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家庭教師のお買い物③

 手を離してくれない公爵を振りほどくわけにもいかず、本屋さんへは二人で連れ立っていくことになってしまった。書店には棚だけじゃなく、そこからはみ出すほどの本がうず高く積まれているから狭いんだけどなぁと思いながら店を訪れると、数刻前に会った店主が奥から毎度と声をかけてきた。


「ヅィックラーさん、どうした? 買い忘れ? それともオレに会いにきた?」


 三十になるかどうかという赤毛の店主が軽口を叩いた。それに対して買い忘れと告げて店内に入る。通路にはみ出すほどの量の本が並ぶこの店は、大衆向けではないが古書もあれば専門書もあるという学生御用達である。

 大量の紙から醸されるにおいは私の心を落ち着かせてくれるけれど、店に入るなり公爵はちょっと渋い顔をした。


「埃っぽかったですか? 公爵様は外で待っていてくださっても構いませんが」

「いや、別にそういうわけでは」

「すぐ済みますので、ご辛抱くださいね」


 苦虫を嚙みつぶしたような顔をする公爵に断り、私は目当ての本を探しに店の奥へと足を踏み入れた。目指す棚は専門書が多く積まれている棚で、ついさっき手に取って見ていたから覚えている。


「えぇっと、確か、ここらへ……んっと。あった!」


 ずっしりとした重量が手にかかる。多色刷りという技術で作られた図鑑というお目当ての一冊を拾い上げ、狭い通路で方向転換をすると店主と目が合った。しゃらしゃらっとなにやら紙にペンを走らせこちらに掲げる。

 ん、と目を凝らすと数字だ。値段だろうかと思ってよく見ると、想定していたよりちょっと高い。


「先月の値段より高くないですか?」


 通路の脇に陳列してあるノートの束を一つ追加して渡すと、赤毛をくしゃくしゃとかき混ぜながら店主が困ったように肩を竦めた。


「なんかなぁ、最近紙や本が高くなってるんだよ。うちだけじゃなくてさ」

「とはいえここにある専門書や古書を仕入れたときにつけた値段を上げなくてもいいじゃないですか。あら、ノートの値上がり率すごいですね」

「この間卸業者から請求書が来てちょっとオレも驚いたんだよ。だから悪いけどその値段で出してるんだ」

「うーん、まあ、必要なものなので買いますけど……」


 しぶしぶ鞄から財布を取り出し店主の前に硬貨を並べる。銀貨二枚と銅貨八枚。ちょっといい宿に泊まって、ちょっといいご飯を食べられる金額である。本一冊とノート数冊と考えるといまいち納得しかねる金額だが、専門書であることを考えれば許容範囲というところか。


「来月になると、ちょっと前にヅィックラーさんが読みたいって言ってた虫の本が発行される予定だよ。良かったら取り置きしておこうか?」

「そうですね。できれば――あ、でも値段と相談です。あんまり高くなるようでしたら、図書館で借りることも考えますし」

「いやいや、結構著名な学者が書いてる本だぜ? 図書館で借りるのはもったいないよ。貸出もいつになることやらって思うし」

「んー、まあ、そうなんですけどねぇ……でも、良い先生方が書いた本はその分高価になりますし……」


 あとは置き場所、と本棚の空き容量に思いを馳せていると、私の腰に手がかかった。


「発行されたらヴォルフザイン公爵家へ直接届けてくれるか? 代金と手数料は執事から受け取ってくれ」

「え?」

「さあ、目当てのものは買えたのだろう? そろそろ帰るぞ」


 不意に口を挟んできた公爵に、赤毛の店主は目を丸くした。え、え、と言葉にならない声を発しながら私と背後の公爵に目線を行き来させている。

 しまった。すぐ済むと言っていたのに思ったより時間を食ってしまっていたのかもしれない。こんな埃っぽいところに公爵を長居させたら迷惑だろう。

 ほら、と体を引かれ私は慌てて卓に置かれたままの荷物を手に取った。せっかく買ったのだから忘れるわけにはいかない。胸に抱え込み、ぽかんとしている店主に軽く会釈をして狭い通路を店の外まで歩き出る。

 外に出ると、公爵はくるりと振り返った。

 その顔は、なんというか、眉がつり上がり唇をへの字に曲げた仏頂面というやつだ。


「申し訳ございません、すぐ済むと言ったのに話が長くなってしまって」


 私はすかさず頭を下げた。雇用主のご機嫌を損ねるわけにはいかない。せっかく馬車に乗せてもらって重い荷物を担いで帰らずに済むのである。ここで機嫌を悪くされたら、大荷物とともに歩いて帰れと言われてしまうかもしれない。


「……君は、あの店をよく利用するのか?」

「え? ああ、本屋さんも得意とする分野が違うので、あそこのほかにも何店か行きつけがありますよ。あそこは古書と専門書が豊富なので、そういったものを探したいときにはよく利用します」

「ほかの店では、取り扱いはないのか?」


 どういう意図だろうか、と私は首をひねる。


「そうですねぇ……あると言えばあるのですが、取次を多く仲介するせいかあそこより割高になってしまうんです。あ、いえ、公爵様からしっかりお給料は戴いておりますので足りないことはないんです。あ、違いますね。アメリア様の教材ですね? やっぱりあまり高くなってはいけませんものね。適正な価格のところを利用したほうがいいですし、いやむしろアメリア様は大学へ行くわけではないですし一時的な教材としてなら図書館を利用したほうが良いということでしょうか。そうですね、次からは図書館を――」

「そうではなく……」


 目の前にぱっと公爵の掌が広がった。


「教材の費用なんか気にしなくてもいい。まったく、君って人は……」


 ふるふると公爵は首を横に振った。つり上がっていた眉が下がり、苦笑いのような呆れたような、不思議な笑みを浮かべている。


「あ、あの……?」

「まあいい。教材費など君は気にせず、アメリアのためにしっかりしたものを選んでくれ」

「はあ」

「ところで、何の本を買ったんだ?」


 話題を変えるように公爵が私の胸に抱えられた本を覗き込んだ。――そしてその顔が引きつった。

 あ、まずい。


「む……む……虫?」

「……そうです。お屋敷の庭に見られる虫と、そのほかの地方でみられる同種の虫が見比べられるようにと思いまして……その、図鑑を……あと、先ほどの背嚢の中にある顕微鏡でもっと詳細に観察をしてもらおうかと思いまして……」


 虫嫌いの公爵にとって、多色刷りで「わかりやすい」図鑑は刺激が強すぎたのだろう。確かに表紙からして蝶の微細な形状とその胴体の断面図が描かれているし、興味がない人にとってはグロテスクに見えても仕方ない。

 あ、ああ、と公爵は微妙な顔をしつつ、私からちょっとだけ距離を取ったのだった。


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