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青き炎の魔竜騎士(ドラグーン)  作者: シベリウスP
17/18

17 混乱の前兆

ホルンたちはいよいよヴォルゴグラードの攻略にかかる。

その頃、摂政の領地に吸血鬼が現れたという情報をつかんだレオン司令監察は、密かに調査を開始した。

 アティラウを出発したホルンたちの軍1万は、わずか2日でヴォルゴグラードを守る軍団が駐屯しているヴォルシスキーの町を目と鼻の先に望む場所まで進出した。


「コドランが偵察したところによれば、ヴォルシスキーには国軍は駐屯していないみたいだね。2・3千の兵がいたってことだから、第4軍を再編成するための基幹部隊を召集しているってところかな」


 ホルンが自分の後ろに控えた体長1メートルほどのシュバルツドラゴンを見て言う。


「その程度だったらコドランで始末してもよかったんだが、さらに詳しく偵察する必要があると思ったし、マルガリータからも止められたからね。まずは斥候を出して敵の兵力と配置の正確なところを調べよう」


 ホルンの言葉が終わるのを待っていたように、マルガリータが口を開く。


「その偵察、私が参ります」


 すると、1部隊の将領として抜擢され3千を任されたアズライールが、びっくりしたように言う。


「えっ⁉ 参謀殿ご自身が? それはいけません。斥候ならわが部隊から出しますので思い止まってください」


「そうです、マルガリータ殿はこの軍の頭脳と言っていい存在。ホルン様の側で適切な策を出していただかないといけない方なのに、何かあったら取り返しがつきません」


 カンネーもそう言って止めるが、マルガリータは薄く笑って首を振り、


「心配要りません、少し考えがあってのことですので。それよりヴォルシスキーに突入できると判断したらすぐにホルン様にお知らせいたしますので、時を措かずに行動を起こしてください」


 そう言うと、さらにガルムを見て続けた。


「ヴォルゴグラードはヴォルガ河右岸にございます。ガルム様、あなたの部隊にはヴォルシスキーの町とヴォルゴグラードをつなぐ橋へと機動していただきたいと思います。ホルン様の指示があったら、迷わずにヴォルゴグラードを占拠してくださいませんか?」


 軍議を目を閉じて聞いていたガルムは、その言葉で左目を開けると笑ってうなずいた。


「心得た。大きな戦闘はないだろうが、マルガリータ殿が狙っている効果はきっちりと出して見せるぜ」


 それを聞いて、ホルンは満足そうにうなずくと命令を下した。


「じゃ、ガルムさんの3千はすぐに移動してくれないかい? ガルムさんのことだから言わずもがなだろうけれど、くれぐれも敵に見つからないように頼むよ?」


「了解、ホルンさんもな」


 ガルムはニヤリと笑うと、副将であるエイセイと共に諸将より一足先に帷幕を出た。


 ホルンはカンネーとアズライールを見て、


「私たちはヴォルシスキーにかかる。カンネーとアズライールの3千ずつは、夜陰に乗じて突撃発起地点近くまで進出し、私の合図を待ってておくれ」


 そう言うと、二人とも了解して副将と共に帷幕を出た。


「さて、マルガリータ……」


 諸将が帷幕からいなくなると、ホルンはマルガリータを見てズバリと聞いた。


「あなたが斥候を買って出るということは、ガイの部隊が近くに来ているってことだね?」


 するとマルガリータは、クスリと笑うとホルンの言葉を否定も肯定もせずに言う。


「ヴォルゴグラードはウラル帝国でも指折りの大きな町。それに後ろにはルーン公国も控えていますし、殿下の根拠地としてぴったりです。そんな状況を見れば、殿下のもとに軍を率いて馳せ参ずる者も多くなるかと思います」


「それにファールス王国の後ろ盾を感じさせればさらにいいってことだろう? ザールはどこまで知っているんだい?」


 するとマルガリータは、不意に真剣な顔に戻って小さな声で言った。


「すべては『摂理の黄昏』がどうなるかです。ことと次第によってはウラル帝国一国の問題ではなくなりますので」


 ホルンは、先に受けたマルガリータからの報告の内容を思い出したのだろう、翠色の瞳を持つ眼を細めると、


「……そうだったね。私としては大事になんかなってほしくないけれど、それが運命って奴なら受け止めないといけないんだろうね。ところでマルガリータ、私はどこであなたの報告を待っていればいい?」


 そう言って笑った。



 そのころ、ヴォルシスキーの町にあるウラル帝国治安部隊駐屯地には、新たに第4軍司令官となったミハイル・クルピンスキが、南方方面軍司令官ガルバニコフと共に苦い顔をしていた。


「1個軍とは言わないにしても、少なくとも1個軍団でも国軍を派遣してもらうか、西方方面軍から治安旅団を回してもらわないと、ヴォルゴグラードを守ることはできませんが」


 クルピンスキが言うと、ガルバニコフは難しい顔で答える。


「私もそう思って最高指揮官殿に意見を述べているのだが、『摂政殿下のご許可が出ない』の一点張りなのだ。国軍についてはオスラビア元帥が首を縦に振らないらしい。困ったものだ」


「困るのはこっちです。チェトバンナが3個旅団すべてを磨り潰してくれたので、部隊の編成も一からやり直しですし、基幹部隊を集めるだけでも一苦労です。

 結局、2千ほどしか集まりませんでしたから、これを基幹として2個旅団を再編成するのがやっとという有様です。それも新編成に近い状態ですから、一応の行動が取れるようになるまで少なくとも3か月はかかります。その間、ヴォルゴグラードは誰がどうやって守ればいいんですか?」


 憤慨したように言うクルピンスキだったが、彼の言うことももっともだった。


 何しろ3個旅団のうち第45旅団は旅団長のアラン・ニンフエール以下総員がアゼルスタンの軍門に降っていて、指揮官や基幹部隊となる熟練兵すらいない状態だったし、その他の第41旅団や第43旅団にしても、上級指揮官クラスはことごとく戦死又は捕虜となっていたし、兵士たちも損害がひどかった。2千も基幹部隊員が集められたこと自体が奇跡だったのだ。


「ワレンコフもクメッツも、旅団を指揮するのは初めてなので自信がないようです。こんな時に敵襲を受けたらひとたまりもありませんよ?」


 クルピンスキはジリジリした様子で言ったが、ホルンたちがヴォルシスキーの町目がけて殺到しているとの情報が入ったのは、まさにそんな時だったのだ。


「クルピンスキ司令官殿!」


 ヴォルゴグラードにある方面軍司令部の官舎に、ヴォルシスキーからの伝令が到着して至急の面会を請うてきた。クルピンスキもガルバニコフも、悪い予感に顔を見合わせる。


「何だ? 何が起こった?」


 ガルバニコフのうなずきを見て、伝令を招き入れたクルピンスキは、蒼い顔をしている伝令にそう訊く。伝令はしばらく息を整えていたが、


「東部方面の定点観測隊からの通報です。敵軍約1万が当方面に向かって進撃中です。敵の指揮官はどうやらホルン・ファランドールらしいとのことでした」


 そう、報告する。


 クルピンスキとガルバニコフは顔を見合わせた。ガルバニコフの顔は恐怖に引きつっている。前に皇帝親衛隊であり、異能者の集団でもあるオプリーチニキを壊滅させ、今また自分の手元から唯一の実施部隊である第4軍を奪い取ったホルンの名は、ガルバニコフだけでなくこの方面の部隊に広く知れ渡っていた。


 けれど他の方面から新たに異動してきたクルピンスキは、自分たちの様子が伝令から部隊に伝わることを恐れた。そんなことになったら、せっかく再編成にかかったばかりの第4軍は再起不能になるだろう。


「分かった。観測班は全部ヴォルゴグラードに撤収させよ。それとヴォルシスキーにいる部隊に警報を出し、陣地を固めさせろ。私もすぐに戻るから、それまでに敵が現れても決して挑発に乗って野戦なんかするんじゃないぞ」


 クルピンスキはそう命令を出すとともに、ガルバニコフに


「観測班は大隊規模で少数とはいえ、独自に作戦を遂行できる練度がある貴重な部隊です。方面軍司令官殿の守りに残しますのでご安心ください」


 そう言うと、ヴォルシスキーにいる部隊の指揮を執るために方面軍司令部を辞した。


「……国軍からも治安部隊の友軍からも支援を受けられないこの状況で、どうやって戦えばいい? クルピンスキのような司令官を失うのは、ウラル帝国として非常な損失ではないか?」


 ガルバニコフは、クルピンスキが去った後、そうつぶやいていた。



 一方でクルピンスキは、急いで自分の指揮所に戻るとホルンたちの所在について正確な報告を受けた。


「敵はウニゲまでは街道を使っていましたが、オゼロ・エリトン湖の東を経由してズナメンスクまで出て来ています。どこを通って来たのか全く分からず、東方監視部隊も撤退の途中です。とりあえずレニンスクに集結するように監視部隊には命令を出しました」


「ウニゲからは北に街道が走ってはいるが、西は目印もない無人地帯が続く。しかも湿地が広がっていて急速な移動や展開に適さない。恐らく湿地帯を南に迂回してズナメンスクまで出てきたのだろう。恐るべき機動力だな」


 地図を見ながらそう言ったクルピンスキだが、それではどういう形でホルンの部隊を迎撃したらいいかと考えた時、はたと思案に困った。


(……常識的に言えば、レニンスクで監視部隊に遅滞戦術を取らせ、アフトゥバ川とリマン湖の間にある陣地で敵を受け止めるべきだが、肝心の第41旅団も第43旅団もまだ野戦を戦えるだけの練度はない。敵に進撃路を開放するのは癪に障るが、ヴォルシスキーで籠城するしか手はないようだな)


 少しの思案の後、彼はそう決心して幕僚に伝えた。


「……籠城する。主たる目的はヴォルゴグラードに突入させないために橋を守ることだ。第41旅団が北側の橋、第43旅団が南側、クラシノスボロツクに架かる橋の防御担当とする。各旅団長に伝えてくれ。

 それと監視部隊にはすぐにヴォルゴグラードまで退いて、方面軍司令官殿の指揮下に入るように命じてくれ」


 そう言った後、彼は不思議そうにつぶやいた。


「てっきりヴォルガ河を遡行して来るかと思ったが……ルーン公国がそれを許可しなかったのだろうか?」


   ★ ★ ★ ★ ★


 そのころ、アティラウにいるアゼルスタンたちのもとに、マルガリータが姿を現した。


「おお、マルガリータ殿。そろそろホルン様からの連絡があるころだと思っていたのだ。ホルン様たちは今いずこに?」


 身を乗り出すように訊くアゼルスタンに、マルガリータはいつものように冷静な態度で告げた。


「殿下には、軍を率いてルーン公国の首府、アストラハンに向かっていただきます」


「アストラハンに⁉ しかし、僕がそうしたら、ガイウルフ殿に迷惑がかかるのではないか?」


 驚いて言うアゼルスタンにお構いなく、マルガリータは続けて言う。


「その後、そこで軍を整え、ヴォルゴグラードに入っていただきます。しばらくはそこを拠点に、イヴァン・フョードルを追い詰めていくことにしましょう」


「待て、僕はルーン公国をこの争いに巻き込むことは本意ではないぞ?」


 アゼルスタンが怒ったように言うと、マルガリータは薄く笑って首を振り、


「殿下、ルーン公はとっくの昔に殿下に力をお貸しすると決心されています。アストラハンに進んでいただくのも、ルーン公のご希望です」


 そう答え、アゼルスタンの隣にいるソフィアを見て


「そうでしょう? ソフィア姫」


 ニコッと笑って問いかける。


 ソフィアはマルガリータに言葉にうなずいて言う。


「はい。お父様は陛下にもし何かあれば兵を挙げられるお積りでした。殿下の檄文を読まれて、中立のままでいいのか迷っていたそうですが、先の戦いの勝利によって協力することに決まったとのこと。殿下や皆さんの努力がお父様の協力を引き出したのです」


 それを聞いて、バグラチオンがアゼルスタンに言う。


「殿下、いつかホルン様が言われたことを覚えておいでですか? ホルン様は、時を見て動けないものには、天下を争う資格はない……そのような意味のことをおっしゃっていた覚えがあります。流れが変わった今、殿下と陛下の思われる理想の帝国へと変革するチャンスです。ルーン公のご厚意に甘え、部隊をルーン公国へと進めましょう」


 考え込んでいるアゼルスタンに、ソフィアは


「将軍の言うとおりです。殿下が動かなければ皆の努力は無に帰します。父も殿下の将来と帝国の発展を思って、今回の決定をされたことと思います。参りましょう」


 そう決断を促した。


「……分かった。せっかくの申し出だ、バグラチオン、いつ出発できる?」


 遂にアゼルスタンがそう訊くと、バグラチオンは胸を張って答えた。


「今すぐにでも出発できます」



 マルガリータやアニラの支援を受け、アゼルスタンが自らの軍3万を率いてアストラハンに入ったのは、その次の日だった。


 ルーン公ガイウルフは、自分が想像していたよりも多くの兵がアゼルスタンの下に集まっていたのを見て安心したように、


「ソフィアが殿下の下にたどり着いた時、兵は1千も集まっていないとの話だった。『蒼の海』東岸の戦いで治安部隊を壊滅させたことで、殿下に味方する者たちが増えたのだろう。ヴォルゴグラードを落とせば殿下の勢威はさらに大きくなるだろう。我らもできる限りの協力はしないといけないな」


 そう言いながら、妃のナスターシャと共にアゼルスタンの幕舎を表敬する。


「おお、ルーン公と公妃様、今回は協力を感謝いたします。それにソフィア公女にもかなり力になっていただいていて、心強い限りです」


 アゼルスタンは、訪れて来たガイウルフたちを見て自ら幕舎の外で出迎え、二人を案内しながら礼を述べる。

 ガイウルフは静かに首を振って、


「いえ、これしきのこと。むしろ私はソフィアのように最初から殿下と共に行動すべきであったと後悔しております。我が国は小さいとはいえ、全力で殿下の理想を後押しいたしますので、後顧の憂いなく戦ってください」


 その言葉にアゼルスタンは喜びを顔に表して


「バグラチオン、ソフィア殿、アニラ殿にホルン殿たち、そしてルーン公まで力になってくれる……僕はいい協力者に恵まれた。僕の願いはきっとかなうだろう」


 そう力強く言った。



 アゼルスタンやソフィアがルーン公と歓談している時、マルガリータはヴォルガ河の岸辺にたたずんで、水面を眺めていた。


 彼女は川岸に植えられたナツメヤシの陰に隠れるように立ち、眩しい太陽の光を反射する川面をどことなく落ち着かない様子で眺めている。


 もちろん、ホルンの知恵袋でありアゼルスタン軍の軍師的立ち位置にいる彼女が、ただ用事もなくこんな所に一人でいるわけはない。彼女はある人物と今後のことを打ち合わせるため、ここに居るのであった。


 けれど、その相手が約束の時刻を過ぎても姿を現さない。それが、彼女が落ち着かない様子を見せている理由であった。


「おかしいですね、お師匠の話では、もうアストラハンまで進出しておられるはずなのに……何か不都合でもあったのかしら?」


 彼女がそうつぶやいてその場を立ち去ろうとした時、不意にヤシの陰から


「遅くなった。待たせてすまなかったな」


 そういう声と共に、深海のうねりのような青い髪をした男が姿を現した。ファールス王国驃騎将軍のガイ・フォルクスである。


 マルガリータはガイの方を向かずに、川岸を向いたまま首を振って言う。


「いいえ、将軍の方に不都合がなければそれでよいのです。それで、将軍の部隊は今どこに?」


 ガイも、ヤシの幹を背にしたまま答える。


「既にここから上流20マイル(この世界で約37キロ)のナリマノフまで進出している。指示があり次第、クラスノスボロツクの橋を陥とそう」


「進出にどのくらい時間がかかりますか?」


「川を使って移動するから、160マイル(約300キロ)なら一日あれば十分だ」


 それを聞いて、マルガリータはクスリと笑って言った。


「ふふ、さすがにガイ将軍の部隊ですね? 姫様はカスタロフカを出発されています。今頃はズナメンスクまで進出されていることでしょう。そこからヴォルシスキーまでは50マイル(約93キロ)程度、姫様たちなら2日で進出できる距離です」


 それを聞くとガイも笑って訊いた。


「……分かった。それなら私は2日後に行動を開始し、クラシノスボロツクの橋を奪取しよう。橋を陥としたらどうすればいい?」


 マルガリータは師匠のロザリアがそうであったように、大事な命令を伝える時の癖で冷たい顔をして答えた。


「そのままヴォルガ河右岸に上陸し、ヴォルゴグラードを南から襲う態勢を整えてください。ヴォルゴグラードからガルム様の遣いが来るはずですから、その後はガルム様を指揮して占領を進めてください」


 ガイは海色の瞳をした切れ長の目を細めると、


「……委細承知した。ガルム殿には私の部隊に攻撃を仕掛けないよう、くれぐれも伝えておいてくれ」


 そう言って姿を消した。


 マルガリータはガイの気配が消えると、


「……これで良し。あとは殿下にできる限り早くヴォルゴグラードまで出てきていただくことが大切ね」


 そうつぶやくと、転移魔法陣を描いてどこかに消えた。



 マルガリータは、アゼルスタンの参謀的な立ち位置にいるカーヤ・トラヤスキーやソフィア・ルーン公女と何かを協議すると、そのままホルンのもとに戻った。


 ホルンたちの軍1万は、何の抵抗も受けずにレニンスクまで進出していた。ここからヴォルシスキーまではわずか16マイル(30キロ強)に過ぎない。ホルンたちの機動力なら1日で到達できる距離だった。


 ホルンは、マルガリータが天幕に入って来るのを見て、機嫌のいい声で話しかける。


「ああ、マルガリータ、お疲れだったね。ちゃんと相手とは話ができたかい?」


「はい、予定通りに進んでいます。アゼルスタン殿下も明日にはアストラハンを出発される予定です」


 マルガリータが笑みを浮かべて答えると、ホルンは彼女に椅子を勧めて訊く。


「マルガリータ、コドランの偵察によれば敵はヴォルシスキーの町に籠城するようだ。敵は橋を守るためにメタルルルグからチュリハンにかけてと、ズヴェーズドヌィの丘を中心に陣地線を作っているけれど、どう攻めたらいいと思う?」


「南側、クラシノスボロツクにもヴォルゴグラードに架かる橋がございます。そこには敵軍の姿はございますか?」


 マルガリータが黒くて長い髪を揺らしながら訊くと、ホルンはうなずいて答えた。


「うん、コドランの話では一個マニプルス隊程度の軍勢がクラスノスボロツクに向かったそうだ。そう簡単に町を明け渡してはくれないみたいだね」


「ここに到着してから敵陣に攻撃を試みられましたか?」


「いや、補給も必要だったし、相手が陣地に拠っているならこちらにも備えが必要だからね。とりあえず障害物だけでも設置しないといけないから、まだ攻撃はかけていない。コドランの隠密偵察だけさ」


 マルガリータはニコッと笑うと、さらに訊く。


「この町を占領する際、敵は抵抗しましたか?」


 ホルンはニヤリと笑うと、首を振って静かに言った。


「いや、途中の抵抗は何もなかった。オゼロ・エリトン湖に近づいても、エリトンの村でも、その南側の隘路でも敵の一兵も見ず、さ。私ならそのうちの少なくともどこかで迎撃するんだけれどね。

 ウニゲから私たちを遠巻きに触接していた敵の奴らもエリトン辺りでいつの間にかいなくなっているし。で、この町で抵抗するのかと思っていたらそれもなし……なんか気味が悪いね」


 マルガリータは黒い瞳で遠くを見るような目をして、


「ホルン様、2日後、メタルルルグの敵陣地に鋭い攻撃を加えれば、それで勝負はつくと思います」


 そう言う。ホルンは一応うなずいたが、


「確かに、こちら正面の実施部隊は『蒼の海』の東岸で壊滅して間もないし、国軍から援軍が来たっていう情報もない。けれど3個旅団のうち2個旅団を、ゼロから揃えて見せた敵だよ。甘く見ない方がいいと思うけれど? あなたがそう思った理由を聞かせてくれないかい?」


 そう、マルガリータの見立てを再確認するように言う。


「相手の置かれている状況は、ホルン様がおっしゃるとおりです」


 マルガリータはそう言うと、続けて説明する。


「2個旅団に十分な戦闘力があるなら、敵の偵察隊はそのまま触接を続けるでしょうし、ホルン様が言われたいずれかの地域で遅滞戦闘を試みるでしょう。それが戦略的には常道ですから。

 けれどそれをしなかったということは、敵の部隊の戦闘力が心もとなかったということだと思います。私たちを引き込んで叩くつもりであれば、ここに着いたその夜に敵襲があってもいいはずですし、そもそも主戦場をヴォルシスキーの目と鼻の先にする必然性もありません」


 それを聞いてホルンは、肩をすくめて言った。


「まあ、それはそれで納得できる話だね。後は相手の指揮官が、ウラル帝国お得意の『死ぬまで抵抗する』なんてイカレた奴じゃないことを祈るよ」


   ★ ★ ★ ★ ★


 ウラル帝国摂政イヴデリ公イヴァン・フョードルは、1週間ぶりに自分の領地から帝都エリンスブルクに戻って来た。


 彼が戻ってきたという話は瞬く間に帝都に広がり、次の日から彼の邸宅の門前には多数の人々が列をなす。


 それらの人々は、外国の商人であったり、己の才能を売り込もうとしている者であったり、あるいは帝国の制度に不満がある市民だったりする。みな、彼に訴えれば現状が変えられると期待する者たちばかりであった。


 それらの人々から持ち込まれる種々雑多な要望、相談、依頼、果ては苦情までを、辛抱強く聞き取り捌いていたのは、黒い髪に黒い瞳をした精悍な青年であった。


 彼は、その見た目から受ける雰囲気とは裏腹に、人懐っこい笑顔を絶やさずに一人一人から話を聞いていた。中には手前勝手でぶしつけなものもあったが、それでも彼は丁寧に一つ一つの事項を処理していった。


 そして内容を吟味し、自らの責任の範囲内で処理できるものについては処理し、あるいは適切な助言を与え、摂政たるイヴァンと引き合わせた方が良いと思われたものについては事案をイヴァンへと上げる。その判断にはいつも間違いがなく、イヴァンはそんな彼に全幅の信頼を置いていた。


 その日も彼は、知り合いの商人から話を聞いていた。


 何でもその商人はイヴデリ公領内で石炭を採掘したいと計画しており、エリンスブルクの所轄官庁に申請を出したところ、イヴデリ公領内での採掘許可申請はイヴデリ公の役場に提出するように言われ、さてイヴデリの役場ではエリンスブルクの役所に出すように言われた……いわゆる『たらいまわし』にされたとのことらしい。


「私もスルグトで交易を商売としています。仕事柄帝都によく出て来るからいいものの、これが他の者でしたらとんだ無駄足と言うものです。クルト様、いったいどこに書類を提出すればいいのですかね?」


 商人は丁寧に言うが、それでも言葉の端々に不満が見て取れる。無理もない、スルグトから帝都まで2千7百キロはある。そこからイヴデリまではさらに千8百キロを超える。何度も行き来させられたのであれば怒鳴り付けられてもおかしくない。


 クルトと呼ばれた男は、気の毒そうな顔をして答えた。


「それは大変でしたね。今までは資源の採取許可については国が許可を出していたんですが、この春、荘園内での採掘許可については領主が出すものと改められたんです。ですからイヴデリの役場が受理すべきだったんですが、通知が遅れているのかもしれませんね」


 そう言うと、


「とにかく、勅書の写しを差し上げますから、イヴデリの役場で手続きしてください。念のため私の添え書きも差し上げます」


 と、その場で便箋に何か書きつけ、勅書の写しと共に商人に手渡した。


 商人は斜めならず喜んで、書類をカバンにしまいながら言う。


「やあ、やっぱりあなたに相談してよかった。これで事業を進めることができる……ところでクルト様、ご領主の領内で近ごろ変な事件が起こっていることはご存知ですか?」


「変な事件? どういうことでしょう?」


 クルトが訊くと、商人は声を潜めて


「私も噂で聞いているだけで、実際に見たわけじゃございませんが、村人が吸血鬼シチシガになってしまった村があるそうですよ」


 それを聞いて、クルトは眉をひそめたが、その彼を見て商人は申し訳なさそうに言う。


「ああ、でもあくまで噂です。そんな変なことがあってたまるものですか。ただ、摂政閣下の家宰をお勤めのクルト様にはお知らせしておいた方がいいかもって思っただけですよ。気になさらないでください。それより、相談に乗っていただきありがとうございました」


 そう言うと、そそくさと部屋を出て行った。


(ふむ……昨年の人狼ヴィルコラクの件と言い、単なる噂だと聞き捨てもできないな)


 クルトはそう考えると、自分の部下を呼び、


「重要な件を聞き込んだ。私はしばらく席を外すから、外で待っている人たちの対応を頼んだぞ」


 そう命じて、自分は急いで屋敷を出て行った。



 こちらは、オプリーチニキ司令監察のレオン・ニンフエールである。彼はルーン公国のアニラ・シリヴェストルと話をした後、急いで帝都に戻り、昨年イヴデリ公の領地で起こった奇怪な出来事の裏付け調査を進めていた。


(昨年の事件で密かにオプリーチニキが動いていたことは確かだ。

 ただ、トロツキー副司令、ジリンスキー副司令二人とももうこの世にはおらず、ジュルコフも『自分の意思で手助けをした』と言い逃れればそれまでだ。摂政がオプリーチニキを私的に動かしていたことの証拠としては弱い)


「……何か、摂政が良からぬことを考えているという証拠があれば……」


 レオンが呻吟していた時、ドアがノックされる。


「司令監察殿、ご在室ですか?」


 ドアの外から聞こえる声に、レオンはハッとしたように顔を上げて言った。


「構わない、入って来てくれ」


「では、お邪魔いたします」


 ドアを開けて入って来たのは、クルト・フォン・ルシルフルだった。いつも冷静で感情を表さない彼の顔が、珍しく紅潮している。レオンはそれを見て、彼が何か大事なことを告げに来たと悟った。


「よく来てくれたクルト。まあ座ってくれ」


 レオンはそう言ってデスクの前のソファを勧める。クルトはそこに座ると、お茶の準備のためメイドを呼ぼうとしたレオンに、


「私はすぐ戻らないといけません。それに秘密にしておきたい話です」


 そう言うと、レオンが着座するのももどかしそうに言った。


「ついさっき、スルグトの商人から変な噂を聞きました」


「変な噂?」


 レオンが訊き返すと、クルトは黒い髪をかき上げて


「ええ、閣下の領地で村人が吸血鬼になってしまったという噂を聞いたそうです。交易商人だからさまざまな話が集まるのでしょう。場所など詳しいことは知りませんでしたが、昨年の事件のこともあります。聞き捨てならないので知らせに来ました」


 そう言うと、サッと立ち上がる。


「待ってくれクルト。いくつか確認させてくれ。その商人はスルグトを拠点とする交易商人と言ったな?」


 レオンがそう訊くと、クルトはうなずいて


「ええ、閣下の領内で石炭採掘の許可を得たいと相談に来たものです。許可申請を帝都とイヴデリ、どちらに出すべきなのかと」


 そう答える。


 レオンはそれだけ訊くと、笑顔を見せて礼を言った。


「よく分かった。知らせてくれてありがたい。その噂については私の方で調査を進めてみる。君に知らせるべきことがあったらすぐに知らせたいが、繋ぎはいつもの方法でいいな?」


「ええ、それで結構です。では、よろしくお願いいたします」


 レオンは、クルトが部屋を辞してしばらく考えていたが、すぐに机の上のベルを鳴らす。


「お呼びですか、司令監察?」


 すぐにドアを開けて、黒い服で身を包んだ女性が現れる。彼女は金髪を短いボブカットにし、左目をアイパッチで隠していた。


「パトローネ・アバーエヴァ、私は調査に向かうが、今度は君にも手伝ってほしい。すぐに旅支度をしてくれ。2日後、スルグトのサイマの公園で落ち合おう」



 クルトは、屋敷に戻るとしばらくしてイヴァンから呼び出された。


「閣下、お呼びですか?」


 クルトが能面のような顔でそう訊くと、イヴァンは唇を緩めて、


「おお、クルト。今日の相談に来ていた者たちについて話を聞きたくてな」


 そう言うと手ぶりでクルトに椅子を勧め、彼が着席すると


「どうだ、何か余の悪口を言っていた者はいなかったか?」


 そう訊く。


 クルトは首を振って答えた。


「いえ、閣下のことを悪く言う者は誰もいませんでした。閣下のご領地で石炭の採掘をしたいという商人からの相談はございましたが」


「そうか、余の領土は資源の宝庫だからな。その者が見事炭田を見つけたならば、余の領土経営にさぞ貢献してくれることだろう」


 上機嫌のイヴァンに、クルトは何気なく尋ねた。


「そう言えば、ご領地に変な噂があると申していた者もございましたが。村人が吸血鬼に変わっているという……閣下はそんな噂をお聞きになられたことはございますか?」


 イヴァンはハッとして、鋭い目でクルトを睨みつけたが、すぐに元の笑顔に戻り、


「む?……いや、余はそんな世迷言は聞いたことはないな。聞いたかもしれんが、余りにバカバカしいことなので忘れているのかもしれん。それがどうかしたか?」


 そう訊き返してくる。クルトは笑顔を作って答えた。


「いいえ、別に何もございません。実際にその場を見て来たというならともかく、その者も噂として話していきましたので。

 私も余りにも非現実的なことなので信じてはおりませんが、もしお噂を耳にされたことがございましたら気になさっているかと思いまして」


 するとイヴァンは哄笑して


「はっはっはっ、気を遣わせてしまったな。だが心配無用だ。余は世迷言に付き合って悩むほど暇ではない。さような噂をしに来る者には、そなたから人の心を惑わすような戯言は言うものではないと注意してやれ」


 そう言うと、彼に命令した。


「分かった、下がってよい。今後はそんな噂があっても、余のことは気にせずに笑って聞き捨てておけ。それと、宰相と蔵相に、正午になったら余の所に来るよう伝えてくれ」


 クルトも微笑を浮かべて答えた。


「承知いたしました、閣下」


 クルトは、イヴァンの部屋から退出すると、


(ふむ、一瞬顔色を変えられたな。とすると閣下にはこの噂の真偽に関する何らかの情報が入っていると思われる。レオン殿の身に何も起こらなければいいが)


 そう考えながら、東の空を見上げた。



 正午になると、宰相の宰ニコライ・アレクセーエフと蔵相のヨシフ・カリターエフがやって来て、イヴァンと昼食を取りながら密談をする。


「ニコライ、ディミトリーの様子はどうだ、あれから何か変わったことは起きたか?」


 イヴァンが訊くと、宰相は首を振って答える。


「いえ、特に変わったことはございませんな。体調が優れないのは変わりないようですが」


 イヴァンはそれを聞いて、


(ふむ、『魔竜の宝玉』が胸に埋め込まれているはずなのに、まだ正気を保っているのか……ウラルカがしくじっているわけではないはずだが)


 そう思いながら、蔵相にも訊く。


「ヨシフ、そなたから見てディミトリーや内宮に何か変わったところは感じないか?」


 蔵相のカリターエフは首をひねっていたが、


「さて……別に陛下御自身には変わったところは見受けられません。ただ、内宮護衛の兵が増えたようには見受けられますが」


 そう答える。


 イヴァンは碧眼を細めて笑うと、


「ふむ……それは些細な変化だが、案外些細な変化から大きな秘密が漏れるものだ。ニコライ、今の点について探りを入れてみろ。ひょっとしたらオスラビアの奴が何か企んでいるのかもしれないからな」


 そう冗談めかして言う。


「ま、まさか陛下の守護を名目に、私たちの討伐を?」


 小心者の蔵相が顔を青くすると、


「バカな! いかにオスラビアが考えなしでも、確かな証拠もなしに閣下に軍を向けられるはずがない」


 宰相のニコライが一笑に付す。


 けれど彼も、ハッとした顔でイヴァンに訊く。


「閣下、確かオプリーチニキ司令監察が動いているとの話がございましたね? 奴が何かつかんだのでしょうか?」


「いや、奴はどこかに行っていたが、その後も何かを嗅ぎまわっているようだから、調査は進んでいないと思うぞ。現に帝都にいるのに何の動きも見せていないからな。そもそもポクルイシュキンは余の命令の中身は知らず、すべてはジリンスキーとジュルコフが取り仕切っていたからな」


 それを聞いて、宰相は少し安心した顔をして


「分かりました。では私は内宮の件をそれとなく調べてみましょう」


 そう言って笑う。


 イヴァンはそれにうなずきながらも、


「しかし司令監察もそろそろ鼻についてきた。何とかしないといけないかな」


 そうつぶやいた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 スルグトは、ウラル山脈以東では比較的古い町の一つである。この町が造られたのは冰暦220年と伝わるから、5百年以上の歴史を持つ町だった。


 人口は約10万人で、オビ川の北側に高台を利用して造られ、帝国の東部へ続く街道が走っていて、イヴデリ公領としてはもとより帝国の見地からも重要な町の一つだった。


 町の中央、やや南側に、かなり広い緑地がある。ここは公園となっていて、最も高い場所には石造りの教会があり、市民の憩いの場所として、またオビ川の増水期には緩衝地帯として利用されている場所だった。


 公園の南端で、オビ川の流れをじっと見つめる男がいた。年の頃は20代後半だろう、金髪、青い瞳で灰色のコートを着ている。


 彼は、右目の端に動くものを捉えると、何気ない感じでゆっくりとそちらへと向く。彼から50メートルほど離れた場所に一人の女性がたたずんでいた。


 彼女も金髪であり、枯葉色のコートを着込んでいた。


 男は、その女性が金髪のボブカットで、左目にアイパッチをしていることを見て取ると、ゆっくりと彼女の方に歩み寄った。


 男は女性の後ろを通り過ぎながら、静かな、しかしよく通る声で言う。


「時間通りだな、パトローネ。ついて来い。私は306だ」


 それを聞いたパトローネは、男が50メートルほど離れると、ゆっくりと男の後を追って歩き出す。


 男は町中をすたすたと歩き、一軒のホテルへと入って行く。パトローネは10分ほどして、同じホテルへと入って行った。


「いらっしゃいませ。お客様、お荷物をお持ちします」


 ドア・ボーイがにこやかに声をかけて来る。パトローネは優雅な笑いを浮かべると、


「見てのとおり余り荷物はないわ。お気遣いありがとう」


 そう澄んだ声で言うと、ボーイにチップを握らせてフロントへと歩み寄った。


「予約していたアンナ・スミルノフよ」


 パトローネがそう言うと、受付はニコリと笑って台帳をめくり、アンナ・スミルノフと言う名前を見つけると、


「承っております。お一人様、1泊のご予定でしたね?」


 そう確認する。パトローネはうなずいて訊いた。


「ええ。ひょっとしたら追加で泊まるかもしれないけれど、そこは大丈夫かしら?」


「明日のチェックアウトまでにお知らせいただければ、対応は可能ですよ」


「そう、分かったわ」


 パトローネが答えると、フロント係は


「お客様のお部屋は303号室になります。外出の際は鍵をお預けください。では、ごゆっくり」


 そう言って鍵を手渡す。


「ありがとう」


 パトローネは笑って鍵を受け取ると、ボーイに案内され部屋へと向かった。



 303号室は3階の通路の一番端にあった。そして306号室は向かい側だった。


 パトローネはコートを脱ぐと、306号室にいるはずの男に『覇気』を使って呼び掛ける。


『司令監察、今大丈夫ですか?』


『問題ない、今度の仕事について話そう。こっちに来るといい』


『了解しました』


 パトローネはそう言うと、転移魔法陣を使ってレオンの部屋へと移動する。


「秘密の任務だ、お茶は出せないが座るといい」


 レオンはそう言うと、パトローネが着席するのを見て今度の仕事について口を開いた。


「今回の君の任務は、村人が吸血鬼に変わってしまった村を探り出すことだ。これは噂として広がっているらしいが、その真偽は不明だ。

 ただ、摂政閣下の領地では昨年、人狼が出没する事件が起こっている。それとの関りがある可能性は高い」


 レオンはそう言うと、一心にこちらを見つめているパトローネに


「吸血鬼の存在を確認したら、私に報告してほしい。君の任務は噂の真偽を確かめることだ、その経緯の調査や対策については私がやる。ではさっそくかかってほしい」


 そう言うと、備え付けの机に向かって何かを書き始める。


「あの、司令監察」


 パトローネが恐る恐る声をかけると、レオンは書き物をしながら答える。


「命令したはずだ。すぐにかかってくれ」


「噂の真偽を確かめろというご命令は承りましたが、私も戦闘に加わらせてほしいのです」


 パトローネが思い切ったように言うと、レオンは書く手を止めパトローネを見て言った。


「パトローネ、確かに君は今年採用の新人の中では最も優秀だ。けれどこれが初任務だし、無理はさせたくない。それに君の『覇気』は戦闘向きではない、どちらかと言うと偵察や遁走に向いている。それも大事な役目だぞ。今回は私の命令に従っておけ。戦闘に参加する機会などこれから先いくらでもある」


 そして、うつむいているパトローネに優しく言った。


「今回は戦闘が目的ではないし、何より私が動いていること自体を秘匿せねばならない。君ならきっと今度の探索任務を完璧に遂行してくれるだろうと見込んで連れて来たのだ。早く任務にかかってほしい」


 それを聞くとパトローネは一つため息をついて立ち上がり、


「了解いたしました。すぐに仕事にかかります」


 そう言って姿を消した。

 


 3日後、パトローネは噂の村がスルグトから北に50キロほど離れたニェベルスカヤという寒村であることを突き止めた。彼女自身が直接、村に潜入を試みたが、村人のほとんどが吸血鬼と化していてすぐに発見され、這う這うの体で逃げて来たという。


「ニェベルスカヤか。街道から入り込んだ村だからあまり被害が広がっていないのは幸いだった。吸血鬼とはどんな奴らだ、人間と見分けがつくか?」


 レオンが訊くと、パトローネは首を振って答える。


「私は村に入ってすぐに見つけられましたので、吸血鬼たちが普段どのような姿でいるのかは分かりません。ただ、吸血鬼となった後はすぐに見分けがつきます。目は赤く、身体中から瘴気を噴き出していますので」


「知性や戦闘能力の方はどうだろう?」


「はい、吸血鬼同士で連絡を取り合って私を包囲しようとしていました。知性はかなり高いと思います。また、動きの俊敏さや身体能力の高さから、戦闘能力もかなりのものだと思います」


「魔力を使った攻撃はあったか?」


 その問いには、パトローネは少し首をかしげていたが、


「そうですね、幻術と言うのでしょうか? こちらの感覚を奪って来る攻撃がございました。魔弾も扱えるようでしたし、能力的には死角がないように感じます」


 そう答える。


 レオンは話を聞いて、


(これは幸運にも被害が拡大していないだけで、容易ならぬ事態のようだ。そいつらの生息域がニェベルスカヤに限られているうちに、何とかしなければならないな)


 そう考え、パトローネに命令した。


「よくやってくれた。初任務にしては上出来だ。君はすぐに帝都に戻って通常任務に復帰せよ。後は私がやる、お疲れだったな」


 しかしパトローネは首を縦に振らなかった。


「あの、命令不服従であることは承知していますが、私が村までご案内いたします。村のことを少しでも知っている私が行けば、少しは役に立てると思いますし、仮に脱出するにしても私が何かしらのお役に立てればと思いますので」


 そのパトローネの言葉に、レオンは思い直して言った。


「……分かった、君の言うことも一理ある。ではすまないが私を村まで案内してくれ」



 ニェベルスカヤの村は、スルグトから北に延びる街道を途中で西に折れた、森と湿地帯に囲まれた場所にあった。


「街道には村人が設置した関所があります。確実に見つかってしまいますから、私は南側に迂回して湿地帯の切れ目を縫って村に近づきました」


 パトローネはそう言って、一度自分が使った経路へとレオンを案内する。黎明にはまだ遠く、東の空はまだ暗いが、パトローネは迷いもなく先に進んでいく。


「敵にこの経路が知られている可能性がある。北から接敵した方がよくはないか?」


 レオンが訊くと、パトローネは何故か自信たっぷりに言う。


「大丈夫です、前回の脱出時には街道を使いましたから。それに北側の経路を探すとなると湿地の状態を一から確認し直す必要がありますので、時間がかかってしまいます」


 湿地帯には、場所によっては底なし沼となって生物を飲み込む場所もある。そのため初めて歩く場所は、入念な準備と細心の注意が必要である。その点、踏破可能であることを確認している経路を使うのは理に適ってはいた。


「……それもそうだな。しかし、敵にこの経路が知られていることも考慮して、索敵と退路確保には万全を期すんだぞ」


 そう言いながら進むレオンは、何か薄い空気の壁のようなものを突破した感じを覚える。と同時にチカッと首筋に鋭い痛みを感じた。


 けれどパトローネはそんなことも感じていないように、


「了解いたしました。あの草むらを回り込むと村が見えてきます。足元にご注意ください」


 そう言いながら足を進めている。レオンは碧眼を細めると軽くうなずき、腰に佩いた剣に左手を添えた。


 やがてパトローネが指し示した場所に来ると、朝もやの中に静まり返る村の姿がうっすらと見えて来た。


「どのくらいまで近寄った時、敵に見つかった?」


 レオンが静かに訊くと、パトローネはうすぼんやりと見える柵を指さし、


「あの柵の近くまで行った時でした。たまたま近くにいた奴に見つかって、そいつに騒がれたので吸血鬼たちが集まって来たんです」


 そう言う。


「そうか、それでは君はここで待っているといい。私が合図したら転移魔法陣を準備してくれ」


 レオンがそう言って一人で村に近寄ろうとすると、


「了解いたしました。けれど司令監察、敵は近くにいないみたいですよ?」


 パトローネはそう言いながら、レオンの先に立って村へと近寄って行った。


 数分後、二人は村の境界を示しているらしい柵までたどり着いた。そのころ、東の空が明るくなりだした。もう日の出も近い。


「確かに誰もいないな。ひょっとしたら吸血鬼と言うだけあって日の光には弱いのか?」


 レオンがそうつぶやきながら村の柵を越えた時、


「そんなことはないぞ、招かれざる客よ」


 そう声がして、村の水車小屋の屋根の上に赤い髪を長く伸ばした男が姿を現した。彼は二つの角と一つの目が付いた奇怪な仮面で顔を画し、黒いマントに身を包んでいる。


 レオンが剣の鞘を左手で握り、無言で男を睨みつけていると、男はひどく冷たい声でレオンに話しかけて来た。


「そなたがオプリーチニキ司令監察のレオン・ニンフエールか。なるほど知力も魔力も大したものだ。イヴァンが手を焼くはずだな」


 その言葉を聞いて、レオンは初めて口を開いた。


「一つ確認する。そなたが言ったイヴァンとは、帝国の摂政閣下であられるイヴデリ公イヴァン・フョードル様のことか?」


 すると男はゆっくりと右手を上げながら言う。


「ふっふっふつ、想像にお任せする。罠と知りながらここに来る胆力は褒めてやらんでもないが、真の智者とは災いを未然に避けるものだぞ?」


 男がそう言った時、周囲の空気がいっぺんに変わった。ゾゾっとする心臓を撫でるような感覚と共に、レオンたちから10メートルほど離れた場所に、吸血鬼の集団が姿を現す。全員が目を潰されたように赤く光らせ、青い肌からは瘴気を噴き出している。村人であった名残は、彼らが身にまとっているみすぼらしい服ぐらいだった。


 レオンは吸血鬼の集団を油断なく見つめながら、男に問いかけた。


「何のために摂政閣下の領地でこのような真似をするのだ? 昨年の人狼事件も貴様の仕業か⁉」


 すると男は首を振って答えた。


「イヴァンが自ら望んだことだ。私は魔導士ヴォストーク、『摂理の調停者』様のご命令でイヴァンを手伝っているに過ぎん。いずれにしても、死にゆくお前には知っても詮無いことだぞ」


「そうか、やあっ!」


 レオンはヴォストークの言葉が終わると、いきなり後ろを振り向いて剣を抜き討った。


 ドバッ!

「ギャッ!」


 レオンの剣尖は、今しも吸血鬼へと変貌しようとしていたパトローネを存分に斬り裂く。傷口から噴き出た血が、レオンの視界を一瞬、赤黒く遮った。


「ぐ、なぜ、いつから……」


 パトローネは赤い目を丸く見開くと、牙が生えた口から真っ黒い血を噴き出しながら言う。

けれどレオンにはそれに答える暇はなかった。彼を包囲していた吸血鬼たちが一斉に飛び掛かって来たからだ。


「レオン・ニンフエール、見事だ。お前も我が『摂理の調停者』様の一族となり、イヴァンの野望に力を貸せ!」


 ヴォストークの声と共に飛び掛かって来た吸血鬼たちを、レオンは剣で必死に薙ぎ、突き、打ち払う。レオンは


(あの男の存在が、摂政の叛意を示している。それを知ったからにはここで討ち死にするわけにはいかぬ)


 そう燃え上がる使命感のままに、魔力を開放した。


「下がれっ! 『大地の障壁(ラントスミュール)』!」


 レオンは『覇気』によって大地をささくれ立たせ、飛び掛かって来た吸血鬼たちを弾き飛ばす。


 けれど相手は数百もいる。次から次へとかかって来る彼らを対応しながら、常に男に対しても警戒を緩められない……そんな戦いが長く続けられるはずもない。


(くっ、埒が明かぬ。せっかく証拠をつかみながらここで散るのは無念だ)


 レオンが覚悟を決めた時、


「レオン・ニンフエール殿、助太刀しますっ! 『泡沫の夢(バブルプリズン)』!」


 そう言う声がして、地面から数えきれないほどの水球が湧きだし、レオンを包囲した吸血鬼たちをその中に閉じ込め始めた。


「何だ?」


 レオンが、水球の中でもがく敵の群れを見つめてそう言うと、彼の側に銀髪を短く整えた藍色の瞳を持つ女性が現れ、


「ご安心ください。あたしはアニラ様の弟子、ジェシカ・カレーニナ。とにかくここを逃れましょう」


 そう言うと、レオンともども水球の中に包まれていずこかへと消えた。


「くっ! アニラの差し金だな。アニラ・シリヴェストル、『摂理の調停者』様に楯突く貴様も、摂理と共に消えゆく存在となるだろう」


 ヴォストークは、水球の中で動かなくなった吸血鬼たちの群れを悔しそうに見つめて、そう吐き捨てた。



 レオンとジェシカが現れたのは、アクキスタウの村近く、『蒼の海』のほとりだった。


「助かった。ヴォストークとか言う男の存在を知り、イヴァンの叛心を明らかにできたというのに死ぬのかと覚悟を決めていたところだった」


 レオンがそう礼を述べると、ジェシカは革のベストや亜麻色のキルティングのズボンをパンパンと叩いてほこりを落とし、


「レオン様は運が良かったんですよ。あたしはアニラ様のご依頼であの村を調べに来たところだったんです。

 おかげであの村がああなった経緯は調べ損なったけれど、吸血鬼たちの処置も命令の内に入っていたから、叱られることはないと思いますけどね」


 そう屈託なく笑う。


 レオンは周りを見回して、


「そう言えばここはアニラ殿の家の近くではないか? そなたに助けてもらったお礼も言いたいし、アニラ殿の所に案内してもらえないか?」


 そう言うと、ジェシカが答えるよりも早く、


「礼なぞ無用だ」


 そう言いながら、白髪に黒い瞳をした17・8歳の少女が亜空間から現れた。


「あ、師匠、すみません、経緯は調べられませんでした。吸血鬼の奴らは残らず始末しましたけれど」


 ジェシカがしゃっちょこばって言うと、アニラはじろりと彼女を見て、


「分かっている。今回は仕方ない。しかしレオン殿のおかげで『摂理の調停者』に傅く魔導士の名が分かったことと、その能力の一端でも見えたことが最大の収穫だ」


 そう言うと、今度はレオンを見て、


「レオン殿、そなたは摂政殿の叛心を証明するものを探しておったはずだが、我は大事なことを伝え忘れていた」


 そう言う。


「大事なこと?」


 レオンが怪訝そうに訊くと、アニラは恥ずかしそうに笑って、


「ふふ、我としたことが、ロザリア殿の国にオプリーチニキの魔剣士が捕虜になっていることをすっかり失念しておったわ。その者に現状を説明し、誰の命令で誰を狙ったのかを訊けば、それが証拠にならんか?」


 そう言う。


「そ、それは本当ですか⁉」


 レオンは思わず声が大きくなった。オプリーチニキの指揮官級は全員戦死していると思っていたのだが、捕虜になっている者がいるとは想像もしていなかったのだ。


 アニラはうなずいて教えた。


「うむ、三席魔剣士イヴァン・パブロフが王都イスファハーンで収監されているとのことだ。ロザリア殿には我から連絡を入れておくので、すぐに行って調べてみるとよかろう」


「ありがとうございます。お弟子さんから命を救っていただいたのみならず、非常に重要な情報をご提供いただき感謝いたします」


 レオンが勇んで言うと、アニラはジェシカを見て言った。


「ジェシカ、何かの縁だ。そなたがレオン殿をイスファハーンまで送って遣わせ。それが終わったら我の所に来るがよい、そなたに新たに依頼したいことがあるからな」


   ★ ★ ★ ★ ★


 村人が全滅したニェベルスカヤに、赤い髪を長く伸ばし、仮面で顔を隠した男がたたずんでいる。あと少しの所でレオン・ニンフエールに逃げられた彼は、残された水球の中の吸血鬼たちを冷ややかに眺めると、


「ふむ、『摂理の調停者』様に何とご説明申し上げたものかな……」


 そうつぶやいて、右手を村へと向ける。


「Cisya eta schuverutukaja an seciotii ovota les Vara-ne-Sonectyii!」


 男が呪文を唱えると、その右手に巨大な光球がつくられていく。そして詠唱が終わると光球は村を包み込み、


 ズ、ドドーン!


 地響きと目も眩むような光を発し、ニェベルスカヤの村は一瞬にして跡形もなく吹き飛んだ。


「……アニラが動き出したからには、めったな証拠は残せぬからな」


 男は村があった場所に巨大な湖ができたのを見て笑うと、そうつぶやいて森の奥へと歩き出した。

 その時、


『ヴォストーク、何ゆえに我が眷属となった者たちを消滅させた?』


 そう、虚空から声がする。済んだ響きの中にも威厳のある声だった。


 ヴォストークはその場にサッと跪き、


「はい、アニラ・シリヴェストルが動き始めましたので、未完成の吸血鬼シチシガたちは処分いたしました。あのまま見つかると『摂理の調停者』様について相手にヒントを与えることにもなりかねませんでしたので」


 そう、彼にしては珍しく声を震わせて釈明する。


『アニラ・シリヴェストル……ゾフィー・マールやアルテマ・フェーズ亡き今、余の秘密に最も近づける存在だな。ウラルカとあの人間は何をしている?』


 声の響きからは怒りの色が消え、静かな感情のこもっていないものになる。


 ヴォストークはホッとしながら説明する。


「はい、ウラルカは新たな人狼ヴィルコラクの製造に取り掛かっています。ウラジミール・ヤヴォーロフはジュルコフと共にオプリーチニキの中で目ぼしい人物に『魔竜の宝玉』を与え、仲間を増やしている最中です」


『イヴァンは何をしている? 早く帝国の実権を握れとそなたからもはっぱをかけよ。余がその世界に降臨するためには、もっともっと血が流れねばならぬ。この大陸全土に余の摂理を確立させるためには、イヴァンの領民だけでは足りぬのだ』


 焦れたような声に、ヴォストークは再び地面に額をこすりつけるように平伏すると、


「そ、それが、ホルン・ファランドールなどの横槍もあり、なかなか思うに任せぬようで……」


 そう地面をなめるように言う。


『ホルン・ファランドール……終末竜アンティマトルを封印した女だな。ふむ、それではイヴァンを再び我が地に呼び寄せよ。ウラルカや人間たちもだ。もはや生ぬるいやり方は終わりだ』


 威厳のこもった声に、ヴォストークは音を立てるほど地面に額を打ち付けて答えた。


「し、承知いたしました。それでは予定より早く『摂理の黄昏』を迎えるフェーズに取り掛かります」


(『18拠点の奪取』に続く)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ホルンたちの軍事行動も本格化してくるとともに、相手方もきな臭い動きをし始めました。

今後、どのような戦いになるか頭を悩ませていますが、丁寧に書いていこうと思っています。

次回もお楽しみに。

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