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伯爵家夫人の涙②

 しかし伯爵夫人が口を開く前に部屋の外で慌ただしく足音が行き来し出した。ひょっとすると公爵と伯爵らの視察団一行が戻ってきたのかもしれない。メイドや他の使用人たちの気配が多くなると、夫人はさっと目元を拭った。


「お見苦しいところをお見せしました。どうぞこのことはご内密に」


 そう言うと伯爵夫人は私をサッと扉へ向かう様に促した。


「あ、あの……」

「夫が戻ってきてあなたの姿を見たらまた何か失礼なことを申し上げるかもしれません。見つからないうちに、お帰りください」

「でも!」


 まだあなたのお話を聞いていない。高位の貴族の奥方とは思えないほどにやつれた姿は見過ごせない。困っていることがあるなら力になりたい。

 そう続けたかったけれど、伯爵夫人は有無を言わさない勢いで私の背を押してくる。扉の外まで私を押し出すと、伯爵夫人はきょろきょろと辺りを見渡した。

 数人のメイドたちは掃除道具を片付けながら使用人エリアへと続く階段をばたばたと降りていくところのようだった。誰一人こちらには注目していない。慌てた様子の彼女たちもまた、伯爵に姿を見られるのを恐れいてるようだ。

 婦人はしばらくの間メイドたちの後ろ姿を見送っていたが、人の姿がなくなると私に一礼して扉を閉めてしまった。


「奥様!」


 ぱたりと閉じられた扉を二、三度叩くが応答はない。あからさまな拒絶である。しばらく扉に耳を当てて粘ってみるけれど、内側からは物音ひとつ聞こえない。もうこれはみんな奥の部屋にこもってしまったのだろうか。

 仕方なく私は公爵が滞在している離れへと一旦戻ることにした。

 廊下や中庭は掃除係のメイドが行き交っていたのにすっかり静かになってしまっている。堅牢な領主の屋敷の中に人気があまり感じられないというのは少し異様な雰囲気すらあった。男性の使用人の姿も見えない。みんな使用人の棟に引っ込んだんだろうか。それとも表に主人を出迎えに行ったのだろうか。


 この屋敷はどこかおかしい。


 みんな、伯爵を恐れているように見える。口答えせず、命令通りにきちんと動く様に教育されている。それ自体はなんらおかしくはないけれど、行動の規範が伯爵の機嫌を損ねないということにある様に見えるのだ。

 私の実家であるヅィックラー男爵家は田舎貴族であるから比較にならないけれど、主人も使用人も身分の差はあれど何処か家族のような雰囲気を漂わせながらお互いに仕事をしている。

 主人である父は命令をする立場だけれど、使用人たちがなんやかんやと軽口を叩いたり父に意見をしたりすることを咎めることはない。父の機嫌が悪い時は執事が諌めることだってある。家には父より長く屋敷で働いている使用人もいて、父はその人たちに頭が上がらないということもあるくらいだ。

 ヴォルフザイン公爵家だって使用人との関係はうちと大差ない気がする。長く勤めている執事さんもいれば、メイド頭の女性もいる。いずれも年配で公爵に対して意見することも多いし歳の若いメイドたちだって軽口を叩くことを全く許されていないわけではない。視察に随伴しているリタさんなんかは結構ズバズバ意見する方である。

 私だって多くの貴族の家を知っているわけではないけれど、人間同士が集まって仕事する環境としてはうちの実家や公爵家の方がまともで多数派なのではないだろうか。

 つくづく春先に私を雇ってくれたのが公爵で助かった、と思う。きっと絶対フロンテラ伯は私なんかを家庭教師にしようとはしないだろうけれど、罷り間違って雇われたとしてもこんな環境では仕事にならないにちがいない。

 私はとぼとぼと離れへと歩きながら、三姉妹の顔を薄ぼんやりと思い浮かべた。

 文字も教えてもらえず、教養をつけることも許されず、淑女教育や家事労働だけを仕込まれているっていうのは貴族の令嬢としてありえない。まるで主人のいうことを聞くだけの人形を育てているようだ。

 幼いうちならまだいいだろうけれど、いずれ彼女たちは大人になる。領地経営の手伝いをするにしろ、どこかの貴族と結婚するにしろ、教養がなくてはやっていけないのではないだろうか。

 と、考えたところでカリナが輿入れをすると言う話が出ていたことを思い出す。礼儀作法はかんぺき、レース編みや刺繍、そしてお茶を淹れるのが上手だけれど、文字も知らなければ地理も疎い。計算もきっと未経験だろう。

 そんな人形を妻にするなんて、相手にとってもメリットがないのではないだろうか。相手は何を望んで彼女と結婚するのだろう。


「……輿入れ先が、シウーダ……」

「シウーダ領はここより東だが、どうした?」

「うわ!」


 いつの間にか考え事に没頭してしまっていたのか、背後からいきなり声をかけられた私は飛び上がらんほどに驚いた。ちょっと淑女らしからぬ叫び声をあげてふりかえると、そこには視察を終えて戻ってきたばかりでまだ首元のタイも緩めていない公爵が立っている。ということは、と辺りを見渡せばすでに離れの部屋の前だ。

 黒い前髪をかきあげた公爵は、私と目が合うとおかしそうに唇を釣り上げた。


「どうしたんだエルネスタ。間抜けな声だしひどい顔だぞ?」

「こ、公爵様……」

「気取らないところが君の魅力とは思うが、さすがに今の悲鳴は間抜けすぎる」


 間抜け間抜けと言われて私の頬はかあっと熱を持った。いきなり驚かされては声を上げるなと言う方が無理ではないかと反論しようと思うけれどうまく声が出ない。おまけにひどい顔とも言われてはなんだかちゃんと返事をするのも癪である。

 私は大人気ないとは思いながらもプイッと顔を背けた。


「すまんすまん。ちょっと気が張っていたところに君がいてホッとしたものでからかいがすぎた。許してくれ。ただ顔色が優れないのは本当だよ。何かあったのか?」

「口は災いの元と申します。公爵様は私に対して軽口が過ぎるのではないですか?」

「それだけ俺が君に気を許しているのだと思ってもらえるとありがたいんだが。それより具合が悪かったりするんじゃないのか?」

「それは平気です。意外と丈夫なもので」


 公爵が心配そうに私の顔を覗き込んでくるともう意地を張っているのも馬鹿馬鹿しくなる。なんだかんだ言っても公務に付き合わせてこんな遠くまで連れてきた私を気遣ってくれてはいるのだろう。

 普通、こうじゃない? ましてや家族、妻や娘たちに対してならもっと可愛がって気遣うものじゃない? あんなに抑圧して、妻である伯爵夫人が客である私に対して涙を見せるなんて、よっぽどではないだろうか。

 フロンテラ伯と家族、使用人の関係を思い出したらまたなんかもやもやしてしまう。私はまだ顔色を窺っている公爵をふりかえった。


「伯爵のご家族について、ちょっとご報告がございます」


 公爵は表情を一変させすぐ頷いた。急に目つきが鋭くなり、瞳にギラリとした光が宿ったのが見える。その光に胸を鷲掴みにされる様な錯覚を覚えていると、公爵の声が一段低くなった。


「俺もちょっと聞きたいことがある。今さっき君はシウーダと口にしていた。そこがどういう土地なのか、知らないわけじゃないだろうに、今更どうしたって言うんだ?」


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