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若き公爵の困惑

「私に大きな仕事が務まらないって、どういう意味よ!」


 豪奢な応接間に似つかわしくないエルネスタの怒号が響き渡る。

 あちゃあ、とユリウスは心の中で額を押さえ天を仰いだ。

 目の前では母親の手を振りほどいたエルネスタが、険しい表情を浮かべている。いや、それは幾分穏やかな表現だろう。今の彼女は全身の毛を逆立てて威嚇をする手負いの猫のようだ。

 自分の実の両親を前にしているというのに、菫色の瞳をわずかに紅くするほどに激昂している。これはその、相当に怒っている。いや激怒といって良いだろう。

 ああなった彼女にユリウスにも見覚えがあった。

 以前、屋敷に雇いあげたばかりの頃、彼女を試すためにユリウスが発した挑発的な言葉に対して同じように怒っていたのを思い出す。

 その時は突然のことに面食らってしまったものだが、今になってみれば自分の発した一言は彼女の尊厳を傷つけるものだったとわかる。大学時代に歯を食いしばって頑張ったという彼女の自負を、甘く見積もった自分が完全に悪かったと思える出来事だ。しかし雇用主であるユリウスが相手だったからか、怒り方も今回のものよりまだ数段控えめだった気がする。

 そう感じられるほどに今回の彼女の怒りようは激しかった。

 彼女の人となりを知らなかった自分なら怒られても仕方がないかもしれないが、実の両親、いや母親がエルネスタの性格を理解していないとは思えない。あんなことを口走ったら反発されるのは分かり切っているだろうに、とユリウスはエルネスタの母へ視線を走らせる。

 そしてユリウスはまた心のなかで額を押さえた。

 髪や瞳の色、目の大きさ、鼻の高さなど細かいところの造作はまったく似ていないけれど、なんと言うか、醸し出す雰囲気が娘とそっくりだったのだ。おそらく性格が表情に現れているのだろう。

 エルネスタは一度言い出したらなかなか引こうとしない。ということは母親である男爵夫人にもそういうところがあるのかもしれない。

 夫であるヅィックラー男爵はおろおろしながら自分の妻を座らせようとしているが、頭に血が上った夫人に手を払われている。もう一人の客はどうだ。立場も身分も低いことを弁えているのか、二人の喧嘩を心配そうに見つめているだけだ。


「はしたない真似はおやめなさい! 若い娘がそんな大きな声を出すものじゃありません!」

「先に大きな声を出したのはお母様でしょう! それより私に仕事ができないなんて言ったことを取り消して! 大学だって立派な成績で卒業したって連絡したじゃない! それに私、ヅィックラー領に戻るつもりなんてないわ!」

「学業と仕事は別です! あなたがどうしてもというから大学に行くことは許しましたけど、こんなことならやっぱり許さなければ良かった。もう二十も超えた年だというのに結婚もせずふらふらしているからこんなことになるのです! その髪も、お衣装も、そんなに肌が見えてしまってみっともない!」

「な、なんてこと言うのよ! このくらい王都では普通よ! ニ十歳で結婚しない女の子たちだってそれなりに多いんだから! それにもともと大学に行く前から私、卒業後は仕事したいって言ったでしょう! 今更戻ってこいなんて聞けるわけないわ!」


 ユリウスら三人の男たちが困っている間にも、母娘の言い合いはどんどんヒートアップしていく。

 自分の時は随分手加減されていたんだなと思い知るが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。ここは屋敷の主である自分が行かねばなるまい。ユリウスは仲裁のために手を上げかけて、止まった。


「あなたは自分の立場を理解していないのです!」


 エルネスタの母がぴしゃりと言い放ったのだ。その瞬間、それまで間髪入れずに反論していたエルネスタの口が閉ざされる。同時にユリウスの頭にエルネスタの母が放った言葉が蘇った。


 ――この子に王妃など務まるわけがございません。


 王妃、という言葉にユリウスは自分の頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。

 そうだ、自分の妻となる女性は近い将来この国の王妃となるのだ。

 改めて突き付けられた事実に、分かっていたつもりだった自分の考えの浅はかさに、ユリウスは眩暈がした。

 ついこの間まで王にはアルベルトという実子がいて、彼が次期国王になるはずだった。彼の失脚があるまでは、ユリウス自身はなんとか王子を側近として支えていき公爵としての仕事を全うすればよいと考えていた。 

 しかしアルベルトが王位継承権をはく奪され、自身が継承順一位に繰り上がった。その件に関しては重責を感じつつも心機一転と思ったはずだし、増え続ける仕事量に否が応でもでも王位を意識せざるを得なかったはずだった。

 フロンテラ伯に試されるような出来事があったのも王位継承順が繰り上がったせいだ。

 しかしそんな自覚があったにもかかわらず、なぜかエルネスタに対して求婚することが「次期王妃」を求めることであるという考えが抜け落ちていたのだ。

 エルネスタを王妃に、とユリウスは頭の中で反芻する。それがユリウスの動きを一瞬遅らせた。


「わあ、これはおいしいお茶ですねぇ」


 ぎゃんぎゃんと騒がしい室内だったというのに、のんびりとした男の声はなぜかよく通った。その瞬間、激しい言い争いをしていた母娘の口がぴたりと止まる。皆の視線が一点に集中した。

 部屋にいた人間の視線が集まった先には、男爵夫妻の連れの男が穏やかな笑みを浮かべて茶器に口を付けている。男が小首をかしげると、さらりとした茶色い髪が肩の上で揺れた。


「淹れたての時の香りも良かったんですが、冷めてしまってもおいしいなんてこれはいい茶葉をお使いなんですね。帝国のどちらからお取り寄せになっているか伺っても良いでしょうか、公爵様」

「あ、ああ。どこだったかな。あとでラベル付きの箱を持ってこさせよう」


 胸元には商人を示すバッヂをつけた男だ。年はユリウスやエルネスタと変わらない。身分差を考えれば少々砕けた物言いだ。しかし毒気のない声に思わずユリウスが答えると、いえいえと男は首を横に振った。


「お忙しい公爵様のお手を煩わせるわけにはまいりませんね。今日もこのようにお時間をとっていただいてしまって申し訳ございません。またの機会に改めましょう。旦那様も奥様も、長居をしてはご迷惑になりますからそろそろ」

「ろ、ロレンソ……?」


 妻の剣幕に絶句していたヅィックラー男爵にロレンソと呼ばれた男は、茶器を卓に戻すとさっと立ち上がった。

 それを見た男爵夫人はハッと我に返ったようで、気まずそうに顔を伏せエルネスタから一歩距離を取る。男爵の方も「そろそろ」の意図を察したのか、おもむろに立ち上がってジャケットの前ボタンを閉め始めた。

 いそいそと帰り支度をし始めた三人に、慌てたのはエルネスタの方だ。


「待ってロレンソ。お父様の書簡では到着が明日になると書いてあったので、宿がまだとれていないの」


 屋敷の客間を使えばいいと言っておいたのに宿を取るつもりだったことに呆れたユリウスは、控えていたメイドを呼ぼうとベルに手を伸ばす。しかしそれはロレンソの言葉に遮られた。


「エルネスタ様、どうぞお気遣いなく。私が仕事で王都まで来た際に使う宿を取ってありますので」

「ロレンソが? 宿を取ってあるって、今夜の分も大丈夫なの?」

「はい。お任せください。常宿なので融通が利くんです。王城からも近いところで食事も評判がいい宿なんですよ。今夜はちょっと難しいと思いますが、明日の晩はエルネスタ様もぜひ夕食に招待させてください」

「え、あ、それは、ありがたいけれど……王城から近いところって結構高いんじゃ」

「お気遣いなく。ご夫妻には御恩がありますので全て私にお任せください」


 強引な口ぶりだけれど商人らしく人好きのする笑顔でロレンソが会釈をする。あまり堅苦しく振る舞わないのは彼の商人としてのやり方なのかもしれない。

 大店との付き合いが多いユリウスにとってはロレンソの振る舞いは目新しく、そして気安さを感じた。なによりエルネスタと母親の口喧嘩を止めて場を和ませてくれた彼には感謝の気持ちすら湧く。


「その際は昔話に花を咲かせましょう。エルネスタ様と一緒に遊んだ思い出は、私の中ではつい昨日のことのように鮮やかに思い出せますよ」


 では、と若き商人が公爵とエルネスタに会釈をした。隣に立つ男爵夫妻よりよほど堂に入っている。先程の仲裁のタイミングといい、なかなかできる青年らしい。後日に改めて彼が何を取り扱っているのか聞き、商談の場でも設けようかと思った時だ。

 ロレンソが顔を上げるその瞬間、ちらりと彼がユリウスの方を伺ったのだ。ちょうどユリウスも彼を見つめていたので、一瞬ばちりと目が合った。

 そしてにやりと、ユリウスにしか見えない側の口角を吊り上げた。


 ――こいつ……。


 何かと問いただそうとしたところでロレンソはにっこりとエルネスタに微笑んだ。さっき見せた腹に一物抱えたような含み笑いではない。そこで察した。――つまり宣戦布告をされたのだ。

 エルネスタの両親は自分と娘の婚約を進めたくないという考えらしい。もしかしたらこの男と結婚させて領地を任せたいということか。王妃という言葉に一瞬引っかかってしまった自分が情けない。


 ――くそ、好印象をもって損した気分だ。


 ユリウスは今度こそメイドを呼ぶベルを鳴らし、客人の見送りを命じたのだった。


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