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第9話「揺れる花弁、揺らぐ視線」

午後、会議室フロアの廊下。


紫が書類を抱えて曲がり角を曲がると、前方から玲香が歩いてくるのが見えた。


「……失礼します」


紫は自然に脇へよける。だが、玲香は立ち止まり、すれ違いざまにふと声をかけた。


「その香水、変えた?」


「え……?」


紫は思わず足を止める。


「前より……ちょっと甘くなった気がしたの。違ったかしら?」


「いえ……たぶん、柔軟剤です」


玲香はくすっと笑った。


「そう。じゃあ、香りの記憶違いね」


どこか意味深な口調だった。

紫は笑顔で会釈しながら、なぜか背中に視線を感じて振り返る。


玲香はそのまま、歩き去っていた。


夜。


オフィス街の裏手にあるワインバー。

源次はカウンター席で静かにグラスを傾けていた。


「相変わらず、一人飲みね」


聞き慣れた声に顔を上げると、そこには玲香がいた。


「……偶然、か?」


「偶然ってことにしておいて」


玲香は隣に座ると、慣れた手つきで赤ワインを頼む。


しばらく無言のまま、グラスの縁を指でなぞっていた。


「ねえ、紫さんって……あなたの“今”の相手?」


唐突な問いに、源次はグラスを置いた。


「違う。職場の同僚だ」


「ふぅん」


玲香は、どこか納得したように笑う。その笑みに、皮肉の色が混じっていた。


「昔のこと、後悔してる?」


「……何を、だ」


「全部」


沈黙が落ちた。


過去に、確かに二人は付き合っていた。

だが、それを口にするでもなく、忘れたふりをするでもなく、ただその空気だけが二人を包んでいた。


玲香はワインを飲み干し、グラスを置いた。


「……また廊下で会いましょう」


それだけ言って立ち去る後ろ姿に、源次は声をかけなかった。


(全部が、まだ終わっていないような気がしていた)


夜道、玲香はスマートフォンを取り出し、画面を見つめる。


そこには、保存された一枚の写真。


……かつての源次と笑う自分。


今はもう戻らない瞬間。それでも、画面を閉じられずにいた。


そして画面が暗転する、その刹那。


ふと、思い出したのは“紫の上”の記憶だった。


胸を刺すような、誰かの選択と、誰かの微笑み。


「私は……また、選ばれないのかしらね」


玲香は、小さくつぶやいた。


風が吹いていた。

すべてを吹き飛ばすには、まだぬるい夜だった。


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