15 皇帝の錯乱
治安部隊を降したホルンたち。一方、ウラル帝国の首都では、皇帝が『摂理の黄昏』についての調査を極秘裏に命じていた。
摂政との対決を視野に入れ始めた皇帝に、魔の手が迫る。
チェトバンナを訪ねてきたのは、治安部隊の南方方面を統括するエドウルフ・ガルバニコフの参謀だった。
「なんと、すべての作戦行動を中止し、すぐさま根拠地に引き上げろだと?」
チェトバンナはつぶやくように言うと、目の前で直立している参謀に訊く。
「作戦中止の理由は何だ? 貴官も知っているとおり第41旅団、第43旅団共に壊滅している。私は第45旅団と連絡が取れ次第、麾下の部隊の無念を晴らすために攻勢を再興しようと考えているところだ」
すると参謀は当惑した顔で答えた。
「中止の理由は分かりません」
その答えを聞いて何か言おうとしたチェトバンナを押し留めるように、参謀は小声で付け加える。
「分かりませんが、司令官殿の話では司令本部からの命令と共に摂政閣下の命令書まで添えられていたとか。それに話によるとヤヴォーロフ最高司令官殿が逮捕されたと聞きます」
「ふむ……それでは出撃命令は誰が何のために出したのだ? フョードロフもフランソワも犬死ではないか」
「と、ともかく、司令官殿には不本意ではございましょうが、まずは退いていただきたいとの方面軍司令官殿のお言葉です。クルサリにいる敵将は我が方が退けば追撃はして参りますまい」
懇願するように言う参謀に、チェトバンナは荒々しく
「根拠もなく相手が追撃して来ないなどと言うな、それは貴官の願望に過ぎん。方面軍の言うとおり退くにしても、退路は敵に押さえられている。戦うしか手はない」
そう反論する。
「すみません、司令官殿」
二人が押し問答をしていると、第4軍の副官が天幕の中に入って来た。
「何だ、今大事な話をしている最中だ。何か緊急事態でも起こったか?」
チェトバンナが険しい表情で訊くと、副官はしゃっちょこばって答えた。
「は、はい、敵陣から軍使が送られてきました。司令官殿と話がしたいそうです」
「軍使? 今さら話し合いなどする必要はない。そいつを斬って首を送りつけろ」
そう言うチェトバンナを、司令部参謀は慌てて諫める。
「待ってください。話も聞かずに軍使を殺すなど、大国の軍が取る対応ではございません。まずは話を聞いて、それから対応を考えることとしてください」
「そうです、我らの対応によって帝国の評判を貶めることがあってはなりません。話をお聞きになって無礼と感じられたら斬れば済むだけのことです」
副官も青い顔をして諫めるので、チェトバンナは渋々、
「分かった、会うだけ会ってみよう」
そう言う。しかし、
「ただ、私が命令したらすぐにそいつを討ち取れるよう、兵を配置させておけ」
そう付け加えることを忘れなかった。
それよりしばらく前、治安部隊の攻撃拠点であるクルサリを占領したホルンの部隊に、リュスコフ隊が合流した。
「さすがはホルン様、わが師匠が心服しているだけございますね?」
リュスコフに副将として付けていたマルガリータが、ニコニコとしてホルンの側に寄ってくる。
「マルガリータ、あなたはリュスコフ殿と共にボランクルの敵陣地を占領するはずじゃなかったのかい? どうしてここに?」
ホルンが不思議そうに訊くと、マルガリータはくくっと喉の奥で笑い、
「ふふ、第41旅団と第43旅団、どちらもきれいさっぱり消え去った今となっては、ボランクルはリョーカ殿に、その先のボランクイはガルム殿に任せれば万事解決します。それよりも焦点は残った第4軍司令部と第45旅団への対応、だからリュスコフ殿に説いて部隊をこちらに向けてもらいました」
そう言うと、遅れて姿を現したリュスコフを見やり、
「リュスコフ殿、ここら来る途中、私に話してくれたことをホルン様にもお聞かせ願えないでしょうか?」
そう声をかけた。
リュスコフはうなずくと、ホルンにゆっくり近づいて来て跪く。
「どうしたんだい?」
ホルンがいぶかしげに訊くと、リュスコフは顔を上げ、
「こちらに来る際、マルガリータ殿からホルン様のことをいろいろとお聞きしました。まさか前のファールス王国女王とは露知らず、今までの無礼はお許しください」
そう言う。ホルンは慌てて顔の前で両手を振り、
「よ、よしてくれないかい? あなたは別に私に無礼を働いたことはないし、私だって今は単なる用心棒なんだから、今までどおりあなたらしく接してくれた方が気が楽だよ。それよりマルガリータに話したことってのは?」
ホルンが訊くと、リュスコフは碧眼を細めて言う。
「はい、主将のフランソワ亡き後、ガルム殿は第43旅団の生き残り将兵に対し、皇太子殿下の存在を明かし、投降者を多数得ています。思うに治安部隊の主だった指揮官以外は、殿下が我々と共にいらっしゃることを知らずに戦いに臨んだのでしょう」
そしてマルガリータを見て、
「マルガリータ殿の言うとおり、第4軍司令部の扱いは今後の焦点の一つ。司令官のチェトバンナは凡庸で、彼を討ち取ったとしても殿下の武威高揚にはあまり役に立ちません」
そう辛辣なことを言い、ホルンに献策した。
「それより、彼らの退去を認める方が、殿下の仁慈を喧伝するに役立ちます。どうでしょう、軍を解散することを条件に、第4軍司令部の将兵がヴォルゴグラードに転進することを認めては?」
ホルンの翠の瞳は、マルガリータを見る。マルガリータはホルンの視線を受け、うなずいて言った。
「兵は多々ますます弁じます。オプリーチニキや治安部隊に勝ったことがウラル帝国の内部に広まれば、殿下の味方が増えることは言うまでもありません。しかし人間は信じたいことしか見ない生き物、兵の多さを見せつけられれば信用も増すというものです」
ホルンはクスリと笑って言った。
「ふふ、私がダイシン帝国にいた時、知り合った傭兵隊長がうそぶいていたものさ、『2万では飢えてしまうが4万では飽食する』とね。
ウラル皇帝陛下や皇太子殿下に対する忠誠心が残っているのは幸いだね。リュスコフ殿やアラン・ニンフエール殿のような仲間が増えれば、それだけ殿下の願いが叶う日は早くやって来るだろう」
「では、私が使いに立ちましょう」
リュスコフがそう言うのを、ホルンは首を振って止めた。
「いや、投降した部隊の中に使えそうな人物が一人いた。彼に使いを頼もうと思う」
チェトバンナは、副官や南方方面軍参謀と自分の天幕の中で、ホルンから遣わされた人物を待っていた。
「軍使のお通りです」
幕前を守る衛士が声を上げると、
「よく来られた。入りたまえ」
チェトバンナが声をかける。ホルンの軍使は帳を開けるとゆっくりと歩を進めてきた。
入って来たのは三人の男たちである。両脇の二人は軍装のみすぼらしさから護衛の兵士だと分かったが、真ん中の男は鎧の袖こそないがある程度手の込んだ革鎧を着込み、それなりの剣を佩いていた。燃えるような赤毛と、それと対照的に氷のような青い瞳が印象的な男であった。
「ホルン・ファランドール様から遣わされたフランシス・ゴードンです」
男は涼やかな声でそう名乗った。見た目の線の太さとは裏腹に、よく響く温かみのあるいい声だった。
「……それで、ホルンは我々に何を求めているのだ?」
チェトバンナがそう言うと、ゴードンは目を怒らせ、天幕を吹き飛ばすような大音声で叫んだ。
「ホルン様は今でこそ傭兵隊長のような立場におられるが、もとはファールス王国女王陛下だ。ウラル帝国にも伝わる『終末預言戦争』を生き抜き、仲間と共に王国を立て直された。
アゼルスタン殿下はそんなホルン様を見込んでお力を借りられている。そなたのような出先の軍司令官風情が呼び捨てしていいお方ではないぞ!」
チェトバンナはゴードンの威嚇に青くなり、汗を拭きながら
「そ、それは私の落ち度だった、以後改めよう……それで、ホルン様は我々に何を要求されていらっしゃるのだ?」
そう言い直す。左右にいた彼の副官や方面軍司令部の参謀は、先ほどのゴードンの言葉の中に含まれる重大な意味に気付き、何か言いたそうにしていた。
(ふん、左右にいる副官や参謀の方が血のめぐりはいいようだ。リュスコフ様がバカにするはずだな)
ゴードンは三人の顔を見比べてそう思い、ゆっくりと言った。これもまた天幕の外にいる兵士たちにもはっきりと聞こえるほど明瞭でよく通る声だった。
「ホルン様は、アゼルスタン殿下の意向を受け、貴軍に対しては軍を解散することを求められています。その代わり、指揮官級のヴォルゴグラード帰還について安全を保証されています」
それを聞くと、チェトバンナは顔を真っ赤にして怒った。
「何ッ? 軍を解散せよだと? 我が第4軍はウラル帝国南方方面の治安維持の要、麾下の旅団と連絡が取れないとはいえ、方面軍司令部の許可もなしにそのような約束はできないぞ!」
「その第41旅団と兌43旅団は、すでにホルン様の部隊によって壊滅しています。また、第45旅団については旅団長アラン・ニンフエール殿以下全員がアゼルスタン殿下の旗のもとに参集しております」
この発言の後半はゴードンのハッタリであった。しかし、ここで初めてチェトバンナはゴードンの言葉の意味に気付き、顔色を真っ白にした。
「ま、待て、ゴードン殿。貴官は『アゼルスタン殿下』と言われなかったか?」
衝撃の余り声が上ずっているチェトバンナに、ゴードンは冷たい視線を投げて、
「先ほどから何度もご説明しているはず。ホルン様は我が皇太子殿下の依頼を受けて、殿下の夢を実現するために立ち上がられたのだ。ペイノイの陣地にいらっしゃるのは正真正銘、アゼルスタン殿下だ。そなたたちは誰の命令で皇帝陛下の後嗣である皇太子殿下に刃を向けていたのだ?」
そう決めつけると、チェトバンナは何も言えずに、噴き出してくる汗を拭くばかりであった。
何も言えなくなったチェトバンナに代わり、方面軍司令部の参謀が口を開いた。
「私は南方方面軍参謀のジェイコブ・ワレンコフと申します。第4軍司令官に代わり、ホルン様のご使者に対し返答いたしますが、それでよろしいでしょうか?」
ゴードンは青い瞳を彼に向けて、
「ワレンコフ殿の責任において、チェトバンナ司令官に所要の措置を取らせることが確約できるのであれば、承りましょう」
そう答えた。
ワレンコフ参謀はうなずくと、
「私は方面軍司令官ガルバニコフ閣下からの命令を第4軍に伝えに参りました。その命令とは、作戦中止と速やかなる帰還です。チェトバンナ司令官殿は命令に不本意だったようですが、事ここに至っては方面軍の命令を受諾し、速やかに遂行していただけるものと信じています」
そう言ってチェトバンナを見ると、彼は茫然として面持ちでテーブルを見つめ、
「……殿下が、攻撃目標だっただと? 信じられない……」
そうぶつぶつとつぶやいていた。
ワレンコフ参謀は、もはやチェトバンナでは軍を指揮することができないと感じたのだろう、副官を振り返り、
「副官殿、殿下の思し召しにあるとおり、軍を解散し司令官殿以下の本部部員はヴォルゴグラードに帰還するような命令を発していただきたい。私が方面軍参謀の職権をもって貴官がチェトバンナ司令官名で命令を発することを許可し、その遂行も見届ける」
そう言うと、副官はうなずいて席を立った。
「ホルン様のお使者よ、これでよろしいか?」
そう訊いて来るワレンコフ参謀に、ゴードンは満足げにうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
南方でそのようなことが起こっている最中、ウラル帝国の首都エリンスブルクでは静かな、けれども大きな事件が進行しつつあった。
皇帝親衛隊オプリーチニキの司令監察であるレオン・ニンフエールは、皇帝から突然の呼び出しを受け、倉皇として宮殿へ向かっていた。
(使者である侍医マルコフはかなり慌てていたな。思わぬ事態が起きたと見なければならぬが、一体何が?)
レオンはそう考えながら宮殿へと入り、侍従に到着を告げた。
「親衛隊司令監察のレオン・ニンフエール、召しにより参内仕りました。陛下にお伝え願いたい」
「司令監察殿ですね? 両陛下ともご到着を心待ちにしておられました。すぐにご案内いたします」
心なしか侍従も慌てた様子で、レオンをすぐさま謁見の間ではなく宮殿の奥に案内する。
「謁見の間ではないのか?」
レオンが訊くと、侍従は小声で答えた。
「陛下はご気分が優れないので、奥の鏡の間に通せとの皇后陛下からのご指示です」
それを聞いて、レオンは眉をひそめた。現在の侍医アンドレア・マルコフは皇后自らの指名により任命された。前任のニキチョフのように、摂政サイドから軽々しく買収はされないはずだ。
(前任のニキチョフは陛下のお食事に毒を持っていたことが露見して処断されたが、誰がそれをさせたかについてはうやむやになったままだ。摂政殿下の差し金だという噂はあるものの、確証はまだ得られていない)
そんなことを考えながら歩いていると、鏡の間についた。
「親衛隊司令監察殿のご到着でございます」
侍従がドア越しに声をかけると、室内からアナスタシア皇后の声で
「おお、レオン・ニンフエール、待っていました。早く陛下のもとへ」
そんな声がした。
レオンはそれを聞いて胸騒ぎがした。通常こういう場合は、お付きの侍女か侍従長が入室の許可を出すからだ。
「親衛隊司令監察レオン・ニンフエール、入ります」
レオンはそう言うと分厚いドアを引いて室内へと一歩足を踏み入れ、丁寧に頭を下げる。顔を上げるとディミトリー2世はベッドで身体を起こしていた。アナスタシアがその背を支えている。
「……よく来てくれた、レオン司令監察。もっと近う」
か細い声で言うディミトリーに、レオンは跪いて答える。
「陛下、お加減がよろしくないのであれば、どうぞお身体を楽にしてください」
「……いや、そなたとオスラビア軍司令官は朕のかけがえのない股肱の臣、どうして粗略に扱えよう。レオン司令監察、面を上げよ」
そう言われてレオンは顔を上げ、ディミトリーと視線を合わせる。ディミトリーの声はか細かったが青い瞳には光があり、それがレオンを少し安心させた。
「レオン司令監察、オプリーチニキの調査についてはどうだ?」
ディミトリーが訊くと、レオンは首を振って言いにくそうに答える。
「それが、主だった指揮官たちが戦死している状況ですので……特にトロツキー殿とジリンスキー副司令官がいなくなったのが響いています。しっかりした証拠が確保できませんので」
それを聞いてディミトリーはため息と共に肩を落として言う。
「そうか……親衛隊の出動は朕の専権。その大権を侵したとなると摂政であっても重罪は免れぬ。期待していたのだが、イヴァンはやはり悪運だけはいいやつのようだな」
「陛下……すみません、さらに調べを続け、必ずイヴデリ公の叛心を明らかにしてご覧に入れますので、どうかそれまでお身体を大切にしてください」
そう言うレオンに、ディミトリーは優し気な目を当てて言う。
「うむ、朕はそなたを信じておる。そして朕はもう一つそなたに頼みたいことがある」
「何でしょうか? 私の力の及ぶ限り尽力いたします」
レオンの答えを聞き、ディミトリーの頬に赤みが戻ってきた。病身の皇帝は青い瞳に力を込めて言う。
「そなたは、市井で『摂理の黄昏』が噂になっていることを知っているか?」
「はい、昨年イヴデリ公の領地で起こった出来事についても、ある程度は情報を集めております」
レオンが答えると、ディミトリーは我が意を得たというように笑うと、
「うむ、さすがは司令監察だな。朕も市井の噂に『摂理の黄昏』のことが上っていると知った時、最初にそのことを思い出した。それとイヴデリ公の野心がその事件後とみにたくましくなったこともな。それで朕は密かに皇后の伝手で調査を行っていた。詳しくは皇后から話をさせよう」
そう言って背中を支えているアナスタシアに、優しく言う。
「そなたが調べたこと、司令監察に残らず話してくれ。司令監察はその情報を基に必要な措置を取るとよい。どこでどんな手段を取ってもよい、頼んだぞ」
するとアナスタシアは、軽くうなずいて、静かな口調で語り始める。レオンの顔色はその話が進んでいくにつれ白くなり、身体が震えてきた。
レオンが司令監察としての執務室に戻ってきたのは、2時間もの後であった。彼はゆっくりと椅子に座ると、机に肘をつき額を支える。たくましい手の間から、レオンの金髪がはみ出て揺れていた。
(チェルノボグの発現……もしそのような事態となったら、これは帝国存亡の危機だ。オプリーチニキはこんな時こそ力を終結して非常時に対応すべきなのに)
皇后から聞いた話の深刻さに、さすがのレオンも処置に窮したが、できるだけのことは為されねばならない。彼はまず、明らかに皇帝派と摂政派からもマークされている人士と情報を共有することを考えた。軍司令官オスラビア元帥、玉璽尚書アレクセイ・アダーシェフの二人である。
(しかし、私も含めて皇帝派の人々の動向は24時間、摂政派の見張りが把握している。今日、私が陛下に呼ばれて長時間何かを話していたことも、既にイヴデリ公の耳に届いているはずだ。どうやって奴らの目を晦ますか……)
考えあぐねた彼は、ふと顔を上げた。いつの間にか部屋の中には夕闇が忍び入っていた。
「もうこんな時間か……」
そうつぶやきながらおもむろに立ち上がった彼は、ハッと気が付いた。
(陛下がおっしゃった『どこでどんな手段を取ってもよい』とは、そういうことか!)
レオンはそう思い至ると、すぐさま旅支度を整え、転移魔法陣を描いてどこかへと姿を消した。摂政イヴデリ公イヴァンの意を受けた使者が彼の執務室を訪れたのは、そのしばらく後であった。
ウラル帝国の帝都エリンスブルクには、帝国内の大貴族が住む邸宅がいくつも存在する。
大貴族は各地に所領を持っているため、通常はどこかの領地に住まうのではなく代官を置いて管理を任せ、自らは帝都に居住する者が多かったためである。
ちなみに『大貴族』といっても、一か所に広大な所領を持つ者はほぼいない。それは皇帝の深慮からであった。
帝国の領土は余りにも広く、皇帝の目が届かないところも多い。ディミトリーは皇帝に即位した時、皇后アナスタシアの意見を容れて大貴族の所領を分散させた。それによって反乱の機会を減らしたのである。
その時所領を分割された大貴族たちからは、提示された替地が失う土地よりも耕作に有利だったり、帝都に近かったりしたために大きな不満は出なかった。この一事を取ってみても、ディミトリーやアナスタシアの内政手腕が優れていることが判る。
ただし、たった一人の例外がいた。藩屏国であるルーン公国よりも広い領土を持ち、領土内に帝国軍の駐屯地まで抱え、そして大貴族たちを従えている例外が。
唯一の『例外』であるイヴデリ公イヴァン・フョードルは、他の大貴族同様、帝都の北地区に広大な邸宅を構えていた。豪壮さは皇帝が居住する宮殿には及ばないにしても、他の大貴族たちの邸宅とは明らかに一線を画すものだった。
「そうか、司令監察は部屋にいなかったか」
使者からレオンの不在を聞いたイヴァンは、不機嫌そうに言うと、
「分かった、下がってよい」
そう、使者を務めた家臣を追い払うように退席させる。
「司令監察は陛下からの密命を受けたのでしょうな。ここひと月、彼が帝都を離れることが多すぎます」
使者が部屋から出ると、帳の影にいた人物がそう言いながらイヴァンの側に歩み寄ってきた。金髪の下の碧眼には、冷酷な智謀を秘めた輝きがあった。
「ふむ、幸いトロツキーもジリンスキーもいなくなっているから、確たる証拠はつかめまいが、それにしても段々と鼻について目障りになって来たな」
苦々しげに言うイヴァンに、男は軽く同意して言う。
「まあ、司令監察を止められるのは皇帝だけですからな。けれど彼がどのような証拠をつかもうと、『摂理の調停者』様が相手では何もできないでしょう」
「それはそうだが、治安部隊最高指揮官のヤヴォーロフを断罪した今となっては、アゼルスタンが余に対して反旗を翻していることを認めたのも同然だぞ。大貴族たちも動揺しておる。
余はとりあえずアゼルスタンたちを無視しておくことしかできぬ。そなたは『摂理の調停者』様の側近と言ったな。ウラジミール・ヤヴォーロフ、何か手を打ってくれ」
焦れた声で言うイヴァンに、ヤヴォーロフは薄い唇を歪めて笑うと首を振った。
「まあ、鷹揚な態度でどっしりと構えられていればいいですよ。アゼルスタンがどう足掻こうと、『摂理の調停者』様のご降臨の方が早いですからね。ところでイヴデリ公、約束どおり『摂理の黄昏』が始まる場所は、あなたのご領地ということでいいですね?」
「我が積年の望みが叶うのなら、領地などくれてやる。だが、必ず余を玉座に座らせよ」
目を据えて言うイヴァンに、ヤヴォーロフは重々しくうなずいて、
「それは最初の契約にも決められていたことでしょう? わが『摂理の調停者』様は約束を違えることはいたしませんぞ」
そうなだめるように言うと、急に厳しい表情で
「さて、私は約束を果たす準備にかかります。帝都は暗黒の巷と化すでしょう。新たな帝都に移る準備をしていてくださいませ」
そう言いながら、紫の瘴気のような魔力に包まれて消えて行った。
「……ウラジミール・ヤヴォーロフ、最初に会った時から思っていたが、何を考えているか分からん不気味な男だ」
イヴァンは、ヤヴォーロフが消えた空間を睨みつけてそう吐き捨てた。なぜか背中に寒気が走った。
★ ★ ★ ★ ★
ウラル帝国では独自の暦である冰暦を使う。その冰暦728年、つまりファールス王国暦1578年の夏、イヴァン・フョードルは領地であるイヴデリという村落に構えた城地で渋い顔をしていた。
「トロツキー、我が領土で農民や家畜が襲われ出してからすでに半年近い。被害が拡大する一方で変な噂まで飛び出し、おまけに軍団兵すら手に負えぬとなったならば、領民が見限って土地を捨てることにもなりかねん。そなたが最後の頼みの綱なのだ」
イヴァンは椅子に座り、正面に佇立する金髪碧眼の男に、繰り言のように言う。男は身じろぎもせず、青灰色の制服を着て静かに立っている。
「そなたは余の親友、その誼を頼って調査に来てもらったのに、皇帝親衛隊副司令ほどの異能をもってしてもまだ糸口もつかめんのか?」
焦りをにじませるイヴァンに、トロツキーは静かに答えた。
「イヴァン殿、焦る気持ちは解る。ただ、私は今回の事件、オプリーチニキ副司令としてではなく君の友人として依頼を受けた。だから部下のジリンスキーやジュルコフにも好意で調査に付き合ってもらっている。公的な任務と違い、危険を冒させるわけにはいかないのと、私自身が大っぴらに君のところに顔を出すわけにはいかないので、連絡が思うようにできないこともあることをまず理解してくれ」
トロツキーはそう言って謝ると先を続けた。
「だが、先日ジュルコフが『怪物』の異能が濃く残る場所を発見した。私が調査に赴くつもりだから、数日のうちに君に結果を知らせよう」
トロツキーの言葉を聞いたイヴァンは、安堵の色を顔に表して言う。
「そうか、糸口がつかめたのならいい。それにそなた自身が調査に当たってくれるのならば安心だ。そなたには過ぎた心配かもしれないが、くれぐれも注意してくれ」
「分かっている。そこが真実『怪物』の巣なら、必要な処置を取る。我々オプリーチニキにすべて任せてくれ」
「それはもちろんだ。そなたの判断で適宜に処置してくれたまえ」
イヴァンの承諾の言葉を聞いて、トロツキーは一つ微笑んで部屋を出て行った。
次の日、トロツキーはイヴデリから40マイル(この世界で約75キロ)ほど離れたバヤノフカという村に来ていた。ここはウラル山脈東側の麓を走る街道から10キロほど山に入った場所にあり、山すそを切り開いて造られた村だった。
トロツキーは、ゲオルグ・ジュルコフから手渡された地図を頼りに、村の北の外れから山へと分け入った。そんなに高くも険しくもない山だったが、倒木があちこちにあり、下枝も張っていたので、見た目よりは歩きづらい場所だった。
「ふむ、思ったより時間がかかるものだな」
山を歩き続けて2時間、トロツキーはまだ目的地までかなりあることを知ってそうつぶやく。目的の場所からは今まで感じたことのない『異能』を感じることができるため道を失うことはなさそうだが、このままでは到着する頃には日が暮れるだろう。何者がいるか分からない場所を夜に探索するのは避けたい気持ちが強かった。
一瞬、転移魔法陣で移動しようかとも思ったトロツキーだったが、すぐに首を振り、
「いや、これほどの『異能』を発する相手だ。こちらの『覇気』も感知するに違いない」
そうつぶやくと、彼はまた目的の場所へと歩き出す。その時、
「トロツキー様、私たちもお供いたします」
そう言う声と共に、目に険がある女性と、物静かな男性が姿を現した。
「ジリンスキー、ジュルコフ。二人ともイヴデリ公の屋敷でおとなしくしていろと言ったはずだが?」
トロツキーは多少強面で言うが、ジリンスキーは臆する様子もなく
「はい、確かにそうおっしゃいましたが、私たちは別に命令でこの事件に関わっているのではございませんし、それに正直私もその『怪物』とやらに興味がございますので」
そう笑って言うと、普段謹直で命令違反など絶えてしたことがないジュルコフも、
「私がご案内した方が早く着けると思います。それに私が感じた『覇気』は今までに経験がないものでした。副司令殿に何かあってはいけないと思いましたのでまかり越しました」
そう言うと、サッと転移魔法陣を描き上げ、
「私の経験上、『怪物』に察知されない場所につなぎました。参りましょう」
自分からさっさと転移魔法陣の中に消える。
ジュルコフを見送ったジリンスキーも、トロツキーを振り返って促す。
「トロツキー様、早く参りましょう。時間は有限です」
それを聞いて、トロツキーも渋い顔補しながら転移魔法陣をくぐった。
「ここならば、さすがのあいつもこちらの『覇気』を感知できないようです。何度か試しましたが、奴の『異能』に変化がないことは確認済みです」
転移魔法陣の先で待っていたジュルコフが、先ほどより格段に強く感じられる『怪物』の気配が来る方を指さして言う。
「ジュルコフ、君は『怪物』を確認したのか?」
トロツキーがそう訊くと、ジュルコフが何か答えるより早く、
「おや、ジュルコフ殿。約束の刻限は過ぎてしまっていますが? それにもうあなたはここにおいでになる必要はございませんが」
そんな声と共に、燃えるような赤い髪に緋色の瞳をした女性が姿を現す。ジリンスキーはサッとトロツキーをかばうように身構えたが、ジュルコフはニコリと笑ってその女性に答えた。
「すまなかった。思ったよりも慎重に進まれるものだから、私がご案内してきたのだ」
「ジュルコフ、知り合いか?」
トロツキーは剣に左手を添えながら訊く。
ジュルコフはゆっくりとトロツキーを振り返ると、身体から紫紺の魔力を迸らせて言う。
「知り合い? いいえ、彼女は『摂理の調停者』様のお使いです。摂政閣下の領内で起こった出来事については、彼女から説明していただきましょう」
トロツキーも、そしてジリンスキーも、ジュルコフの変貌に気を飲まれたように動けない。ただ目を見張り、彼の顔を凝視するばかりだった。
ジュルコフはそんな二人を見て薄く笑い、
「……いぶかしがることはありません。来たる『摂理の黄昏』のことを聞いた私は、お使者の提案を受け入れて『魔竜の宝玉』を授けていただいただけです。我々オプリーチニキは帝国の安寧を任務とする集団。お使者のお話を聞いて『摂理の黄昏』に備える必要はございませんか?」
そう言う。いつもの謹直で物静かなジュルコフとは似ても似つかない、傲岸で自信に満ち溢れた態度だった。
「……『摂理の黄昏』が迫っている、だと? ジュルコフ、そなたはオプリーチニキの魔導士長だ。神話やおとぎ話のような戯言に惑わされてどうする!」
やっとのことで我に返ったトロツキーが、ジュルコフを叱りつけるように言うと、赤髪の女性が薄笑いを浮かべながらトロツキーに言う。
「ふふ、確かに『摂理の黄昏』と言えば荒唐無稽の物語のように感じるでしょうけれど、この世界の外ではチェルノボグが出番を心待ちにしているのよ。私の話を信じないなら信じなくても別にいいわ。帝国の滅びをその目で眺めつつ、摂理の収斂の中に飲み込まれるがいい」
その不気味な、預言者に似た物言いに、ジリンスキーは
「トロツキー様、この女が『摂理の調停者』の使いだろうが何であろうが、『異能』の量や質が常人とは違っています。話だけでも聞いてみましょう」
そうトロツキーに言う。
その女性がただ者ではないことはトロツキーにも最初から分かっていたことである。ただジュルコフの変貌が彼に女への警戒の念を抱かせたのだ。
女はトロツキーの想念が読めるのか、うなずいて言う。
「ジュルコフ殿は帝国の民のため、『摂理の調停者』様と力を合わせると決められました。『摂理の調停者』様はその決断を良しとされ、ジュルコフ殿に『魔竜の宝玉』を与えられたのです。彼の異能にいつもと違ったものを感じて警戒しているのなら、それは要らぬ心配というもの」
「その、『魔竜の宝玉』とは何だ? とてつもなく邪悪な意思を感じる『覇気』だぞ?」
トロツキーが言うと、女は碧眼を細めて
「ふむ、まだジュルコフ殿も『魔竜の宝玉』を使いこなしきれていないようですね。その宝玉には『摂理の調停者』様が退治された魔竜の魔力が込められています。毒を以て毒を制す……危険は伴うがチェルノボグという存在に対抗できるただ一つの方法ですから」
そうトロツキーを見下すように言い、ジュルコフに訊いた。
「ジュルコフ殿、2日前、人狼を殲滅した時はどうでした?」
するとジュルコフは恍惚とした表情で答える。
「ああ、あの時は私の力が何倍にも増して、人狼相手に何の恐怖も感じなかった。大きな存在が私を包み込み、守ってくれているようだった。ウラルカ殿の提案を受け入れて正解でした」
それを聞いて、ウラルカと呼ばれた女はうなずきながら、凍えるような視線を再びトロツキーに向けた。
「トロツキー殿、今聞かれたとおりです。この辺りを騒がしていたのはチェルノボグの使徒の人狼たち、それをジュルコフ殿が一人で征伐されました。嘘だと思うならこの先の洞窟を検分してみるといいわ」
ウラルカはそう言うと、続けて
「いい? 『摂理の黄昏』は確かに迫ってきているわ。トロツキー、明日私からそなたを訪ねます。少しでも危機感を持っていたら私と話をすればよい。私は帝国を救うものとしてイヴデリ公に期待しています。私の話を聞いて納得したならば、イヴデリ公と会えるような算段をしてくれればありがたいわ」
そう言いながら、まるで空気に融けるように消えた。
呆然とそれを見送ったトロツキーだったが、我に返ると
「ジュルコフ、君が人狼を討ち取ったという洞窟を案内してくれ。それが本当のことならば、ウラルカという女の目的は何にせよ、まずは話を聞いてみなければなるまい」
そう、ジュルコフとジリンスキーを見て言った。
ウラルカのいうことは正しかった。ジュルコフが案内した洞窟の中には、明らかに人間でもなく、かといって狼でもない生き物の死体が数十も転がっていた。
「私も人狼などという生き物は生まれて初めて見たが、あれは確かに作り物などではなかった。人狼が実在するということはウラルカという女が言ったことはまるっきりでたらめではあるまい。ジュルコフ、君はいつ、どうやってあの女と知り合ったのだ?」
トロツキーが訊くと、
「はい、被害はイヴデリ村から南の方に広がっていましたので、街道沿いを南方方面へと調査していましたが、セヴェロウラリスクで彼女と出会ったのです。『怪物』の情報を持っているということでしたので、まず話を聞きました」
ジューコフはウラルカという女性と出会った経緯を説明した。
「それにしても、何事にも慎重で疑い深いあなたが、どうしてあんな胡散臭い女を信用する気になったかが気になるわね。ましてや『摂理の黄昏』だなんて、今どきの子供すら真面目に信じちゃいないわよ?」
ジリンスキーが言うと、ジュルコフも不思議そうに答える。
「そうですね。いや、『怪物』については彼女が見たという場所に行くと必ず人狼に遭遇したので、最初は彼女が人狼たちを操っているのではないかという疑いが生じましたが、それにしては彼女の人狼に対する態度がドライでしたし、何より始末した数が数でしたので、きっと人狼に対して何かの恨みでもあるのだろうと思っていました」
「洞窟以外でも人狼を退治したというのだね? どれくらいの範囲でどのくらいの人狼がいたのだ?」
トロツキーの問いに、ジュルコフは即座に答えた。
「街道のセヴェロウラリスク以南で10か所、計100匹は始末したと思います。その度に彼女は満足そうな顔をしていました」
「ふむ、わがオプリーチニキきっての魔導士である君だ。そのくらいのことは簡単だろうな。それで彼女から『摂理の黄昏』について聞いたのはいつごろだ?」
「5日ほど前のことでした。彼女が『人狼の巣を見つけた。恐らく最後の群れだろうが50匹はいる』と知らせてきましたので、すぐにジリンスキー殿や副司令殿にもお知らせして討伐に向かおうと思ったところ、彼女が言ったのです」
ジュルコフは人狼の痕跡を追ってヴォルチャンスクという町まで足を延ばしていた。そんな彼にウラルカは、
『ジュルコフ殿、遂に奴らの最後の群れが巣食っていると思われる場所を特定したわ。場所はここから西に10キロほど行ったバヤノフカという村の近くよ』
そう告げる。ジュルコフは青い瞳を輝かせて立ち上がると
『おお、それはお手柄だ。これで摂政殿下も枕を高くして寝られることだろう。奴らを退治したら、あなたのことは副司令殿に伝えて殿下のお耳に入れていただくつもりだ』
そう、戦闘準備をしながら言う。
しかしウラルカは嬉しそうな顔一つせずに言う。
『ジュルコフ殿、私にはもっと気になることがあるの。そのことで少しあなたと話がしたいけれど』
『気になること?』
ジュルコフがいぶかしげに訊くと、ウラルカはうなずいて、
『ええ、私が気にしているのは、人狼というこの世ならざるものが現れたということは、帝国に混乱をもたらす『摂理の黄昏』の前兆ではないかということよ』
そう言うと、びっくりして彼女を見つめたジュルコフに、
『私自身、人狼なんて者どもはおとぎ話の中にしか存在しないと思っていた。この目で見るまでは、ですが。
けれどそんな化け物が実際に存在するのだとしたら、それを伝えているおとぎ話も真実を伝えていることになるわ。すなわち、『摂理の黄昏』も実際に起こった出来事だと考えられない?』
そう、真剣な顔で言う。
ジュルコフは、ウラルカの言葉を笑い飛ばすことはできなかった。彼自身、人狼などという存在を最初信じていなかったからだ。架空の存在と思われていた化け物が実際にいたとすれば、それが現れるといわれる出来事についても起こりうるものと考える方が合理的ではあった。
『その可能性はある。仮に伝承の類が真実の一端を伝えているのだとしたら、今度の事件はその始まりに過ぎないということだな……ウラルカ殿、それは?』
目を細めてつぶやくジュルコフに、ウラルカは直径5センチほどの宝玉を差し出して言った。
『でも大丈夫、『摂理の黄昏』が来るのなら、『摂理の調停者』様がお力を与えてくださるわ。これを持って人狼を片付けてみて。あなたが宝玉の力を本物だと確信したら、私が『摂理の黄昏』とどう向き合えばいいかを話してさしあげます』
ジュルコフは、ウラルカの余りの大言壮語に胡散臭さを覚えたが、それよりも彼女の自信ありげな言葉と有無を言わさぬ態度に押され、
『ウラルカ殿、これは?』
と、宝玉を受け取って訊く。
『それは『魔竜の宝玉』。『摂理の調停者』様が魔竜グローズヌィを退治した時、その魔力を封じたもの。それを使いこなせばたとえ相手が神であろうと互角に戦える……』
ウラルカはそう言って微笑むと、
『さあ、その宝玉の力を感じておいでなさい!』
そう言いながら、何かの魔法を発動する。ジュルコフはその魔法によって、人狼たちが巣食っているという洞窟の近くまで運ばれた。
ジュルコフは数十匹に及ぶ人狼からの攻撃を受けたが、『魔竜の宝玉』の力により難なくそれを退け、ウラルカから『摂理の黄昏』について説明を受けた……ということを詳らかに話した。
その話を聞いたトロツキーも意を決し、ウラルカから話を聞くと同時に、彼女をイヴァン・フョードルと面会させた。その面会は四人を交えずに行われ、会見後にイヴァンは非常なご機嫌だったという。
イヴァン・フョードルの専横が目立つようになっていったのは、その後のことであることはすでに述べた。
(……そこまでのことは皇后陛下からお聞きした。しかし問題はウラルカというその女性の正体と、イヴァン・フョードルとどんな話をしたのかということだ。それを知るすべは今のところないが、『摂理の黄昏』についてもっと詳しく知れれば、あるいは謎は解けるかもしれない)
レオン・ニンフエールは、再びルーン公国への道を急ぎながらそう考えていた。
★ ★ ★ ★ ★
皇帝の朝は早い。
ディミトリーは即位この方、日の出より遅く起きたことはなく、6点(午前6時)には皇帝書庫で瞑想するのが日課だった。ここには歴代皇帝の肖像画と事績をまとめた冊子が収められており、ディミトリーは一日の初めに先祖の苦労と努力に思いをいたしてから執務を始めることとしていたのである。
政務を執る役人たちの執務時間は7点半(午前9時)から9点(午後4時)までと決まっていたが、彼は何か重要な事項がある場合にはいつまでも執務室にいたし、そうでない時でも0点(午後6時)に皇帝書庫でその日の出来事を先祖に報告する習慣があったため、私的空間である内宮に戻るのはだいたい0点半(午後7時)くらいであった。
体調を崩してからも仕事に対する熱意は変わらず、7点(午前8時)には玉璽尚書のアレクセイ・アダーシェフと軍司令官オスラビア将軍を召して内外の状況を聞き取ることを皮切りに、各省府の長からの報告や決裁文書の処理などを始めるのだった。
文書を読んだり、報告を聞いたりして決断を下すことは、かなりの精神力と集中力を要求される。国内外の難しい事案については特に慎重に対応する必要があるし、関係省府の意見を十分に聞いたうえで総合的に決断せねばならない。
ディミトリーはそのような重責に押しつぶされそうになりつつも、皇后や自分に忠誠な臣下の尽力で何とか日々の政務を滞らせずに執行していた。
「陛下、すべての省府の報告を見られる必要はないのでは? まずはお身体を労わってください」
閣僚の中でも数少ない味方である内相アントン・モーリェコフが、疲労困憊のディミトリーを見かねてそう言ったが、ディミトリーは疲れた顔に笑顔を見せて言った。
「朕は万機を総攬する立場、朕の懈怠が帝国の瓦解を招くことを考えたら、ゆっくりすることに罪悪感があるのだ。それに……」
ディミトリーは手招きしてモーリェコフを側に寄らせると、小声で続けた。
「摂政イヴデリ公が自分の勢力を伸長するために恣意的な命令を下すようなことがないようにチェックもせねばならない。そなたに各省府の報告を取りまとめさせているのはそのためだ。朕のことを想うなら、一つでも多くの情報を届けてくれ」
「かしこまりました」
モーリェコフは恥じ入ったようにそう言うと部屋を出て行った。
「陛下」
モーリェコフの気配が消えると、皇后アナスタシアがゆっくりと歩み寄ってきた。心配そうな顔をしているのは、今の話をどこか物陰で聞いていたからに違いない。
「おお、皇后か。もう休息の時間か?」
皇后はディミトリーの体調を心配して、日に何度か休息の時間と称して政務を中断させることにしていた。ディミトリー自身も今日はいつにない体のだるさを自覚していたので、皇后を振り向いてそう声をかける。
「はい、今日は特に陛下のお顔色が優れません。今日はモーリェコフやアダーシェフに任せて、少し休息を取られてはいかがですか?」
アナスタシアが椅子に腰かけながらそう言うと、ディミトリーは微笑んで答えた。
「うむ、そうだな。実は少し体がだるい。そなたの言うとおり今日の仕事はここで切り上げよう」
そしてベルを鳴らし、従者に
「玉璽尚書と内相を呼んでくれ」
そう言いつける。
アナスタシアは少しほっとした顔で、お茶の準備をしながら
「アゼルスタンは治安部隊の攻撃を受けたようですが、ホルン・ファランドール様はじめ様々な方々の支援を受けてそれを凌いでいるようです。アニラ殿が知らせてくれたことですから間違いございません」
そう小声で言う。
ディミトリーはうなずいて、
「そうか……国内でも精鋭の噂が高い治安部隊を下したとなると、アゼルスタンに味方する貴族たちも動きやすくなるだろう。これはいよいよ朕も病気などに負けてはいられぬようになったな」
そう答える。その顔は将来起こるであろう大変革を見通して、固い決意に満ちていた。
そしてふと気づいたようにアナスタシアに訊く。
「ところで、今ホルン・ファランドール殿と言わなかったか?」
「はい、陛下もご存知の元ファールス王国女王のホルン様です」
「そんな方がどうしてアゼルスタンにお力を貸してくださるのだろう?」
ディミトリーが不思議そうに言うが、アナスタシアは微笑んで答えた。
「アニラ殿のお骨折りのようです。ホルン様は摂理の乱れを正す方、『蒼炎の魔竜騎士』なので、ファールス王国とは関係がないとおっしゃられていました」
「ふむ……『蒼炎の魔竜騎士』か……アニラ殿のことだ、摂理の乱れを正すとは、『摂理の黄昏』と関係があるのかもしれぬな」
ディミトリーがそう思案顔でつぶやいた時、
「陛下、お呼びでしょうか」
モーリェコフ内相とアダーシェフ玉璽尚書が顔を出す。ディミトリーは機嫌よく、
「おお、内相と玉璽尚書よ。朕は少し身体を休めたい。今日の政務に関してはそなたたちに任せてよいか?」
そう二人に訊く。二人ともホッとした顔で笑うと、
「そうしていただければ我らとしても安心いたします。政務の件はお引き受けいたしましたので、ゆっくりとお寛ぎいただきますよう、私どもからもお願い申し上げます」
モーリェコフがそう言うと、アダーシェフも
「はい、殿下が南方で大きな成果を上げられましたので、国内の情勢も大きく変わってくることと思います。その時のためにお休みいただいて、英気を養われてください」
そう言う。
ディミトリーは嬉しそうに何度もうなずくと、
「そうだな。では、二人とも頼んだぞ」
そう言って二人を退出させた。
「アゼルスタンがいよいよ帝国の刷新に動き始めました。本来なら朕が行うべきものをアゼルスタンは皇嗣たる故をもって事に当たっております。皇祖皇宗におかれましては、アゼルスタンの事業をお見守りいただき、帝国の発展にお力添えいただかんことを……」
ディミトリーは皇帝書庫で歴代皇帝の肖像一つ一つに報告し、そして祈りを捧げていた。彼にとってアゼルスタンは単なる皇太子ではなく、希望であり、心の支えでもあった。
(アゼルスタンは幼いころから才気にあふれ、心優しかった。けれどまだ15、政治や陰謀などには疎く、人生経験も浅い。そのようなアゼルスタンに苛烈な使命を負わせたのは心苦しいが、今の朕にできることはせめて皇祖皇宗の助けを祈ることだけだ)
そんな思いで額づいていたディミトリーは、ふと異様な雰囲気を感じて顔を上げる。そして10メートルほど先に一つ目に二つの角がある仮面を付けた人物がたたずんでいるのを見た。
その人物は身長180センチくらいか、灰色のマントを身に着けている。顔は分からないものの、燃えるような赤い髪が見えた。
「何者だ? ここは朕が許可した臣下しか入っては来れぬ場所だぞ?」
ディミトリーは、油断なく身構えつつ立ち上がってそう誰何する。その左手は佩剣の鞘を握っていた。
しかしその人物は、恐れる色もなくゆっくりとディミトリーに近づいて来る。ディミトリーは肩で息をしながら、男が5メートルほどまで近づいてきた時、再び鋭く声をかけた。
「そこで止まれ! 朕に用事があるのなら、まず所属と姓名を名乗れ!」
するとその人物は一瞬立ち止まったが、すぐに左手をマントから出す。その手には紫色の魔力が集められていた。
ディミトリーがそれを確認する暇もなく、その人物はあっという間に近づいて来て、ディミトリーの左側を通過する。
その刹那、ディミトリーは低く歌うような男の声を聞いた。
「Cto eta erasu disteii dreme in vas ne-Veroskyii」
「むっ⁉」
それと共にディミトリーは、胸に何かを埋め込まれたような鋭い痛みと息苦しさに襲われ、その場に昏倒してしまった。
仮面の男は、うずくまったディミトリーを振り返りもせずに右手を伸ばし、その場の空間を歪ませるとその中に消えて行った。
「……か、陛下」
ディミトリーは自分の名を呼ぶ優しい声と、温かくやわらかい感触に、ゆっくりと目を開ける。
「おお、陛下、お気づきになられましたか?」
嬉しそうな女性の声に、ディミトリーはゆっくりと顔を声がした方に向ける。皇后アナスタシアとアレクセイ・アダーシェフの心配そうな顔が見えた。
「朕は気を失っていたのか? 書庫にいたはずだが」
ディミトリーが言うと、アナスタシアはゆっくりと彼の左手をさすりながら
「お戻りが遅いので、侍従長が様子を見に行ったところ、床にお倒れになっていたところを発見いたしました。根を詰められたのではございませんか?」
そう優しく言う。
ディミトリーは首を振り、
「いや、朕はただ皇祖皇宗のお助けを祈っていただけだ。それより曲者は見なかったか?」
そう訊く。
「曲者?」
アナスタシアが顔を強張らせ、アダーシェフを振り返る。アダーシェフもびっくりして目を丸くしていた。
「いえ、侍従長からは単に陛下がお倒れになっているとしか聞いておりません。曲者が紛れ込んでいたのですか?」
アダーシェフも厳しい顔になってディミトリーに訊いた。
「うむ、面妖な仮面を被った灰色のマントの男だ。髪は赤かったな……ぐっ⁉」
曲者のことを話していたディミトリーは、突然呻いて頭を押さえ、寝台に突っ伏した。
「陛下!」
「陛下、いかが遊ばされました⁉」
アダーシェフとアナスタシアがそうディミトリーに呼び掛けたが、ディミトリーは苦しそうに身もだえして、
「ぐぐぐ……朕は帝国の将来のため、やむにやまれずそなたたちを処断したのだ。そなたたちが朕の意見に少しでも耳を傾けてくれたら、朕とて手荒な真似はしたくなかった……うおおっ!」
そう叫び、皇后の手を振りほどくと寝台に立ち上がって虚空を睨みつける。その瞳には異様な光が宿っていた。
「皇后陛下、お下がりください!」
ディミトリーの様子にいつもと違う不吉さを感じたアダーシェフは、急いでアナスタシアを後ろに下がらせ、自分は皇后を守るように立ちはだかりながら、
「誰か! 誰かある! 陛下のご様子が変だ!」
そう、室外に声をかけた。
その間にもディミトリーはゆっくりと寝台から降り、辺りを見回していたが、自分の佩剣が目に入るとそれを腰に佩き、剣を抜き放って虚空に叫んだ。
「朕は負けぬ、そなたらには負けぬぞっ!」
ビュンッ!
「陛下!」
「皇后陛下、危のうございます。お下がりください!」
滅茶苦茶に剣を振り回し始めたディミトリーに、驚いたアナスタシアが声をかけるが、アダーシェフは折よく駆け付けた侍従たちやオスラビア将軍と共にアナスタシアを下がらせると、
「陛下、気をお鎮めください!」
武に長けたオスラビア将軍がディミトリーを後ろから羽交い絞めにした。ディミトリーの剣が派手な音を立てて床に転がる。アダーシェフは素早くそれを拾い上げると、サッと体の後ろに回し、
「陛下、ここには陛下のお心を乱すものは何もございません。どうか落ち着かれてください」
ディミトリーの前に跪き、落ち着いた声で言った。
羽交い絞めに連れて暴れていたディミトリーは、その声でハッと気が付き、
「うむ……朕はいったい何を?」
そう、憑き物が落ちたような顔で言う。
オスラビア将軍はゆっくりと力を抜きながら、
「陛下が急に暴れはじめられましたので、畏れながら押し留めさせていただきました。ご無礼は平にご容赦を」
そう謝罪と共に言う。
「暴れた? 朕がか?」
何も覚えていないように訊くディミトリーに、アダーシェフは剣を返しながら
「はい、お疲れがたまっておいでなのでしょう。マルコフも参っておりますので、お薬を服用なされて、心平らかにご休憩ください」
そう勧める。侍医のマルコフが人垣を割って現れて、
「無理をなさいますと心身に疲れがたまり、あらぬものも見えるようになります。まずはお心をお鎮めください」
そう言って粉薬を差し出す。ディミトリーはおとなしくそれを受け取って飲むと、
「……朕は疲れた」
そう一言言って寝台に横になった。
「……いったい何があったのでしょう? いつもの陛下ではございませんでしたが……」
アナスタシアが眉を寄せてつぶやくと、これも何かを考えていたアダーシェフは、
「嫌な予感がします。イヴデリ公のもとには魔族が出入りしているという噂も聞きますし、陛下がおっしゃった曲者がイヴデリ公の意を受けた魔導士という可能性もございます。私はその曲者について調べますので、皇后陛下におかれてはアニラ・シリヴェストル殿を至急、呼び出されて相談されてはいかがでしょうか?」
そう言うと、オスラビア将軍にも
「陛下が再びお心を乱される可能性もあります。将軍、気の利いた護衛を密かにここに配置していただけませんか?」
そう頼むと、オスラビア将軍は黙ってうなずく。
「このことがイヴデリ公の耳に入ると、彼は陛下を退位させようと動き出すかもしれません。陛下のご乱心が曲者のせいだとしたら、そのような計略にはまるわけには参りません。皆このことは厳に秘密にしてください。そして陛下はしばらくご静養されることにいたします。アダーシェフ、オスラビア将軍、そしてモーリェコフ、事がはっきりするまではよろしく頼みましたよ?」
アナスタシアは、急を聞いて内相モーリェコフも駆けつけてきたのを見ると、凛とした態度で皆に言い、
「アゼルスタンの努力を無にするわけには参りません。帝国の未来のため、どのような奸計が張り巡らされようと、皆で乗り切らねばなりません。皆の力を私に貸してください」
そう、ディミトリーの寝顔を見ながら付け加えた。
【『16 魔印の復活』に続く】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
いよいよ『摂理の黄昏』をはじめ今作の根幹の部分に差し掛かってきました。
一体『摂理の黄昏』とは何なのか、『チェルノボグ』の正体は? 謎の解明へと物語は進みます。
次回もお楽しみに。