18 拠点の奪取
ホルンたちはついにヴォルゴグラードへの攻撃を開始した。
兵数に優る敵軍にあえてガルム隊を別働隊としたホルンの作戦とは?
夜明け前のまだ辺りが暗い中、ヴォルシスキーの町を守るウラル帝国治安部隊の第4軍を指揮しているミハイル・クルピンスキ将軍は、戦闘指揮所に麾下の部隊長であるジェイコブ・ワレンコフ第41治安旅団長とオットー・クメッツ第43治安旅団長を呼び出した。二人の旅団長は青い顔をして、クルピンスキの言葉を待っている。
クルピンスキは、そんな二人を見て表情を緩め、優しい声で言った。
「敵の攻撃は近いぞ。けれど二人ともそんな悲愴な顔をしなくてもいい。練度未だしとはいえ、陣地構築は終わっている。両部隊ともしっかりと連携を取って、損害を少なくすることを念頭に戦え」
二人の旅団長を代表してワレンコフが口を開く。
「私は方面軍の参謀として敵軍の様子を視察したことがありますが、敵はその練度、戦場経験、そして戦士は魔戦士ぞろい、いずれも我が軍を圧倒しています。こちらが勝っているのは兵力ぐらいですが、今のような布陣ではそれも決定的な要素にはなりません」
そう言うと、隣に立っているクメッツ旅団長を見て、
「旅団は定数1万ですが、私の旅団もクメッツの旅団も6千しか充足していません。それに司令官殿の直率であるコホルス隊を含めても総数1万5千です。敵は1万はあるでしょう。今までの中で最も彼我の兵数差が少ない戦いになります」
そして机に広げられた地図を指さしながら言う。
「私は司令部をメタルルルグに置いています。防御正面はメタルルルグからチュリハンにかけての2キロです。ここに第1コホルス隊3千を張り付け、第2コホルス隊は編成を崩して第1マニプルス隊をクラスノスボロツクの橋の防衛に、第2マニプルス隊を司令部と橋の中間地点、アフトゥバ川支流の渡河点に置き、第3マニプルス隊を予備として第2コホルス隊本部に置いています。
しかし、クメッツの拠点であるズヴェーズドヌィの丘との間が10キロ近くに開いていて、ここには踏破困難な低地があるとしても防御はないに等しい状態です」
「ズヴェーズドヌィの丘の南にある小道を防御線にして、ワレンコフ殿の陣地との間隙をすり抜ける敵を牽制する態勢は取っていますが、私の部隊も第2コホルス隊を側面攻撃のために後置しているので、どこまで抵抗できるかは未知数です」
クメッツも付け加えて言う。
「聞けば我が第4軍で最も戦闘に慣れている偵察隊3千はヴォルゴグラードにあって方面軍司令官閣下の指揮下にあるとか……司令官殿、思い切って橋そのものを防御線とできませんか? そうすれば万一の時は橋を落として時間が稼げますし、兵力も敵の2倍に近くなりますが」
クメッツの言葉に、クルピンスキは首を横に振った。
「それは私も考えた。けれど橋を落とすことは閣下が許可されなかったのだ。あくまで橋を守り抜け、とな。せめてもう1個旅団あるか、旅団の定数が充足していればとは思うが、この期に及んで無いものねだりをしてもしょうがない。既定の作戦でしっかりやってくれ」
それを聞いてワレンコフとクメッツは顔を見合わせ、ため息をつきながら自分の部隊に戻って行った。
一方ホルンたちは、メタルルルクから南東4キロにあるスレトニャヤの集落まで前進して来ていた。
ガルムは、集落の西側でアフトゥバ川に架かる橋を見つけると、
「ホルンさん、俺はここで渡河してクラスノスボロツクの橋を目指すよ。ヴォルゴグラードで会いましょうや」
そうホルンに言い、3千を連れて副将エイセイと共にアフトゥバ川を渡って行った。
「ガルムさんが動き出したから、私たちも行動を起こさないといけないけれど……」
ホルンは、ガルム隊の渡河を見送ると、メタルルルグへと続く街道を見据えてそう言いよどむ。一緒に見送りに来たカンネーとアズライールは、既に自分の部隊へと駆けだしていた。
隣にいたマルガリータは、くすくす笑いながらホルンの背中を押すように言う。
「まあ、スタンドプレーは姫様の性に合わないかもしれませんが、この方法なら時間も兵力も無駄にはしないですし、敵にアゼルスタン殿下の軍がいかに規格外なのかを思い知らせることができるというものです」
ホルンの翠色の瞳がマルガリータを見る。マルガリータも黒曜石のような瞳でホルンを見つめて、微笑みながら言った。
「思いっ切り派手に暴れちゃってくださいませんか、『蒼炎の魔竜騎士』様?」
ホルンは一つ大きな息をして、マルガリータに言った。
「まあ、私にはそんな可愛らしい言い方は似合わないけれどね? マルガリータの注文通り、敵に悪夢を見せてあげるわ。私がいない間の指揮統括はお願いするわよ?」
「承りました、姫様」
にこやかに言うマルガリータの声を聞いて、ホルンは『死の槍』を片手に陣前へと歩き出す。もうすぐ日が昇るのだろう、東の空はかなり明るくなってきており、動き出した風にホルン軍の旌旗もはためき始めた。
すでにカンネー部隊とアズライール部隊それぞれ3千は整列を終え、ホルンの命令を今か今かと待っている。ホルン自身の1千はマルガリータに率いられて後方に位置を占めていた。
ホルンは自分の軍装を改めて眺める。彼女は鎖帷子を着込み、碧い戦袍の上から銀色の胸当をつけている。下半身はキルトの青い戦袴の上から太ももを守る白い直垂を付け、この直垂には棒手裏剣が仕込まれている。
そして靴は履き慣れた底の厚い、膝当の付いた革のブーツだった。
ホルンは、折から吹き始めた朝風に、翠のマントを翻しながら思った。
(ヘパイストスからあつらえてもらったこの軍装、一度はもう着ることもないと思っていたけれど、どうやら私は用心棒を引退するまでこの装いから逃れられないみたいね)
「……でも、それも私の人生、か……」
ホルンはそうつぶやきながら、左の額から右の頬にかけて彼女の美しい顔を斜めに斬り裂く刀傷を撫でた後、銀の髪を留めている手の込んだ彫刻が施された金の髪留めにそっと触れた……これは戦闘に入る前の彼女の一連の『儀式』のようなものだった。
ホルンは、腰に佩いた異形の剣と後ろに差し込んでいる短剣の位置を確かめた後、槍の鞘を払う。穂先の長さが60センチもあろうかという『死の槍』には、『Memento Mori(死を忘れるな)』という金象嵌が光っていた。
ホルンは槍を返し、反対側に『Et in Arcadia Ego(死はどこにでもある)』と朱色に浮かび上がっている文字を眺め、
「……運命は、私に何をさせようとしているのかしら……」
そうつぶやくと首を振り、次の瞬間には鋭い光を瞳に湛えて虚空に呼び掛ける。
「ブリュンヒルデ、出番だよ!」
『承知いたしました、ホルン様』
虚空から姿を現したのは、全長15メートルはあるシュバルツドラゴンだった。ブリュンヒルデは金属質の光沢を放つ翼を動かして静かに着地するとホルンを背中に乗せ、
『敵陣を焼き払えばいいのですね?』
そう訊く。
ホルンはうなずくと答えた。
「いきなり焼き払うのではなく、最初は警告をする。それでも敵が陣形を解かない場合は、仕方ないけれど思いっきり暴れるよ」
それを聞いたブリュンヒルデは、琥珀色の瞳を光らせて翼を広げ、
『承知いたしました、ホルン様』
そう言うと、一飛びで雲に届くほどの高さへと飛翔する。
それを見ていたマルガリータは、澄んだ声で全部隊へと号令した。
「ホルン様が出陣されました、私たちも前進を開始します。各部隊長は戦策のとおり行動し、不測の事態に遭遇したら適宜処理をしてください」
★ ★ ★ ★ ★
そのころ、クラスノスボロツクの橋と第41旅団司令部との連絡のために、アフトゥバ川支流の渡河点に配備されていた第2コホルス隊第2マニプルス隊の隊長は、ガルム隊接近の報を受け取って慌てていた。
「まずい、まだ防御拠点などまったく整備されていない。こんな時にコホルス隊規模の攻撃を受けたらひとたまりもないぞ」
そう言うと隊長はクラスノスボロツクの橋を守る第1マニプルス隊との合流のため、移動を準備し始めた。やむを得ない場合は原地点を放棄して第1マニプルス隊と合流して橋を守備せよとは、旅団命令にも書いてあったからである。
「ほう、あれだけの陣地を捨てるのか。敵さん、数は何とかそろえたが練度が足りないって自覚しているようだな」
ガルムは、少し高い位置から敵軍の動きを見つめてそうつぶやく。
第2コホルス隊第2マニプルス隊は、アフトゥバ川支流の渡河点を守るように左右の両岸に陣地を設けていた。通常なら敵軍はガルム隊の行動を牽制し、ある程度の損害を与えたら対岸の陣地へと撤退すればいいのである。そうすればガルム隊の渡河はかなり困難になるはずであった。
「しかし、その分クラスノスボロツクの橋を守る敵の数が増えますが」
副将のエイセイが言うと、ガルムは左目を輝かせてニヤリと笑い、
「まあ、それはそうだな。その対策を考えながらクラスノスボロツクに迫るとしようか。エイセイ、俺の後ろからゆっくりと隊を進めてくれ」
そうエイセイに言う。
エイセイは腑に落ちないように訊いた。
「いつものガルム様なら、敵の撤退に乗じて一気に追撃をかけられるのに、今回はどうしてゆっくり進めなどと?」
ガルムは笑いを消さずに答えた。
「まあ、後ろから襲われることも警戒しなきゃいけないからな。メタルルルグ程度の敵陣に姫様が苦戦されるとは思えないが、敵が予備隊をこちらに投入することはあり得るしな」
ガルム隊が目指すクラスノスボロツクは、ヴォルガ河支流によって北地区と南地区に分かれており、町の中心は南地区にあった。
その南地区は、東側と南側を湾曲して流れる川で守られていて、主要な道路はその川とヴォルガ河支流を渡り、橋へと続いている。
第2マニプルス隊が陣地を放棄して後退して来るのを知った第2コホルス隊長は、町の南地区を守備していた第1マニプルス隊に北地区への移動を命じ、撤退してきた第2マニプルス隊に南地区の守備を引き継がせた。
「こうしていれば、敵が正攻法で来た場合、2か所の陣地で抵抗できるし、仮に橋を直接攻撃する進路を取った場合は第2マニプルス隊で横腹を食い破ってやれるからな。敵が目の前に現れるまで陣地の強化は続けるんだ」
クラスノスボロツクの橋を守る先任指揮官である第2コホルス隊長は、麾下の部隊にそう命令して、ガルム隊を迎え撃つ準備を着々と進めていた。
一方でガルムは、ホルンがメタルルルグの敵陣を突破したことを知り、
「さすがはホルンさんだ。これで後ろからの敵は気にしなくて済む」
そう言って敵陣の外郭線から3キロほどのマスロヴォの村まで部隊を進めた。
ガルムは偵察によってクラスノスボロツクの町が天然の障害物に恵まれた地形であることを知り、
「なるほど、考えたものだな。障害物を避けて南側から攻めても敵前渡河は避けられず、敵前渡河を回避するため北でヴォルガ支流を渡河したら、敵はその間に2重の防衛線が敷けるということか」
そうつぶやくと、偵察部隊に
「南地区東側に流れる川とヴォルガ支流をさらに綿密に偵察せよ。渡河しやすい場所を探すのだ」
そう命令を下し、同時にエイセイに
「エイセイ、1キロほど先に集落がある。そこまで進出して陣地を造り、クラスノスボロツクの橋を守る敵さんにメタルルルグの守りが破られたことを知らせてやれ」
そう命じる。
エイセイは温顔をほころばせると、
「了解いたしました。では早速」
3個大隊千5百人を連れて前進して行った。
「何だと、ワレンコフ旅団長殿の防御線が破られた⁉」
第2コホルス隊長は、エイセイが流した『噂』を聞いて驚いたが、すぐに首を振って第1マニプルス隊長をはじめとした部下たちに言う。
「それが本当だとしても、まだクメッツ旅団も残っているし、軍司令部戦闘団も健在だ。橋の防衛命令は生きているし、そもそもそれは単なる噂に過ぎん。兵たちには噂を軽々しく信じるなと各隊長から伝えよ」
そして、特に第1マニプルス隊長を見て、
「隊長、そんな噂が流れてきたところを見ると敵の攻撃が近いのかもしれん。敵の偵察隊の動きに十分注意しろ」
そう命じて部隊へと送り返した。
そして傍らにいた伝令に、
「第2マニプルス隊に伝えてくれ。『敵の噂を信じるな。前面の敵の動きに注意を払え』とな。急いで伝えて来てくれ」
と命じた。
指揮官からの伝令を受けた第2マニプルス隊長は、前日から川の対岸にガルムやエイセイが放った偵察隊をちらほら見かけていたため、
「敵は渡河点を探している。陣前の敵の動きは逐一、マニプルス隊本部に知らせよ」
と、部隊に指令を発した。
ガルムは、偵察隊の報告で敵陣が自分の部隊の動きに敏感になりつつある状況を見て、
「さて、それじゃ最後の仕上げにかかるか」
そう言うと、麾下の千5百人を連れて前進し、エイセイ隊の陣地と連絡を取りながら、その北西5百メートルほどの丘に布陣した。
★ ★ ★ ★ ★
時を少し巻き戻す。
ホルンとブリュンヒルデの出撃を見送ったマルガリータは、ホルン隊をはじめカンネー隊やアズライール隊を街道正面のメタルルルグではなく、敵の防御線左翼にあるチュリハンへと向けた。
ホルン部隊の動きを見た第41旅団長のワレンコフは、
「ホルンの狙いはわが旅団とクメッツ旅団との間にくさびを打ち込むことか、わが旅団をアフトゥバ川支流へと押し込んで包囲することかのいずれかだ」
そう言うと、メタルルルグの守備隊を思い切って1キロほど北西のコジュニまで下げた。ここはヴォルシスキーへと続く街道と、クラスノスボロツクに続く街道が交差する場所であり、予備隊である第2コホルス隊第3マニプルス隊に陣地を構築させていたのだ。
さらに彼は、
(ホルンが左翼を回り込んだら厄介なことになる)
そう考えたのか予備隊である1千に、チュリハンにいる第1コホルス隊第3マニプルス隊を支援させることにした。
一方でホルンは、上空からワレンコフの旅団司令部が後方に下がるのを見て、
「ふーん、ここでの抵抗を諦めたのかしらね。それともマルガリータの動きを見ての陣地変更かね?」
そうつぶやくと、
『恐らく陣地変更でしょうね。後方のコジュニにも陣地がありましたから。川を背に片翼包囲されることを嫌ったのでしょう』
ブリュンヒルデがそう言う。
「マルガリータがズヴェーズドヌィの丘との間隙からヴォルシスキーへ突進する、とは考えちゃいないのかな?」
ホルンが言うと、ブリュンヒルデは
『ズヴェーズドヌィの丘にも結構堅固な陣地がありましたからね。あれだけの資材を投じて造った陣地ですから、そう簡単に捨てることはないと思いますよ』
と答える。
「それじゃ、こちらの旅団を早めに始末しておかないと、ズヴェーズドヌィの丘にいる部隊がヴォルシスキーに後退したらちょっと厄介だね」
ホルンはそう言うと、翠色の瞳をした目を細めて言う。
「よし、ブリュンヒルデ。姿を現してコジュニの陣地にいる奴らに投降を呼びかけよう」
『了解いたしました。ホルン様』
ブリュンヒルデはそう答えると、ゆっくりと降下を開始した。
「よし、これで敵はズヴェーズドヌィの丘にいる部隊とは連絡が取れなくなったはず。後は姫様の投降呼びかけに敵が応じるかどうかですね」
マルガリータは、敵陣を眺めながらそうつぶやく。本来なら朝食準備のために炊煙が立ち昇っている時間のはずだが、そうした動きは見えない。
(ふふ、こちらにかかってくるとは意外だったでしょうね。敵兵は冷たい朝食をかき込むのが関の山だったはず。さて、彼らがこの部隊を見てどう感じているかしら?)
彼女はチュリハンの東側を回るようにしてその北方にアズライール隊を配置し、東正面にはカンネー隊を展開させていた。
「敵の予備隊が加わっても2千だから、こちらの7千には抗うべくもないとは思うけれど、できれば戦意を無くして投降したという形が取れれば、それだけ宣伝効果は大きくなるのだけれど……」
マルガリータが狙っていたのは、軍事的勝利ではない。
(姫様の武威は、『蒼の海』の東側でオプリーチニキや治安部隊第4軍を壊滅させたことで証明されている。帝国の人々もそれは感じているからこそ、殿下のもとに馳せ参ずる人たちが増えて来た……)
マルガリータは、先にソフィア公女やカーヤ・トラヤスキーと話し合った時のことを思い出していた。
『投降してきた指揮官たちの話では、殿下がいらっしゃるということと、オプリーチニキの敗戦が最も衝撃を与えたみたいです』
カーヤがそう言うと、ソフィアも青い瞳で真っ直ぐマルガリータを見つめてうなずく。
『ウラル帝国の人々は、陛下と摂政イヴァンの権力争いについては関心が薄いです。大部分の人々は貧しく、その日を暮らすことに汲々としているからでしょう。殿下の理念についても、紙の上での呼びかけだけでは、それが明日の自分たちの暮らしにどう関わってくるのか想像もつかない人たちが多いと思います』
そして瞳に力を込めて続けた。
『今は、高尚な政治的理念を説くより、具体的な行動が求められていると感じました。殿下が目指す帝国の明日はこのようなものである、と誰の目にも分かるように政策を展開することが必要ですし、そのための拠点が手に入れば、殿下のお気持ちはもっと明確に人々に伝わるものと信じます』
マルガリータは、そんな二人の言葉を思い出しながら、
(ヴォルゴグラードはウラル帝国の南部では中心的な都市の一つ。交通、経済、そして軍事的な要衝でもあるこの都市を電撃的に入手し、殿下の施政を展開すれば、少なくとも負けない体制は出来上がる……)
「……『摂理の黄昏』については、それとは別のことになるのだろうな……」
黒曜石のような瞳で、抜けるように青い空を見上げてそうつぶやいた。
「ホルンの部隊は左翼正面から側翼にかけて展開し、チュリハンの支牚陣地とクメッツ旅団の陣地間を遮断しています」
「敵の兵力はおよそ6千から8千」
コジュニの陣地にいるワレンコフのもとには、次々と左翼隊からの報告が入って来る。ワレンコフは今後の戦闘をどう指導すべきか呻吟していた。
彼には、直面している事態の他にも気がかりなことがあった。それは、
(クラスノスボロツクからの連絡も途絶えた。ホルンの別動隊が町を攻撃しているものと考えねばならないな)
ということである。
(あくまで戦うのであれば、今後の取るべき道は二つある。ヴォルシスキーの橋の守備はクメッツ旅団に任せ、こちらは全軍でクラスノスボロツクに転進するのが一つ。ただし、この策を取るのであれば早めに左翼隊を撤退させねばならない)
彼は北東の空を見ながら考えを進める。
(もう一つは、この陣地を捨てて左翼隊と一つになり、野戦を挑むという道だ。練度不十分の兵たちに無理をさせることにはなるが、わが旅団の攻撃で傷付いた敵に、クメッツの旅団が続けざまに攻撃を仕掛けてくれれば、勝利のチャンスはないわけではない。ただ、敵がそれに気づいてわが旅団を無視し、クラスノスボロツクへと機動されればそれまでだ)
ワレンコフは、北の方を向いてため息をつく。現状は上官であり、ヴォルゴグラードの守備に直接の責任を負っている第4軍司令官ミハイル・クルピンスキに報告している。そして報告と共に
『今後どうしたらいいのか』
についても指示を仰いでいたワレンコフである。
(彼我の軍の資質や現在の状況から考えると、勝負はとっくについている。あくまで戦うのならばクラスノスボロツクへの転進か野戦かのどちらかだが、いずれを決心するにしても私の独断専行になる。ここはクルピンスキ司令官殿のお考えを確かめたいものだが……)
ワレンコフが考えている時、突然、陣地が騒がしくなった。前線で兵士たちが何か騒いでいるようだ。
「何だ、何事が起った。敵襲か?」
ワレンコフはそう言いながら天幕から出ると、前線の空に信じられないものが見えた。
それは、全長15メートルほど。全身が金属の光沢を放つ黒い鱗で覆われていた。そして巨大な翼を広げ、上空20メートルほどの所から琥珀色の瞳で陣地を睥睨している。
「……あれは、ドラゴンか?……」
思わず呻いたワレンコフは、皇太子アゼルスタンが発した檄文を思い出していた。あの檄文の最後には、何と署名がされていた?
「……『蒼炎の魔竜騎士』、ホルン・ファランドール……」
青ざめた顔でワレンコフがそうつぶやいた時、上空から声が聞こえた。
「私はホルン・ファランドール。この部隊の将と話がしたい。いるなら陣前に罷り出でよ」
★ ★ ★ ★ ★
クラスノスボロツクでは、治安部隊第41旅団所属の2部隊……第2コホルス隊第1マニプルス隊と第2マニプルス隊……が、それぞれの陣地で戦闘態勢にあった。
この町を守備する彼らの前には、『餓狼のガルム』との異名を持つ古強者、ガルム・イェーガーが率いる部隊が展開していた。
攻めるガルムは3千、守る彼らは合わせて2千という兵力で、『攻者3倍の原則』から言うと彼らに分があったが、先任指揮官である第2コホルス隊長の顔色は優れなかった。
まず、将兵の質である。
彼らは帝国でも精鋭の部類である治安部隊の一員であるが、戦場経験はさして多くない。そして率いる兵士たちも、『蒼の海』方面での旅団壊滅後に急いで駆り集められ、訓練も未了のまま戦場に放り込まれた者たちがほとんどである。自然、士気も高くない。
一方でガルムの方は、指揮官ガルムその人はファールス王国の親衛隊『王の盾』副長の経験もあり、その後も用心棒として幾多の戦いを経験し、『終末預言戦争』ではホルンの部将として激戦を生き抜いた。
ホルン即位後はファールス王国前将軍として王権の安定のために力を尽くし、将軍を辞してから再び用心棒として過ごしている、30年以上を戦塵の中で過ごした古豪である。
彼に率いられる兵士たちも、武器を持つのは初めてという者も多かったが、ガルムの薫陶により実力を付けてきていたし、何より兵士の半数以上は『魔力の揺らぎ』が使える魔戦士だということが、治安部隊の兵士たちとの大きな違いだった。
次に、戦場の地形である。
クラスノスボロツクは、前にも書いたが町がヴォルガ支流を挟んで南北に分かれている。つまり二つの守備隊の間には川が流れていて、連携が取りやすいとは言い難い。
一方でガルム側は南北好きな方に攻撃を指向でき、場合によってはそれぞれに攻撃を仕掛けることも可能である。その選択権はガルムにあり、守備隊側はどうしても後手に回らざるを得ないのである。
守備隊先任指揮官の第2コホルス隊長は、いつ、どこからガルムが仕掛けて来るかを推量することに全力を注いでいた。
しかし、災いはあらぬ方向から訪れるものである。
クラスノスボロツクの場合、それは西側……ヴォルガ河から突然襲ってきた。東側のガルム部隊に気を取られ過ぎていたということもその要因の一つだったろう。
第2コホルス隊長が気付かないうちに、橋は『青い軍団』に占拠され、ガルム部隊を迎え撃つ予定でいた守備隊は背後から奇襲を受けた。
「私はガイ・フォルクス。この町の守備隊の将よ、橋は我々アクアロイドが確保した。無駄な抵抗を止めて投降せよ」
ガイが3千ほどの軍勢と共にそう呼びかけると、守備隊の先任指揮官は寝耳に水の事態に周章狼狽し、
「いつの間に後ろに回ったのだ?」
慌てて、本部を護衛する部隊に戦闘態勢を取らせた。
しかし、相手が3千を数える軍勢であることと、その先頭で蛇矛を左手に持ってこちらを見ている将が、その名も高い『紺碧の死神』であることに思い至ると、先任指揮官はすぐに抵抗を諦めた。
「相手はアクアロイドで指揮官は『紺碧の死神』、しかも兵数はこちらを上回る。橋を奪われた以上、もはや抵抗は無益だ」
そう左右の者につぶやくと、自ら陣前に出てガイに問いかける。
「私が先任指揮官だ。将兵の命を保証していただけるなら、私はすぐに武器を捨てるだろう。しかしファールス王国の将帥たる将軍がなぜここに? 我がウラル帝国は貴国と戦争状態にあるわけではないため、貴軍に投降する必要はないと思うが?」
するとガイは、薄い唇を歪めて答えた。
「確かに諸君は私に降伏する義理はない。だが諸君は自国の皇太子、アゼルスタン殿下に刃を向けていることに気が付いていないのか? 諸君の投降先は後ろにいるガルム殿の部隊だ。
私はアクアロイド種族の代表としてホルン・ファランドール様の依頼に応えているだけだが、ガルム殿はホルン様と共に殿下の陣営にいる将帥だからな」
それを聞いて先任指揮官はひどく狼狽した。彼とて『皇太子殿下が摂政殿下を詰問し、兵を挙げた』という噂を知らなかったわけではない。だが、その噂の真偽を確かめる術もなく戦いに投入され、
(噂の真偽はもっと上の将軍たちが確かめるべきこと。私たちは軍令に従って戦うだけだ)
と、思考を停止していたのだが、今、こうやって『お前たちは皇太子に刃を向けているのだぞ』と面と向かって言われると、頭から冷水を浴びせられたような感覚に陥った。
それは、ガイの言葉を聞いた将兵すべてがそうだったらしく、彼らはみな、あるいはびっくりした顔で、あるいは心配そうな顔で先任指揮官の方へと視線を向ける。
先任指揮官は、青い顔で
「わ、分かった。貴殿の言葉の真偽はともかく、橋を奪られた以上我々の負けだ。潔くガルム将軍に投降しよう」
そう答えるしかなかった。
ガルムは、突然、クラスノスボロツクの守備隊が投降して来ても、さして驚きはしなかった。見張りの兵が
「軍使のようです」
そう告げた時も、その軍使が投降する意思を告げた時も、ガルムはにやりと笑って、
「そうか、分かった」
そう告げただけだった。
そしてガルムは、3千を引き連れてクラスノスボロツクに入った時、橋の近くにガイのアクアロイド軍団が駐屯しているのを見つけて、可笑しそうに笑うと肩をすくめて言った。
「はは、そんなこったろうと思ったぜ。マルガリータ殿も、ロザリア殿やジュチ殿に負けず劣らず手際がいい」
そして、自らガイの陣屋を訪れた。
「ガイ将軍、久しぶりですな。相変わらずの神出鬼没ぶり、おかげで助かりましたよ」
天幕の奥に座っているガイに、ガルムが人懐っこい笑顔で話しかけると、ガイは少し頬を緩め訊いた。
「私は恩義があるホルン様のために一族を率いてここに来ただけだ。ガルム殿こそ相変わらず戦局の見通しが鋭い。敵の目を東に釘づけにしてくれたおかげで、こちらは一兵も損害を受けなかった。捕虜の扱いはどうしている?」
「ホルンさんが殿下と共にいることや、殿下の気持ちを話してやったら、部隊ごと投降してきたよ。ただ、兵士たちは召集されてまだ間もない様子だったから、故郷に帰りたいものは帰らせるつもりでいる」
ガルムの答えにうなずいたガイは、深い海の色をした瞳でガルムを見つめると、
「私はガルム殿を併せ指揮してヴォルゴグラード南方から敵に圧力を加える役割を命じられている。しかし今の状況を見ると私が目立つべきではない。
幸い、ヴォルゴグラードには治安部隊南方方面軍司令部と第4軍の偵察隊で3千ほどしか戦闘部隊はいない。ガルム殿の部隊で十分に制圧可能だろう。私は橋を確保しておくので、ヴォルゴグラードに向かうといい」
そう言うと、ガルムは左目を光らせて立ち上がり、
「そうさせていただくか。『時は金なり』と言うしな」
笑って言うと、天幕から出て行こうとする。
ガイはそんなガルムに再び問いかけた。
「投降部隊はどうする?」
するとガルムは振り返って肩越しに笑って答えた。
「アンドレイ・バクーニンとコンスタンチン・カリーニン、二人とも若いが見どころがあるし、練度未熟な兵士でも使いようはある。もちろん、一緒に連れて行くよ」
治安部隊南方方面軍司令官のエドウルフ・ガルバニコフは、勇敢な人物である。彼は司令部をヴォルシスキーに架かる橋の右岸側に置いて自ら橋を確保すると共に、ヴォルシスキーで奮戦する第4軍を督戦していた。
彼は、第41旅団長ワレンコフがメタルルルグからコジュニの陣地に下がったと聞いて、
「なぜ戦線を下げる⁉ 下手に陣地を下げると第43旅団のクメッツが切り離されるではないか。クルピンスキ、すぐにワレンコフを前進させるか、クメッツに敵の側面を襲撃させよ!」
そう、第4軍司令官のクルピンスキに催促したり、ワレンコフ旅団の壊滅を聞いて
「何たる不甲斐なさだ! 私も押し出すぞ!」
司令部護衛隊と第4軍偵察隊を指揮して前線へと出陣しようとしたり、とにかく積極的だった。
「前線の状況を知らせよ」
ヴォルシスキーの町中央部に司令部を置いていたクルピンスキは、ガルバニコフがそう言いながら天幕に入って来たのに驚いて、立ち上がりながら言う。
「方面軍司令官殿! どうしてこちらへ?」
ガルバニコフは精悍な眉を上げて、気分を害したように答えた。
「こちら方面が余りに不甲斐ないので、状況を確認しに来たのだ。ワレンコフの旅団が壊滅したと報告を受けたが、どう言うことだ?」
「旅団の生き残りによると……」
クルピンスキは青い顔でつばを飲み込み、
「相手は『蒼炎の魔竜騎士』ホルン・ファランドールとシュバルツドラゴンだったそうです。単身で現れ、ワレンコフを呼び出して投降を勧めたそうですが、ワレンコフがそれを拒絶するとシュバルツドラゴンが攻撃して来て、なすすべもなく陣地を焼き払われたとか……」
そう言うと、怒気を湛えているガルバニコフが怒鳴るより早く、
「旅団の予備だった第41旅団第2コホルス隊第3マニプルス隊が、クメッツの第43旅団と共にホルンを足止めし、その隙に司令部護衛隊でアレクサンドル通りに陣地を構築しました。現在、陣地は第43旅団が主として防衛中で、第41旅団の残存部隊を再編制中です」
そう報告する。
ガルバニコフは冷たい目でクルピンスキを見て命令する。
「予備兵力は君の司令部護衛隊しかないんだな? では君も前線で第43旅団その他を督戦せよ。この場所と橋は私が守る」
「……分かりました」
クルピンスキは何か言いかけたが、そう答えると司令部護衛隊5百を連れて前線へと向かった。
一方で、クラスノスボロツクからヴォルゴグラードに突入したガルムは、町に一兵も配置されていないことをいぶかしく感じていた。
「ここには治安部隊南方方面軍の司令部があるはずだが?」
ガルムはそうつぶやきつつ、アンドレイ・バクーニンの部隊を町の中心部にある政庁へと向けるとともに、エイセイ隊はコンスタンチン・カリーニンを付けて北の橋の確保に派遣し、自らは中央広場で市民に布告を出していた。
ガルムは、広場の北にある少し高くなった場所に陣取り、不安げに集まった民衆に春風のように呼び掛けた。
「みんな、そんなに心配そうな顔をしなくていいぜ。俺はガルム・イェーガー、ファールス王国では『餓狼のガルム』の名で用心棒をやっていた。
我らは皇太子アゼルスタン殿下の指揮のもと、みんなの暮らしが少しでも楽になるように帝国の刷新を願う者たちだ。そして我が兵たちはみな憂国の士、ほとんどはみんなと同じ境遇だった者たちばかりだ。
よって市内で暴行狼藉や略奪行為などを働く奴はいないし、そんなことは固く禁じている。安心していつものとおりの暮らしを続けるといい。
もし、配下の兵たちによって困ったことがあったなら、遠慮なく申し出てくれ。きっと厳しい罰を下すだろう」
ガルムは、不安げな顔で自分の言葉を聞いている市民たちの表情を観察していた。
ここが敵国であるならともかく、アゼルスタンが住まうウラル帝国の版図内である。このような布告が必要なのかといぶかっていたガルムだが、ガルムの言葉を聞いた市民がみな一様に喜び、中にはガルムに感謝の身振りをしている者もいるのを見て、マルガリータの言葉を思い出した。
『ウラル帝国の歴史は大貴族たちの専横の歴史。皇帝そっちのけで領土や領民の奪い合いをすることは珍しくなく、その際に領民への暴行や略奪は日常茶飯事と聞いています。
殿下の軍はそんな大貴族たちとは全く違うことを、行く先々の町や村で広めていくことで、殿下の人柄を広め、衆望を集める必要があります。それは仲間を増やすことにつながるでしょう』
(なるほどな、そう言う戦の風土がある国なら、『摂理の黄昏』なんかの問題さえなければ、殿下は思ったよりも容易く軍事的優位を手に入れることができるかもしれないぞ)
ガルムは喜びにあふれる民衆を見ながら、そう思っていた。
★ ★ ★ ★ ★
ヴォルゴグラードは、たった一日の戦いでホルンの軍門に降った。
ガイがクラスノスボロツクの橋を奪取し、ガルムがヴォルゴグラードに突入した時点で勝負は決していたが、そのことを知らぬ治安部隊南方方面軍司令官ガルバニコフは、ヴォルシスキーの町で徹底抗戦した。ウラル帝国お家芸ともいえる『死ぬまで抵抗する』という精神がそうさせたのだろう。
北の戦線では、第43旅団を率いるオットー・クメッツが、6千の兵力でマルガリータが統括する7千と戦闘を交えた。
クメッツは、第41旅団を指揮したジェイコブ・ワレンコフ同様、前任は参謀であり、計数には明るかったが指揮官としての経験に乏しかった。第4軍司令官のクルピンスキが旅団長として指名した時には、一度断ってもいる。
しぶしぶ旅団長を受けたクメッツは、自らの補給参謀としての経験によって第43旅団の指揮を執った。そのため、彼の運用には『作戦の要求』よりも『補給線の確保』が強く浮き出ており、ヴォルシスキーの戦い全般において積極性に欠けるところがしばしば見られた。
メタルルルクを主軸に布陣した第41旅団から数キロも離れたズヴェーズドヌィの丘に陣地を造ったこともそうであるし、第41旅団がコジュニに後退した時、いち早くアレクサンドル通りまで旅団を後退させたのもそうである。
この後退は、戦線の崩壊というリスクを生じさせるものであったが、第41旅団の残存部隊の善戦もあり、結果的に一時的にも戦線が安定したことで、クルピンスキの追認が得られたため問題にならずには済んだ。
しかし、そのことでクルピンスキには『クメッツは一つ一つ指示しないととんでもない行動をする』という思いが生まれ、それが第43旅団への必要以上に苛烈な命令となって表れた。
『第43旅団はアレクサンドル通りで敵軍を殲滅せよ。栄光ある治安部隊の伝統に従って後退は許さない。貴軍に期待しているのは勝利か死かである』
……これが、第4軍司令官クルピンスキがクメッツに与えた命令であり、実質的に第4軍の最後の命令ともなった。
クメッツはこの命令を受けた時、消極的な指揮ぶりを叱責するかのような文言を見ても顔色一つ変えず、
「今度は、補給が途絶える心配はない。補給が途絶える時は軍司令部も無くなっている時だからな」
そうつぶやくとゆっくりと天幕を出て、遠くに布陣するホルン軍をしばらく眺めていたという。
そして、側にいた二人のコホルス隊長に言った。
「二人とも、新米旅団長の私をよく助けてくれた。これから軍命令によってあの敵と野戦を決行するが、君たちは部下を犬死させないためにも敵陣を突破したら適当な方向へと落ち延びてくれ」
そして、突然の言葉に戸惑っている二人に、笑顔で命令した。
「1時間後に陣門を出る。それまでに戦闘準備を整えてくれ。兵たちには持てるだけの食料を持たせてやってくれ」
第43旅団の戦闘準備は、面と向かい合ったマルガリータがすぐに察知した。
マルガリータは、第4軍司令部と違い、クメッツを高く評価していた。
(あの指揮官は、軍の根幹である補給を大事にしている。戦術的な能力は未知数だけれど、戦略拠点の防御をさせたら手堅くやり遂げそうね)
そう思っていたマルガリータは、すぐに左翼のカンネー、右翼のアズライールに伝令を飛ばした。
「第43旅団は出撃して来るようです。相手は帰る場所も下がる場所もありません。死に物狂いになるでしょうから無理に抑え込もうとせず、まずは矢や魔力で相手の行き足を止めることを考えてください」
これがロザリアなら『毒薔薇の牢獄』で敵を一網打尽にするところだろうが、そこに考えが至らなかったのは、マルガリータがロザリアより性格が優しかったからであろうか。
マルガリータはホルンから指揮を委ねられた1千を率いて、カンネー隊とアズライール隊の後方に布陣すると、静かに第43旅団の出撃を待ち受けた。
やがてクメッツは弓兵の援護のもと、全軍で押し出してきた。陣地を構築していたクメッツ軍の前には、柵や簡易的な塀が設けられていたのだが、それを自ら破壊して出撃してきたのだ。
「ふむ、敵将は容易ならぬ決意をしていると見えるな。自ら帰るべき陣地を破壊するとは正気の沙汰じゃない」
カンネーはそうつぶやくと、大声で部下たちに号令をかける。
「正面は少し引けッ! 弓隊、放てっ!」
カンネーは正面の部隊を少し後退させ、あらかじめ両翼に配置していた弓隊から雨のように矢を降らせ始める。
「楯、楯を掲げろっ!」
カンネー隊へと突進していた第43旅団第1コホルス隊では、隊長が矢の雨から兵士たちを守ろうと号令をかける。いきなりの射撃に少なからぬ損害を出して前進が止まっていた兵たちだったが、楯を頭の上に掲げ矢を防ぎながら前進を再開した。
「弓隊、最前列を重点的に狙え。狙撃隊、出番だぞ!」
敵の最前列は楯を正規の位置に構えていた。カンネーはその壁を崩すために最前列に頭上からの曲射を浴びせかけるとともに、うっかり楯を上げた敵や、楯の壁の隙間に練達の狙撃手たちに矢を打ち込ませる。
ドスッ!
「うーむ」
バシュッ!
「ぐっ」
矢を受けて倒れる兵が続出するが、それでも敵は前進を続け、やがて彼我の距離が50ヤードを切った時、
「突撃ッ!」
わあああっ!
コホルス隊長が佩剣を一閃させて号令すると、敵は一斉に駆け出してきた。
「投槍隊、十分にひきつけてから投げろ。こちらも陣を組め、迎え撃つ準備だ」
カンネーの号令で、広がっていた兵士たちはがっちりとしたファランクスを組み始める。そして相手が20ヤードほどまで迫った時、投槍が放たれた。
ドスッ!
「がっ」
ブシュッ!
「ぐっ」
投槍は最前列の兵たちのいくばくかを削り、楯の壁が乱れた。
「よし、突っ込め!」
カンネーはその隙を見逃さず、すかさず部隊を前進させた。
「楯に魔力を込めろ! 吹き飛ばしてやれ!」
カンネーは前進する第1陣を眺めながら、剣を抜き放って後ろに続く部隊に笑いかけた。
「よし、敵が乱れたら白兵戦に持ち込む。左右から包み込んで引導を渡してやれ」
敵の本陣では、クメッツが椅子に座って目を閉じていた。
「左翼隊は敵に包囲されつつあります」
「右翼隊も前進を止められました。包囲を避けるために少しずつ後退しています」
前線から届く報告は最初こそ調子が良かったものの、ホルン軍の柔軟な指揮にだんだんと雲行きが怪しくなり、今でははっきりと『攻勢失敗』が分かるような状況となっている。
(同じ程度の兵力だったから、せめて敵陣突破くらいはできるかと思っていたが、ホルンの軍隊は兵が強いだけではなく指揮官も優秀だったか……これは早めに決断せねばならないな)
目を閉じてそう思っているクメッツの念頭には、もはやガルバニコフの『勝利か死か』という命令はないに等しかった。
(私たちが相手にしているホルンは、皇太子殿下を助けるために軍を率いているのだという。だとしたら私たちは忠誠を誓うべき殿下に刃を向けていることになる。部下たちをそんな無名の戦いで散らすのも惜しい)
そう考えていたクメッツは、
「左翼隊から伝令です。『包囲を破ること能わず。第1コホルス隊は治安部隊の栄光と帝国の弥栄のために最期まで戦う。友軍の武運を祈る』とのことです!」
その言葉を聞いてハッと目を開けると、立ち上がって左右に控えた伝令に命じた。
「これ以上の戦闘は意味がない。降伏する。コホルス隊長たちに伝令、『戦闘行動を休止し、別命あるまでその場に待機せよ』。そして敵の指揮官に降伏の意思を伝えよ」
伝令たちは突然の命令に、意味が分からないような顔をしていたが、クメッツは穏やかな顔で重ねて命令した。
「戦いはこれまでだ。帝国の将来を担う有為な若者たちを、無駄に消耗すべきではない。隊長たちに戦いを止めさせ、敵に降伏を申し出る。すべての責任は私が取るから、早く伝令をお願いする」
「うん、なかなかにいい展開ね」
マルガリータは、敵の右翼がアズライールの鋭い攻撃で行き足を止めるのを見てそうつぶやく。敵の左翼側を見ると、カンネーが敵を完全に包み込んで叩き始めていた。
「このままでは敵の全滅は必至、敵将はなぜ降伏しないのかしら? まさかウラル帝国お得意の『勝利か死か』なんて命令に律儀に従っているわけじゃないでしょうね?」
そうつぶやきながら、敵の本陣を見つめていたマルガリータだったが、敵本陣から3騎の伝令が放たれ、そのうちの1騎が真っ直ぐにこちらに向かっているのを見て、ほっとしたように微笑んでつぶやいた。
「よかった、これで第2段の作戦に移れるわね」
★ ★ ★ ★ ★
「……『蒼炎の魔竜騎士』、ホルン・ファランドール……」
空中で翼を広げているシュバルツドラゴンを目の当たりにして、青ざめた顔でワレンコフがそうつぶやいた時、上空から声が聞こえた。
「私はホルン・ファランドール。この部隊の将と話がしたい。いるなら陣前に罷り出でよ」
ワレンコフは、気を取り直すように頭を2・3度振ると、ゆっくりと陣前に名乗り出た。
「本職はウラル帝国治安部隊南方方面軍第4軍所属、第41旅団長ジェイコブ・ワレンコフだ。『蒼炎の魔竜騎士』ホルン・ファランドール殿、話とは何か?」
ワレンコフが声を張り上げると、
「ああ、あなたが指揮官かい? ちょっと待って、すぐにそちらに行くよ」
そんな声と共にシュバルツドラゴンは陣前20ヤードほどの所に着陸し、鉄色の翼を畳んだ。その背中から、銀髪に翠のマントを翻し、1・8メートルほどの手槍を持った女性が飛び降りて来る。
その女性は翠色の瞳をした切れ長の目で真っ直ぐにワレンコフを見つめて来た。かなりの美人だが、左の額から右の頬にかけて刀傷が走り、身のこなしにも隙がなく、いくつもの戦場経験を積んだ強者であることは確かだった。
(なるほど、このお方があの『終末預言戦争』を生き抜いてファールス王国を再興したホルン殿か……オプリーチニキが苦杯を喫するのも当然だな)
ワレンコフはそう思い、剣を後ろに回す。話し合いが前提というホルンの言葉を信じ、彼女に敬意を表したのだ。
ホルンは10ヤードほどまで近づくと、ワレンコフの態度を見て微笑を浮かべ、
「話し合いに同意してくれて嬉しいよ。話し合いで事が済めば、それに越したことはないからね」
そう前置きし、目を細めて訊いた。
「一つ訊くよ、あなたたちは皇太子アゼルスタン殿下が、摂政イヴァン・フョードルを廃するために兵を挙げられたことは知っているね?」
突然の問いに、ワレンコフは目をしばたたかせて答える。
「そ、そのような噂は聞いたことがあります。しかしあくまで噂であって、実施部隊はそのことについて詮索すべからずという方面軍命令も出ていますが、もしかして……」
当惑気味に言うワレンコフに、ホルンはうなずいて言った。
「ああ、そのもしかして、さ。私はもともとファールス王国で用心棒をやっていた者。軍を率いて他の国で暴れるような趣味はないよ。そんな私がここに居るのは、伊達や酔狂でなく皇太子殿下から直々に依頼されたからさ。帝国の未来のために力を貸してくれってね」
「そ、それでは殿下は本当に?」
ひどく慌てた様子で言うワレンコフを、気の毒そうに見つめてホルンは言う。
「ああ、誰が命令したかは知らないが、あなたたちは本来守るべき皇帝陛下の後嗣に刃を向けていたってことさ。事実を知ってアラン・ニンフエールは旅団ごと殿下のもとに馳せ参じたよ。あなただって殿下相手に戦いたくはないだろう? こちらに来ないかい?」
ホルンの誘いを、ワレンコフは上の空で聞いていた。
「そうか……だからニンフエール旅団は途中で音信不通になったり、戦局から遠ざかっていたりしたのだな……今あの謎の行動の理由が分かった」
呆然とつぶやくワレンコフに、ホルンは重ねて勧める。
「そう言うことさ。あなたも殿下のもとに来ないかい? それが治安部隊本来の任務と言えるだろう?」
ワレンコフは、顔を真っ赤にして黙っていた。心の中では様々な情念が渦巻いているのだろう。ホルンはそんな気持ちがよく分かったため、ワレンコフから少し離れて彼を見守っていた。
やがてワレンコフは顔を上げると、自陣を振り返って副官を呼び寄せた。
「副官、私は今このお方から大変なことをお聞きした。皇太子殿下は軍を率いてこのお方と共にあるそうだ。ついては君がこの旅団をまとめて、殿下のもとに向かってくれ」
突然の言葉に、副官はホルンとワレンコフを交互に見比べながら訊く。
「そ、それで旅団長殿はどうなさるおつもりですか?」
ワレンコフは薄く笑うと、
「私か……私は、やあっ!」
「えっ⁉」
ビュッ! ドカッ!
ワレンコフの抜き打ちは素早かった。余りに突然斬りかかられたホルンは狼狽したが、戦場の呼吸を知っていたホルンの身体は意思とは関係なしに動き、『死の槍』はワレンコフの胸を貫いていた。
「旅団長殿!」
真っ青になって叫ぶ副官をしり目に、ホルンは表情を硬くして静かに訊いた。
「なぜこんなことを?」
ワレンコフは『死の槍』を支えに突っ立ったまま、唇の端から血を流して笑うと、副官に顔を向けて言った。
「騒ぐな、私は殿下にお詫びをしただけだ。君は殿下のもとに至り、私が詫びていたと殿下に告げてくれ」
そしてホルンに視線を戻して
「……ホルン殿の言葉に従って殿下のもとに馳せ参ずるのが、治安部隊の指揮官として正しいのだとは思います。ニンフエールは殿下が貴軍と共にあることを薄々察して敵対的行動を慎んでいたのでしょう。しかし私はそこに考えが至らず、殿下に刃を向けるという失態をしでかしました……」
そう、喘ぐように言うと、
「……どんな軍隊も、敵前逃亡や戦闘放棄は重罪。私がホルン殿から斬られれば、戦闘後の降伏になり、部下に罪は及びません。殿下をよろしくお願いします」
ドバッ!
自ら『死の槍』を抜き、飛び散る血しぶきの中で瞑目した。
「……惜しい人物だったね。あなたの気持ちは無駄にはしないよ」
ホルンは、うつぶせに倒れたワレンコフにそう声をかけると、副官を見て言った。
「あなたはワレンコフ殿の命令どおり、この旅団を率いてメタルルルグまで進撃しておいてほしい。そしてこの武人を手厚く葬って差し上げてほしい。急いで出発した方がいいよ。この陣地は私が完膚なきまでに破壊するからね」
そして不思議そうに自分を見ている副官に、
「ワレンコフ殿の犠牲を無駄にしないために、あなたたちは私と戦って全滅したってことにしたいのさ。分かったら早く移動してほしいね」
そう、凄味のある笑顔を見せた。
ホルンは、コジュニの陣地を焼き払うと、そのままヴォルシスキーの町へと突入した。
すでにそのころには、マルガリータの方も第43旅団を降し、
「第43旅団の指揮官オットー・クメッツ以下5千人ほどの投降を受けました。今後のご指示を乞います」
という連絡をマルガリータから受けていた。
ホルンは連絡を受けるとすぐにマルガリータを訪ね、
「メタルルルグに第41旅団の生き残りがいる。彼らを併せて部隊を再編制しておいておくれ。私はブリュンヒルデと共にこのまま第4軍の司令部にお邪魔するから」
そう指示を出すと、第4軍司令部へと飛び去った。
ホルンの来襲を受けた南方方面軍司令部と第4軍司令部は、混乱の極致にあった。
特に南方方面軍司令官エドウルフ・ガルバニコフは、この期に及んでヴォルゴグラードと橋がガルムに占拠されていることを知ったため、茫然自失の状態にあった。
そして彼は、
「橋とヴォルゴグラードは取り戻さねばならない。クルピンスキ、そなたは第4軍司令部と偵察隊を挙げてヴォルゴグラードを取り戻せ。私は司令部挙げてホルンという魔性の女を成敗する」
そう、破れかぶれともいえる命令を出し、司令部戦闘団5百でホルンに戦いを挑んだが、
「将を遇する礼を知らぬ者は、殿下の軍には不似合いだね」
先のワレンコフの身の処し方から司令部の雰囲気を感じ取っていたホルンは、ガルバニコフを惜しげもなく斬って捨てた。
そのころ、クルピンスキの方はホルンの意を受けたガルムの策により、生け捕りとなっていた。
「さて、これでヴォルゴグラードはこちらの手に落ちた。早いところ殿下においでいただき、ここで殿下が考える帝国の未来図ってのを広げてもらわないといけないね」
ヴォルゴグラードの政庁から、戦火を免れた町を眺めながらホルンが言うと、
「エリンスブルクがきな臭くなっています。何が起こっているのか、情報を集めていますが、それが『摂理の黄昏』に関することでしたら、私たちは殿下とは別に行動を起こさねばならないかと……」
マルガリータが黒曜石のような瞳で北の空を見つめながら言う。
ホルンはその言葉にうなずいて、自分も翠の瞳を北の空に向けると、
「うん、殿下はできる子だからね。私たちは殿下たちではできないことで力になろうじゃないか」
そう、静かにつぶやいた。
(『19摂政の反逆』に続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ホルンたちの活躍により、アゼルスタンはついに帝国内に拠点を得ることができました。
しかし、帝都や摂政の領地では、『摂理の調停者』たちが動き始めています。
いわばこれからが本番です。ホルンたちはどう動くのか、そして『摂理の調停者』とは何者か?
次回もお楽しみに。