第12話 揺れる記憶、揺さぶられる心
朝の光がガラス張りのビルを照らす。
藤ヶ原グループ本社、執務フロア。
紫はデスクに座りながらも、書類に集中できずにいた。
昨日、葵とのやり取りが何度も頭をよぎる。
> 「源次さんって、昔から優しくて、でも……その分、近づくと苦しくなることもあるのよ」
その言葉が、胸に棘のように残っていた。
――源次さん、と自然に呼んでいた。
その距離感が、紫にはどうしようもなく気になった。
(……私なんて、まだ“藤木さん”って呼ばれているだけなのに)
小さくため息をつき、机の上のペンを強く握った。
午後。
打ち合わせを終えて廊下に出た紫は、角を曲がったところで思わず足を止めた。
窓際に、源次と葵が並んで立っていた。
二人とも資料を抱えたまま、穏やかに話している。
「変わらないわね、源次さん」
葵の声は柔らかく、けれどどこか懐かしさを含んでいた。
「……変われないだけですよ」
源次は視線を窓の外に向けたまま答える。
紫の胸がきゅっと締めつけられる。
それ以上聞いてはいけない気がして、彼女は足早にその場を離れた。
社内カフェ。
偶然席を取った紫の前に、玲香が姿を現した。
「ここ、いいかしら」
「……どうぞ」
向かい合って座ると、玲香は静かに微笑んだ。
「この前の報告会、見ていたわ。よく頑張ったじゃない」
「……ありがとうございます」
紫は思わず背筋を伸ばした。玲香の視線には、いつもどこか探られるような鋭さがある。
「藤木さん。……あなた、葵さんとは仲が良いの?」
唐突な問いに、紫は一瞬言葉を失った。
「い、いえ……特別そういうわけでは……」
玲香はその反応をじっと観察し、意味深に笑った。
「そう。ならいいの」
その一言に、紫は心を揺さぶられる。
――玲香も、源次のことを意識しているのだ。
夜。
自宅の書斎で、源次は資料の整理を終え、椅子に身を沈めた。
静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
ふと、意識が遠のいた。
夢の中――
御簾の向こうで、女のすすり泣く声がする。
灯りは淡く、香の匂いが漂っている。
「……お願い。行かないで……」
振り返ろうとした瞬間、目が覚めた。
胸は汗で濡れ、息が荒い。
「……まただ」
源次は額に手を当て、深く息を吐いた。
夢の中の声が誰なのか、思い出そうとしても霞んでしまう。
翌朝。
出社した紫は、ビルのエントランスでふと足を止めた。
葵と玲香が並んで歩いている姿が目に入った。
二人の表情に直接的な敵意はない。けれど、その空気には言葉にできない緊張感が漂っていた。
紫の胸に、小さな痛みが走る。
(……私、何を怖がってるんだろう)
歩き出しながら、紫は初めて自分の気持ちと正面から向き合わなければならない、と強く感じていた。
――交錯する視線の先に、まだ知らない未来が静かに揺れていた。




