ブドウ畑の少年は、物語に憧れ外に出たい
草木生い茂る森の中。
小型の生き物数体が、湿り気を帯びた空気が漂う木々の間を駆けていく。
その生き物達は身を潜ませてた茂みからひょっこりと首を出して、開けた場所に頭部を露わにすると、ぎょろり、と猫のような眼を忙しなく動かし辺りを見回した。
ふわりと丸い尻尾、折り畳められた爪、飛び出した短い舌と、とんがった耳。猫と狸の中間のようなその生き物達が目を向ける先は茂みや樹上である。外敵がいないかを確認しているようだ。
問題ないと判断したようで、それらは全身を草むらから出し、手に持ったブドウの実をその開けた場所の中央に持っていく。次々に積み上がっていくブドウの実。
ブドウの山が完成すると、すぐさま彼等は踵を返した。ノルマは達成した。とでも言わんばかりのふてぶてしい顔をして、彼等は踵を返し……。
木の裏から現れた1人の人間の女を見て、立ち止まった。
彼女は、青白い鎖を片手に、魔物達の方に歩いてくる。
彼等の間に緊張が走る。畳んでいた爪を伸ばして、飛びかかろうとする彼等。
だがそれよりも前に、女は青白い鎖が生えた掌を突き出して、【魔法名】を唱えた。
「【愚鈍嘲り】」
鎖が砕け、一条の稲妻が生き物達の頭上の大気を破裂させ、突き進む。稲妻が地面に着弾した途端、着弾地点から半径15メートルの半球状の領域が雷で満ちた。
バリバリバリバリッ!
「「ギィーッ!!」」
鳥の羽ばたき、放電音と木々の焼ける音、生き物たちの……魔物達の声にならない悲鳴が轟く中で、二人の男が草むらから身を乗り出した。
雷の半球を作り出した女は、彼等に向けて大声で言った。
「セキナ、ゼル!
敵は狸奴7頭!
ビリビリが続くのはあと2秒だよ!」
「分かったよ。【鬼火焚き】!」
「了解だ、【威風鈴鳴り】」
二人の男、セキナとゼルも青白い鎖をその手に【魔法名】を唱えた。
鎖が砕けてセキナの持つ剣に赤い光が、ゼルの全身に緑の光がそれぞれ宿ったとほぼ同時に、雷の幕は消滅して、真っ黒焦げになった木々と狸奴と呼ばれた魔物達がその場に倒れ込む。
セキナとゼルは魔物達に近づくと、手に持つ剣とナイフを用いて次々に、骸一歩手前の彼らを一歩進ませていった。
最後の一匹を仕留めたその時、木々の向こうから怒声が飛んできた。木々が薙ぎ倒されていく遠くの衝撃を肌に感じながら、ゼルとセキナは口を開く。
「セキナ、狸奴って確か、大型の狸の魔物をボスとして崇めて、共生してる魔物達だったな。″あれ″がその首領で、さっきから感じていた大きめの瘴気の発生源ってわけか」
瘴気とは、魔物が放つとされる嫌な気配のことである。その気配は、魔物を中心とした球状の範囲内にいる生物を不快にする作用があり、範囲や不快感の大きさは魔物の強さにほとんど比例する。木々の向こうからここまで届く範囲の大きさや、皮膚を体内から筆でなぞられるような、ぞわりとした大きな不快感から推測するに、その発生源がこの森の最強の存在。
すなわち、討伐目標。
「狸奴達に盗まれてた葡萄はアレへの供物だったみたいだね。コルト! 大型の魔物が来る、魔法の準備を!」
セキナが人間の女、コルトの方を向くと、彼女はぶつぶつと何かを呟いていた。下に向けられた彼女の手のひらから、青白い鎖────”呪文鎖”が生えて垂れ下がっていく。
「……〈二重加速〉=〈二重強化〉 =〈三重瘴気対抗〉」
「既に準備しているみたいだね。初撃は頼むよ」
焦げた木の破砕音と共に、炭の破片が空中を舞う。その向こうから現れたのは、猪と狸を合わせたような魔物だ。四足歩行でありながら見上げるほどの大きさを持つそれは、立ち上がると太く長い爪と傷だらけで鈍い色をした巨大な牙を強調し、吠えた。
「ボワアァァァッ!!」
「【愚鈍嘲り】」
コルトの声を聴こえなくする、魔物の威嚇を塗りつぶして、雷が大気を灼く音が満ちる。雷の丸天井が魔物を包み込むと、セキナとゼルはそれぞれ纏った赤と緑の光を強めて……セキナの耳が、何かを察知したようにピクリと動いた。
彼は身を翻すと、コルトの方へ、正しくは樹上からコルトへ飛び掛かってきていた狸奴へ、斬りかかる。
コルトは驚き顔を浮かべながら、空中で叩き斬られる魔物を視界に入れ、状況を理解した。
「おわっ!? あっ、そういうアレね! びっくり! ありがとう!」
「ゼルッ!」
「おう」
コルトが断続的に話す間に、端的な指示がセキナから、一人前方で構えるゼルへと飛んだ。
次の瞬間、雷の穹窿から猪狸の魔物が飛び出してくる。巨体の表面に電流の残滓を走らせ、浅く焦げた毛皮を空気の抵抗で灰に変えながら、怒りに燃える目でコルトを睨みつけるその魔物の前に、ゼルが立ちはだかった。
「ボアァ、ァア゛、ア゛ッ!!」
「通さねぇよ」
挑発的にそう言いながら、ゼルは盾を持った腕と持たない腕、その両腕の緑の光を強めた。はっきりと耳に聞こえるほどの風切り音が、その両腕から鳴り出す。
魔物が立ちはだかる彼を貫こうと、突進するまま牙を下げる。ゼルは勢いよく迫るその牙に向けて、緑に光る小手を側面から叩きつけた。
チリィンと鈴のような音の後、魔物の牙と頭は風に弾かれ横に逸れる。そのまま進む魔物の胴体へ、ゼルは今度は盾を叩きつけた。同じく鈴のような音の後、今度弾かれたのは頭だけではない。
魔物の全身が弾かれ、少しの浮遊の後、魔物は地面に倒れ込んだ。
「グ!?」
「今だ! セキナッ」
「ああ!」
セキナが赤く光る剣を横に構える。一瞬にして剣は赤熱し、カッと大きく光った後に彼の背面に向けて熱を噴射した。生まれた推進力に従い、セキナは低空を、魔物に向けてすっ飛んでいく。
魔物がジタバタしながら身を持ち上げる途中に、セキナはその赤い剣を振るった。かろうじて魔物は片腕を持ち上げ、その剣を厚い毛皮と筋肉を伴う腕で受け止めた。速度の乗った剣は、魔物の腕を半分まで断ち切って止まる。″斬れた″のはそこまでだ。
魔物が反撃をしようとしたその瞬間、腕にめり込んだ剣の纏う赤の光が爆発を起こし、魔物の腕を″抉り取った″。
魔物は叫びを上げながら、転がっていく。
「オウ!? ボウ゛ウゥ!??」
「凌がれたっ」
「でも腕すっぱりいってる。もう勝ちでしょ!」
「まだ生きてるぜ。仕留めるまで油断するな」
セキナは剣の赤い光をもう一度強めながら、今度は走ってその魔物に迫った。魔物は彼を見て怯えると、三つの手足で焦って逃げ出す。
その速度は、五体満足時の本来の速度と比べてはるかに遅いが、既に雷による痺れが無いからか、人の足では追いつききるのは難しそうだ。
《雷》の《属性呪文》をセットしているコルトへ向けてセキナが指示を飛ばそうとした時、魔物が向かう方にある草の方からセキナにとって聞き覚えのある声が聞こえた。
「えっ、こっちに来てる!?」
それは、村にいた少年の声。彼等に外に連れて行ってと頼んだ、葡萄畑が嫌いな少年、クランの声だ。
こんなところにいるはずのない少年が、そこにいる。セキナは一瞬の思考の停止のせいで、コルトに指示を飛ばすのが遅れてしまう。
魔物もクランに気がつき牙を進行方向に向けた。速度は武装してない子供一人突き殺すのには十分。
このままだと間に合わない。
その二つの情報が、白紙化した思考の上に倒れ込んできたのをきっかけに、セキナは手段を選ぶことをやめたようだ。赤く光る剣を投げ捨て、自身の左腕に右手を乗せた。
「セキナ!?」
「おい、何やって」
「『破砕』」
セキナの左腕、その前腕部に沿うように筒状の″発射装置″が出現した。
彼は横に跳びながら、左腕ごと、その筒の先端を魔物の身体側面に向ける。添えていた右手で、その発射装置の背中にあるスライド式の引き金を引いた。装置から射出されたのは、先が円錘状になった棒型の何か。
何かは瞬く間に魔物に着弾すると、魔物をくの字にへし折りながら一緒に飛んでいき……とびきりの轟音と共に、前方50メートル扇状に破壊の波を撒き散らした。
爆発し、魔物の肉体を細切れのミンチにし、森の木々を破片へと変える。
視界いっぱいに砕けた何かが広がり、破砕音だけが彼等の耳の中を響く。
それが数秒ほど続いて、空高く舞い上がったカケラたちが落下し始めた頃。削り取られた地面の上に、えぐれた木々や主を失った葉枝達が倒れ込んでくるのを目にしながら、セキナは左腕をぶんと振る。生成された発射装置は外れて、地面に転がった。
土砂が流れ落ちるような音を背に受けながら、セキナは、後ろの二人を見た。
コルトは止めるような姿勢のままフリーズしている。
ゼルは森への余計な被害に顔を顰めて、片手で頭を抱え、今まさに一言発するところだった。
「マジで、何やってんだ。理由を説明してくれ」
「それは…………こういうことだよ」
セキナは歩くと、そこにあった草を両腕で押し退け、隠れていたクランの姿を露わにする。クランは腰を抜かし、尻餅をついていた。
セキナの顔をじっと見る彼の瞳には、畏怖と憧れが強く宿っていた。
◆◆◆◆
4人は森の中、村に向けて真っ直ぐに整地された道を歩いていた。
セキナを先頭に、ゼルとコルトはその後方に横並びになって一応周囲を警戒する。そしてクランはその中央で彼らに保護されながら、キラキラと輝く瞳をセキナに向けつつ話しかけた。
「セキナさんは”天恵”持ちなんですね! すごい、すごいです!」
「クラン君、私の天恵については秘密にしてくれるかな。”聖国”
にバレると神託者として囲われて旅できなくなるからね」
「秘密、ええ、秘密ですね。分かりました!」
はしゃぐクランと、苦笑いを浮かべるセキナ。
天恵とは、神が人に与えるとされる超常の力だ。
人間やエルフなどの人に分類される者ならばほぼ誰もが使用できる魔法とは異なり、世界に数十人しか持ち得ない天の恵みであり、また、産まれながらにしてしか持ちようのない、まさに選ばれし者の証と言える力。
自分の村にやってきた討伐者の一人が────自分を外に連れて行ってくれる者が、そんな希少な力を持つと知って、クランの心は弾んでいた。
本当に物語の中の登場人物の1人になったような気持ちで浮き足立つ彼を、ゼルの黙々とした声が地上に戻す。
「で、なんでこっち来たんだ。セキナの判断が無けりゃ下手したら死んでたぞ」
「そ、それは…………皆さんの戦う姿が見たくって」
「無謀だな」
ため息を吐くゼルの前に、親指を立てたコルトが口角を上げながら割り込む。
「わたしの活躍は見た? 格好よかったでしょ!」
「いえ、追いついたのがセキナさんが燃えてる剣で斬ったとこからなので」
「がーん!? ……まだそこら辺に生き残ってる魔物いないかな?」
「無益な殺生やめろ。ただでさえ組合への報告やらであの破壊跡の言い訳考えなきゃならねぇんだから、余計なことすんな」
呆れ顔を浮かべるゼル。あの猪と狸の間のような姿をした魔物……草威薙ぎを倒した以上、狸奴はボスを求めて別の地域に向かう。これ以上魔物退治をする必要はないのだ。
むしろ、そんなことすれば作成する提出文書の数が増えてしまう。ゼルの負担も比例して増える。
肩を落とすコルトを見て、セキナがふふと小さく笑った。彼の透明感のある水色をした短髪の下では、青みがかったグレーの瞳が優しげに光を宿している。少年、クランは改めて、こんな穏やかな様子の青年と、彼によってもたらされたあれほどの破壊が結びつかなくなる。
薄れていく現実味、そして、その現実味の無さがなんとなく心地良かった。それを味わっている彼の方に、ふと、セキナの優しげな瞳が向いた。
「それで、本当は?
どうしてここに来ようと思ったのかな」
クランの瞳が揺れる。彼は自身の腰に付けられた道具袋────家から引ったくるように持ってきた父親の道具袋の重さが増したような気がして、パッと下から手で掬い、抑えた。
彼は口に作った笑みを浮かべて、目をセキナの顔から逸らしつつ答えた。
「本当も何も、言った通り、皆さんの戦いが見たかっただけです。別に、親から、旅の許可だって、問題なく、貰えましたし」
「ふむ。ご両親に話を付けるときに何かあったと」
「っ!?」
クランは目を開いて驚いた。この青年はあの大破壊の天恵だけでなく、人の心の内を読めるような超能力まで持っているのか、と。
彼は観念したようで、口元に作っていた笑みを滲ませ、眉を下げる。
「……母さんと喧嘩したんです。僕の母さんは、亡くなった父のためにしなくてもいい苦労ばっかりしてて、やになっちゃって」
「亡くなった父というのは、お母さんの?」
「いえ、僕の父親です。僕が生まれて間もなく魔物に殺されてしまったそうで……食い散らかされて遺体も残ってなくて、家具や服は村の人達と共用してたので、コレが唯一の遺品と言えるものらしいです」
そう言ってクランは腰に付けた道具袋を持ち上げ、3人に見せた。
ゼルが少々眉を顰める。
「そんな大事なもんを取ってきちまったのか」
「だって……これも僕もいなくなれば、母さんは全部忘れられて、生活が楽になって、きっと、幸せになれると思うんです」
「生活が楽にねぇ……それが本当に、お前の母親の幸せなのか?」
クランはぐっと唇を締めて、ゼルを見上げた。
「ゼルさんは母さんの様子を知らないから、そんなふうに言えるんです。毎年毎年毎年っ、無意味に徹夜して、開封式の日もまったくお酒飲まずに辛気臭くして。あんなの、絶対幸せじゃないです」
「……ああ、なるほど。君はお母さんのために、畑仕事を頑張っていたんだね。君自身の頑張りで前を向いて欲しかったんだ」
セキナが言葉を挟み込むと、クランは目を丸くして彼の方を見る。
畑仕事に熱心だったことは伝えていないはず。教えた覚えのないことを知っている彼は、やはり心を読む能力か何かを持っているのだろうか。と思いながら、クランは頷いた。
「お酒飲んで、美味しいなって言ってもらって、泣かないでくれればいいなって思って、僕は頑張ってきたのに。無駄だったんです。……もう、村にいるの、嫌なんです」
心の奥底から、重いものを取り出すように語られたクランの言葉の後、ほんの数秒、彼らの間には仄暗い静寂が満ちる。
セキナは顎に手を当てて何かを考え、ゼルはどこか納得がいかなそうな顔で、眼を細くしている。
クランが肩を揺らしながら浅いため息を吐き、彼の瞳に涙の膜が張られた頃、彼の背後から抱きつく者がいた。
コルトだ。
「よく頑張ったね。よしよし。すぅぅぅぅ」
「コルトさん……」
「クランくんはすごいよ。優しい子だよ。すぅぅぅぅ。いっぱいわたしがぎゅっとしてあげる。すぅぅぅぅ」
「ありがとう、ございます。コルトさん。僕のつむじ吸いながらじゃなければ、もっと素直に感謝してました」
「えっ本当? なら止めるから私に惚れてくれても゛ん゛っ!?」
「お前いい加減にしろよ。真面目な話中に不真面目やってんじゃねぇ」
ゼルが、クランに抱きつくコルトの額を掴み、彼女を彼から引き剥がす。
痛みに口角をひくつかせながら親指を立てて「やだなぁゼル。わたしはいつだって真面目に少年少女に好き好きしてるよ」などとのたまう彼女を、彼は茂みに投げ捨てると、諭すようにコルトに語った。
「俺も、お前は頑張ってると思うぜ」
ゼルはクランを擁護するような言葉をはいた。だが、彼の目や口調、纏う雰囲気はどこか咎めるような様子だ。
彼は片手を上げると、否定するようにその手先を振った。
「だけどよ、お前、現状から逃げるために俺達と旅に出ようとしてねぇか。そりゃ、だめだ」
「! ……」
自らの芯に触れるような指摘に、口元を締めるクラン。
葉っぱを頭に乗せたコルトが茂みから立ち上がり、先行するゼルの元へ駆けつつ、怒った声を飛ばす。
「ゼル、そんなふうに言っちゃだめ! 辛い思いしてるんだから優しくしてあげなきゃ」
「だけどよ、衝動的な行動は絶対後悔する羽目になるぜ。お前やセキナと違ってこいつには選ぶ余地があるんだ。こいつが後悔することになんのは嫌だろ?」
「そうなってから村に返してあげればいいじゃん!」
「そんな余裕、いつ死ぬかも分からない討伐者の俺達にはねぇよ」
「危険なとこに行くときはさ、他の人に預けたりとかすれば──」
ぱんぱん、と手を叩く音がする。
言い争う2人がその音の方を見ると、両手を合わせたセキナがわずかに眉を下げていた。
若干ばつが悪そうな顔を浮かべる2人を尻目に、セキナは薄く涙を浮かべるクランの方を見た。
「クラン君。ゼルもコルトも、君と気兼ねなく旅できることを望んでる。もちろん私もです。だから、君はもう少しお母さんと話して、それから旅に出るか否かの答えを出さなきゃいけません」
「……もう、話し合ったって何にもなりません」
悲しげに首を横に振るクランの肩に、セキナは軽く手を置いた。励ますかのごとく、柔らかな声色で語る。
「クラン君、大丈夫ですよ。君はお母さんにちゃんと愛されてる。それを念頭に入れて話してみてください。きっと、君が今まで気付けなかったことに気付けますから」
クランのヒビの入った心に、彼の言葉が染み込んでくる。暖かい温水のようなそれは、彼の心の痛みを増す要因にしかならない。
こんなにすごい人でも、僕のことを分かってくれないんだ。
彼は、自身の母親に会ったこともないセキナの楽観的にも聞こえる言葉に、わずかな失望を感じた。
だが、クランはそれを表に出さず、その言葉で救われたかのように自身の口元を小さく微笑ませた。旅に連れて行ってもらえなくなるかもしれないから。
「ありがとうございます。セキナさん。もう一回母さんと話してみます」
「……クラン君、私の言ったこと、よく覚えておいてくださいね」
クランが頷くと、セキナは呼応するように力強くゆっくりと頷く。ゼルは眉間に寄っていた皺を解き、コルトは両手で握り拳を作り、拳の背をクランに見せつけた。「頑張れ!」とでも言いたげだ。
先ほどまでのちくりと指すような空気感から、一歩進めたかのような雰囲気の元、彼らは変わらず、セキナを先頭として村に歩みを進める。
足踏みが一瞬だけ揃って、即座にそれを崩したのはゼルだ。頬を掻きながらクランに近づき、呟いた。
「謝るつもりはねぇ。だけど、お前のこと心配して言ったのは本心だ。……俺も一回、今のお前と似たようなことをやらかしかけたことがあるからな」
「大丈夫です。お母さんと、しっかり話してきます。それより、さっき選ぶ余地がどうこう言ってましたけど、皆さん望んで旅人になったんじゃ無いんですか」
クランはゼルの言葉に、なるべく心がこもっているように見えるように返事をして、すぐに別の話題を振った。
その質問の意図は、話を続けてボロを出さないための誤魔化しが主ではあるようだが、半分本当に気になっているようだ。
ゼルは少し考えるように口元に皺を寄せて、考え終わると、にやりと笑った。
「セキナは重い事情があって俺からは話せねぇ。言えるのは、あいつは望んで旅人になったわけじゃねぇってことだけだ。俺の方は港町の領主の家に生まれたが、退屈だったしセキナに恩もあったしで、旅についてきた。俺は望んでなった側だな」
「領主の子供って、ゼルさん結構偉い立場だったんですね」
「三男だから大したことはねぇけどな。兄貴たちのが優秀で、俺は半グレだったし。……くく、それで、面白いのはコルトの奴でな」
その話をするためのニヤけだったのだろう。
ゼルは自身の口角をわずかに跳ねさせたあと、小声で言った。
「あいつは元々聖国の首都”聖都アメリー”で、”捕縛隊”っていう組織の一員だったんだ。副隊長として活躍してたらしいぜ。本人いわく」
「聖都アメリーって、物語にも度々出てくるあの街……! すごい大きな街ですよね。捕縛隊も、悪いことした人を捕まえるための部隊って聞いたことあります」
「中々に偉い立場だったんだぜ、あいつは。なのに、くくっ。あいつ聖国のトップである”教主”様の息子に接吻かましやがってな。それが教主にバレて、斬首か国外追放か、で後者選んだのが今のあいつってわけだ」
「ああ〜……やりそうですね」
「だろ?」
クランの口元が緩み、半笑いになってるゼルの肩が上がる。2人が互いに心をほんのり通じ合わせたところで、通じ合わせる要因となった女性が、青筋を立ててゼルの背中をつつくように殴った。
「ゼル、その話は無しだって! わたしにも失礼だし、何よりチューしてくれたあの子にも失礼でしょ!」
「お前にしか失礼した覚えねぇよ。記憶を捏造して向こうからやったことにしやがって」
「ほんとだもーん! わたしが罪おっかぶっただけで、最初は向こうからしてくれたもーん!」
「そうだな。ああ、そうだな」
呆れたような声でそう言うゼルと、頬を膨らませて彼の背中を殴る速度を上げるコルトを見て、クランは緩んでいた口元を完全に笑みに変えた。
笑いながら、クランは思いを募らせる。
今の僕の気持ちは分かってくれない彼らだけど、やっぱり一緒に旅をしたい。彼らと一緒の旅はきっと楽しくて、僕も今のつらい気持ちを忘れられるようになる。
そう思った彼は、先頭を歩くセキナに目を向けた。いや、正しくはその進行方向。自分の住む村……母親の、いるところ。
母親を言いくるめて、自分が旅に出ることを認めてもらう。そして、自身も母親も新しい環境で幸せになる。
クランはその目標を心の芯に灯して、一歩一歩力強く歩く。
目標を達成するまで、立ち止まったりしないと彼が決心した、その矢先────先頭を歩いていたセキナが、突然立ち止まった。
「? セキナさん?」
後ろから、立ち止まった彼の顔は見えない。だが、話しかけても彼の身体がピクリとも動かないことから、何か異変があったと推測できる。
クランは彼の隣へ行こうと足を早める。コルトとゼルも、彼の様子を不審に思って駆け寄った。
「どうした、セキナ」
「何か変な物でも落ちてたの?」
「セキナさん、何か────」
駆け寄った彼らが、ある境を超えた瞬間。彼らの肉体を、絶望が侵した。
「っ!?? お゛えっ、え゛っ!?」
クランは地面に手をつき、吐いた。
内臓がすべて裏返るような、眼から汚水が溢れているような、皮膚の下を無数のムカデが張っているような、強烈な不快感が彼を襲う。
何が起きたかも理解できずに無様を晒す彼のすぐそばで、討伐者の2人は彼と同様の不快感にさらされながらも彼とは異なり二本の足で立ち、何が起きているかを自らの経験からはっきりと理解して、そして、真っ青な顔をして震えていた。
「瘴気だ。"これ"を発生させている魔物がいる」
先頭に立つセキナはそうつぶやくと、唾を呑み込み、顔に浮かんでいた汗を拭って、危機迫る表情で背後の2人に向けて叫んだ。
「ゼル、コルト! クラン君を連れて避難を! 私は村に向かって、村の人たちを避難させる!」
「っ、分かった」
「なに、いったい何の魔物!? こんな大きさの瘴気、感じたこと……! はっ、クランくん!?」
走り去っていくセキナ。道を数歩戻りながら険しい顔で何かを唱え始めるゼル。目を大きくして屈むコルト。
急変した事態に、クランただ1人が何も成せず状況に押しつぶされる。ふと、浮遊感を感じた。コルトに抱えられたようだ。彼女に瘴気の境の外まで運ばれると、彼が感じていた不快感が断絶した。代わりに襲ってくるのは寒気と倦怠感。
ガタガタと震えながら、恐ろしいほどにクリアに感じる思考で、彼は状況を飲み込もうとする。
なにがおきた?
瘴気っていってた? たしかに瘴気のなかにいるときのいやなかんじとにてた。
むらのほうにあるいているとちゅうで、瘴気のなかはいった?
むらに……僕の村に、この瘴気を発している魔物がいる?
「【威風鈴鳴】! コルト、お前も瘴気酔いで完全に魔法が使えなくなる前に〈魔纒〉付きの魔法を使っとけ!」
「でも! クランくんが、クランくんが!」
「げふっ、けほっ、僕は、大丈夫」
クランの顔は、彼の体液で濡れており綺麗とは言えない。特に、口元は吐瀉物が引っかかっている。瞳を震わせて、しかしながら、その目は何か懇願するようにゼルとコルトの2人をたしかに捉えていた。
「それより、みんなを、村を助けてください」
クランの心の底から発せられた嘆願の言葉に、コルトは唇を小さく噛んだ後沈痛な面持ちで頷き、彼を木にもたれかかるように座らせた後、〈呪文〉を唱え出した。
情に絆され同意した彼女とは異なり、ゼルは頷かない。ゼルは真剣な顔でクランに自身の判断を告げた。
「可能な限り人命は助ける。だが、村は約束できねぇ」
「…………え」
「村を救うには”これ”の発生源の魔物を討たなくちゃならねぇ。竜の瘴気ですらこれには及ばなかった。セキナの天恵があったとしても、俺たち3人じゃ難しいだろう」
クランが物語として知る中で、最強の魔物である竜。それより強い何かが村を襲っているかもしれないという事実が、クランには信じられなかった。
暗い想像が、彼自身の記憶に残る村を塗りつぶしていく。人も、ブドウ畑も、朝まで確かにあったはずの現実が消えていく。
現実味のなさが、悍ましかった。
「ゼル! コルト!」
道の先から、先ほど走り去ったはずのセキナが戻ってくる。その後ろでは、顔の青い村人たちが肩で息をしながら彼に着いてきていた。彼らも、瘴気でかなり参っているようだ。
皆が瘴気の影響範囲外へと出てきてから、ゼルはほっとした様子のセキナに話しかけた。
「セキナ、随分と早かったな」
「私が呼びかける前に、彼らは村から逃げ出していた。すぐそこで合流したんだ」
クランが木にもたれたまま村人たちを見回すと、その中から一人が前に出てきた。村長だ。彼はクランを見て、青い顔のまま、ふうと気の抜けたような息を吐いた。
「家出したと聞いたが、やはり彼らと共にいたのか、クラン。お前の母親が心配しておったぞ」
「そうだ、母さん……っ!? 母さんは、母さんはどこに!?」
彼は思わず立ち上がった。
避難してきた村人たちをざっと見る限り、彼の母親は見当たらない。最悪の想像をするクランに向けて、村長は首を横に振った。
「今はおらん。家に取りにいく物があると言っておった。少し遅れて追いつくじゃろう」
「なっ、魔物がいるのになんで!?」
「魔物は村の入り口から侵入してきたのを見張りが確認しとる。おぬし達の家は入り口から最も遠い家じゃ。そこに魔物がくるまでのんびりするつもりはないと、大事なものを1つだけ取りにいくと、クロリエのやつは強情に言っておった。行かせた方が早いと判断し、ワシが許可した」
それを聞いてクランはわずかな安心感と同時に、奇妙さを覚えた。母が取りに行った大事なものとやらが何なのか分からなかった。一番の候補は彼女の夫の遺品である道具袋だが、クランは彼女の目の前でそれを持ち出したのだ、彼女もそれが家にないことくらいわかっているはずである。
……そっか。お酒か。
心当たりが浮上した。クランが彼の母のために育てたブドウと、彼の母が夫のために編んだ樽で作った葡萄酒である。村が壊滅すれば2度と作ることのできないその品は、彼女が夫に愛を伝えるのに必要不可欠なものなのだろう。
クランの胸中に暗いモヤモヤとした気持ちがぶり返してくる。
それを知ってか知らずか、コルトが村長に話しかけて話を打ち切らせた。
「村長さん、知ってる限りでいいから魔物の特徴を教えて」
「ああ」
村長は見張りをしていた村人を呼ぶと、その男に魔物の姿やらについて話すように促した。彼が口を開くたびコルトの顔は難しくなっていく。
最後まで聞くと、彼女は汗を一筋垂らした。
「大きな口と爪に、人には目もくれずブドウ畑を荒らしまわる行動、それで、この瘴気の大きさ。間違いない、村を襲っているのは大唇削者だよ」
「タイシンザクシャ……村を取り返せる相手なんですか?」
「クランくん、それは」
「無理だな。人類が討伐した記録のない魔物だ。倒すための武装を揃えた軍ですら全滅させられたそうだ。3人で勝てるわけがねえ」
ゼルの言葉はクランを含めた村人達全員の顔に影を射した。彼らも村に偶然来ていた討伐者達に期待していたところはあったのだろう。
「避難先で助けを求めるにしても、あの規模のブドウ畑でも大唇削者の場合全て喰らい尽くされるのに3日、”残り”を探して家を削り砕くのに数時間。そのくらいで村は壊滅する。間に合わねぇな」
「そんな……」
恐怖のままに逃げてきた村人達は、その言葉を聞いて初めて今まで暮らしてきた家と土地が既に失われたモノに等しくなっていると気がついた。
ゼルは真剣な顔のまま、少しだけ声量を大きくして言葉を続けた。
「逆に、縄張り意識が強くて草食の大唇削者は食えるもん全部食い尽くすまで、逃げる俺たちを襲うために追ってきたりはしないだろうよ。それは救いだ」
「そう、なのですか」
意気消沈した様子の村長は、それでも青い顔を持ち上げて、真っ直ぐな瞳を作ってから周囲の村人達に向けて言葉を発した。
「皆、討伐者様の言葉を聞いたな。クロリエのやつが戻ってき次第森を抜けるぞ。生きてさえいれば、培ってきた全てが壊されたとしてもまだワシらに明日はある。落ち着いて、行動するのじゃ」
村長の言葉に頷く村人達。彼らの瞳からは涙が溢れ、声を出して泣く者もいた。
彼らの様子を見て、クランの脳裏に浮かんだのは、徒労の象徴であるはずの一面のブドウ畑だ。何も実りを与えてくれなかったそれらを惜しむ理由など彼にはないはずなのに、彼は自身の瞳の奥の方から、喉へと熱が通り抜けるような感覚を覚えた。
あまりにも突然失うことになってしまった故郷へと、哀惜の気持ちを捧げる村人達。
ゼルは腕を組んで自らの二の腕を双方の手できつく握り、彼らから顔を逸らす。コルトも、悔しそうに歯噛みして俯いている。
その場に漂う悲壮感。それを割くように、一人の男が────セキナが両手を叩いて大きな音を出した。彼に視線が集まる。
彼はこの場にまるで合わないニコリとした柔らかな笑みを浮かべると、仲間二人の方に顔を向けて、言った。
「話は大体終わったかな。それじゃあ、ゼル、コルト。大唇削者を倒しに行こうか」
彼以外の、その場の全員の目が大きく見開かれた。