4 喧騒の真実
王都で敵の襲撃を受けたホルンたちは隠れ家に避難した。
ジュチはウラル帝国の間者が紛れ込んでいるとにらみ、怪しい男を捕らえるが……。
イスファハーンには、ホルンたち専用の『隠れ家』がある。
これは、サマルカンドにあったそれとは違い、敵から身を隠すためのものではなく、公務に忙殺されるホルンやザールたちの息抜きの場としてつくられたもので、発案者と製作者はロザリアであった。
「ここだよ」
ホルンは、イスファハーンの南交易会館からほど近い路地をいくつか通過すると、とある路地の真ん中で足を止めて言った。
「ここって、何もありませんが?」
カンネーが不思議そうに訊く。
ホルンが指さした空間には何も見えず、ただ路地の先が見えているだけだ。薄暗いその路地はイスファハーンの東市がある広場へとつながっていて、少し先には露店の軒先が小さく見えていた。
「何かあると分かっちまっちゃ、『隠れ家』の用をなさないだろう?」
ホルンは笑って言うと、左手に緑青色の『魔力の揺らぎ』を集めて空間の一点へと向ける。するとそこに小さな魔法陣が現れた。
「ふむ、2年ぶりだけれど案外覚えているもんだね」
ホルンはそう言いながら、何重かになっている魔法陣を右回り、左回りと動かした。そして全部の魔法陣がボウッと白い光に変わったとき、ホルンは最後の魔法陣に『魔力の揺らぎ』を込める。
「おおっ!」
「すごい……」
カンネーとクリスタが同時に声を上げる。白く光る魔法陣はホルンの『魔力の揺らぎ』で開錠されたように大きく広がった。人一人が十分に通れる大きさである。
「さ、ついておいで。遠慮はいらないよ」
ホルンは全員に笑いかけると、『魔法の通路』へと消えた。
そのころ、ジュチは王宮の奥深くでザールと深刻な顔をして話をしていた。
「では、ジュチはウラル帝国の間諜を束ねる人物が、イスファハーンのどこかにいると考えているんだね?」
ザールが静かに訊くと、ジュチはうなずいて
「それは確実だね。でないと姫様たちが南交易会館にいる時間に、どんぴしゃりその場所を襲撃できたりはしないだろう。右将軍のタルコフが指揮を執っていたようだから、王宮のあちこちにも間者が入り込んでいると考えて間違いないさ」
「タルコフは立派な武人だった。どうしてウラル帝国に取り込まれたのだろう?」
ディミトリー・タルコフはザッハーク朝で王国軍を率いていた隊長だ。しかし、身分の差が昇進に影響する当時のファールス王国軍に見切りをつけて軍を退役し、傭兵隊を組織した。『終末預言戦争』ではザールの呼び出しに応じてホルンのために局地防衛に手柄を立てていた人材である。ザールがいぶかしむのも無理はなかった。
ジュチは肩をすくめて、
「さあね? でも調べてみたらタルコフはウラル帝国とまんざら関係がないわけでもなかった。彼の父親はウラル帝国で軍指揮官をしていたようだからね。ウラル帝国としても、そんな経歴を持つ人間には接触しやすかったのかもしれない」
そう言うと、碧眼に真剣な光を込めて
「だからザール、この件に関してキミは表向きには動かない方がいい。ボクが密かに王宮内の不穏分子をあぶり出すから、キミは何を見ても聞いても知らんふりをしていてほしい」
そう頼んだ。
ザールは緋色の瞳を細めると、
「君に全責任を取らせるほど、僕は冷徹じゃないさ」
そう言う。
けれどジュチはニコリと笑って首を振った。
「キミはそう言うと思ったよ。けれど安心してほしい。ボクはウラル帝国の奴らにねじ込まれるような真似はしないつもりだから。だからキミに見て見ぬフリをしてもらわないといけないんだよ」
「それを聞いて安心したよ……ところでジュチ、姫様はいかがされている?」
ザールが訊くと、ジュチは片方の眉を上げてザールに笑いかけると、
「相変わらずお綺麗だった。ただ、左の額から右の頬にかけて大きな刀傷があった。もう肉色になっていたから最近の傷じゃないことは確かだ。キミが姫様と再会した時にびっくりするだろうから先に教えておいてあげるよ」
そう言って、すまなそうに付け加えた。
「……ただ、現状からキミが姫様と会うのはお勧めしない。姫様がウラル帝国の皇太子と何らかの事件に巻き込まれていることは確かだし、それにはウラル皇帝の意思が絡んでいる可能性も高いからね」
ザールは笑ってうなずいて言う。
「それは判っているさ。皇太子が他国の首都に微服して紛れ込み、護衛隊長と密かに連絡を取ろうとしている……今分かっていることはこれだけだが、それだけでもウラル帝国内で異常な事態が起こっていることは判るからね。君の苦労を水の泡にしないためにも、僕は王宮で大人しくしていよう」
ジュチはゆっくりと立ち上がると、
「ボクも余り姫様とは会わないようにするつもりだけれど、姫様の状況を逐一把握する必要はあるし、ボクたちとの連絡を密にしてもらわないといけない。ザール、ガイをその任務に充てていいかい?」
そう訊いた。ザールはすぐにうなずいて言う。
「ガイならうってつけだと思うよ」
「じゃあ、後で彼も含めて五人で話をしようじゃないか」
ジュチの言葉に、ザールはニコリとしてうなずいた。
「わかった。リディアとロザリアも密かに呼び出しておくさ」
「キミには余計な説明をしなくて済むからありがたいね。さすがはシャー・ザールだ」
ジュチはそう笑いながら姿を消した。
『隠れ家』は、『終末預言戦争の六英傑』と呼ばれたホルンたちのために編まれた魔法空間であり、今のホルンたちが身を隠すにはちょうどよかった。
「……俺はあまり魔法には造詣が深くないが、この空間を作った術者はかなりの手練れだな。恐らくロザリア殿だろう」
ガルムが左目で周りを見回して言う。
六人は、ホルンが開いた『次元のトンネル』をしばらく歩き、殺風景だが心が温かくなるような空間へと足を踏み入れる。壁などは何も見えなかったが、明らかに何かを突き抜けたような感じがして、振り返るとこの空間への入口は見えなくなっていた。
ホルンは立ち止まって振り返ると、先ほどのガルムのつぶやきに答えた。
「そのとおりさ。ここはロザリアの11次元空間。そんじょそこらの魔導士じゃ見つけることすら不可能だよ。それと、私たちが入って来た方へは私かロザリアの『許可』がないと戻れないよ。その他の方向へは勝手に行ってもらって結構だけれど、一人一空間だからそれ以上先には進まないようにしておくれ」
「……そう言われてもな。ホルンさん、俺たちは魔法はからきしだぜ?」
ガルムが言うのを、ホルンは可笑しそうに笑って
「ふふふ、そんなにおっかなびっくりしなくていいさ。この空間に入った時、薄い空気の幕を突き抜けたような感じがしたろう? あれが『空間の仕切り』さ。みんなはこの部屋を中心にした上下左右前後のうち、後ろを除いた5方向には一部屋分だけ進め、それ以上は行けないようになっているし、それぞれの部屋から別の部屋にはこの部屋を通らないと行けないから、迷子になる心配はないよ」
そう言うと、
「じゃ、私はザールの遣いが来るまでここでゆっくりさせてもらうからね」
そう言うとホルンは、入って来た方向に顔を向けて座り、マントにくるまってすうすうと寝息を立て始めた。
「……こんな時に、よく眠れますね?」
呆れたように言うクリスタに、ガルムはニヤリと笑って、
「用心棒ってのはな、いつ何時何に巻き込まれるか分からない仕事だ。食える時に食い、眠れる時に寝るってのは基本中の基本だよ。必要とあらば何日だって飲まず食わず、眠らずに戦わねばならない時があるからな。俺もちょっと一休みだ」
そう言うと、彼もまた入って来た方向を左に見るように壁に寄りかかると、マントにくるまって寝息を立て始めた。
カンネーは、そんな二人を見て笑うと、
「おい、クリスタ、お前もゆっくりできるときに身体を休めておけ。アズライール、ダヤーン、俺たちもちょいの間、ここで小休止だ」
そう言って、彼らもまた壁に寄りかかって寝息を立て始める。
(……とにかくイスファハーンに着いたのは確かだし、ここにいれば奴らの目から逃れられるだろう。バグラチオンを探す算段は、ホルン様たちが目覚めてから相談しても遅くはないな)
クリスタはそう心に決めると、彼もまたホルンの近くの壁に寄りかかって、すうすうと寝息を立て始めるのだった。
★ ★ ★ ★ ★
ファールス王国で使われている王国暦1579年は、ウラル帝国の暦でいうと冰暦729年になる。その冰暦729年の春、ウラル帝国の継嗣である皇太子アゼルスタン・ルーリックは15歳になった。
アゼルスタンは父皇帝ディミトリー2世に似て、見事な金髪と深い青く澄んだ瞳が印象的である。
体格は華奢で、白く整った顔立ちや優しい声、そして静かな立ち居振る舞いは、少し長めの頭髪と共に彼を少女のようにも見せていた。
けれど、彼は母アナスタシアからは困難に負けない強い意思、人の心を読み取る鋭敏な感覚、そして人の上に立つのに必須ともいうべき天賦の統率力を受け継いでいた。
皇帝はそんな彼の将来に非常な期待をかけ、何かにつけては彼を執務室に呼び出して皇帝としての業務を身近で体験させていた。
「殿下は御年15にして、すでに帝国を統治するご器量を備えておられる」
そう、驚いた様子で密かに群臣たちに話していたのは、軍司令官オスラビア元帥と玉璽尚書のアレクセイ・アダーシェフだった。
(この帝国には二つの太陽がある。陛下と摂政殿下であるイヴデリ公イヴァン・フョードルだ。今はイヴデリ公の方が輝いているが、皇太子殿下が御成人のみぎりには、その太陽を圧する光を放たれるであろう……)
群臣たちはイヴデリ公の威光に息を潜めるようにしていながらも、皇太子アゼルスタンに期待を寄せるのだった。
そのアゼルスタンが、密かに父皇帝から呼び出されたのは、春まだ浅い時期だった。
「父上、お呼びでしょうか?」
アゼルスタンは小さな、しかしよく通る声で訊く。宮廷の中はイヴデリ公のスパイで満ちていて、どこの壁に耳があり、どの物陰に目があるか分からないからだ。
そのことはアゼルスタン以上に皇帝ディミトリーの方が良く知っていた。彼は無言でうなずくと、小さく手招きする。
アゼルスタンがディミトリーの前まで来ると、彼は息子に切羽詰まった様子でつぶやいた。
「イヴデリ公は、そなたを害そうとしている。アダーシェフがつかんだ情報だ、確度は高いと見ていい」
アゼルスタンは、心配で顔色を蒼くしている父皇帝に、思い切ったように言う。
「確証があるのであれば、イヴデリ公を糾弾して誅すればいいではありませんか。アダーシェフは切れる人物ですし、何より陛下には軍がついているではありませんか」
しかしディミトリーは、静かに首を振って皇太子を諭した。
「それができる情勢であれば、朕もオスラビアに命令を下すであろう。けれどイヴデリ公が摂政に就いて喜んでおる大貴族は多い。下手をすると国を二分した戦いになりかねん。そしてそれは大多数の人民にとってはどうでもいい戦いなのだ。そんな戦いで人民を疲弊させることは、朕にはできない」
そう言うと、何か言おうとしたアゼルスタンを手で制し、
「それにイヴデリ公は民衆におもねり、税を軽くしたり享楽施設を建設したりしている。現状では彼に対する人気は高い。朕がどのようなことを言っても、たとえそなたを害しようとしたという真実を告げても、人民は彼の肩を持つであろう」
そして疲れ切った表情で
「……わが帝国の東西にはダイシン帝国とロムルス帝国という敵がいることを忘れてはいかん。仮に朕が勝ったとしても、彼らは餓狼のようにわが国に襲い掛かってくるであろう。この国の政治も軍事も、その多くは大貴族たちの肩にかかっている。弱体化して朕に背を向けた彼らがどんな動きをするかも未知数だ」
そう言うと、皇太子に慈愛の目を向けて細長い箱を取り出した。
「アゼルスタン、これをそなたに預ける。これを持って急ぎ首都を脱出し、ほとぼりが冷めるまでどこかに身を隠せ。イヴデリ公の施政は遠からず破綻する。朕はその時に立ち上がるであろう。けれどそれまでにそなたを失ってしまっては元も子もない」
アゼルスタンは箱を受け取った。見た目よりもずっしりとして重い箱だった。
「これは?」
アゼルスタンの問いに、父皇帝は短く答えた。
「伝国の宝剣『ツァーリ』だ」
そしてアゼルスタンの目をしっかりと見据えて命令した。
「帝国の未来をそなたに預ける。バグラチオン将軍と話し合い、適宜身を隠せ。ただ、ダイシン帝国とロムルス帝国はいかんぞ。ファールス王国辺りなら、さしものイヴデリ公も手を出せまい」
アゼルスタンは、宝剣の箱を抱えてうなずいた。『帝国の未来』を託された彼には、その重さを実際以上に感じていた。
アゼルスタンは、すぐに皇太子護衛隊長のアリョーシャ・バグラチオン将軍のもとを訪ねた。バグラチオン将軍のところにはすでに父皇帝からの知らせが届いていたと見え、彼は旅装に身を包んで皇太子を迎えた。
「殿下、事情はアダーシェフ殿から伺っています。殿下の準備ができ次第、出発いたしましょう」
アゼルスタンはうなずくと、
「どこに向かえばいいと思う?」
そうバグラチオンに訊く。
「アダーシェフ殿と話し合いましたが、いったんルーン公国に向かってはいかがでしょう」
ルーン公国はウラル帝国の南にあり、『蒼の海』にも面していて肥沃な土地に恵まれた国だった。一応、独立国の態ではあるが実質的にはウラル帝国の衛星国である。
しかし、歴代の皇帝とルーン公の関係は良く、ディミトリー自身も不測の事態が生じた時はここに身を寄せるつもりだったと言われている。
けれど、アゼルスタンは首を振った。
「確かにルーン公は我らを匿ってくれるであろうが、かの国の公女が私の許嫁であることはイヴデリ公も知っている。ガイウルフ殿に迷惑をかけたくない」
バグラチオン将軍は優しく笑うと、
「殿下がそうおっしゃるだろうとアダーシェフ殿も言っておりました。殿下、我らがルーン公国を訪ねるのは、そこに身を寄せるためではなく、アニラ・シリヴェストル様のお知恵とお力を借りるためです。かのお方に殿下の今後を相談したらよいとアダーシェフ殿は申しておりました」
そう言った。
アニラ・シリヴェストルは、ファールス王国のゾフィー・マール、『蒼の湖』の畔にいたアルテマ・フェーズと共に当代きっての『稀代の魔女』と呼ばれていた術者である。アルテマもゾフィーもいなくなった現在では、世に冠絶する魔力を誇りながらルーン公国でひっそりと暮らしていた。
「なるほど、それならばルーン公国には迷惑は掛からぬだろうな」
アゼルスタンは納得し、夜陰に紛れて首都エリンスブルグを抜け出した。
アゼルスタンの失踪は、次の日にはイヴデリ公イヴァン・フョードルの知るところとなった。彼は皇太子護衛隊長であるアリョーシャ・バグラチオン将軍も姿を消したことを知り、
「きっと陛下の差し金に違いない」
そうつぶやくと、この状況を自分のために最大限利用すべきだと考えた。
彼はすぐさま宰相ニコライ・アレクセーエフ、蔵相ヨシフ・カリターエフ、外相ヴィサリオ・ジュガシビリを呼び出すと、
「殿下がバグラチオン将軍にさらわれた。ニコライはすぐにバグラチオン将軍捕縛の命令を出せ。ヴィサリオは各国にバグラチオンを見かけたら捕縛して帝国へ送還するように依頼を出せ」
そう命令すると、蔵相のカリターエフと共にディミトリーのもとへと向かった。
「陛下、皇太子殿下の遭難、心からお悔やみ申し上げますぞ」
イヴァンは、ディミトリーがアレクセイ・アダーシェフらと話をしている最中、ずかずかと部屋に踏み込んで、そう大仰に言って畏まった。
ディミトリーは一瞬、目を細めたが、常とは変わらぬ顔色で静かに答える。
「はて、どういうことなのだ? アゼルスタンは遭難してはおらぬが?」
するとイヴァンは、大いに安堵した様子でディミトリーに訊いた。
「おお、それでは私の早とちりだったのですな。配下の者から殿下が遭難されたと聞き込んだものですから、陛下をお慰めに取るものも取りあえずやって参りましたが……では殿下はご息災で宮殿においでなのですね?」
ディミトリーはイヴァンの質問に危険なものを感じて黙った。イヴァンは宮殿でもどこでもスパイを放っている。迂闊に『そうだ』などと答えても、その嘘はすぐに暴かれてしまうだろう。
それだけではなく、嘘をついたことを糾弾されて、自分の立場が悪くなるばかりになることは目に見えていた。だからと言ってわざわざ自分で皇太子を逃がしたというのもナンセンスだ。
「皇太子は元気にしているはずだ。心配かけたなイヴデリ公、皇太子のことを気にかけてくれているようで朕は嬉しいぞ」
ディミトリーはそう答えたが、案の定、イヴァンは言葉尻を捉えてディミトリーを追及し始める。
「している『はず』? 陛下、では殿下は今、宮殿内にはおられないのですか?」
「皇太子はこの国の未来を背負っている。見聞を広め、新しい芸術や技術を身に着けるため、ファールス王国へと遣わした」
ディミトリーが答えると、イヴァンは蛇のような冷たい目でディミトリーを見ながら、
「カリターエフ、殿下のご遊学について内相から相談はあっているか?」
そう訊く。カリターエフは汗を拭きながら答えた。
「いえ、ご遊学の件は私も初耳です」
イヴァが唇を歪ませて笑うのを見ながら、ディミトリーは平然として言う。
「イヴデリ公には不審のようだが、皇太子の遊学は大事にしたくない故に秘密としている。すべての費用は朕の内帑金から出すこととしているから、国庫の心配は要らぬぞ、カリターエフ」
皇帝から直にそう言われ、
「は、はい。お気遣いいただき恐縮でございます」
汗を拭きながら答えるカリターエフだった。
イヴァンは、これ以上ディミトリーを突いても何も出ないと見たか、
「そうでしたか。殿下のご遊学が実りあるものとなることをお祈り申し上げます」
そう優雅に笑いながら言って、皇帝の前を辞した。
「ふむ、アゼルスタンが国外に出ることは秘密……か」
帰り道、イヴァンはそうつぶやくと、くくっと笑って立ち止まり、
(では、途中でアゼルスタンを亡き者としても問題は生じないわけだ……)
そう物騒なことを考えたイヴァンは、機嫌よく自分の屋敷へと下がって行った。
「イヴデリ公は、殿下を亡き者にしようと考えています。そしておそらく、それを実行するでしょう。彼の周囲を見張らせます」
イヴァンがいなくなった部屋で、アレクセイ・アダーシェフがディミトリーにそう言う。
「そうしてくれ。奴がどんな手を使うのかも知りたい。そして奴の命令で軍が動くかどうかもな」
ディミトリーはそう言うと、一つため息をついて、
「……疲れた。済まぬがアレクセイ、朕を少し一人にしてくれ」
そうつぶやくように言うと、ゆっくりと立ち上がって帳の後ろへと歩いて行った。
この帳から向こう側は、皇帝の私的空間である。臣下でこの空間へと足を踏み入れられるものは存在しない。
ディミトリーが疲れ切った表情で部屋に戻ってくると、皇后アナスタシアが立ち上がり、
「陛下、お疲れさまでした」
そう微笑んで迎えた。
アナスタシアは、20年前に当時最も勢威を持っていた大貴族アスガルド家から迎えた妻である。政略結婚ではあったが二人はすぐに惹かれ合い、アナスタシアは実家の意に楯突いてまで夫ディミトリーの帝権確立に協力した。
時のアスガルド家当主であるシャルマンは僻地に流され、そのまま客死している。アナスタシアがディミトリーに力を貸したからこそ成し遂げられた失脚劇だった。
しかしディミトリーは、アナスタシアの協力に対して、シャルマンの刑罰を死刑から流刑へと減じたり、アスガルド家がアダーシェフ家と名前を変えて残ることを認めたりと、恩情を示している。
以来、皇后は表向きの政治のことには一切関わらず、けれど侍女たちを使って庶民の暮らしぶりを観察させディミトリーに報告したり、群臣の動向をそれとなく監視したりとディミトリーに協力を惜しまなかった。心ある臣下や国民から、彼女は『ウラル帝国の良心』と呼ばれていた。
「うむ、疲れたな」
ディミトリーがソファに身を沈めると、アナスタシアは静かにその隣に座り、
「では、お茶を持たせましょう」
そう言って、侍女に
「陛下に甘くて熱いお茶を」
そう言いつける。
侍女が席を外し二人きりになると、アナスタシアは心配そうに訊いた。
「アゼルスタンは今頃どうしているでしょう? イヴデリ公はすでに手を打っているようでございます」
ディミトリーは顔を上げて、アナスタシアの口元に耳を近づける。
「外相が各国に向けてバグラチオン将軍捕縛の依頼をしています。また、宰相は国内の司直に同じ命令を出しています」
皇后の言葉に、ディミトリーは唇をかんだ。イヴァンが自分のもとを訪れた時には、すべてを命令した後だったのだ、彼は自分の様子を単に観察しに来たのではなく、確信を得るためにやって来たのだ……そう気づいたディミトリーだった。
「その命令は朕が取り消す。それに対してイヴデリ公がどう動くかを見ていてほしい」
ディミトリーの言葉に、アナスタシアはゆっくりとうなずいた。
そして後にディミトリーは、イヴデリ公が皇帝親衛隊『オプリーチニキ』を動かしたことを知り、絶句するのである。
★ ★ ★ ★ ★
ファールス王国の首都イスファハーン。
ダイシン帝国とロムルス帝国の中央に位置するこの国は、東西の貿易路として栄えただけでなく、当時最高の科学や文芸、文化を育んでおり、二つの帝国はそれぞれファールス王国の影響を何かしら受けていた。
その国力の隆盛を表すように、イスファハーンには東西の国々の文物や人物、そして商人たちが集まっている。
「もろちん、その中には招かれざる客もいるけれどね」
ジュチは大通りの喧騒を楽しむように、藍色の瞳を持つ目を細めながら、隣を歩く中書令アルテミスに言う。
「そこは『もちろん』じゃないの? まったく、ずーっと同じボケを引きずっているなんて、あなたって進歩がないのかしら?」
アルテミスが呆れ顔で言うが、ジュチはそんなことはまったく気にしない。
「ふふ、ロザリアにも同じことを言った覚えがあるが、この語感がたまらなくてね? それよりアルテミス、ボクが頼んだことはどうなっている?」
「突然真面目な話に戻らないでよ、調子が狂うじゃない」
アルテミスはそう抗議した後、彼女も真剣な顔に戻って答えた。
「かなりの数が入り込んでいるわ。素人目にはただの商人や大道芸人としか見えないけれど、見る人が見ればただの旅人ではないってことは明白よ。それに……」
「それに?」
近づいて来る大道芸人たちを見つつ、ジュチは声を落として尋ねる。
「その『明々白々な間者たち』は目くらましかもしれないわ。他にもっと腕利きの、単に人探しだけを頼まれた雑魚とは違う者たちも、既にここにいると思うわ……なに⁉」
アルテミスは、話している最中にジュチが突然覆いかぶさって来たので声を上げる。ジュチが女に手が早いのは知っていたけれど、こんな人混みの中で何するの⁉
気が動転しつつも、身体を固くして目を閉じたアルテミスだったが、ジュチはサッと跳び起きてレイピアを抜き放った。
「噂をすれは何とやらだ。アルテミス、早く立ち上がれ。続きは今夜のお楽しみだ」
そう言われたアルテミスが顔を赤くして立ち上がる。そこについさっきすれ違った大道芸人たちが剣を構えて斬りかかって来た。
「えっ? きゃっ!」
チィーン!
アルテミスはとっさに跳び下がった。それを援護するように、ジュチが敵の剣をレイピアで弾いて叫ぶ。
「斬り合いだ! ケガをしたくなければこの場から離れろ!」
ジュチの叫びを聞いて、広場にいた人々は血相を変えあちらこちらへと逃げ散り始めた。
「……さて、キミたちが何のためにイスファハーンにやって来たのかは知らないが……」
ジュチはそう言いながら、翠色の『魔力の揺らぎ』を身体の周りに燃え立たせ、レイピアを顔の前に立てる。相手の男たちはそんなジュチに気圧されもせず、ゆっくりと包囲の輪を作り上げていく。
(こいつら、ただの剣士じゃない。魔剣士だわ)
アルテミスは剣を抜きながらそう相手の正体を見破ると、自分の前方に市民が一人もいないことを確かめて、
「やっ!」
いきなり剣を目の前にいる敵に投げつけた。
チーン!
その敵は難なくアルテミスの剣を弾き飛ばしたが、
ドムッ!
「うっ!」
突然、そんな声を上げて後ろに倒れ込む。その額には赤い点がついていた。
「食らいなさいっ!」
ドムッ、ドムッ、ドムッ
アルテミスは、両手に狙撃魔杖を構えて自分の前方、つまりジュチの背後にいる敵を次々と狙撃していく。
「アルテミス、お見事」
ジュチはアルテミスの活躍を感じながら、目の前の敵に斬りかかる。こいつがこの男たちの頭目だと見当を付けたのだ。
ジャランっ!
男は無言でジュチのレイピアを止めたが、その瞳にはあからさまに焦りといら立ちの色が見えていた。アルテミスの狙撃魔杖が想定外だったのだろう。
「キミにはいろいろと聞きたいことがある。だからこの場で眠ってもらうよ」
ジュチは相手の剣を片手で押さえつけつつ、右手をパッと開いた。そこからたくさんの翠色に淡く光るアゲハチョウの群れが飛び立ち、男にまとわりついた。
ジュチが捕縛した男は、首都の司直隊本部官舎に収容され、取り調べを受けたが、
「私の名はイヴァン・パブロフだ。それ以上は何も言えない」
と、自分の名を名乗っただけで、その他のことは脅されようとすかされようと、何一つしゃべらなかった。
「やあ、お疲れ様だねヌール」
ジュチがニコニコしながら司直隊本部を訪ねると、司隷本部長のヌール・ルディーンがパッと立ち上がって敬礼する。
「これは大宰相様!」
「ああ、敬礼なんて堅苦しいことはナシナシ」
ジュチは笑って言うと、不意に笑いを収めてヌールに訊く。
「どうだい、何もしゃべらないだろう?」
ヌールはウザったく伸びた亜麻色の髪をかき上げながら答える。
「はい、こんなに強情な奴は初めてです。やっぱり大宰相様がおっしゃるとおり特殊部隊の一員でしょうか?」
「まあ、そうだろうね。ある方のお話によると、どこぞの北の帝国がその威信にかけてある人物を探しているそうで、かなりの腕を持っていたそうだからね。キミたちがてこずるのもムリはないさ……」
ジュチはそう言うと、またもやニヤリと笑った。ただし今度は見ているヌールの背筋を凍らせるような、不気味で不吉な微笑だった。
「そう思って、こういう手合いの口を割らせるのに最高の人物を連れてきたよ。ヤツのところに案内してくれるかい?」
「構いませんが、いったいどなたを……」
ヌールの問いは途中で途切れた。ドアが開いてその人物……深い海の色をした髪をなびかせ、その下に同じ海の色をした瞳を持つ切れ長の目が涼し気な、それでいて不吉さを絵に描いたような男……ガイ・フォルクスが入って来たからだ。
「……音に聞くウラル帝国の『オプリーチニキ』か。この国の『王の牙』とどう違うか楽しみだ」
ガイはそうつぶやくと、ヌールを冷たい瞳で見つめて言った。
「奴に会わせてほしい」
ジュチは、イヴァン・パブロフと名乗った男を格子越しに見て、
「ふん、泰然たるものだね。自分の運命を諦めているのかもしれないな」
そうつぶやく。イヴァンはベッドに腰かけて手を組み、目を閉じていた。
「……ガイ、彼からできるだけのことを聞きだしてほしい。特に皇帝が何を考えているのかをね」
ジュチが振り返って頼むと、ガイは静かにうなずいて言った。
「分かった」
そしてヌールに、
「ここを開けてくれ」
そう言うと、ヌールは鍵束を取り出してドアを開錠する。
ギイッと重たい音を立ててドアが開き、ガイが一歩足を踏み入れると、初めてイヴァンは目を開けてガイを見つめ、
「……私を処断するわけか」
そう乾いた声でつぶやく。
ガイは首を振って、静かな、けれども例えようもなく不穏な声色で答えた。
「それはそなた次第だ」
そしてガイは、今入って来たドアに背を持たせかけながら、イヴァンをじろっと見つめる。イヴァンには、その視線によって自分の実力を正確に測られたように感じた。
「そなたの名はイヴァン・パブロフ、所属はウラル帝国の皇帝親衛隊の隊員『オプリーチニナ』だということは判っている。しかし聞きたいことはそこではない」
イヴァンは、碧眼を細めて答えた。
「私は『オプリーチニキ』などという組織は知らない。私が襲ったのがこの国の大宰相だということも知らなかった」
「そうか……」
ガイは薄い唇をゆがめると、腕を組んで言う。
「ウラル帝国の言語は独特だ。特に名詞の格変化は、他の国の言語とはっきりと異なっている。そして特別な例外がたった一つだけある。その言葉自体を知らない者なら間違えそうなな……」
イヴァンは、ガイが何を言い出すのかとその顔を見つめるが、ガイの冷たい表情からは何の感情も読み取れなかった。
ガイは海の色をした瞳を光らせると、イヴァンの目をのぞき込むようにして言う。
「私はそなたのことを『皇帝親衛隊の隊員(オプリーチニナ)』と言ったが、そなたは組織そのもののことを『皇帝親衛隊(オプリーチニキ)』と正しく言った」
「それがどうかしましたか? ウラル帝国に住む私にとっては当然でしょう?」
イヴァンの答えに、ガイはニヤリと笑って言った。
「残念なお知らせだが、ウラル帝国の皇帝親衛隊はその通称までは一般の人々には知られていない。そして親衛隊員の呼称『オプリーチニナ』を聞いた普通のウラル帝国の人々は、親衛隊のことは『オプリーチニク』と間違った発音をするはずだ。『オプリーチニキ』は、複数形になって格変化する『特別な唯一の例外』だからな」
それを聞いて、イヴァンは黙りこくった。何か言い返して藪蛇を突くのを恐れているようだった。そんな彼を見ながら、ガイは手首のヒレから長い管を伸ばして言う。
「そなたは栄光ある皇帝親衛隊の一員だ。ただし、特殊部隊であるから国家間の取り決めによってもその身分が保証されない場合がある。我が国の『王の牙』がそうであるように、そなたがやっている任務は捕虜に関する取扱いの取り決めの対象にはならない。もちろん、それは知っているだろうがな」
その言葉が終わった途端、イヴァンは首筋に熱いものを感じた。そしてその熱さは次第に身体全体へと広がり、同時に耐えがたい激痛があちらこちらに走る。
「ぐはっ!……な、何をした?」
痛みを必死にこらえるイヴァンが、絞り出すような声で訊くと、ガイは至極当然のように答えた。
「安心しろ、死にはしない。ただ私の問いに答えざるを得なくなるだけだ」
そして苦痛に悶えるイヴァンに、冷たい瞳を当てて続けた。
「では答えてもらおう。まずはそなたの所属する『オプリーチニキ』についてだ……」
悶絶したイヴァンを部屋に残しガイが外に出ると、ジュチがニコニコしながら待っていた。
「お疲れ様、尋問の様子は隣の部屋でしっかりと聞かせてもらっていたよ」
するとガイは
「ヤツの言葉どおりだとしたら、我が国は首を突っ込まぬ方がいいし、できればホルン様にも手を引いていただいた方がよい。幸い奴らの指揮系統も把握できたから、私が密かに『オプリーチニキ』指揮官と話をしてもいいが」
そう、ジュチを見ながら言う。
「姫様のことだ、はいそうですか、とはいかないだろうね」
ジュチはそう言いながら肩をすくめると、ガイに
「それでも姫様のことをほっぽっておくわけにもいかない。すまないがキミに姫様との連絡係を務めてもらうことになるよ。これはザールも承知のことだ」
そう笑った。
★ ★ ★ ★ ★
首都エリンスブルグを脱出したアゼルスタンたちは、1週間ほどでウラル帝国の南方にあるルーン公国にたどり着いた。
バグラチオンは、目の前に広がる青々とした内陸の海を見つめて、傍らにいるアゼルスタンに説明する。
「殿下、これが『蒼の海』です。ここから左、東に行けばカブランカー地域へと続き、そこにはギガントブリクスの一族が住んでいます。右に行けばルーン公国の首都アストラハンへと続き、その先はファールス王国の藩屏国であるジョージア伯領やアルメニア侯国になります」
アゼルスタンは、北の大地とはまるで違って見える大地や海を、しばしの間興味深げに眺めていたが、
「……それで、アニラ・シリヴェストル様はどこに住んでいらっしゃるのだ?」
そうバグラチオンに訊いた。
「ここから東に100マイルほどにアクキスタウという村がございます。そこがルーン公がアニラ殿に賜った領地とのことです」
バグラチオンがそう答えた時、
「我の名を呼ぶ声が聞こえたが、何か用か?」
そう言う声と共に、白髪で黒い瞳を持つ乙女が目の前に現れた。
その乙女は17・8歳であろうか。白い生地に赤や黒で幾何学的な模様が刺しゅうされた厚手のワンピースを着込み、その下にはキルティングの裾の詰まったズボンを穿いている。
そして彼女は、驚いて声も出せずにいるアゼルスタンたちに、首をかしげてもう一度訊いた。
「そなたたち、我に用があったのではないのか?」
「……あなたは、ひょっとしてアニラ・シリヴェストル様……ですか?」
アゼルスタンが上ずった声で訊くと、乙女はニコリとして答えた。
「アニラでよい。『様』付けなどされると背中がむずがゆくなる。そしてそなたたちは何者だ?」
それを聞いて落ち着きを取り戻したアゼルスタンは、
「僕はウラル帝国皇太子アゼルスタン・ルーリック。こちらは護衛隊長のアリョーシャ・バグラチオンです」
そう名乗った。
しかし、驚いたことに乙女はアゼルスタンの名乗りに対して特にびっくりした様子もなくうなずくと、春風のような声で言った。
「なるほど、ソフィア様の許嫁殿か。まだ若いようだが確かにお似合いのようだな。そして後ろの武人はウラル帝国から一時指名手配されてはいなかったかな?」
「……そのことも含めて、アニラ殿に相談したいことがあって、エリンスブルグを出てきました」
真剣な顔で言うアゼルスタンを見ながら何か考えていたアニラだったが、
「……ま、よいか。ソフィア様とは浅からぬ縁もあることだし……」
そううなずいて小声でつぶやくと、アゼルスタンたちを見つめて
「では、この場で『蒼の海』の風に吹かれて話すのも一興だが、そなたたちの話は吹く風たちに聞かれては困るだろうな。我の家でゆっくりと話を聞かせてくれ」
そう言いながら両手を上げる。ふわりと風が吹いて、アニラの白い髪が膨らんだと見るまに、アゼルスタンたちは一軒の可愛らしい家の前に立っていた。
「……ここは?」
思わず訊くアゼルスタンに、アニラはクスリと笑って、
「アクキスタウの我の家だ。チンタラ歩くのは我の性に合わないのでな。さ、入るといい」
そう言うと、ドアを開けて家へと入っていった。
続いて、恐る恐るアゼルスタンたちが家に入ると、中はぶち抜きの一間だった。
すぐ目に付くのは、部屋の真ん中に造られている暖炉だろう。その煙突はこの家の屋根を支えてもいる。
天井は右半分しかなく、部屋の奥には天井裏へと上る右向きの階段と、逆に地下室へと降りる左向きの階段があるようだ。
部屋の右側の一角がカーテンで仕切られていて、その向こう側にはベッドがあるらしい。
左側の端は流し場や台所であるらしく、その一角だけ床がなくて土間になっていた。
アニラは、左側の区画にあるテーブルの方に行き、上に積んであった魔導書の類をよっこらしょとどかした。続いて水がめに手押しポンプで水をくみ上げると、中央の暖炉から熾火を取り出し、台所のかまどに投げ込んで呪文を唱える。かまどには火が赤々と熾った。
「座って待っているといい。もうすぐお茶が煮える」
アニラがそう言って二人に座れと身振りをする。アゼルスタンはうなずいて、
「では、お言葉に甘えて失礼いたします」
そう、アニラの方を向いて椅子に腰かける。バグラチオンはその後ろに立って控えた。
その様子を見て、アニラは
「うん、若者は素直な方がいい。そうすればいろいろな人の助けを受けられるだろう」
そう言って笑うと、その笑顔のままズバリと言った。
「そなたたちを助ける人物は、ファールス王国にいるはずだ。この国のソフィア様も力になるだろう。けれどまず、『蒼炎の魔竜騎士』の知遇を得るといい」
アゼルスタンはびっくりして言う。
「ええと、僕はまだ用事を何も話してはおりませんが?」
アニラは、ぐつぐつと沸騰した鍋に紅茶の葉をぶち込むと、火を落としてアゼルスタンの方に向き直り、
「単なるお家騒動なら、陛下にはお側にアレクセイ・アダーシェフやオスラビア元帥がいるから、そう心配しなくてもいいだろう。けれどイヴデリ公の向こうに、面白くないものが見える。イヴデリ公は人間の分際で何を考えているのだろう……」
最後の言葉はつぶやきに近かったため、アゼルスタンたちにははっきりと聞こえなかった。
「面白くないもの……ですか?」
アゼルスタンが問うと、アニラは黒曜石のような瞳を持つ眼を細めてうなずき、
「下手をすれば、先年ファールス王国を襲ったような事態が起こるかもしれぬな。あの時はゾフィー・マール殿がおられたから、ホルン女王も困難を切り抜けられたが……次は我の番かもしれないな」
そう言う。
アゼルスタンは妙な胸騒ぎを覚えながら言った。
「アニラ様、お話を聞いていると、イヴデリ公はただならぬ者どもと手を結び、わが帝国を破滅に追いやろうとしている……そういう風に聞こえますが?」
アニラはその問いにははっきりとは答えず、ただこう言った。
「我はゾフィー殿やアルテマ殿という先輩方に比べると、まだまだひよっ子だが、それでも我が生きてきた2百年で最も熾烈なことが起きるかもしれない」
「では、『蒼炎の魔竜騎士』に出会うにはどうすれば?」
バグラチオンが訊くと、アニラはじろりと彼を睨んで
「まず、そなたが先にファールス王国のイスファハーンに行くとよい。おそらく殿下を狙う者どもが集まるだろうが、それを片付けるのがそなたの仕事だ。イスファハーンで仲間と出会い、殿下を守って北に戻る……それがそなたの定められた道筋だ」
そう言うと、今度はアゼルスタンを見て
「殿下は、少し遠回りになりますがトルクスタン侯国のサマルカンドを経由してイスファハーンにお向かいください。我が殿下を『摂理の場所』までご案内いたします」
そう言って笑った。
「ふーん、それであなたはキルギスの平原からアイニの町への街道沿いに出て、奴らに見つかったってことだね?」
クリスタが話した今までの経緯を聞いて、ホルンには少し引っかかったことがあった。
同じことが気になったのか、ガルムが左目を光らせてクリスタに訊く。
「クリスタ、お前は確かにアニラ殿に連れられて、アイニ方面へ出たんだな?」
「はい、こちらの方面からイスファハーンを目指せば、困難はあるだろうが確実に『蒼炎の魔竜騎士』に出会えるだろうとおっしゃいました」
「ふん、とにかくここにはバグラチオン将軍もいるはずだし、『蒼炎の魔竜騎士』とやらもそのうちに姿を現すだろうさ。アニラ殿の話では、あなたは仲間と共に北、つまり故国を目指すことになるそうだからね」
ホルンはそう言うと、ふっと『次元の通路』の方に顔を向ける。そこからちょうど海の色をした髪をなびかせてガイが入ってくるところだった。
「待ちかねたよ、ガイ。バグラチオン将軍は見つかったかい?」
ホルンが言うと、ガイは首を振って
「ジュチたちが手を尽くして探しています。まだ見つかっていませんが、見つかるのも時間の問題かと……」
そう言うと、彼にしては心配そうな顔で続けて言う。
「それより姫様、この話、ただの帝位を巡るお家騒動ではないようなきな臭さを感じます」
ホルンはそれにうなずいて、
「ああ、私もそう思うよ。ちょうどクリスタから話を聞いたんだけれど、途中で相談のために立ち寄ったアニラ・シリヴェストル殿から、何やら剣呑な話を聞かされたそうだよ」
そう言う。ガイは目を光らせて言った。
「その話、詳しくお聞かせ願えませんか?」
するとホルンは、クリスタを見て笑って言った。
「クリスタ、何度も同じことをしゃべらせて悪いが、さっきの話、このガイ将軍にも聞かせてあげてほしい。この人には何気ない話から大切なものを見つけ出す才能があるからね、話しても損はしないと思うよ」
クリスタはうなずくと、再び自分が帝国を出てホルンの会うまでの話を繰り返した。
その時彼は、一つだけ思い出したことがあった。
「そう言えば、アニラ様はバグラチオンがイスファハーンに旅立つとき、何か『魔法石』を手渡されていました」
そのことを思い出したクリスタがそう言うと、ガイは一瞬目を細めると、
「アニラ殿はレズバンシャールのアルテマ殿と親交があった。アルテマ殿は『魔法石』の製作……特に『身隠しの石』を得意としていた。バグラチオン将軍が見つからないのはそのおかげだろう」
そう言うと、ホルンに
「姫、一両日中に殿下と将軍を引き合わせることができそうです。けれどそれまでに、今後どうされるかをもう一度お考えいただきたいものです」
そう言うと、部屋から出て言った。
★ ★ ★ ★ ★
アリョーシャ・バグラチオンは、今年25歳、亜麻色の髪に紫紺の瞳を持つ魔剣士で、その実力をディミトリー2世に認められて皇太子親衛隊長に補された。
バグラチオン家は、代々将軍を輩出する家柄である。大貴族の一つではあったが歴代の当主はみな皇帝への忠誠心に篤く、ルーリック家がまだ一介のモスコー大公だった頃からの腹心の臣下でもあった。そしてルーリック家が大公から国王へ、国王から皇帝へと尊称が替わるたびに、バグラチオン家も辺境伯から伯、伯から侯へと地位が上がっていった。
当代の当主アリョーシャは幼くして父を亡くしたが、皇太子時代のディミトリーに可愛がられて成人したため、ディミトリーには無償の忠誠心を抱いている。
そんな彼は、アニラから言いつかった『イスファハーンに集う皇太子の敵の排除』を心に固く誓い、異国の首都で日夜探索に励んでいた。
その日も、まだ太陽が昇り切っていないうちに彼は目覚めた。建物の影には夜の残滓が揺蕩っている。
(それにしても、なぜこの国の司直たちまで俺を探しているんだ? ひょっとして帝国からの依頼が撤回されていないのか?)
バグラチオンは、イスファハーン東部に借りた部屋を出ながらそう思う。アニラの話では自分を捕縛する依頼が帝国宰相名で各国に出されていたが、追いかけるように撤回命令が勅令として出されていたらしい。ファールス王国の王宮にはまだ勅令が届いていないのか……あるいは……。
(……あるいは、ファールス王国の首脳に摂政寄りな人物がいるのかもしれぬ。とにかくアニラ様からいただいた『身隠しの石』があるから助かった)
バグラチオンがそう思いながら建物を出た時、
ヒュッ!
「むっ!」
突然、物陰から灰色のマントを翻して一人の人物が斬りかかって来た。
ヒョン! カーン!
初撃を避けたバグラチオンは、続けて繰り出された斬撃を、剣を抜き打って止める。鋭い音と共に2本の剣の間に火花が散った。相手の顔はフードに隠れて見えない。
「やっ!」
ドスッ!
バグラチオンは、剣を押してくる敵を思い切り蹴り飛ばす。相手はうめき声一つ上げずにとんぼ返りを打って少し離れた場所に着地する。その際、まくれたマントから見えた相手の制服で、バグラチオンはその人物の正体を知った。
「貴様、『オプリーチニキ』だな。陛下の親衛隊である栄光の部隊が、なぜ摂政殿下の犬になり果てた?」
すると相手は剣を下げ、フードを外して顔を見せた。金髪碧眼で険のある目つきをした女性だった。
「アリョーシャ・バグラチオン、アゼルスタンをどこに隠している?」
女性がハスキーな声で訊く。バグラチオンはそれには答えずに斬りかかる。
「やっ!」
「くっ!」
ジャンッ!
女性はバグラチオンの剣を弾くと、
「むっ!」
ヒュンッ!
その手を止めずにバグラチオンの胸へ真一文字に斬りつけてくる。バグラチオンはそれを身を沈めることでかわし、伸び上がりざまに鋭い逆袈裟を放った。
ズバッ!
惜しくも彼女のマントを斬り裂く手応えしか残さなかったが、女性は自らの不利を悟ったのか、大きく間合いを開けてバグラチオンから離れ、
「バグラチオン、最後の忠告だ。『摂理の黄昏』が来るぞ、貴様も摂政殿下に忠誠を誓え」
そう叫ぶと、朝まだきの靄の中に消えていった。
バグラチオンは、ヒョンヒョンと剣を振り回して鞘に納めると、相手が去る間際に残した言葉を思い返し首をかしげた。
(『摂理の黄昏』……それと『オプリーチニキ』がイヴデリ公に忠誠を誓っていることに何の関係がある?)
その答えは今のバグラチオンには分からなかったが、彼は少なくとも二つのことを確信した。
「あいつは、『オプリーチニキ』副司令官のイワーナ・ジリンスキーだな。副司令官まで出張ってくるところを見ると、殿下は無事にイスファハーンにお着きになったということか」
そうつぶやくと、ゆっくりと周りを見回して笑って言った。
「そして、この国の司直は別に俺を逮捕しようなどとは考えちゃいないようだな」
その言葉を聞いて、建物の陰からゆっくりと姿を現した男がいる。海の色をした波のようにうねる髪と、同じ深い海の色をした瞳を持つ魔剣士、ガイ・フォルクスである。
ガイは薄く笑いを浮かべながら名乗った。
「私はガイ・フォルクス、この国の驃騎将軍だ。そなたはウラル帝国皇太子親衛隊隊長のアリョーシャ・バグラチオン将軍ではないか?」
するとバグラチオンは、一瞬呆然とした。
「……ガイ・フォルクス……『紺碧の死神』だって?」
そしてハッと気づいたように剣を後ろに回して、
「はい、私はアゼルスタン様の護衛を仰せつかっているアリョーシャ・バグラチオンです。以後お見知りおきを」
そう答えると、その瞳に誠意を込めて訊く。
「ガイ将軍、ぶしつけながらお聞きいたします」
そう言いかけるバグラチオンに熱誠の炎を見たガイは、静かに手を上げて
「皇太子殿下はあるお方の助力で、ある場所に匿われている。そのお方の遣いがそなたを迎えに来るだろう」
そう言うと、踵を返した。
ガイの背中に、バグラチオンは慌てて、
「ありがとうございます。御恩は忘れません」
そう呼びかけた。
ガイは立ち止まると、背中を向けたまま言った。
「そなたの国との確執が怖い。殿下のご無事は我々ファールス王国とは無関係だ。一番力を尽くされたお方に礼を言ったがよかろう」
(『5 忠臣の剣尖』に続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ウラル帝国の内情も段々と明らかになり、新たな登場人物も出てきました。
ホルンの出発はまだ先みたいですが、どんな関わり方をするのか、目が離せません。
次回もお楽しみに。