ネフ・デ・フゥーの船頭
第21回書き出し祭り第二会場に参加していた作品です。以下あらすじ
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気晴らしに海を見にいった後、「僕」は幻覚と幻聴に悩まされていた。そして乗ってしまったのだ。あるはずのない船に。誇大妄想の狂った船に。
テレビで見た、偉い学者が言っていた。ネフ・デ・フゥーを見たことがあるかと言っていた。あの泥舟を見たことがあるかと言っていた。
狂人の船。狂人を引き連れて回遊する泥舟。狂人を別の世界へ運びうる船。ここではないどこかに僕を連れていってくれるのであれば、そんな船に乗ってもいいのかもしれない。僕は狂った人間側なのだから。高度5mからの自由落下が終了しその位置エネルギーの威力を知る寸前、僕はそう考えてしまった。考えてしまったのだ。
春休みが始まって最初の土曜日、僕は海へと出かけた。なんとなく海岸線を見たかったのだ。一人で寝て過ごすのに飽きていた頃だった。数時間程度でいけそうな場所を選び、鈍行列車で向かっていった。往路で3000円だった。何をするでもなく電車に揺られているうちに、旅行に行くときは友達に声をかけるものだと心の底から思った。
電車を降り、さらにバスに乗って進んだ先。大きな岩がいくつも飛び出た海岸に僕はいた。何かすることがあるわけでもなく、崖の上からぼんやりと海を見下ろしていた。日はまだ高かったが、曇り空だからか他に旅行客はいなかった。地元民らしき男が一人、釣り竿を垂らしていただけだった。
「黒いんだな。海って」
離れたところで、波が岩礁に打ち付けられては帰っていく。その度に、さざめきとしては大きすぎる音が耳元に届いてきた。崖から眺める海の景色はなかなかに迫力があった。寄せては返す波が、海の表面に複雑な模様を作っていた。その形は一つにとどまることがなく、波が崖側に打ちつけられて帰ってくるたびに、新しい模様になった。ただ、海は夜を煮詰めたような黒色から変化することはなかった。薄灰色に染められた空とのコントラストが印象的だった。
「寒い」
春先とはいえ、曇り空だと冷え込む。ブルリと体が縮こまる。ポツリと独り言が口の隙間から漏れた。僕の思いなどお構いなしに、少し冷えた風が体を撫でる。その度に僕の中にある何かを吸い取られたような気がした。眠気とも違う、奇妙な感覚だった。
「おいで」
甘い、女性の声だった。もしかしたら男性だったかもしれない。若い声だったかもしれないし、年寄りの声だったかもしれない。僕は正直その時の瞬間を細かくは覚えていない。とにかく、声が聞こえたのだ。脳みそに直接囁きかけてくるような、それでいて遥か遠くから呼びかけているような、そんな声だった。
「おいで」
いつの間にか、甘い香りが立ち込める。視界が少し狭くなったような気がした。
「おいで」
ああ、声が一体どこから聞こえてきていたかわかった。黒い、黒い海の底から響いていたのだ。水底に、彼か彼女がいる。海底の玉座で、僕のことを待っている。呼び声が聞こえる。
「なにしてんだアンタ!!」
怒鳴り声と共に、いきなり肩を掴まれる。強い力で後ろに引っ張られ、僕はその場に尻餅をついた。硬い地面にお尻をぶつけるまで、僕は怒鳴り声の中身がなんなのか理解をしていなかった。座り込んだ姿勢のまま見上げると、怒り顔の男がいた。立ちあがろうとしたとき、ようやく自分が立っている場所に気がついた。崖の先端、後一歩踏み込めばそのまま落ちてしまう場所だった。内臓が迫り上がったかのような感覚だった。崖の下には、岩礁が槍のようにある。黒い海が、何事もなかったように波模様を作っていた。
「い、いえ。なにも、何もしてないです」
「......まぁ、死のうなんて考えんな。若いんだからさ」
男に安全な場所まで引き摺られながら、喉元から出た言葉はそれだけだった。男は長い沈黙の後、そう言って遠くに放り投げられていた釣り竿を片付け始めた。
「あの...すみません。あなたは、聞こえませんでしたか?」
「何がさ」
声が聞こえた、とでも僕は言うのだろうか。それは馬鹿げている。うまく形容する言葉が見つからず、もごもごと何かを言おうとしている僕を見て、男は怪訝そうな顔をした。とにかく言葉をつなげようとしている僕を遮るようにして、男が僕の肩を二度叩いた。
「ちなみにだが、女の幽霊が出た!みたいなくだらん噂はここにはない。兄ちゃんよ。帰んな帰んな。ここに居たっていいことはない。家帰って酒でも飲むんだな」
「僕、未成年です」
「おいで」と言われたんです。そう言うはずだったのに、喉でつかえて引っ込んでしまった。釣りの男に急かされて、僕もバス停へと向かっていった。
家に向かう帰り道だった。電車の窓から見えた海はやはり綺麗で、身震いするほどに黒かった。耳元で、微かに囁き声が聞こえた。耳に大音量で音楽を流し込み、聞こえていないふりをした。
その日からだった。僕の目に映る水が、黒色になったのだ。初めは、風呂の水だった。軽快な音楽と共にお風呂が沸きましたと聞こえたので風呂場に行くと、湯船に張られた水が真っ黒になっていた。そして風が吹いているわけでもないのに、あの海のように波が起きていた。何度目を擦っても、どれだけ入浴剤を混ぜ込んでも、ゾッとするような黒色から変わらなかった。また微かに、声が聞こえた気がした。
次はシャワーヘッドから出る水が、その次はキッチンの水道の水が。最後にはコンビニに売っているジュースさえも。自分の側の水という水が次々と深い黒色になっていった。
変わってしまった水を見るたびに呼び声が聞こえるのだ。そして、海に落ちかけた時のあの恐ろしさが何度も何度も目の前に現れるのだ。恐ろしくて、水に触れることすらできない毎日が始まった。
とはいえ、水を飲まない上に風呂にも入らない生活は辛く、僕の心はだんだんとささくれ立っていた。元々黒いコーラやコーヒーなどはなんとか口にすることができたが、僕の体は常に水分不足だった。水を見るだけで辛いのだから、体を拭くこと、服を洗うこともままならなかった。そのせいで、服は黄ばんで、体はいつも酸っぱい臭いがするようになった。しばらくして、バイト先から追い出された。
春休みが終わった後も、大学にはいけなかった。今の汚い姿で知り合いに会うのは恥ずかしかった。連絡も、全て無視した。そして今、僕は自宅近くの歩道橋からの投身自殺を試みた。
身投げをする人たちは、地面にぶつかった衝撃で死ぬ前に、ショック死するらしい。厳密に言うと、地面への衝突に備えて脳みそが勝手に機能をシャットダウンするようだ。
僕の頭がアスファルトに衝突した瞬間、バターのように地面が溶けた。スローモーション。アスファルトは海のように波を作り、さっきまで走っていた車は油を水に垂らした時みたいにアスファルト上に拡散していた。目に映る全てが二次元に飲み込まれていくような感覚。これが死の感触なのだろうか。車と同じように、地面に溶けて広がっていく体を自覚しながら、僕自身の意識もゆっくりとアスファルトの中に溶けていった。
「おーい。しんでるかー?」
僕の意識を起こしたのは、素っ頓狂な呼び声だった。意図的に音を外して、違和感を作り出しているような声だった。僕はゆっくりと目を開けた。瞼の隙間から飛び込んでくるのは、赤いランタンの光だった。そしてランタンを手から下げた男がしゃがみ込んでそばに座り、こちらを覗き込んでいる。ランタンは揺れていた。
男は、ボロボロの青紫のローブをまとっており、フードの中の顔は不自然なまでに暗くて見えなかった。ただその中で唯一、爛れた黄色の瞳が見えた。
「え!?なにこれなにこれ何これ!」
「んー?なにってふねのうえだよ。ふね」
そう言うと男は立ち上がり、僕に背を向けて歩き始めた。確かに僕が倒れていた場所は船、しかも帆船の上だった。
「ちがう!線!線が!」
それよりも、僕の体からは、輪郭がなくなっていた。代わりに、自分自身を外と区別するかのように太い黒線が皮膚の上を張っていた。手の骨の出っ張りや肌のシワ、産毛が全てオミットされ、ムラのない肌色に塗りつぶされていた。早い話が、僕の体はカートゥーン風になっていた。変わり果ててしまった両手で、自分の顔をベタベタと触る。鏡を見なくてもわかるほど、自分の目玉が大きくなっていた。まつ毛を一本抜いてみたが、抜いたそれは海苔か何かを三角形にカットしたようだった。
「んー。わるさがありあり。境界を越えたにもかかわらず、価値観を保持...我々の泥舟に乗船するに値するだけの価値観の異常性すなわち世界に対する真理の肯定方法及び神聖さが見られることに期待と喜びを見出すべきかそれとも否定と嫌悪を見せるべきか私にはわからない。現在の言動から察するに知能の発達自体も通常よりも遅れている気がするがこれは突然の異常事態の発生に対する防衛反応。平常状態と考えることは酷だろう。総じて!」
明後日の方向を向いたまま、目の前の男はとんでもない早口で長台詞を言い切った。一呼吸もしていなかった。男は一拍おいた後、こちらへを顔を向ける。そしてへたり込んでいる僕の方にありえない長さに首を伸ばして顔を覗き込んできた。爛々と、男の黄色い瞳が輝いている。
「ネフ・デ・フゥーへようこそ。狂人くん」
にいぃと、男は黄ばんだ歯を剥き出しにして、タチの悪い笑みを浮かべた。