第11話 交錯のグラデーション
朝の社内には、まだ人の気配がまばらだった。
紫はコピー機の前に立ち、今日の会議で使う資料の印刷が終わるのをじっと待っていた。会議室では源次がすでにプレゼン資料のレイアウトを確認しているはずだ。彼と初めて共同で資料を作った。ひとつひとつの言葉に意味を込め、妥協せずに仕上げた成果だ。
トレイに滑り出てきた紙束を丁寧に揃える。ふと背後に気配を感じて振り向くと、そこには雅葵が立っていた。
「おはよう、藤木さん」
「……おはようございます、葵さん」
紫は一瞬、動きを止めた。だが表情は崩さず、にこやかに返す。
「今日は大事な報告会だって聞いたわ。ずいぶん気合い入れてるみたいね?」
葵の声音は柔らかい。だが、その奥に何かを見透かすような冷たい響きが混じっていた。
「はい。まだ未熟ですが、できる限りのことは……」
「そう。……源次さんの、指導?」
その名を出された瞬間、紫の喉が小さく鳴った。返す言葉を探す間もなく、葵はふわりと微笑んだ。
「彼の言葉って、少し刺さるけど――でも、真っすぐでしょ。あなたなら、わかると思って」
まるで、昔の自分をそこに重ねているような口ぶりだった。
紫は、言葉をのみ込んで軽く頭を下げると、足早に会議室へと戻った。
「……藤木さん。タイムスケジュールの項目、こっちの配色のほうが視認性が高い」
源次は資料の一枚を指で示しながら言った。声は淡々としていたが、細部に対するこだわりと、紫への信頼がそこには感じ取れた。
「はい、すぐに修正します」
紫は端末を開き、指摘された点を即座に調整した。自分がついていけるか不安だったこのプロジェクトも、源次と向き合ってから、仕事の手応えを少しずつ感じるようになってきた。
「他は……悪くない。特にこの統計の解釈、面白い視点だ。よく掘ったね」
その言葉に、紫の手がぴたりと止まる。
「ありがとうございます……っ」
目を伏せたまま言った紫の声に、ほんの少し震えが混じる。
源次は続けて口を開いた。
「君は“感覚”で話さず、ちゃんと積み重ねる。だから、信用できるんだ」
目が合う。紫は言葉を返せず、ただうなずいた。
夕方。報告会は無事に終わり、紫は開放感と緊張の余韻に浸っていた。社内の一角、自販機前で缶コーヒーを手にしようとしたとき、再び雅葵の姿があった。
「お疲れ様。今日の資料、よくできてたわ」
「……恐縮です」
紫は深く頭を下げる。
「源次さんって、昔から優しくて、でも……その分、近づくと苦しくなることもあるのよ」
唐突な言葉に、紫は返事に困った。
「あなたは、強いのね」
「そんなこと……ありません」
「そう。でも、彼が君に見せている顔は……きっと、私が知らない顔よ」
葵の目が、ほんの一瞬、揺れた。それを紫は見逃さなかった。
夜。
社内の灯りが落ちる頃、源次はひとり、資料のファイル整理をしていた。そこへ紫がやってくる。
「……ありがとうございました。今日、私……少しだけ、自信が持てました」
「そうか。僕も、手を貸した甲斐があった」
「……これ、さっき買ってきたコーヒーです。お口に合うかわかりませんが」
紫が差し出した缶コーヒーを受け取り、源次は静かに笑った。
「君の成長には、少し驚かされたよ。だが、ここからが本番だ」
「……はい」
二人の視線がふと合い、どちらともなく目を逸らす。
その様子を、誰かが遠くから見ていた。
夜の廊下。葵雅は静かに踵を返すと、何も言わず、歩き去っていった。
―――交錯する視線の先に、まだ知らない未来が静かに横たわっていた。




