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ブドウ畑の少年は、物語に憧れ外に出た

「話は大体終わったかな。それじゃあゼル、コルト。大唇削者(タイシンザクシャ)を倒しに行こうか」


 セキナ以外の、その場の全員の目が大きく見開かれた。


 ろくに大唇削者(タイシンザクシャ)について知らない村人達でも、感じ取った瘴気の大きさや与えられた『討伐記録無し』の情報から、彼がかなり無茶苦茶なことを言っていると分かった。

 コルトとゼルにいたっては思わず「は?」と声を出してしまっている。困惑の真っ最中だ。

 

 目を大きく開き、驚きに身を晒しながらも、彼がそう言ってくれるのではないかとどこかで思っていたクランだけが、セキナの浮かべた笑みの意味に気がついた。


 セキナは話を続けた。


「人命救助は無事に済みそうだ。なら、次に私たちがやるべきことは、彼らが命の次に大切にしているものを護ることだろう?」


 セキナの語るさまざまなことを度外視した理屈を聞いて、ゼルは開いていた口を一度閉じてから、呆れたような声色でそれを否定しようとする。


「いや、いやいやいや、お前、わかってんのか!? 以前、仔竜と戦う羽目になった時、お前の(グレ)……あれが全然通じなかったのを忘れてんじゃねえだろうな!? 大唇削者(タイシンザクシャ)はそれ以上に強いんだ、傷つけられるかすら定かじゃねえのに、倒すなんざ到底──」

「逃げる理由として、それで納得できるのかな? ゼルに後悔は生まれないかい」


 ゼルは苦々しい顔をして、黙り込んだ。

 セキナは次にコルトに顔を向けた。彼女は口元を閉めて、クランの方をチラリと見る。一瞬だけ逡巡し、覚悟の決まった眼でセキナと目を合わせた。


「わたしは行くよ。ぶっころして、全部丸くおさめるんだから」

「コルトならそう言ってくれると思ってた。さ、ゼルは?」

「………………死んだらお前を恨むからな」

「ああ」


 ため息をつくと、ゼルは背負っていた盾を手に持って瘴気の(さかい)に向かって歩き、コルトも彼の背を追っていく。

 セキナだけがその場に立ったまま、周囲の村人達に向けて発言した。


「ということで、私たちは大唇削者(タイシンザクシャ)を倒してきます。日が沈んで戻って来なかったら、あなた方だけで避難してください」

「……なぜ、ワシらのために、そこまで」


 村長が声を震わせながらそう尋ねると、セキナは顎に手を当てて少し考えた後、口角を上げて、口を開いた。


「報酬目当てですよ。私、こう見えてお酒好きなので、無事解決したら葡萄酒を何本かいただけると嬉しいです」

「……ああ、ああっ。もちろんですじゃ。だから……どうか、ご無事で」


 セキナはそう言って二人の元へ歩き出した。進む途中には、クランが立っている。何かかける言葉を探している様子だ。

 彼がそれを見つける前に、セキナは彼の肩に一瞬触れて、囁いた。


「答えを見つけておいてね。どんな答えを出したとしても、君がその答えを成せるよう、頑張るから」

「あ……!?」


 流水のような青年は、少年の前を流れるように、振り返ることなく歩いていった。

 村へ向かう3人の背を見ながら、少年は青年が先ほど浮かべた笑みの意味を確信する。あれは、自身に対する激励であると。

 

 少年は、ぶら下がっていた手を握り拳にして、強く握り締めた。







 


 村の中を一陣の風が吹いた。

 葉が揺れ、ブドウが振り子のように身を震わせる。留めが緩かったのか、その頭に乗った雨除けの小さな傘が(ほど)けて、宙を舞った。


 ひらり、ひらり、風に乗る。その傘が大気を滑って、地面に降り立つその前に


「ル゛ォぉぉお゛ォ゛オゥぅぅゥッ!!!」


 振り上げられた爪によって、傘は()()()()()

 突如現れた"暴"はその傘以外にも影響を与える。爪に掠った地面は天高く巻き上げられ、発生した風圧によって、葉もブドウも傘も、全てもぎ取られていく。


 その"暴"の発生源──4メートルほどの身長の、ずんぐりとした人型の図体をした、白い体毛がうっすらと生えた怪物は、つぶらな瞳を空舞うブドウ達に向ける。

 傘達へと視線を移すと、目は一瞬にして充血した。

 その顔の3分の2を占めるたらこ唇を開くと、中から現れたのは上下それぞれ2列に並んだ歯の群れ。ぎちぎちと音を鳴らして歯軋りした後、空気が揺らぐほどの怒声をその場に放った。


「お゛オ゛ルう゛ウ゛ゥ゛!!!!!」


 その怪物には揺れ落ちる傘達が、自身の餌場の自身の食事に近づくばかりか、盗んで行こうとする不届き者に見えていた。

 許さない。殺す、殺す、殺すッ。消えていなくなれ。

 そんな思いが込められて、怪物の腕が何度も振るわれた。


 腕についたスコップ状の爪には、その背の裏がおろし金のように逆立つ棘が無数に生えており、掠った傘はその棘にすり下ろされてチリとなり、直撃した傘はあまりにも大きすぎる圧力により粉微塵に爆散し、同じようにチリとなった。

 空に向けて発生する衝撃波がチリを拡散させ、何もなくなった段階になって、ようやくその怪物の腕は降ろされ、瞳は元の色に戻る。


 周囲を見ると、ブドウが地面に転がっていた。今の行動によって成っていたものが落っこちたようだ。

 怪物は爪でそれらを器用に持ち上げると、たらこ唇の内側へと運んだ。咀嚼の後、怪物は笑みを浮かべる。


「ルオッ。ルオォ♪」


 怪物は上機嫌な様子で辺りを見渡した。

 どこにもかしこにも、今食べた餌と同じものが成っているのを確認して、怪物が次の食事のために適当な方向に歩もうとしたその時。


 その怪物の顔面に向けて、先端のとんがった棒状のものが飛来し命中した。

 飛来物の先端が砕けると共に、怪物の頭を衝撃波が抜ける。怪物の後方の大気が破裂し、撒き散らされていた土や葉っぱが吹っ飛んでまっさらな地面が露わになる。


 飛来物の破片が怪物の唇の上に乗ると、怪物は何事もなかったかのように頭を振って、破片を地に落とした。怪物は無傷のまま、飛来物がきた方向を見る。

 視線の先、怪物がいる場所とは反対側の斜面には、人が3人立っていた。片手に赤い光を宿した剣を持ち、その腕に筒状の発射装置をつけた青年は、剣ごと腕を振って発射装置を外すと、残念そうにつぶやいた。


「無傷か、流石に予想外だね」

「それで、次の策は?」

「特に用意してないんだよね」

「おい」

「わたしのビリビリなら通じるかもしれない、やってみる?」

「そうだね、それで行こう」

「りょーかい、隙作ってね」

「……結局いつもと変わんねぇな」


 青年の指示通り、盾を片手に全身淡く緑に光っている男と、拳に黄色の光を宿した女は動きだす。その様子を見ていた怪物は、彼らのすぐそばにもあるぶどう畑を見て、目を充血させて彼らを睨んだ。


 咆吼が轟く中で、盾を持つ男ゼルが先頭に立ち待ち構える。怪物が爪を用いてくり抜き飛ばしてきた土の塊、音速で飛んでくるその人間大の大地を、ゼルは風の魔法の力も合わせてかろうじて弾いた。

 歯茎を剥き出しにして四つん這いになり駆けて近づいてくる怪物を見て、手のひらの上に電気を走らせている女、コルトはその場から離れた。隠れて機を伺うようだ。


 飛び跳ね、男二人の前に着地する怪物────大唇削者(タイシンザクシャ)

 赤く熱を帯びた剣を持つ青年、セキナは目を細くして、凍りつきそうなほどに冷たい顔で、その怪物と視線を交わせる。


「君がいると皆が望む結末に至れないんだ。だから、死んでおくれ」

「オ゛ロウ゛ぅ゛ぅゥ゛!!」


 互いの発する言葉の意味も理解せずに、衝動は激突し合った。


◀︎◀︎◀︎◀︎◀︎◀︎◀︎


 森の中に造られた道、セキナ達が去った後のその場所では、村人達が心配そうに話をしていた。


「討伐者の人たち、魔物を追っ払ってくれるんだろか」

「信じるしかねぇっぺなぁ」

「…………全員、避難の準備はしておくのじゃ。()()のためにな」

 

 村長はそう言うと、道の真ん中に立つ少年に視線を送った。

 体液まみれだった顔は魔法によって洗ったものの、クリーム色の髪の毛についた汚れまでは十分に取れておらず、くすんでいる。対照的に、その瞳にはくすみひとつなかった。彼は真っ直ぐに、村へと続く道を見ていた。

 村長にはその少年、クランが今何を考えているかは分からない。だが、何かしらの決意を秘めていることは分かる。それを聞くような無粋な真似はせず、村長は他の村人に視線を移した。


 クランは、待っていた。セキナが望んでくれた答えを出すためには、母親との会話の中で見つけるしかない。彼女が避難して来るのをじっと待って…………来た。


 向こうから、彼の母が小走りでやってきたのだ。

 布で包まれた何かを抱えた彼女は、クランを見つけると顔を明るくして瞳を潤わせた。足を早めて、クランを空いている方の腕で抱き締める。


「クラン! 良かった、本当に、無事で良かった。村長さんの言ってた通り、森にいたのね」

「心配をかけてごめんね、母さん」

「いいの、いいのよ。ああ、本当に良かった」

 

 胸を撫で下ろす母の顔をクランはじっと見つめる。心の底から彼の無事を喜んでいるように見えるその顔は、セキナが言っていた『君はお母さんにちゃんと愛されてる』という言葉を思い起こさせた。

 また、瘴気に晒されていたからか、顔色は青くなっている。クランが彼女に座るように促すと、彼女は木に寄りかかって座り、ほっと息を吐いた。


 村人達が彼女へ声をかける。村長が討伐者の3人が村を守るために戦いに行っていることを彼女に伝えると、彼女は口元に手を当て、クランをじっと見た。


 話が一区切りついたとき、クランは村長や他の村人たちに対して、お願いをした。


「皆、母さんと話があるんだ。聞かれたくないから、ちょっと離れてもいいかな」

「ワシらが離れよう。おぬしの母(クラリエ)にあまり無理させてはいかん」


 村人達は皆、離れた場所に移動してくれた。

 クランは母と二人きりになると、向かい合うように地べたに座り込む。彼女が手にもつ布に包まれたなにか────おそらく箱に入った葡萄酒であろうものをなるべく視界に入れず、彼は勇気を持って話しかけた。


「話ってなぁに? クラン」

「母さんはさ。僕にどうなってほしい?」


 クランの母はきょとんとした顔を浮かべた後、口元を柔らかく婉曲させて答えた。


「元気に、笑顔で毎日を過ごしてくれれば、それ以上望むものはないわ」

「……僕もだよ、母さん」


 クランは真剣な顔で、母に自らの思いの丈を語った。


「僕も母さんに元気でいてほしいんだ。無理したりとか、泣いたりとか、辛い思いをしてほしくなかったんだよ。たった一人の家族だから」


 クランは、自らの腰にある、父親の形見である道具袋を手に持って、それを母の前に置いた。


「少しでも元気になってほしくて、そのために仕事頑張ったんだ。でも、僕の頑張りは空回りして、母さんの力になれなくて……やけになって、母さんの大事なものを取っちゃったんだ。傷つけたく、なかったはずなのに。ごめんなさい。母さん」


 話しているうちに言葉がどんどん出てきた。自分が間違ったことをしたと自分に突きつけられたクランは、最後の謝罪と共に、深く頭を下げた。

 彼の行動の理由を聞いた母の顔に、わずかに驚きが浮かぶ。すぐに、その顔は柔らかな笑みに変わった。


「クラン、それは違うわ。あなたの頑張りはちゃんと私を元気にしてくれてた。空回りなんてしてないわよ」


 クランは顔を勢いよく上げた。驚いたようなその表情は、受け取った母の答えが予想だにしなかったものであると伝えていた。


「どういうこと? 僕は、何もできて……」

「村のみんなが、仕事熱心なあなたのことを褒めてくれてたのよ。自分の子供が評価されて誇らしく思わない親はいないわ。私も頑張らなきゃって、やる気が出てきたんだから」

「じゃあ、何でお酒を貰ってきた夜泣いてたの! あんなに辛そうに」

「お父さんにあなたの成長を報告してたの、立派になったよって。感極まって泣いちゃうこともあったけど、辛く思ったことなんてない」


 クランは今になって初めて、母の気持ちを見つけられた気がした。


 機会は、以前に何度もあったはずだ。今日家を出る時も、彼の母は言っていた。クランが評価されて嬉しい、辛くなんかないと、でも、それを嘘だと思っていた。母は亡くなった父しか見ていないと思い込んでいたから。

 彼の瞳が震える、それを隠すように、(まばた)きの回数も増える。

 

 何も言葉を出せないクランを前に、彼の母は手に持った布に包まれた何かを膝に置きながら、尋ねた。


「クランは今、村のために戦ってくれてる人たちと一緒に村の外に出たいの?」

「…………そう思ってた。でも、分からなくなっちゃった」


 クランには、自分の気持ちが見つからなくなっていた。

 ゼルが言っていた通り、クランがあれだけ村の外に出たいと言っていたのは、現状から逃げたかっただけなのだろうか。

 クランの中では、外に出ずに残って、母も、ずっと育ってきた村も支えていきたいという気持ちの方が大きくなっていた。

 これが、セキナに伝えるべき答えなのだろうか。


 顔を下げて首を左右に振る彼を見て、彼の母は膝に置いた包みを────彼女が魔物の瘴気に満ちる村の中へ、取りに行っていた『大事な物』を開いた。

 布の擦れる音に気を引かれて、クランは顔を上げる。


「母さん、それは」


 布の中にあったのは一冊の分厚い本だ。

 端が擦れているだけの何の変哲のないその本は、クランにとっては、ずっと大切にしていた宝物。


 幼い頃に母が買ってくれて、初めて外の世界の物語に触れさせてくれた本。


「クラン、あなたはブドウ畑で働いている時もいい顔をしていた。汗水たらして、ひたむきさを感じれるような。でも、あなたが一番幸せそうな顔をしていたのは、物語に憧れている時だった」


 母は本の表紙を撫でると、優しく、クランに言葉をかけた。


「不安だし、寂しい気持ちもあるけれど。あなたが望む通りに、生きてくれていいのよ」


 クランの震えていた瞳が、真っ直ぐ彼の母へと向けられる。彼が一度鼻をすすると、目の端に涙が溜まった。

 答えはもう見つかった。

 

 手を上げて目の辺りを擦り、母に見せるべきでないものを拭いながら、クランは見つけ出した答えを母に伝える。


「母さん、僕はまだ村に残るよ。狩りを一人でできるようになって、旅の勉強をして、母さんが不安に思わないようになってから外に行きたい」

「うん」


 クランは、顔から手を下ろした。ほんのり赤くなった目には、少年らしい覚悟が宿っていた。


「だけど、今だけ母さんに心配をかけていいかな」

「……」

「僕自身の手で、僕の望む未来を掴みたい。今だけ、あの人たちの助けになりたいんだ」

「……持っていって」


 地面に置かれた道具袋に手を伸ばして、それをクランの方に押しやった。

 彼は、伺うように母を見た。


「いいの?」

「ええ、本当は止めたいけどね。帰ってきてね、クラン」

「ありがとう。母さん」


 クランは父親の形見の道具袋を拾い上げ、腰につけると、村の方へと走っていった。

 瘴気の境の内側へ入ると、凄まじい不快感が彼を襲う……だけど、その足をすすめる速度は、ほんの少しも遅れていない。


 若い少年は進んでいった。濁った空気の中心へ、求める日常を掴むために。


▶︎▶︎▶︎


 怪物が咆哮し、万物を抉る爪を振るう。

 戦闘開始から5分間絶え間なくそれらを浴びせられた3人の討伐者は、すでに満身創痍となっていた。


「ル゛ウ゛! 」

「ぐぅ、あ」


 ゼルが構えた盾に張られた風の魔法による圧力の防御膜は、薄絹を割くように突破され、爪が盾に衝突する。受け方を工夫し流そうとしても、爪の裏についた無数の棘が盾を抉り、衝撃を彼に伝える。


 彼は盾を持つ左腕の骨にヒビが入る感覚を覚えた。あと数回で骨が折れるだろう。その未来に至ることは、先ほどまで盾を持っていた右腕が証明している。


 大唇削者(タイシンザクシャ)がもう一方の腕を振るう。狙う先は地面だ。土と砂利が散弾のように弾け飛び、距離をとっていたセキナの肌に何本目か分からない赤い線をつけた。


 だが、彼は怯まない。彼は走りながら赤く光る剣を横向きに構えた。赤熱した剣は一度強く輝いた後に、後方に炎を噴射する。加速した肉体ごとぶつけるように怪物に真っ直ぐ吹っ飛んでいくと、彼は片手で持っていた剣を空中で両手に持ちかえ、そのまま振り抜いた。

 

 怪物の脇腹に剣がめり込む。直後、爆発がおきた。熱風に吹っ飛ばされるセキナは、空中で姿勢を制御し、片膝立ちで着地する。

 セキナは顔を上げて正面を見た。怪物の姿は煙で見えなくなっている。ゼルはセキナの前に出ながら、つぶやいた。


「……これは、やっ」


 たか。まで言い切る前に、煙の向こうから抜けてきた衝撃波がゼルの盾に衝突する。

 手に痺れを感じながら彼が見た、煙の晴れたその場所には爪を振り抜いた姿勢の大唇削者(タイシンザクシャ)がいた。それも完全に無傷の状態で。


「今度はちゃんと【鬼火焚(おにびた)き】の攻撃が入ったのに。流石に硬すぎないかな」

「これが討伐記録無しの理由、傷一つつかない強固な皮か。くそっ」


 攻撃は効かず、相手の攻撃の直撃は致命的で(かす)りでも損耗してしまう。勝機は無い……ひとつの可能性を除いて。


 セキナは破砕(はさい)天恵(グレイス)の力を使い、両腕に射出機を生成した。

 それを見た大唇削者(タイシンザクシャ)は彼を睨む。その攻撃は怪物にとって生命を脅かすことは無いものの、音が非常に鬱陶しいものだった。

 怪物が歯茎を剥き出しにして彼に迫る。直線上にいたゼルは何を思ったか、その場から身をひいてセキナまでの道を空けた。瞬く間に、距離が詰められる。


 爪が下される前に、セキナは片腕を振るい、射出装置の一方を怪物の顔に向けて投げつけた。目に当たることを嫌ったのか怪物は身を低くしてそれを避けたが、その隙に彼はもう一方の射出装置に手を乗せ、引き金を引いた。


 怪物の腹部で衝撃が破裂する。轟音と共に、投げつけた方の射出装置がどこかへ吹っ飛んでいく。こうして怪物の耳を奪ったセキナは、次に剣を掲げた。赤い光が、怪物の視界を奪う。

 聴覚も視覚も、奪えるのはほんの一瞬。すぐさま両方の感覚を取り戻してしまうのは確認済みだ。だけど、一瞬攻撃できない時間が出来れば十分。ブドウの木の上方、枝葉の中から現れたコルトが大唇削者(タイシンザクシャ)の頭に飛びついた。


「やぁっ!」

「ル゛オ゛ウッ!? 」


 視覚聴覚が朧げながら、大唇削者(タイシンザクシャ)は生き物が自身の頭頂部に乗っていることには気がついたようだ。大きく頭を振ってコルトを落とそうとする。

 彼女は怪物の体毛にしがみつきながら、その手に宿る(いかずち)を怪物へと解放した。


 バチバチバチ、と乾いた空気の割れる音が、彼女の両手の先である怪物の後頭部と(ひたい)に走る。そこで初めて、怪物の悲鳴が上がった。


「ルう゛ウ゛ぅ゛ウゥ゛う!??」

「《(イレクト)》の魔法は効いている!」

「手を離すなよコルト!」


 たったひとつの勝機、コルトの持つ雷の魔法は通じた。無敵かと思われた皮も、物理的でない力は通るようだ。

 彼女は持てる力を出し切らんがばかりに絶叫し、怪物の後頭部と(ひたい)に炸裂する(いかずち)をより大きくしていく。


「はああああああああっ!」

「う゛ゥ゛ウゥ゛う…………」


 大唇削者(タイシンザクシャ)の後頭部から立ち昇る煙の量が増えていき、それに反比例して声は小さくなっていく。

 そしてついに、怪物は倒れ込んだ!


「よし」

「やった!」


 ゼルの笑みと、コルトの歓喜。それらを塗りつぶす叱咤がセキナから飛んだ。


「違う、これはッ!」


 倒れ込んだのは、わざと。これは、攻撃の一動作。大唇削者(タイシンザクシャ)は自らの身体を横倒しにすると、そのまま真横に転がった。

 二転三転、途中でコルトの悲鳴があがる。

 四転五転して、その怪物が身を起こしたときには、口に、振り落としたコルトを咥えていた。


「コルトっ!」

「あ、足、痛い、何これ。あれ、わたし、食べ、ら──」


 幸いなことに、大唇削者(タイシンザクシャ)は人間なんかを食べるつもりもなければ、血も口に入れたく無いようだ。

 頭を上下させて勢いをつけ、口を開き、コルトを自分の真上に放り投げると…………怒りに満ちた赤い眼で彼女を捉えたまま、両腕の爪を叩き潰すように彼女に向けて振るった。


「──ひ、あ!?」


 空にいる彼女に避ける術はない。だから、地上の二人が作ってくれた。

 ゼルの投げた盾が彼女を突き飛ばし、セキナが投げた剣の起こした爆発が彼女を安全圏まで連れていく。


「ぐへっ」

 

 地面に転がり、彼女の命は助かった。だが、この一瞬で失ったものは多い。

 二人の投げた盾と剣は大唇削者(タイシンザクシャ)の爪が破壊した。コルトの片足もいつの間にか折れていた。彼女はもうこの戦闘中は立てないだろう。


「なんとかあいつは無事か」

「ああ、でも」


 何より最悪なのが、セキナから見えるコルトの両手に、もう(いかずち)が宿っていないこと。瘴気は魔法の発動を妨害する。この強烈な瘴気の中で、再び魔法を使うのは常人には不可能だろう。

 彼は歯を、音が鳴るほど噛み締めた。


「勝ち目は完全に無くなった」

「オ゛お゛ォる゛ウ゛ゥ゛!!!!!」


 大唇削者(タイシンザクシャ)は傷ひとつない顔で怒りの咆哮をあげると、振り返って焦げのついた後頭部をセキナ達に見せた。怪物の視線の先には、コルトが倒れていた。

 自らに痛みを与えてきたその女に煮えたぎるほどの敵意を向けて、怪物は駆けた。


「コルトォ!」

「あ……」


 セキナは腕に射出装置を生成しながら、必死になって考えた。どうすればこの状況から勝つことができるのか。だが、大唇削者(タイシンザクシャ)はろくに考える時間も与えてくれない。コルトへの到達は瞬く間だろう。

 その場しのぎの策として、セキナが怪物の足元の地面に、射出装置の照準を向けた時。


 日光を浴びて輝くナイフが、どこかから怪物の顔に向かって飛んできた。


「ル゛ゥ」


 大唇削者(タイシンザクシャ)は立ち止まり、ナイフを額であっさり弾くと、飛んできた方向を確認する。そこには、村の少年────クランが立っていた。

 3人は現状も忘れて、驚く。


「え」

「クランくん!?」

「なんで来てんだッ!」


 クランは大きく声を張った。


「答えが見つかりました。戦わせてください、微かな力にしかならなくても!」

「なんつう、無謀さだ」


 大唇削者(タイシンザクシャ)の瞳は、強い意志を持つクランを確かに捉えていた。破壊の具現とも言える怪物と対峙して、目を逸らさない彼の芯の強さは(よわい)10にして驚くべきほどだ。

 だが、彼の実力は不足しすぎている、蛮勇にすら至らない。怪物は弱者である彼を無視して、コルトへと再度走った。彼の登場は、何ひとつ状況を変えない。


 ゼルとセキナが気を取り直し、怪物を止めるために動くと同時、クランは悔しそうにしながら辺りを見渡した。道具袋の中身は、今投げたナイフ以外用途のわからないものばかり。何かで怪物の足止めができれば……


 セキナさんがあの天恵(グレイス)で、倒してくれるはずだ!


 クランはそう思って、足止めのための手段を探した。

 彼の行動は、セキナの破砕(はさい)天恵(グレイス)がこの怪物に通用するという前提によって成り立っていた。一撃で倒せるとまでは思ってないが、直撃すればダメージはあると思ってしまっていた。


 だから、地面に転がっている中身入りの射出装置を見つけた時、彼は大いに喜んだ。彼はそれを拾い上げると、セキナに呼びかけた。


「セキナさん、撃ちます! 当たったらその隙に──」


 クランが狙ったのは大唇削者(タイシンザクシャ)の白い体毛の中、黒く焦げて目立つ後頭部。発射装置を脇に抱えて、したから支える手で角度を調整して、彼は発射装置の背についたスライド式のトリガーを引いた。


「──追撃してください!」


 射出された凸状は、クランの狙い通り大唇削者(タイシンザクシャ)の後頭部に着弾する。破裂し、衝撃を撒き散らし、そして……怪物の悲鳴があがった。


「ル゛ウワ゛ア゛アアあぁア゛アぁ!!!???」


 大唇削者(タイシンザクシャ)の後頭部から血が跳ねる、痛みにのたうつ怪物を見て、クランは発射装置を落としながら、自分を褒めるように頷いた。


「やった! ……?、セキナさん、早く追撃を!」


 クランにとってその光景に、疑問を挟む要素は無い。森の一部を吹き飛ばすほどの威力を持つそれが、一個の生物に通じないわけがないという思い込みがあったからだ。

 ”現実”を知っていたはずのセキナ達は、その光景に疑問しか浮かばず、動揺していた。


「おい、お前の天恵(グレイス)がなんで効いてんだ! 」

「わからない、クラン君が撃ったから? 当たる角度が良かったとか……」


 セキナは今まさに立ち上がらんとする大唇削者(タイシンザクシャ)に目をこらす。怪物の顔は、焦りの感情を見せている以外は、先頭の開始時と何も変わらない。

 分厚いたらこ唇に、つぶらで赤く充血した瞳。そして、真っ白で傷ひとつない(ひたい)


 セキナはそこで思い出した。コルトが魔法により手から放電した時、手は額と”とある場所”をそれぞれ掴んでいた。そして今、クランの放った射出物は、魔物の”その場所”に着弾していた。


 先ほどコルトの魔法が通じたのは、『物理的なエネルギーじゃないから』という理由ではなく、『弱点に触れていたから』。

 セキナは笑みを浮かべた。


「頭の後ろ……後頭部! そこなら、攻撃が通じる!」


 希望が生まれた。いや、運ばれてきたのだ、クランの手によって。微力極まりないその力は、気がつくのに一歩足りなかった事実に、セキナが気がつく最後の力となってくれた。

 だが、彼自身は微塵もそれに気がついていない。一向に追撃をしないセキナ達を訝しんだ目で見ている。そして、自分に向けられた猛烈な殺気にすくみ上がった。


「ル゛ォぉォお゛ォ゛オゥぅぅゥッ!!!!!」


 歯茎を剥き出しにして咆哮する大唇削者(タイシンザクシャ)。皮膚の下の筋肉がこれ以上ないほどに隆起している。自分の餌場を荒らす害虫の駆除から、自分に死をもたらし得る外敵の殺害へと完全に思考をシフトしたようだ。


 吹き飛ぶが如き勢いで、クランに迫る。セキナが怪物を止めようと放った射出物は、怪物の後方を通り過ぎた。ゼルも足を動かすが、間に合いそうにない。

 疾すぎる怪物に追いついたのは、誰かの叫びだった。

 

「【愚鈍嘲(ぐどんあざけ)り】ッ!」


 巨大な瘴気は、魔法を使うものへ2つの負荷を与える。

 1つ目が詠唱難度が跳ね上がること。大唇削者(タイシンザクシャ)の瘴気の中で唱えようとすれば、脳が灼けるほどの集中を必要とする。

 たった今【魔法名】を唱えたコルトが血涙を流していることから、そう簡単に唱えられるわけでないのはわかるだろう。


 彼女の手のひらの先から、大唇削者(タイシンザクシャ)の後頭部に再び雷が走る。今度はそれで終わらず、着弾地点から雷のドームが発生した。

 跳ね回る金色に埋もれた怪物は、しかし悶える様子もなく、すぐに中から出てきてしまった。あまり効いていないようだ。全身をドームから出した怪物の後頭部、焦げが広がった様子はない。


 これが2つ目。瘴気が大きい魔物には、”身に纏う魔法”以外の魔法は効きづらく、大幅に威力が落ちてしまうこと。並の動物や魔物を炭化させる【愚鈍嘲(ぐどんあざけ)り】は、わずかに怪物を痺れさせ、肥大化した筋肉を痙攣させ、大幅に速度を落とすだけの結果で終わった。


 だから、怪物がクランに爪を振り下ろすその瞬間に、ゼルが間に合った。


「させ、ねえよ!」


 ゼルの風の魔法は全身にかけたもの、盾がなくとも籠手がある。左腕に集中させた風の盾で、力任せの大唇削者(タイシンザクシャ)の爪を受け流し、地面に食い込ませ、上から押さえ込む。


「やれぇぇぇ! セキナァ!」


 ゼルが絶叫した時には、セキナがすでに大唇削者(タイシンザクシャ)の背に乗って、射出機を生成していた。明らかに、その射出機は今までのものとサイズが違った、倍近い長さがある。

 セキナは自分が生成したそれへ驚くような顔を一瞬だけ向けて、すぐ、その先端の発射口を怪物の後頭部に突きつけた。ゼロ距離だ、外す可能性も無い。

 引き金を引き切ってから、セキナは怪物の肩越しに、クランに笑みと感謝の言葉を呟く。


「ありがとう、クラン君」


 怪物の後頭部から足まで抜けた『破砕』の音が、その声をかき消した。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 木造の部屋の中で、窓から入った日差しが青年が眠るベットを照らしていだ。


 毛布の下に、動きが現れた。

 眠っていた青年……クランは欠伸をしながら、ベッドから起き上がった。


 水で顔を洗い、姿見の前で身だしなみを整える。今日は大事な日なのだ。彼はビシッと髪型をキメて、動きやすいものの中でも上等な生地を使った服を着ると、大きな鞄を持ってリビングに向かう。


 リビングでは、彼の母が朝食を机の上に置いていた。彼女はやってきた彼を目にすると、優しく笑いかけた。


「おはよう、クラン」

「おはよう母さん。義父(とう)さんは?」


 彼女は肩を上げて、仕方なさそうに言った。

 

「寝てるわ。昨日のお別れ会でお酒飲み過ぎてたからね、もう少ししたら起こしてあげましょう…………クランも結構飲んでなかった?」

「まぁ、僕お酒強いし」

「お父さんの血ね。私はそんなに飲めないから羨ましいわ」


 クランは座り、母が用意してくれたサラダとパンと、それとブドウの朝食を口に運ぶ。フォークの使い方や口元を拭う動作に、彼が旅商人になるため、8年間鍛えてもらった教育の成果が表れている。

 そう、彼は今や18歳である。


 食事が終わると、お茶を飲みながら母と会話をする。

 

「そういえば、8年前の夢を見たんだ。母さんは覚えてる? セキナさんたち……討伐者の人たちが、村を救ってくれた時のこと」

「忘れるわけないじゃない」


 苦笑する母に、それもそっか、とクランも苦笑し、お茶を啜る。

 

 大唇削者(タイシンザクシャ)を倒した後、彼ら3人は治療のため二月(ふたつき)ほどこの村に滞在することになった。


 クランにとって、その二ヶ月は強く記憶に残っている。

 

 元々予定していた葡萄酒の開封式は、勝利の祝賀会を兼ねて無事行われ、彼ら3人も参加した。クランの母も、未成年の村の子たちも特別に参加して行われた祭りは、これまでで一番盛り上がった開封式だ。

 そこで、コルトにめちゃめちゃ絡まれたことが、クランには昨日のことのように思い出せる。


 開封式の直後に、討伐者組合の人々が村にやってきた。大唇削者(タイシンザクシャ)を人類が討伐したのは初ということで、今後の参考にするため詳しい話を聞きにきたのだ。

 大唇削者(タイシンザクシャ)の”弱点”について伝え、凍らせておいた骸も使って事実確認をしたので、討伐者組合の人々も満足して帰っていった。…………その”弱点”の皮膚も並の魔物より断然硬いので、『どうやってこんなにズタズタにしたか』を聞かれたのは、ちょっと困ったが。討伐者の3人と口裏を合わせて『魔法と気合いでやりました』と彼らに回答した時の、あの一体感は今でも覚えている。


 大唇削者(タイシンザクシャ)に荒らされた村の修理は、ブドウ畑はゆっくり、建物はすばやく終わらせた。村の外部から、修理のための木材を商人に運び込んでもらい、討伐者の3人にも手伝ってもらった結果、あっという間に建物は元に戻った。

 この時、木材を運んできた商人の一人が、今のクランに旅商人になるための教育をしてくれている人である。

 クランにとって、師であるその商人は勿論、その商人に師事しようとして断られた時、共に頭まで下げてくれたゼルには感謝の気持ちしかない。


 色々なことがあった。そして、最後には別れがあった。

 門から出て行く前に、彼らは、クランにいくつか声をかけてくれた。


『クランくん……元気でね! ずっとずっと、元気でいてね!』


『ぺこぺこ頭下げんな。最初に会った時言ったろ、俺は夢持ってるガキは嫌いじゃねぇんだ。叶えろよ、絶対』


『クラン君、ここではないどこかで、また会いましょう。その時、あなたが見てきた世界の話を、私達に聞かせてくださいね』


 村の正門で別れた彼らの言葉を思い出しながら、クランが母とお茶を啜っていると、ひとつリビングの扉が開いた。扉の向こうから現れた男に向けて、クランの母は声をかける。


「おはよう、あなた。ちゃんと自力で起きたのね。…………ふふ、そうね。クランがかっこよく旅立つ日だってのに、私に起こされるような情けない真似はしたくないわよね」


 そう。今日は、クランがあの日出した答えの、結末の日。

 今日、彼は村を出ていくのだ。


 





 

 鞄を持って、村の中を歩くクランには、村人たちから次々に声がかけられた。

 この8年で仲良くなった同年代の子たちから、お酒を一緒に飲んだ大人達から、共に仕事もした年下の子達から、別れを惜しむ言葉と無病息災を願う言葉が投げかけられ、クランは彼らにこれまで共に過ごしてくれたことへの感謝の言葉を返す。


 村の最奥にある自分の家から歩いていると、声の途切れる区間があった。彼は周囲を見回した。

 山に挟まれたこの村は、斜面に広がるブドウ畑が、どこからでも見える。

 クランの視線の先では、雨に濡れぬよう取り付けられた小さな傘の下で、小粒のブドウ達は密集することなく一つ一つが十分に栄養を蓄えて、鮮やかな黒色を輝かせて実っていた。例年通り、そして、これからもそうなのだろう。

 

 これまで生きてきた18年間、この時期に繰り返されてきた代わり映えのしない光景に────しばらくの間、別れることになる光景に、クランは感謝を述べた。


「ありがとう」


 

 歩み続けた先にあるのは、村の正門。

 その場所ではクランの師である商人、先に家を出ていた母や義父、そして、村長の4人が待っていた。

 商人は彼の姿を確認すると、フンと鼻を鳴らして門の向こうに待っている馬車に乗り込んだ。一見ぶっきらぼうな態度だが、関わり深いものだけで別れの挨拶をさせてやろうという彼なりの気遣いのはずだ。クランにはそれが分かっていた。


「立派になったの」

「村長」


 8年前よりシワの増えた老人が、笑みを携えてクランに話しかけた。


「”彼ら”に会う機会があったら、感謝は忘れておらぬと伝えておいてくれ」

「はい、伝えておきます。……お世話になりました」

「こちらこそ、今まで村のため頑張ってくれたこと、礼をいう。これからはお主自身のため頑張るのじゃぞ」


 村長が一歩引いた後、次に話したのはクランの義理の父だ。双方共に、母を支えてくれたことへの感謝を述べる。力強い握手と抱擁をしたのちに、彼も身を一歩引いた。

 

 最後に話すのは、母だ。


「母さん、今は、僕が旅に出ること不安じゃない?」

「不安になるわけないわ。あなたがどれだけ成長したか、私は十分に知ってるもの。何十年後かには無事に、また会えるって信じてるわ」

「……寂しくは、ない?」

「…………寂しいわ」

「…………僕もだよ」


 しんみりとした空気の中、抱擁を交わす。クランは、ゆっくり、ゆっくり語った。


「でも、見たいものがあるんだ。会いたい人たちがいるんだ。だから、僕は遠くに行くよ、母さん。必ず帰ってきて、母さんに旅の話をするからね」

「うん」


 抱擁を解いて、クランは背を向けた。これ以上話していると、涙が出てしまいそうだから。念願が叶う門出の場で泣くようなことはしたくなかった。

 

 彼の母もそう思っていたのだろう。会話の終わりを惜しむことはなく、口元に笑みを浮かべて、送り出す言葉を彼に告げる。


「行ってらっしゃい」


 クランは立ち止まって、振り返る。後悔なんて何ひとつない、満面の笑みを浮かべて、彼は言った。


「行ってきます!」


 青年の歩みに揺らされて、鞄の中で、一冊の本がカタリと音を鳴らした。



 ブドウ畑の少年は、物語に憧れ外に出た  完

ご愛読ありがとうございました。

同一世界観の長編も投稿する予定なので、もし機会があればお見通いただけると幸いです。

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