋の上に立っていた。

 スーツのポケットには、使い古された銀の指輪。

 それを掌に載せて眺めるたび、胸の奥が少しだけ熱を持つ。


 ――その時、背後から声がした。


 「……光さん。」


 振り向くと、葵雅がそこに立っていた。

 夜の風に揺れる髪、肩には薄いショール。

 彼女の表情は穏やかで、それでいて、どこか懐かしい影をまとっていた。


 「こんな時間まで、まだ残ってたのね。」


 「うん。少し、整理したくて。」


 二人はそのまま、無言のまま並木道へと歩き出した。

 春の夜気が頬を撫で、かすかな沈黙が心地よく流れていく。


 「……ねぇ、覚えてる?」

 「何を?」

 「この道。あの頃も、こうして歩いた。」


 源次は苦笑する。

 「仕事の話ばかりして、君に呆れられた夜だろ。」

 「そう。あなたはいつも未来の話ばかりしてた。

  “きっと上に行ける”“夢を形にしたい”って。」


 葵は少し歩みを止め、夜空を見上げた。

 「その夢を応援するつもりだったの。

  でも、いつの間にか私まで背伸びしてた。」


 彼女の声は、どこか遠くの記憶をなぞるようだった。


 「私ね、あの頃……あなたの隣にいるために、

  自分を追い詰めてたの。

  “完璧な人でいなきゃ、釣り合わない”って。」


 源次は何も言えなかった。

 それは、彼自身も気づいていた痛みだった。


 「気づいたときには、もう怖くなってたの。

  このままじゃ、いつか壊れてしまうって。

  だから――離れたの。」


 「……そうだったのか。」


 源次の声は低く、けれど責める色はなかった。

 ただ、静かに受け止めているようだった。


 「君を責めたことはないよ。

  ただ、どうしても分からなかった。

  何が僕に足りなかったのか。」


 葵は微笑んだ。

 「足りなかったんじゃない。

  ただ、時期が合わなかったの。

  あなたは未来を見てた。私は、いまを守ろうとしてた。

  それだけ。」


 風が吹き抜け、桜の花が二人の間を舞った。

 指先がすれ違う。だが、どちらもその手を掴まなかった。


 「ねぇ、光さん。

  あなたがあの子(紫さん)と話してるのを見たとき、

  ようやく分かったの。

  あなたのまっすぐさを、もう一度、信じたいって。」


 「……ありがとう。」


 源次はその言葉を胸の奥にしまい込むように呟いた。


 葵はそっと息を吐き、笑った。

 「ねぇ、覚えてる? 私、あなたの手をよく掴んでたよね。」

 「覚えてるよ。手が小さくて、でも強かった。」

 「今はもう、掴まない。掴めないけど――

  それでいいの。あの手が、誰かを支えてるなら。」


 沈黙が落ちる。

 だが、その沈黙はもう、痛みではなかった。


 葵は一歩下がり、背を向けた。

 「じゃあね、光さん。お互い、頑張りましょう。」


 源次は、ただ「うん」とだけ答えた。

 その声は優しく、夜に溶けていった。


 残された彼の手の中で、桜の花びらが一枚、ほどけるように落ちた。

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