16 魔印の復活
皇帝の廃位へと動き出したイヴデリ公イヴァンは、謎の魔道士たちとともに自らの領地へと向かう。
そのころ、宮廷内の動きを知らされたホルンは、皇太子アゼルスタンの拠点とするため、ヴォルゴグラードへ進撃を開始した。
「では確かに、ディミトリーに『魔竜の宝玉』を埋め込んできたというのだな?」
ウラル帝国の首都エリンスブルク。その北の郊外にある豪勢な建物の中で、金髪碧眼の男が燃えるような赤い髪と瞳を持った女性と話していた。
「はい。近日中にディミトリーは政務を見ることができない状態になるでしょう」
女性が能面のような顔で言うと、男は満足そうな笑みを浮かべ、
「そうなれば、余は合法的にこの帝国の実権を名実ともに握れるわけだ。ウラルカ、良くやってくれたな」
ウラルカは嬉しそうな顔一つせずに答える。
「私たちは『節理の調停者』様のお心に従っているだけのこと。それよりイヴデリ公よ、約束どおりあなたの領地を『節理の調停者』様のために提供していただきます」
イヴデリ公イヴァン・フョードルは、少し心配そうな顔で訊く。
「約束は守るが、余の領民たちには別に害はないのだろうな?」
するとウラルカは、少し口角を上げて答える。初めて見せた表情だった。
「ふふ、特段害はないとは申しておりません。まあ、死なないことは請け合いますが」
それを聞いてイヴァンは慌てたように言う。
「何か特別に注意を引くようなことがあっては困るぞ。まだディミトリーには軍がついている、変な事件が起こったらオスラビアがしゃしゃり出てくるからな」
するとウラルカは薄い微笑みを浮かべたまま
「心配されることはございません。私と同じ『節理の調停者』様の使徒であるヴォストークと言う魔導士がおります。その場合は彼が何とか致しますゆえ、イヴデリ公には心置きなく帝国の実権を握ることだけを考えていただければいいのです」
そう言うと、紫色の魔力とともに消え去った。
「……ふむ、あの者たちのことだ、信じてはいいのだろうが、それにしても『節理の調停者』様とは何者なのだ?」
イヴァンはウラルカが消え去った空間を眺めてそうつぶやいたが、やがて我に返ると近臣を呼び、
「宰相と蔵相、そして外相をすぐに呼び出せ。陛下に大事が起こったとの連絡が入ったのですぐに伺候するからな」
そう命じた。
「ふむ、それで皇帝書庫で気を失っておられたということか? 付近に別段怪しいものはいなかったのだな?」
白い髪を豊かに伸ばした少女が、皇妃アナスタシアにそう訊く。彼女は宮殿の奥という場所にもかかわらず、黒と赤の幾何学模様が入った厚手のキルティングと、同じく厚手の裾の詰まったズボンという普段着に近い服装だった。
「はい。玉璽尚書が、陛下が見られたという曲者がイヴデリ公の息のかかった魔導士ではないかと言いますので、念のためにアニラ殿に来ていただいたのです」
その言葉を聞いて、少女……希代の魔女と呼ばれているアニラ・シリヴェストルは笑顔を見せて、
「なるほど、アレクセイ・アダーシェフは確かに有能らしいな」
そう言うと、表情を改めて
「我を呼び出したのは良い判断だった。我が視るところ、陛下はこの世のものならざる魔力に侵されつつある」
そう言うと、驚く皇妃に告げる。
「この魔力の質は我も研究している最中だ。けれどある程度のことは分かっておるので、とりあえず陛下の精神を安定させる事はできると思う。ただ、魔力の除去やその影響を完全に取り除けるかは、今の段階では確約しかねる」
アニラはそう言うと、ポケットから法器を取り出してディミトリーの胸の上に置いて呪文を唱え始める。
「Ce’dien’ne toroi les pas bonne ici. Racaije mere para sum Wem」
すると真白い光がディミトリーを包んだが、そのすぐ後に彼の身体から紫色の瘴気のようなものが噴き出して、白い光をかき消してしまった。
「……ふむ、やはりこの魔力は清浄なものの中でも浄化されないということか……厄介な魔力だな」
そうつぶやくアニラに、アナスタシアが心配そうに訊く。
「あの、アニラ様。陛下はどうなるのでしょう?」
アニラは、寝台に横たわるディミトリーの寝顔を見ながら難しい顔をしていたが、アナスタシアに向き直ると
「我の弟子たちやファールス王国のロザリア王妃も、この魔力の解析に懸命になってくれておる。我も努力するので、もうしばらく辛抱してくれ」
そう言うと、再びディミトリーを見つめ、
「陛下は強いお人だ。我の魔力が効いている間はこの厄介な魔力に意識を乗っ取られるようなことはないとは思うが……」
そう言いながらポケットから魔法石を取り出すと、それをアナスタシアに手渡しながら言う。
「また陛下の意識が乗っ取られそうになったら、これをかざすとよい。ただし、陛下に持たせてはならん。この魔力は清浄なものの中にあればその波動を取り込んでしまうようだからな。皇后陛下が持たれておくのがいいだろう」
「分かりました。ありがとうございます」
アナスタシアは魔法石を両手で包み込むようにして言う。今は根本的な解決ができなくても対応するすべはあるし、何よりアニラという希代の魔女が問題解決に全力で取り組むということを知り安心したようだった。
アニラはアナスタシアの表情が少し緩んだのを見ると、うなずいて
「我は敬愛するゾフィー・マール殿のように、帝国の未来のために全力を尽くす。皇后陛下も希望を忘れずに心を強くして事に当たっていただきたい」
そう言うと、虚空にとけるように姿を消した。
「ああ、朕は夢を見ておったか……」
アニラが姿を消してすぐ、ディミトリーは目を覚ましてそうつぶやく。アナスタシアは急いで枕辺に駆け寄ると、ディミトリーの顔をのぞき込みながら訊いた。
「陛下、お具合はいかがでしょうか?」
心配を顔に表しているアナスタシアを安心させるためなのか、ディミトリーは久方ぶりに微笑を浮かべると、割としっかりした声で言う。
「皇后、心配かけて済まぬな。けれど朕は『摂理の黄昏』を乗り切るまで倒れるわけにはいかぬ。それにイヴデリ公たちに好き勝手させるわけにも参らぬ」
そう言うと、寝台から身体を起こそうとする。
「陛下、御無理なさらないでください。陛下に何かあったら、アゼルスタンの努力も空しくなってしまいます」
アナスタシアが背中を支えながら言うと、ディミトリーは微笑んだまま答えた。
「承知しておる。アゼルスタンは朕に代わって帝国の将来を担っておる。であればこそ朕もまた、朕の及ぶ限り努力せねばなるまい」
その時、侍女が青い顔をして衝立の向こうから声をかけてきた。
「あの、皇后陛下……」
「何ですか? 陛下のご休息を邪魔してはならぬとあれほど言っておいたではないですか」
アナスタシアが言うと、侍女は震える声で告げた。
「そ、それが、摂政様が宰相様たちと共にお見えでして、ぜひ陛下とお会いしたいと……いかがいたしましょうか?」
それを聞いて、ディミトリーは静かな、けれど威厳に満ちた声で命じた。
「部屋に通しておけ」
イヴデリ公イヴァン・フョードルたちは、皇帝との謁見を願い出たものの、案に相違して侍女が皇帝の執務室へと自分たちを案内したことに戸惑っていた。
「……閣下、陛下に大事が起こったにしては、内宮に慌てた様子は見えませんね」
蔵相のヨシフ・カリターエフが小声で訊くと、
「めったなことはしゃべるんじゃない。ここは政務棟とは違って誰が聞いているか分からないのだぞ」
外相のヨシフ・カリターエフが、これも小声で注意する。
「我らをおびき寄せる罠ということは考えられませんかな?」
宰相のニコライ・アレクセーエフの言葉を、イヴァンは言下に否定する。
「それはない。軍にも動きはなかったからな」
イヴァンはニコライたちに『宮中からの使いが来た』と説明していたのだが、実際はウラルカの話を聞いて参内を思い立っただけである。これが罠ではないことをイヴァン自身が一番よく知っていた。
「そうですか。それならまずは安心です」
ニコライたちはイヴァンの自信ありげな言葉を聞いて安心したようだったが、イヴァン自身は心に様々な疑念が浮かんできていた。
(ウラルカの話では『魔竜の宝玉』は精神を蝕む魔力を放つという。ただでさえ体調を崩していたディミトリーが無事であるはずはない。ディミトリーの状況によっては帝権を停止するか、退位させるところまで追い詰められると考えていたが、この部屋に通されたということはディミトリー自身が余たちに会うということか?)
そう不思議がるイヴァンだが、同時に楽観的な考えも浮かぶ。
(いや、きっとアナスタシアが代わりに出て来るのだろう。そうだとしたらディミトリーの容態を問い質して、皇后自身の口からディミトリーが政務を執ることが不可能だということを告白させてやれる)
しかしそんな期待は、奥の扉を開けて現れたのがディミトリーであることを知ってあっけなく裏切られる。
「イヴデリ公、事前の知らせもなく緊急に会いたいとは何事なのだ?」
ディミトリーが着座して訊く。背中をアナスタシアに支えられてはいるが、憔悴した様子も錯乱した様子も、ましてや朦朧とした様子も見えない。病気であるから顔色は冴えないけれど、それでも心配するほどのことはなかった。
(ふむ、期待外れだな。それとも『魔竜の宝玉』の魔力とは遅効性なのか?)
イヴァンは、内心の失望を面にも出さず、
「えっ? 私は、陛下のお使者が我が館においでになり、急ぎ参内せよと仰せられたと聞いて、慌てて参内した次第ですが?」
そうとぼけてみせる。イヴァンは胸を張り、自分が言っていることが正しいと主張するように、堂々たる態度で続ける。
「何でもお使者は宰相たちも帯同せよと申されたとのこと。よって私はニコライはじめ主だった閣僚を連れて参りましたが?」
ディミトリーは、イヴァンのとっさの嘘を見破っているかのように、皮肉そうな笑顔を向けて答えた。
「ふむ、朕も皇后もそのような使者は遣わしてはおらぬが、まあよい。イヴデリ公がそれほどまで朕の心配をしてくれるとは近ごろ嬉しいことだ。朕のところに顔を出したついでに、イヴデリ公に頼みたいことがあるが?」
「な、なんでしょう?」
当惑の色を浮かべて言うイヴァンに、ディミトリーはさらりと言ってのけた。
「近ごろエリンスブルクの民の中に『摂理の黄昏』の噂が流れている。確か昨年、そなたの領地で不思議な事件が起こったと聞いているが、その経緯について報告をしてもらいたいのだ」
それを聞いて、一瞬顔を強張らせたイヴァンだったが、
「承知しました。しかし『摂理の黄昏』の噂と私の所領での出来事と何の関係が?」
そう訊く。
ディミトリーは、薄く笑うと
「イヴデリ公、『摂理の黄昏』は我が国で長らく言い伝えられた物語ではあるが、それがもし実際に起こる出来事であるならば帝国の存立にも関わる。そなたの所領での出来事が関係ないとしても、怪異が起こったのならその経験を役立てたいのだ」
そう、真剣な顔で言い、
「そなたもこの国がひっくり返るような出来事は望んではいないであろう、事件の詳細とどのようにしてそれを解決したのか、そこを詳しく教えてくれ。この国のためだ、頼んだぞ?」
と念を押すように言う。
やむなくイヴァンも、
「分かりました。それではさっそく屋敷に戻って手配いたします」
そう言って退出せざるを得なかった。
「……陛下、イヴデリ公は正直に報告するでしょうか?」
事の次第を聞いていたアナスタシアが心配そうに訊くと、ディミトリーは首を振り、
「いや、事件の概略はレオン・ニンフエールから聞いているが、解決に当たって朕に知られたくないことがあったようだ。朕が報告を求めたのはイヴデリ公の行動を制約したいがため。報告書を朕に出さない限りは、ここに来るたびにせっつかれることは自明の理だからな」
そう言うと、疲れたように背もたれにもたれかかると、
「後はレオンの調査がどう進むかと、アゼルスタンがいつ帝都に戻ってくるかだな」
そうため息と共に言った。
★ ★ ★ ★ ★
そのころ、ウラル帝国の治安部隊を降したアゼルスタンたちは、ソフィアの故国であるルーン公国のアティラウにいた。
「僕が長くここに居たら、ルーン公ガイウルフ殿に迷惑がかかるだろう。早く拠点を帝国の中に作らねばならないが……バグラチオン、どうすればいい?」
ウラル帝国皇太子アゼルスタンは、そう言いながら亜麻色の髪に紫紺の瞳を持つたくましい武将の顔を見る。
「ヴォルゴグラードに進むのが王道ですが、あそこには治安部隊の南方地区拠点があります。実施部隊である第4軍は今回の戦いで消滅しているので、代わりに国軍が出てきている可能性が高いですね」
バグラチオンがそう言うと、アゼルスタンの隣に腰かけている金髪碧眼の乙女が口を開いた。
「私たちが国軍と戦って勝てますか? どうでしょう、バグラチオン将軍」
バグラチオンは、乙女の言葉に少し首をかしげて考えていたが、
「さて……アラン・ニンフエール殿の1万が加わり、治安部隊の兵たちもリュスコフ殿の呼びかけで1万ほどが糾合できましたが、それでもまだ3万ほどしか兵はおりません。相手が1個軍団なら相手になるでしょうが、軍単位でかかって来られたならば正直、勝負は分からないところはあります」
そう告げる。皇太子護衛隊長としてアゼルスタンを守ることを第一としてきた彼は、軍事行動を起こす際にも必要以上に用心深かった。
「殿下、それにソフィア姫様、ここは焦らずに別行動を取られているホルン様たちの合流を待ちましょう。約束の期日はもうすぐですから」
治安部隊第4軍で第45旅団を率いていたアラン・ニンフエールが言うと、同じく皇帝親衛隊オプリーチニキにいたフランソワ・リュスコフもうなずいて言う。
「ホルン様とガルム殿はファールス王国を立て直す戦いを潜り抜けられた戦士です。こう言った場合どのような行動を取ればいいか十分な経験をお持ちでしょう。我々は待つ間に必要な物資を調達することに留意すべきでは?」
「カーヤ、そちらの手配はどうなっていますか?」
ソフィアが碧眼を軍装をした亜麻色の髪と紫紺の瞳を持つ乙女に当てる。カーヤ・トラヤスキーは手帳をめくって答えた。
「ガイウルフ様のご協力で、兵の糧食や軍馬の飼料については問題ありません。ヴォルゴグラードまでは十分に行軍できます。ただ、矢や弩弓といった遠戦武器や攻城兵器が足りませんので、そちらを手配している最中です。あと3日もあれば到着する予定です」
「ホルン様たちが到着するまでに、できるならあと1個旅団を編成したい。兵の徴募についてはどうなっているんだ、カーヤ?」
カーヤの隣に座る、亜麻色の髪と紫紺の瞳を持つ若者が問いかける。カーヤの双子の兄、ヴァルター・トラヤスキーである。
カーヤはニコリと笑って答えた。
「それは大丈夫。この間の戦いの経緯が広まっていて、帝国の小貴族たちも少しずつ集まり始めているわ。農奴の一団が応募してきたこともあるから、1万くらいならあと数日で集まると思う。糧食や武器についても、今の兵力が倍になったと仮定して集めているし」
「それは素晴らしいわ。さすがにマルガリータ殿が認めただけはあるわね」
ソフィアが笑顔で言うと、カーヤは顔を赤くして笑う。
バグラチオンは全員を見回して、最後に末席に座っている武将に声をかけた。
「聞いてのとおりだ。リュッチェンス殿たちにも旅団を指揮してもらうことになるだろう。人数が集まったら編成を急いでもらいたい」
「承知いたしました」
治安部隊第4軍の生き残り、ギュンター・リュッチェンスとハンス・ゼーゼマンはそう言ってうなずいた。
配下の武将たちの話し合いを聞きながら、アゼルスタンは
(しかし、ホルン様たちは今頃どこで何をされているのだろう。僕たちがアティラウについた時にはすでにどこかに移動された後だったが……)
そう考えていた。
時間をホルンたちが第4軍の投降を受け入れた時まで遡る。
第4軍司令官であるサライ・チェトバンナは、南方軍司令部の参謀、ワレンコフと共にヴォルゴグラードへと撤退した。第4軍司令部の指揮官・参謀級の武人たちもそれに続いたが、兵たちは司令部から見捨てられた形になった。
ホルンは、クルサリの陣地に残った兵士たちの前に立ち、
「第4軍司令部は、私たちの呼びかけに応じて投降したよ。あなたたちも投降したら、命の保証はするし、その後の身の振り方も好きにしていいよ」
そう宣言した。
これで、ホルンはクルサリを確保するとともに、投降兵3千を自軍に繰り入れて5千の兵力とした。
「さて、これからどうする? 電光石火アティラウに進出するかい? それとも殿下の御出馬を願うかい?」
ホルンは、リュスコフと共に追い付いてきたマルガリータに訊く。マルガリータは師匠のロザリアのような薄笑いを浮かべながら言った。
「もちろんアティラウに進出します。ガルム様やカンネー殿にも来ていただきましょう。殿下にはアティラウに進出されるように使者をお出しください」
「分かったよ。それじゃ行こうか」
ホルンはマルガリータの意見を容れて、すぐさま部隊を北へ向ける。アティラウには次の日に到着するほどの敏速な移動だった。
2日遅れて、ガルムとカンネーの部隊もアティラウに到着する。ホルンは二つの部隊の到着を出迎えて、笑って言った。
「ガルムさんもカンネーも、さすがに抜け目はないね。兵を増やしているのはさすがだよ」
ガルムもカンネーも、敵の前進拠点を制圧したのだが、その際に拠点を守っていた兵を自軍に取り入れるとともに、北上の最中にも治安部隊の敗残兵を取り込みながら前進していたので、アティラウについた時にはそれぞれ3千を率いるまでに膨れ上がっていたのだ。
「兵は多いほどいいですからね。それに敵とは言ってもウラル帝国の民だ。殿下が何を望まれているのかをしっかり言い聞かせたら、たいていの者は力を貸してくれたよ」
ガルムが左目を細めて言う。
「それで、これからどうします? 殿下のお着きをここで待ちますか?」
カンネーが瞳を輝かせて訊くと、ホルンはマルガリータを振り返って言う。
「ロザリアの愛弟子さん、あなたの出番だよ。一番効果的な行動を教えてくれないか?」
マルガリータは、黒い瞳で未来を見通すかのように虚空を見つめていたが、やがて視線をホルンに戻し、
「南方司令部は第4軍の司令官をすげ替え、部隊の再編成にかかるでしょう。時間を与えてはいけません。私たちはヴォルゴグラードを手に入れるべきです」
そうキッパリと言った。
「治安部隊が壊滅したとなると、国軍が出てくる可能性があります。ヴォルゴグラードを攻めるなら、殿下の部隊と合流してからの方がいいのでは?」
カンネーが言うと、ガルムがリュスコフに訊いた。
「リュスコフさん、ヴォルゴグラードに最も近い国軍はどこに配置されている?」
「帝国は歴史的に西のロムルス帝国への備えを重視しています。
全部で13個軍あるうち第2軍はザンクト・ペテルブルグ、第3軍はミンスク、第4軍はキエフ、第5軍はハリコフ、第6軍はスモレンスク、第7軍はブリヤンスク、第8軍はヴォロネジ、第9軍はノヴゴロドといった具合に8個軍を張り付けています。
この中で最も近いのは第8軍でしょうね。ただ……」
リュスコフはそこまで言って、笑って付け加えた。
「国軍の最高指揮官、ウラジミール・オスラビア元帥は根っからの皇帝派、事の真相を知ったならば国軍を動かさないでしょう」
それを聞いて、ホルンは決断を下した。
「分かった、それじゃ私たちはヴォルゴグラードを目指すとしよう。そこでだ、リュスコフ殿には済まないが1千を率いてここで殿下たちをお迎えしてくれないかい?」
ホルンの言葉に、マルガリータは不思議なことを付け加えた。
「そして、私たちがどこに行ったかは内緒にしておいていただけませんか? 殿下には1週間ほどで連絡を取りますので、それまでは私たちの行動は内密に」
「承知したが、なぜ行動を殿下にまで秘匿する必要が?」
面食らったリュスコフが訊くと、マルガリータはくすくす笑って答えた。
「あら、『敵を欺くにはまず味方から』って言うではないですか?」
マルガリータの笑い方で彼女の真意を知ったホルンも、笑いながらリュスコフに言った。
「ふふふ、まーたマルガリータが悪だくみをしているようだね? リュスコフ殿、きっと面白いことが起こるから、ここはマルガリータの言うとおりに頼むよ」
そうしてホルンは、2日かけて兵糧などを準備し終えると、1万を率いていずこかへと部隊を進発させた。
「ヴォルガ河沿いに進んだら目立ちすぎますし、殿下がいない軍を進めたら悪くすると反乱軍と勘違いされる可能性があります。ですから一旦北上し、東から攻めればいいと思います。
話によれば治安軍の駐屯地はヴォルゴグラードではなく、北西のヴォルシスキーだとのこと。そこはヴォルガ河左岸ですから渡河しなくてもいいですし、ヴォルゴグラードの人たちを不必要に怖がらせずに済みます」
マルガリータはそう言うと、
「私はアニラ様から呼ばれていますので、ちょっとここを離れます。2日後、カスタロフカという町で合流いたしましょう」
と、ホルンがあっけに取られているうちに、転移魔法陣を描いてどこかへと姿を消した。
「……やれやれ、それじゃ私は言われたとおり動くかな」
ホルンは呆れたように肩をすくめると、そう言いながら天幕から出て行った。
★ ★ ★ ★ ★
マルガリータが向かったのは、アクキスタウというルーン公国の村だった。
『蒼の海』の北岸に姿を現した彼女は、岩が露出してごつごつとしている道をゆっくりと登り、丘の上にある小さな家を目指した。
(緊急に呼び出されるからには異常事態が起こったに違いないけれど、それがアニラ様から直々となると事態は私が想像する以上に深刻そうね)
マルガリータがそう考えながら登っていると、
「なんじゃ、マルガリータ。そなたも呼び出されておったか」
そう言いながらロザリアが次元空間から姿を現す。ロザリアはいつもの仮の姿、黒髪を長く伸ばした14・5歳の少女の姿であった。
「そなたも呼ばれていたのであれば、アニラ殿の話は単に『摂理の黄昏』やチェルノボグの件ではないのう」
ロザリアが黒曜石のような瞳を細めてつぶやく。
「師匠、何故そう思われるのですか?」
マルガリータが訊くと、ロザリアは近づいて来るアニラの家を真っ直ぐ見つめながら答えた。
「私はガイ将軍と共に、ウラル帝国の伝承やここ数年の変わった出来事を調べてみた。すると昨年、イヴデリ公の領地で面妖な事件が起こっていたことが判った。その出来事が起こった時期というのは、私が『終末竜アンティマトル』と似た波動を最初に感じた頃なのじゃ。
アニラ殿の呼び出しもあの方とは思えんほどに慌てておった。きっと事態が思いもよらぬ方向に進んでいるのじゃろう」
そんなことを話しているうちに、二人はアニラの家に着く。ロザリアがドアをノックしようとすると、
「鍵は開いている、早く入られるといい。我は待っていたぞ」
そう、アニラの声がする。
二人がドアを開けると、入口の左側にあるテーブルには、すでにアニラと見知らぬ男性が着座していた。
「ロザリア殿、こちらはウラル帝国皇帝親衛隊司令監察のレオン・ニンフエール殿。レオン殿、あちらがファールス王国のロザリア王妃とその弟子のマルガリータ殿だ」
アニラが白く細い腕を伸ばして二人を添う紹介すると、男性はサッと椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀をして言った。
「初めまして、私は皇帝親衛隊司令監察を拝命しておりますレオン・ニンフエールと申します。高名なファールス王国王妃様にお会いできて光栄です」
「あ、いえ、私はマルガリータ・ルージュで、ロザリア王妃様の弟子でして……」
挨拶を受けたマルガリータが慌ててそう言うと、ロザリアはぷっと噴き出しながら真実の姿に戻って言う。
「ふふ、私としたことが、変装を解いておらなんだな。私はロザリア・ジュエル、ファールス王国の王妃じゃ」
レオンは、14・5歳の少女が白髪を長く伸ばした20代の女性へと変化するのを見て、慌てて
「えっ? こ、これは失礼いたしました」
そう謝る。ロザリアは機嫌よくうなずくと、
「レオン殿が間違えるのも仕方ない。私が少女の姿をしているのを見て、まさかザール様にロリコンのシュミがおありとは思わないじゃろうからのう」
そう笑って言い、表情を改める。
「さて、冗談はこのくらいにして。アニラ殿、今日の呼び出しについてさっそく話し合いといたしましょうか」
ニヤニヤしていたアニラも、その言葉で真剣な顔に戻り、
「うむ、そうしよう。三人とも席についてくれ」
そう言うと、全員が着席したのを見て再び口を開く。
「レオン殿からの報告は、後からまた聞くとして、まずは緊急事態だ。イヴデリ公がチェルノボグらしきものと結託していることはほぼ明らかとなった」
「陛下が『魔竜の宝玉』らしき魔力の影響で、精神的に不安定となられているそうなのです。アニラ様ご自身が皇后陛下からの呼び出しに応じて出かけられ、確認されています」
レオンがそう付け加える。
「ふむ、この世ならざるものの魔力で精神を蝕み、陛下を帝位から放逐するつもりなのであろうな」
ロザリアが言うと、アニラはうなずいて、
「そうだと思う。陛下はそうなる前に曲者と出会っておられるそうだからな。皇后陛下たちも曲者はイヴデリ公の息のかかった者でないかと疑っていたが、あの魔力の性質を見ると我もそう思う」
そう言うと、レオンを見て、
「……となると、我が気になるのは昨年イヴデリ公の領地で起こった出来事。我自身の調べでは公の領地を荒らしまわったのは人狼であることが判っているが、判らないのはそれらがどこから、どうやって現れたのかだ。レオン殿、そなたが調べて分かっていることを、二人にもう一度聞かせてやってくれ」
そう促した。
レオンは手帳を取り出すと、話し始める。
「事件の概要はもうご存知でしょう。人狼たちが最後に拠点としていた場所はウラル山脈の東麓にあるバヤノフカという村落近くの洞窟でした。私自身も現地を調べてみましたが、今もってかなりの『覇気』が感じられます。それも我々が通常感じるものとは性質が全く違っていて、どちらかというと瘴気に近いものでした」
そこで言葉を切り、
「バヤノフカの村人の話では、50数匹の人狼を白面の魔導士がたった一人で退治したということです。その時、事件を調査していたのはオプリーチニキのトロツキー副司令とジリンスキー大魔導士、そしてゲオルグ・ジュルコフ筆頭魔導士の三人。
白面の魔導士と言えばジュルコフ以外にはおりません。しかし、いかにジュルコフとはいえ、あれだけの『覇気』を持つ人狼を一人で片付けられるとは信じられません」
そう言って首を振る。
「ふむ、それほど人狼の魔力は際立っておったのかの?」
ロザリアが聞くと、レオンはうなずいて答えた。
「はい。ファールス王国陛下や王妃様は別として、人間があれだけの『覇気』を受けたら、精神は5分と持ちません。そこが不思議ですし、村人の話で気になるのは、その時ジュルコフは仮面を被っていたというのです」
「仮面……そう言えば姫様が皇太子殿下をガルム殿のところに匿われていた時襲ってきた魔導士が仮面を被っていたという話でしたが……」
マルガリータのつぶやきに、レオンは
「ジュルコフも『魔竜の宝玉』を所持しています。考えてみれば彼が仮面を被りだしたのはその後のような気がします。イヴデリ村での事件について、その詳細を知るのはジュルコフただ一人、彼に話を聞く必要がございますね」
そう言って唇を引き結んだ。
「ふむ……それはこの『摂理の黄昏』の謎を解くには必要なことじゃが、我の想像では、恐らくジュルコフは『摂理の黄昏』に関係する者と何らかの誓約を結んでいる可能性が高い。だとするとそなたの調査にはかなりの危険が伴うぞ」
アニラの言葉に、レオンは真剣な顔でうなずいて答えた。
「それは承知の上です。言い伝えでは『摂理の黄昏』が始まるとたくさんの人々が犠牲になってしまいます。そのような事態は避けられるものなら避けたいですし、『摂理の黄昏』が止められるものなら止めねばなりません」
「その心意気は買うが、そなた一人でできることは限られておる。ぜひとも『蒼炎の魔竜騎士』と連絡を密に取り合うことだ。必要があるなら我も協力は惜しまぬ」
アニラに続いて、ロザリアも
「私もそなたの国に伝わる話を詳しく聞かせてもらった。『摂理の黄昏』はそなたの国だけでなく、悪くするとこの世界を動乱に導く可能性がある。他国の出来事と見てみぬふりはできん。私も姫様と連絡を取り合って、公私両面でできる限りの協力をしよう」
そう言うと、マルガリータに
「そなた、これからは定時連絡を入れてくれんか。もちろん、気になることが起こればその都度連絡を入れてもよい。それから姫様には、黒幕の正体がつかめるまでは仮面の魔導士に注意されるように伝えてくれ」
そう言いながら、一冊の手帳を渡す。
マルガリータはそれを受け取りながら訊いた。
「承知いたしましたが、これは?」
ページをめくりながら言うマルガリータに、ロザリアは笑って答えた。
「私たちの間で使う『符牒』じゃ。『風の耳』で話す内容は、術式を使う輩にとって傍受し放題じゃからのう」
それを聞いて、アニラは目を輝かせてロザリアに頼む。
「うむ、そういう方法はいいな。ロザリア殿、よければ我とレオン殿にもそれを使わせてくれんか。相手が厄介な奴と判っているのだ、我たちもそのくらいの工夫はせんといかんからな」
「おやすい御用じゃ」
ロザリアは魔力で手帳を複製して、アニラとレオンに手渡す。
アニラは満足そうな笑顔を浮かべると、三人に真剣な顔をして言った。
「さて、これでそれぞれの情報を共有できる。敵の正体は分かっておらんが、我らが力を合わせれば真相は遠からず明らかになると信じておる」
レオンはうなずいて立ち上がると、
「アニラ様やロザリア王妃様のお力を得られるのは心強いものがございます。私はさっそくジュルコフに話を聞いてみましょう」
そう言うと転移魔法陣を描いてその中に消え、
「私も一度このことをソフィア様にお伝えした後、姫様のところに戻ります」
マルガリータもそう言ってその場からいなくなった。
ロザリアは二人の出発を見送った後、
「アニラ様、一つお聞きしたいことがあるのじゃが」
そうアニラを振り返って言うと、アニラは白髪の下の黒い瞳に翳を見せて言った。
「イヴデリ公の領地からかすかに感じる波動のことだろう? 我はそなたに何も隠しはしないぞ?」
ロザリアは、勧められた紅茶を一口すすると、
「私はこの波動はチェルノボグのものだと想像しておりますが、そうだとすると姫様はまた『終末竜アンティマトル』とのような激烈な戦いに巻き込まれたことになります。姫様は我が国の女王だったお方、ことと次第によってはザール様も黙っておられぬかもしれませぬ」
そうズバリと言った。
アニラは理解のうなずきと共に答える。
「そうなるだろうな。なに、そなたたちの『終末預言戦争』についてはどの国主も知らぬものはない。いざとなったら我から殿下に申し上げて、そなたの国だけでなくダイシンの楊天権殿やヘルヴェティアのサジタリウス・ペンドラゴンに応援を頼んでいただこう。さすれば『白髪の英傑』殿も心置きなく配下を派遣していただけるだろうからな」
そして一瞬笑顔を見せると、すぐに真顔になって続ける。
「だが、それはあくまで最終手段。各国の大魔導士を集めねばならぬような事態になった時は、実質的に我らの負けだ。そうならぬよう、お互い『世界の外』についてもっと研究をしておかねばな」
ロザリアも、紫紺の瞳を持つ眼を細めてうなずいた。
ロザリアは王都イスファハーンに戻るとすぐ、ザールたちにアニラたちとの会談の様子を報告した。
「摂理を書き換えようとする存在、か……その意味ではチェルノボグは『終末竜アンティマトル』と同じだな」
ザールが言うと、ガイが深い海の色をした豊かな髪を揺らして
「アンティマトルは始原竜プロトバハムート様の打ち建てた摂理に不満を持ち、永遠を求めていたと陛下からお聞きしました。チェルノボグが『世界の外』からやって来るのだとしたら、アンティマトルのようなものたちの意識の集合体なのかもしれません」
そう言う。そこにジュチが、金色の前髪を形のいい指でいじりながら
「ボクは一つ疑問に思うことがある。もともとチェルノボグとは闇の神の名だが、常に光の神ベロボーグとセットで使われていたらしい。それがなぜ、この世界を滅ぼすような存在を示す言葉として単一で使われているのかということだ。その点についてガイ、キミは何か知らないかい?」
そう訊く。
「うむ、『闇の王チェルノボグ』という話は聞いたことがある。ただ、それを知っていたのはロムルス帝国のガリア地域に住む老人だった。ウラル帝国ではずいぶん前に意味が変わっているのかもしれないな」
ガイがそう答えると、リディアは不思議そうにジュチに訊いた。
「ねえジュチ、言葉の意味の違いが今回の事件と何か関係があるの? アタシはそんなことを詮索するより、姫様たちをどうやって助けるかを考えた方がいいと思うけれど」
ジュチは肩をすくめると、フッと笑って言った。
「まあ、そこはリディアの言うとおりさ。ただボクは言葉の違いが何かヒントをくれないかなって考えただけだ。済まないザール、話の腰を折ってしまって」
ジュチとガイの話を真剣な顔で訊いていたザールは、そう言われてロザリアを見る。ロザリアも何かを考えているふうだったが、ザールの視線を受けてうなずいて言う。
「その件はアニラ殿にも訊いてみよう。まずは姫様がどのような事態に陥ってもそれを援護できる体制を作らねばならんが……」
「ガイ、すまないが君に引き続きその役割を受け持ってほしい。リディアは第9軍から即応部隊を編成してくれないかい? ウラルのエリンスブルクまで出張らねばならないかもしれないからね」
ロザリアの言葉を引き取ってザールが言うと、ガイとリディアは大きくうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
イヴデリ公の領地は広い。
ウラル帝国の貴族は、小さな村落とその周辺をいわゆる荘園として皇帝から支配権を認められた地位にある者で、大貴族はその数が多いというだけで一つ一つの領地はそれほど広くはない。
けれどイヴデリ公だけは例外で、この皇弟たる人物の領土はウラル山脈の尾根筋を西の境界とし、南は軍団所在地でもあるエカテリンブルクの境界に接し、東はエニセイ川を境とし、北は海まで続いている。東西750マイル(この世界で約1千4百キロ)、南北は実に1千80マイル(同約2千キロ)にも及び、領域のスケールだけを見ればほとんど独立国と言っても過言ではなかった。
ただ、広いとはいっても北の方にはあまり人は住んでいない。オビ川やプル川、エニセイ川沿いにはそれなりの集落はあるが、湿地帯や凍土が多いため、領地の北側は耕作に向かない土地がほとんどだったのだ。
イヴァンは、エカテリンブルクから極東と続く街道と根拠地イヴデリ村経由で極東に向かう街道が合流するスルグトの町に来ていた。ここはイヴデリから東に7百キロも離れているが、彼の領地の中では最も人口が多い町だ。
「ウラルカ、余が帝都を離れている間、ディミトリーが何を企むか分からんぞ。なぜ余を呼び出したのだ?」
町の中央部にある広大な別荘の中で、イヴァンは燃えるような赤い髪をした女性に言う。その女性、ウラルカは緋色の瞳を彼に当てると、薄ら笑いを浮かべて言う。
「あら、ディミトリーはヴォストークが埋め込んだ『魔竜の宝玉』の魔力に当てられてそれどころじゃないと思うわよ? 私があなたをここに呼び出したのは、いよいよ『摂理の黄昏』が始まるに当たってあなたに力を与えるためよ」
「力?」
いぶかしげに言うイヴァンに、ウラルカはオウム返しに言った。
「そう、力よ。ありていに言えば魔力、あなた方の言葉で言えば『覇気』ってやつかしら?」
「余は皇帝としてこの国を支配できればいいのだ。魔導士などになるつもりはないぞ」
困惑したように言うイヴァンを見て、ウラルカはくすくす笑いながら、
「あら、怖気づいたのかしら? 魔力を扱えるのはいいことよ? この国の頂点に立つ権力と神にすら匹敵する魔力、二つを得られれば怖いものはないと思わないかしら?」
そう、緋色の瞳でイヴァンをじっと見つめて言う。
「闇の力は世界の外に通じる。イヴァン・フョードルよ、『摂理の調停者』様の期待に応え、新たな摂理の帝国を地上に創り出したくはないか?」
イヴァンは突然後ろからそう声をかけられ、びっくりして振り向く。そこには一つ目と二つの角がついた仮面を被り、黒いマントを翻す男が突っ立っていた。
「そなたは……オプリーチニキのジュルコフか?」
イヴァンの言葉に、男は首を振る。男の赤い髪の毛を見て、イヴァンはその男がゲオルグ・ジュルコフではないことを悟った。
「私の名はヴォストーク。イヴァンよ、『摂理の調停者』様からの贈り物を届けに来た」
ヴォストークと名乗った男は、マントから右手を差し出す。その掌には青白い光を放つ石が載せられていた。
「……それは『魔竜の宝玉』であろう。そのような物を持ったら、余も体調を崩すではないか。ヴォストークと言ったな、そなたは何を考えている?」
明らかに気分を害した声でイヴァンが言うと、ウラルカが口を挟んできた。
「イヴデリ公、それは『魔竜の宝玉』ではなく、『凝結魔髄』。単に魔竜グローズヌィの魔力を閉じ込めたものではなく、魔竜の骨髄から創り出された宝珠です。『魔竜の宝玉』のように体調をおかしくするようなことはございません」
ウラルカの言葉に、ヴォストークもうなずいて言う。
「ウラルカの言うとおりだ。『摂理の調停者』様は、ご自分のお眼鏡にかなった者にはその実力に相応しい物をお贈りになる。そなたを見込んでの贈り物、我らすら受け取れぬほどの宝珠だ、ありがたく受け取っておくがいい」
「……真実、それを受け取っても余は大丈夫なのだろうな?」
胡散臭げに言うイヴァンに、二人はうなずいた。嘘を言っているようなそぶりは見えなかった。けれどその態度は、早く受け取るように圧をかけているようにも見受けられた。
「……分かった、ありがたく受け取ろう」
イヴァンはそう言って恐る恐る手を伸ばす。『凝結魔髄』の側まで手を伸ばすと、指先で2・3回つついた。痛みも、熱さも冷たさも感じず、特に何も起こらなかった。
それで少し安心したのか、イヴァンはヴォストークの手から『凝結魔髄』を受け取ると、しげしげと眺める。それは確かに、彼がいくつか見たことがある『魔竜の宝玉』とは違っていた。湧き出る魔力に禍々しさはなく、むしろ青白い光は清浄で優しくすらあった。
「確かにその方たちが言うとおりだ……むっ⁉」
イヴァンが表情を緩めてそう言った時、『凝結魔髄』は青い光と共に拍動し始めた。慌てて手を放そうとしたイヴァンだったが、魔髄は磁石のようにイヴァンの掌にくっついた。
「おい、放れないぞ。いったい何をした⁉」
『凝結魔髄』を振り放そうとするイヴァンだったが、その身体は青白い光に覆われ、それが消えた時にはイヴァンの姿も、ウラルカとヴォストークも部屋から姿を消していた。
「……イヴデリ公、そろそろ目を覚ましていただけませんか」
イヴデリ公イヴァンは、自分を呼ぶ声で意識を取り戻した。ゆっくりと目を開けると、二つの顔がぼんやりと見え、意識がはっきりするとともにそれがウラルカとヴォストークだと分かった。
「……何が起こった?」
イヴァンはゆっくりと身体を起こし、辺りを見回して、自分が洞窟の中にいることを知った。洞窟は暑くもなく寒くもなく、湿度も低めで快適な方であり、所々の壁をくりぬいて松明を差し込んである。
岩は大理石なのだろうか、しっかりと磨かれて松明の光を反射している。壁や天井が一枚岩であることと、外の光が全く入ってこないことから洞窟だと分かったが、ちょっと目には神殿の中にいると錯覚しそうだった。平らに加工された岩の上にかなり分厚く藁が敷かれており、彼はその上に寝かされていた。
「何も危害は加えておりません。『摂理の調停者』様があなたを呼ばれただけです」
ヴォストークはそう言うと、壁から松明を1本外すと、
「あちらでお待ちかねです。ご案内いたします」
そう言って歩き出そうとする。
「待て、余を誘拐して何をする気だ? そなたらは余の味方ではなかったのか?」
イヴァンが鋭く決めつけると、ウラルカがクスリと笑って答えた。
「疑ってもらっては困ります。『摂理の調停者』様との接見が終われば、ちゃんとスルグトだろうがイヴデリだろうが、あなたのご希望の場所に送り届けます」
「その言葉、嘘偽りはないな?」
「もちろん」
イヴァンは、そう答えたウラルカが真剣な表情だったことと、佩いていた剣がそのまま腰にあったことに力を得て、立ち上がるとうなずいて言った。
「分かった、案内せい」
ウラルカは壁から松明を2本外し、そのうちの1本をイヴァンに渡しながら言った。
「明かりはございますが少々暗いです。足元に注意されてください」
イヴァンは、ヴォストークの案内で洞窟の中をゆっくりと進む。三人の足音だけが響き渡り、どこまでも続く松明の列がぼんやりと行き先を照らしている。なかなかに幻想的で、見方によっては不気味な場所だった。
30分も歩いただろうか、イヴァンはさすがに疲れを覚え、
「まだ着かないのか? 道に迷ったのではないだろうな」
そう、ヴォストークに声をかける。
「もうしばらくご辛抱ください。松明どおりに進まないといけませんから、少し遠回りになっているだけです」
ヴォストークは涼しい顔でそう答える。確かに今まで幾つも分かれ道や横道はあったが、松明が灯っていたのは自分たちが進んできた道だけであったことを思い出し、
(ふむ、こんな訳の分からぬところで道に迷うよりはマシか)
イヴァンはそう考えて、それ以上不満を言うことを控えた。
それから5分ほど歩いただろうか、ヴォストークが
「こちらです。もう着きます」
そう言いながら角を右に曲がる。イヴァンもそれに続いて右へと曲がり、その場に立ち止まった。そこにはかがり火に照らされて巨大な扉がそそり立っていたからだ。
「……行き止まりではないだろうな?」
イヴァンが聞くと、ヴォストークは笑って首を横に振り、
「とんでもない。ここが『摂理の調停者』様の謁見の間です。ウラルカ、扉を開いて差し上げろ」
そう言うと、ウラルカは紫の魔力に身を包み、扉の方へと歩み寄る。
そして彼女が右手を前に差し出すと、紫に光る魔法陣が現れた。ウラルカはそれを何度か回転させると五芒星が現れ、パッと光を発して魔法陣は消える。
「開いたわよ。これから先はヴォストークに任せるわ」
ウラルカが横に移動しながら言うと、ヴォストークもゆっくりと扉に近づき、腰に付けていた羊皮紙の冊子を外してページを開く。
「よし、イヴデリ公、参りましょうか」
コデックスが紫の光に包まれると、ヴォストークはゆっくりと扉を開きながらイヴァンに声をかける。イヴァンは巨大な扉が音も立てずに開くのを見て目をむいたが、
「さ、イヴデリ公」
「う、うむ……」
ウラルカに促されて歩き出す。
イヴァンは扉をくぐる時、前方から突風にも似た圧を感じて立ち止まりかけたが、
「立ち止まってはいけません。『摂理の調停者』様があなたを歓迎されているのです」
後ろからウラルカにそう注意されて、立ち止まらずに扉の向こうへと足を踏み入れた。
「むっ⁉」
イヴァンのその時、額に何か熱い刺激を感じたが、そんなことは自分の正面遠くにある物を見た時に忘れてしまった。
「あれは、鏡ではないか?」
イヴァンは驚いたように言う。部屋に入って20メートルほど先に、身長の2倍はある鏡が置いてあったからだ。
ウラル帝国でもロムルス帝国でも、鏡と言えば青銅を平らにして表面を磨いたものである。鋳造は比較的簡単だとはいえ、それでも身長の2倍もある物をこしらえるためには、鋳造や研磨に熟練の技が要求されるだろう。
ヴォストークはそのつぶやきには答えずに、つかつかと鏡の側まで歩み寄ると、横にあった燭台に松明を立て、腰のベルトから抜き取ったもう1本の松明に火を点けて反対側の燭台に立てた。
「イヴデリ公、こちらへ。そう、ご自分の姿を鏡に映すようにお立ちください」
ヴォストークがそう言って後ろに下がって跪いた時、鏡の中から声がした。
『我が使徒たちよ、その人物がイヴデリ公イヴァン・フョードルか?』
「はい、さようでございます」
ヴォストークが答えるが、イヴァンは訳も分からず辺りを見回している。鏡がしゃべるとは思わないからであろう。
『我を探しても無駄だ。イヴァンは・フョードル、鏡を見てみよ』
そんな声に、イヴァンは言われるがままに鏡を見て絶句する。鏡の中央にぽっかりと暗い穴が口を開けている。声はその中から聞こえていた。
『我は自らの摂理を希求する、そなたが自らの考えのもとに帝位を希求するのと同様に。そなたは強引なくらい自らの願望に誠実だ。我はそんなそなたを気に入っている』
鏡の声がそう言うと、鏡の深淵がさらに深くなったようにイヴァンには感じられた。
『そなたは摂理の外側という深淵を覗いている。その深淵はまた、そなたの心という深淵を見つめ返してもいるのだ。我がよき同志よ、我がもとに来たれ』
イヴァンは、その声と共に抗いようのない力で鏡の中へと引きずり込まれて行った。その瞬間、鏡に映った彼の額には、逆五芒星の印が紫色に輝いていた。
それを見ていたウラルカとヴォストークは、ニヤリと笑ってつぶやいた。
「見たか、ウラルカ? 奴の額に現れた魔印を」
「ええ、遂に復活したわね。これで『摂理の黄昏』まで秒読みってところね」
★ ★ ★ ★ ★
「そうかい、あの変な仮面を被った魔導士がゲオルグ・ジュルコフって言うんだね? オプリーチニキの大魔導士で『魔竜の宝玉』の所持者というなら、あれだけの魔力を持っているのはうなずけるよ」
アティラウから北西に200マイル(この世界で約370キロ)にあるカスタロフカという村に軍を留めていたホルンは、追い付いてきたマルガリータから報告を受けて笑う。
「道理で見たこともない魔力の質だと思ったよ。『魔竜の宝玉』をどういうふうに使いこなしているのか、次に奴に会う時の楽しみが増えたってものさ」
ホルンが心底楽しそうに言うのを聞いて、何か言いたそうなマルガリータに代わりガルムが呆れたように言う。
「ホルンさん、マルガリータ殿の話では、そいつが『摂理の黄昏』についていろいろ知っているらしいし、ひょっとしたら敵の黒幕とも手を握っているのかもしれないって言うんだ。警戒しすぎて悪いってことはないと思うぜ?」
「はい、私もいろいろ伝手をたどってジュルコフのことについて調べますので、調査がある程度終わるまでは用心の上にも用心していただけませんか?」
マルガリータも必死の面持ちで言う。ホルンはその後ろに、ロザリアの哀し気な顔が透けて見える気がした。
「分かっているよ。チェルノボグっていう存在から魔力を分けてもらっているのなら、簡単な相手ではないことは確かだからね。ただ、真剣に手合わせしてみれば『摂理の調停者』って奴がどういう奴なのか分かるかもしれないって思っただけさ」
ホルンが言い訳のように言うと、ガルムは左目を光らせて
「今まで『魔竜の宝玉』を持っていた奴は人狼のような魔力を使った。チェルノボグって奴は人狼や吸血鬼を使役するって話だったろう? だったら『摂理の調停者』って奴がチェルノボグであることはほぼほぼ決まりじゃないかな? 後知りたいことは、吸血鬼って奴がどんな形で現れるかってことだな」
そう言って笑うと、カンネーがおずおずと口を挟んだ。
「まあ、そんなおっかない奴らの相手はガルム殿やホルン様にお願いするとして、とりあえずはヴォルゴグラードを落とさなきゃいけませんね。どういう作戦でやりゃいいんですか?」
それを聞いて、ホルンは思い出したようにうなずくと、
「そうだね。まずはウラル帝国の中にアゼルスタン殿下の根拠地を作って差し上げないとね。殿下が帝国に戻ってきたと知れば、摂政に不平不満を持つ人たちはこちらになびく可能性は高いよ。何しろ、治安部隊を一個軍、消滅させているからね」
そう、カンネーを見て言うと、マルガリータに視線を移す。マルガリータはニコリと笑って言った。
「既に手は打っています。私たちはただ一目散にヴォルゴグラードを目指せば、すべてはそれでうまく行くはずです」
ホルンは自信たっぷりのマルガリータを見て、こちらも笑顔で言った。
「分かった。あなたの手際の良さを見ていると、ロザリアやジュチのことを思い出すよ。では、私たちはわき目もふらずにヴォルゴグラードを目指すとするか。
ただし、住民をパニックにしないため、町に突入はしないよ。町を遠巻きにするんだ。途中で迎撃を受けたらどうする? マルガリータ」
「その時は完膚なきまでに叩き潰していただいて構いません。『住民には慈愛を、敵には恐怖を』……その使い分けを厳格にすれば、今後の戦いにも影響を与えるでしょう」
それを聞いて、ホルンはガルムとカンネーに言った。
「聞いたね? 部下たちにも徹底しておくれ」
そう言うと、ホルンは落日に輝く西の地平線を見た。ここからヴォルゴグラードを守る軍団が駐屯しているヴォルシスキーまでは、直線で135マイル(約250キロ)に過ぎなかった。
(『17混乱の前兆』に続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
都合で執筆ペースを落とさざるを得ませんでしたので、間隔が空いてしまいました。
皇帝・皇太子サイドとイヴデリ公イヴァンのサイド、どちらも動きが出てきました。今後は様々な視点から物語を書いていくことになりそうで構成に手間取っていますが、なるべく早い投稿に努めます。
次回もお楽しみに。