13 蒼炎の騎士
アゼルスタン追討に動き出したウラル帝国治安軍。しかし指揮官の一人アラン・ニンフエールは皇太子の存在を知り、戦闘を避けるため画策する。
そして治安軍を迎撃するため出撃したホルンは、指揮官不足への対策として思いもよらぬ人物を推挙する。
「ペイノイにいる偽の皇太子を処断せよ。オプリーチニキの偵察によれば、敵はペイノイ北方にある断崖に陣地を造っているそうだ。兵力は約5百から千程度とのことだが、かなり魔力が強い戦士がいるそうだから気を付けてかかれ!」
ヴォルゴグラードにあるウラル帝国治安部隊南方方面司令部から、麾下の部隊にそのような命令が下った。
「わずか千程度の敵に、南方方面の第4軍が総がかりってのも近ごろ珍しいものだな。俺たちだけでお釣りが来そうなものだが、そんなに強い奴らなのかな?」
第41治安旅団長リンゼイ・フョードロフが言うと、
「ここしばらくおれたちの出番がなかったですからね。少しでも戦闘のカンを鈍らせまいって言う司令部の親心かもしれませんね」
轡を並べて進む第43治安旅団長アンドレイ・フランソワがそう言って笑う。
「それにしちゃ、司令官の顔は芳しくなかったぜ。方面指揮官のガルバニコフ将軍にしても悲愴な顔をしていたしな。今度の作戦、なんか匂うぜ」
フョードロフは薄い唇を歪めて言うと、先を行く部隊を見て
「……ニンフエールはえらく急いでいるじゃないか。あいつの部隊はつい先月に編成完了したばかりだろう?」
そう言う。フランソワもうなずいて、
「ええ、それで彼の部隊には今回は前路索敵が割り当てられています。おれたちの露払いってところですね。だから急いでいるんでしょう」
そう言う。
フョードロフはそれを聞いて破顔一笑して、
「はは、『百年に一人の将器』と言われたニンフエールにとっちゃ、くそ面白くもない役割だろうな。まあ、その分俺たちの活躍をじっくりと見ていてもらおうか。俺たちにも先輩の意地ってもんがあるからな」
そう言うと、今度は後ろを見やって肩をすくめて言う。
「それはそうと、オヤジまで出張ってくる必要あったのかな? なんかオヤジに後ろにいられると、督戦されているみたいで尻がむずむずするが」
「新兵が多いニンフエールの旅団まで出撃させていますからね、オヤジも大事を取ったんでしょうよ」
フランソワの言葉に、フョードロフは納得したようにうなずくと話題を変えた。
「まあ、そう言うことかな。ところでフランソワ、敵さんにぶち当たったら先鋒は俺の旅団が務めることにするぜ」
「仕方ないですね。まあ、先輩の部隊の方が戦歴は長いですからね。おれは適宜先輩の指揮に従って動きますから、しっかり連携の方は頼みますよ?」
「おお、任せておけ」
フョードロフとフランソワは、そう言い合って笑った。
一方で、第45旅団を指揮して先を急ぐアラン・ニンフエールは、馬の背に揺られながら兄から聞かされたことを思い出していた。
(伯父さんが賞賛してやまなかったデューン・ファランドール様。これから向かう敵はその子と言っても過言ではないお方が加勢しているという……しかも、我々が敵としているのは紛れもない皇太子殿下だって?)
アランは、兄レオンから今回の出撃は皇帝の意思ではなく、摂政イヴァンの命令であることや、事前にオプリーチニキがホルンたちに攻撃をかけ、完膚なきまでの敗北を喫していることも聞いていた。
(とすると、今回の作戦には何ら帝国のためという大義名分はない。命令だから出撃はしたが、そのような無道な命令で部下たちに被害を出すのも考えものだ)
アランはそう考えたため、第4軍司令官であるチェトバンナから前路索敵の命令を受けたのを幸いに、他の部隊から先行して極力位置を悟られないように行動しようと考えていたのである。
「敵はペイノイの北方にある台地に占位していると聞く。あそこの台地は東方からでないと偵察がしにくい。前進基地のアティラウについたら、少々遠回りになるが左に進路を振って台地の北を回り込むぞ」
アランは部下にそう告げると、第45旅団とともにヴォルガ河を下る舟に乗り込んだ。
第45旅団の出発を見送った第4軍司令部では、司令官サライ・チェトバンナが幕僚に不審そうに声をかけた。
「ニンフエールの旅団はいやに急いでいるが、どういうことだろうな?」
幕僚の一人が答える。彼は一度ファールス王国に使者として遣わされた経験を持っていて、ペイノイ方面の地理には詳しかった。
「情報によると敵軍はペイノイの北方にある高台に陣地を構えているそうです。あそこの台地は北から西、そして南にかけて切り立っていますから、東側に回り込んで陣地内を偵察しようというお考えでしょう。旅団の行軍経路が伸びることを見越して、早めに出発されたのでしょう」
「そうか、それなら多少、他の部隊との間隙が開いても仕方ないが、連絡は取れるようにしてもらいたいものだな。ニンフエールのことだからその点に抜かりはあるまいが、念のため伝令で部隊間の連絡手段確保について確認を取っておけ」
チェトバンナ将軍の命令を受けて、軍司令部から伝令が走った。
「うむ、その点については旅団から連絡中隊を分派することにしている。心配要らない」
ニンフエールは、軍司令部からの伝令に笑ってそう答えた。
しかし、彼は一人になると、
(さて、問題はどうやって部下たちに責任が及ばないように旅団を戦闘区域から離脱させるか、だな……)
そう考えていた。
ヴォルゴグラードから出撃した治安部隊の先鋒、第45治安旅団は、次の日の午後にはルーン公国の首府であるアストラハンに入った。
「ウラル帝国の治安部隊か。思ったよりも早く着いたな」
アストラハンの市街地を行進する第45旅団を遠目に眺め、国主のガイウルフ・ルーンはそうつぶやくと、公妃ナスターシャに
「すぐにソフィアに知らせないとな。誰を遣わしたがいいと思う?」
そう訊くと、ナスターシャが答えるより早く、
「我がソフィアには伝えよう。ガイウルフ殿はおっつけやって来るチェトバンナたちの相手をしてやるとよい」
そう言いながら、白髪に黒い目をした少女が現れた。
少女は、赤と黒で幾何学的な模様が刺繍された厚手のワンピースに太い革帯を巻いている。下は厚手のズボン、革の沓を履いていた。
「おお、アニラ殿。そなたに行ってもらえるなら安心だ」
ガイウルフが喜んで言うと、アニラは感情がないような顔で首を振り、
「いま府内を行進している部隊の指揮官、アラン・ニンフエールはホルン殿の養親、アマル・ニンフエールの関係者だ。彼は早めにここを出発するが攻撃には恐らく参加すまい。問題は続いてやってくる2個旅団。ホルン殿の準備のために、そ奴らがアストラハンにいる時間は長ければ長いほど良い。そう心得るのだな」
そうガイウルフに忠告めいたことを言って姿を消した。
それを聞いたガイウルフは、すぐに第45旅団司令部を訪ねた。
「おお、ルーン公自らのお出迎え、痛み入ります」
ガイウルフの訪問を聞いたアランは、笑顔で陣門に出て来てあいさつを交わす。
「今回は賊の討伐、誠にお疲れ様です。荒涼たるステップ地帯は行軍に無聊を伴います。旅団将兵の皆さんの無聊を慰めるため、蒼の海の幸をお届けいたしました」
ガイウルフの言葉に、アランは斜めならず喜んで
「おお、それはありがたい。輜重隊長に受領させましょう。ルーン公はどうぞこちらへ」
そう、ガイウルフを自分の天幕へと案内する。
「国家の大事を話す。お前たちはこの場を外してくれ」
アランはガイウルフを幕舎に招き入れると、近習をそう言って遠ざけると、
「ルーン公、私が向かっている先に皇太子殿下と公のご息女がいらっしゃると承っていますが、それは本当ですか?」
そう、直截に訊いた。
ガイウルフはアランの真意を測りかね、
「うむ、そう言った噂も流れていますな……」
そう言葉を濁した。
アランは真剣な顔で
「ルーン公、私はあなたの帝国への忠誠を測りに来たのではありません。私は軍司令部から今度の作戦は皇太子殿下を詐称する不埒者の討伐だと聞いて部下を率いて出てきたのですが、私の兄から皇太子殿下ご本人がいらっしゃると聞かされているのです。それが本当なら皇室の守護者たる治安部隊が陛下の継嗣に刃を向けようとしていることになります」
そう一息に言うと、息を継いでガイウルフの目を見ながら続けた。
「ルーン公のご息女は皇太子殿下の許嫁、私はひょっとしたらルーン公は本当のことを知っていらっしゃるのではないかと思い、ぶしつけではありますがご質問させていただいた次第です。本当のことを教えていただけませんか?」
「……それを知って、そなたはどうするつもりなのでしょうか?」
ガイウルフが温顔を保ったまま訊くと、アランは首を振って答えた。
「治安部隊の『国内の安寧を保ち、皇室の安泰を図る』という趣旨に則って行動するだけです。私は部下に無道な戦いをさせるつもりはございません」
「お兄様は確かオプリーチニキの司令監察でしたな。なぜお兄様は賊の中に皇太子殿下がいらっしゃるなどと不敬なことを申されたのでしょうな?」
「単なる噂なら兄の言葉は不敬に当たるでしょう。けれど兄は敵軍の中の主要人物、ホルン・ファランドール殿と会ってきたとのことです。ホルン殿はファールス国王として王国の復興に尽力された英傑、そのような人物が嘘を申すはずはございません」
アランは必死であった。指揮官として自らの今後の行動を決定するために必要なことを知りたいという気持ちが顔中にあふれている。
それを見て、ガイウルフはかすかにうなずくと、小さな声で答えた。
「そうですか、アニラ殿が『蒼炎の魔竜騎士』と呼んだお方が我が娘と共に殿下のもとに……」
ただそれだけだったが、アランにとってはそれで十分だった。
アランは長いため息をつくと、ややあって笑顔でガイウルフに告げた。
「……よく分かりました、私は任務に戻ります。貴重な情報をありがとうございました」
町の高台にある屋敷に戻ったガイウルフは、第45旅団が粛々と東に向かうのを望見して、低くつぶやいた。
「……あのアランのような、陛下や殿下に忠誠な武将が多いとしたら、殿下の試みも夢ではなくなるだろう。風向きが変わり始めたな」
★ ★ ★ ★ ★
ペイノイの陣地では、アゼルスタンの天幕で来たるべき治安部隊とどう戦うかが協議されていた。
「ホルン様の情報では、敵は第4治安軍のうち2個旅団2万と、軍司令部直轄の戦闘団5千ということです。一方でこちらには6千ほどいますが『攻者3倍の原則』から言えば、こちらが地の利を得ているとはいっても苦戦する兵力差です」
バグラチオンが眉を寄せて言う。
彼の心配も故ない事ではない。4分の1以下の兵力であることに加え、兵士たちも戦場で戦った経験があるものは少なく、武器を扱うことすら初めてというものも多かったからだ。
指揮官の方も彼を始めホルン、ガルム、そしてカンネーに将としての経験があるだけで、他にはカンネーの部下であるアズライールとダヤーン、ガルムの部下であるエイセイ、そして没落小貴族の跡取りヴァルターとカーヤのトラヤスキー兄妹がいたが、一軍の将とするには力不足だったし、ルーン公国の公女ソフィアや魔導士マルガリータは、どちらかというと参謀的立ち位置が似合っている。
「兵力が少ないのは部隊編成と作戦でカバーするしかないね。特に大事なのが部隊編成だよ。ガルムさんにはエイセイって言う副将がいるから問題ないとして……」
ホルンは翠色の瞳でソフィアを見て訊く。
「お姫様、あなたは殿下の側で殿下を守ってほしい。兵の指揮は執れるかい?」
ソフィアの瞳に困惑の色が浮かぶのを見て、ホルンはカーヤに訊く。
「カーヤ、悪いがあなたを殿下の指揮下に入れたい。お姫様と共に殿下を補佐してほしいんだ。兄妹を離れ離れにするようなことはしたくないんだけれど、了承してくれるかい?」
カーヤはチラリと兄を見る。ヴァルターがうなずくのを見てカーヤもうなずいて答えた。
「分かりました。お引き受けいたします」
ホルンはニコリとすると、兄のヴァルターに言う。
「ありがとう。それでお兄様にはバグラチオン将軍の副将を頼みたいけれど」
「うん、ヴァルターなら異存はないぞ。前の戦いでの部隊の進退は見事だったからな」
バグラチオンがおっかぶせるように言うと、ヴァルターは頬を染めてうなずき、
「若輩者ですが、将軍の下で努力しましょう」
そう笑う。
ホルンは次にカンネーに言った。
「カンネー、私は仲間を引き裂くようなことはしたくないんだが、ダヤーンを私の副将にもらってもいいかい?」
カンネーは驚いて言う。
「えっ⁉ それはダヤーンにとっても願ってもないことですが、陛……じゃなかったホルン様にはマルガリータ殿がいらっしゃるのでは?」
するとホルンは、さらりと言ってのける。
「マルガリータには、もう一人の将の副将として働いてもらいたいのさ」
「もう一人の将?」
カンネーがオウム返しに訊く。アゼルスタンもバグラチオンも、ホルンの言葉の意味を考えているように首をかしげた。ただ、ガルムとカーヤ、そしてマルガリータ自身は、ホルンの考えが分かったらしく、それぞれがニヤリとしたり、心配そうな表情を浮かべたり、そして薄い笑いを浮かべたりしていた。
「ああ、この陣地には6千の兵がいる。一人の将が千ずつ率いるとしたら、アゼルスタン殿下、バグラチオン将軍、ガルムさん、カンネー、そして私で一人将が足りない。だからもう一人の将の出番ってことさ」
ホルンの答えに、バグラチオンが首をかしげたまま訊く。
「おっしゃることは分かります。一人が千2百ずつ率いるよりも部隊の管理はしやすいでしょう。けれどこの陣地に、戦場で兵たちを引っ張って行けるだけの実戦経験がある者がいるでしょうか?」
ホルンはニヤリとして答えた。
「いるのさ。腕が立ち、殿下への忠誠心もあって、戦場での指揮官の経験もある奴がね」
陣地の中央近くに、特に厳重に警備された天幕がある。
中央付近にはアゼルスタンやバグラチオン、そしてホルンなどこの軍の中枢を占める人物の天幕が配置されているため、もともと厳重に警戒されていたが、その天幕は入口だけでなく全周を警戒できるように兵士たちが立番している。
と言って、人の出入りがあるわけでもなく、天幕の中はひっそりと静まり返っていた。
軍議の後、ホルンたちが訪れたのはそんな天幕だった。
「中の人に用事がある。入っていいかい?」
ホルンが番兵に訊くと、兵士たちは槍を掲げながら
「はい、かなり回復しているようですので、話はできると思います」
そう言いながら、天幕の入口を開けた。
「ホルン・ファランドールだ。フランソワ・リュスコフ殿、話がある。入ってもいいかい?」
ホルンが天幕の名からそう声を掛けると、静かな声で答えがあった。
「覚悟はできている。入って来るといい」
ホルンはその声を聞いて、マルガリータと共に天幕へと入る。リュスコフは換気のために引き上げられた天井の幕の間から差し込む光を受け、寝台に座っていた。
「えっ⁉ ホルン・ファランドール様?」
リュスコフは、まさか本当にホルンが来るとは思っていなかったらしく居住まいを正し、差し向かいに座ったホルンに
「まずは、助けてくれたことについてお礼を言わねばなりません。私もまさかヤヴォーロフが私を攻撃するなどとは思ってもいませんでした。敵である私を救っていただき感謝いたします」
そう言って頭を下げる。そして顔を上げると、真剣な顔で訊いてきた。
「私の処刑が決まったんでしょう? いつになりましたか? その前に殿下にお詫びしなければ」
ホルンは翠色の瞳をリュスコフに当てて訊いた。
「あなたは、どうして殿下を攻撃しなかったんだい?」
するとリュスコフは、キッと顔を上げて答えた。
「ホルン様はザール陛下に攻撃ができますか?」
ホルンはクスリと笑うと、
「ああ、笑ってしまって済まないね。けれど真っ直ぐな人を見るととても清々しい気持ちになって、思わず笑顔が出てしまうのさ」
そうリュスコフに謝ると、彼女も居住まいを正して言った。
「今日はあなたにお願いがある。この部隊で指揮を執り、殿下の力になってほしいんだ」
「えっ?」
リュスコフは思わず声を上げた。オプリーチニキとしてアゼルスタンの命を狙った自分に、まさか指揮官としてのオファーが来るとは想像もしていなかったらしい。
「あなたにとっては辛いお願いかもしれないが、この部隊にはまとまった数の兵を指揮できる人材が少ない。元の仲間に刃を向けることにはなるが、そこは殿下のためと思ってこらえてほしいんだ」
ホルンが言うと、リュスコフは
「……それは、ホルン様のお考えですか?」
そう訊く。ホルンは首を振った。
「いや、反対意見もあったが、最終的には殿下も同意された。ちなみに殿下は最初からあなたを麾下に加えたいという意向だったよ」
「そうですか……」
リュスコフはうつむいて何かを考えていたが、不意に顔を上げてホルンを見つめ、
「ホルン様、あなたが殿下とお会いになったのはどこでしょうか?」
そう訊く。ホルンは怪訝な顔をして、
「……キルギスの平原だったね。ファールス王国の版図に入ったばかりのところだった」
そう答える。
「その時、誰か殿下を襲っていませんでしたか?」
「ああ、騎兵と歩兵、だいたい50人くらいだったか。ちょうど殿下が斬られようとしていたので、つい身体が動いてしまった……それがどうかしたかい?」
ホルンが答えると、リュスコフは目を閉じて告白する。
「その部隊の隊長はジャン・リュスコフ、私の兄です。やはり兄も殿下を狙う任務を帯びていたのですね」
それを聞いて、ホルンも眉を寄せて言う。
「そうかい、あなたの兄上……知らなかったこととはいえ、それはすまないことをしたね」
「……いえ、肉親の情としては残念な気持ちもありますが、兄の武運が拙かっただけのこと。ましてや帝国軍人としての理念に反する任務に従っていたのであれば、兄が運から見放されたのも当然と言えます」
リュスコフはそうつぶやくように言うと、ホルンの顔を見て、
「兄の最期の様子を知ることができ、疑問も晴れました。兄弟で殿下を狙った罪は、殿下のお力になることで償いましょう」
そう、身体に魔力を沸き立たせて言った。
「ふーん、火の魔力か……ところで一つ訊きたいんだけれど、あなたは『魔竜の宝玉』ってものを持っているのかい?」
ホルンが訊くと、リュスコフはうなずいて、首から下げている袋からガラス球のようなものを取り出して言う。水晶でできた球の中には濃い紫色の魔力が渦を巻いていた。
「オプリーチニキで席次が5位以上の魔剣士や魔導士に授けられたものです。持つ者の魔力を増幅させ、怪我などの治りも早くなるものだと聞いていましたが、よくこれのことをご存知ですね?」
リュスコフが驚いた顔をして訊く。ホルンは翠色の瞳を光らせ、重ねて訊いた。
「その魔力を使ったことはあるかい?」
すると意外なことに、リュスコフは首を振った。
「いえ、アンドロポフが一度使ったことがありますが、それを見て使う気が起こらなくなりました。確かに魔力は劇的に増加しますが、その代償として人狼化したり、その後人格が変わったりするのを近くで見ていましたので……」
「だからあなたには殿下や陛下への忠誠心が残っていたわけだね。その魔力は人間が扱うべきものじゃないことは、うすうす気づいているだろう?」
リュスコフは青い顔でうなずく。その時、天幕の外から番兵の声がした。
「ホルン様、アニラ様がお越しになったので、急ぎ殿下のところにお戻りくださいとのことです」
それを聞くと、ホルンは立ち上がってリュスコフに笑いかけた。
「だそうだよ。一緒に殿下のところに参ろうじゃないか」
アゼルスタンの天幕に入ると、
「おお、元気そうだな、『蒼炎の魔竜騎士』。おや、そちらは?」
と、アニラが人懐っこい笑顔でホルンに近寄ってきたが、後ろに控えたリュスコフを見て目を細める。
「おお、リュスコフ、ここに来てくれたということは、力を貸してくれると考えてもいいのかな? 僕はそなたの力をぜひ借りたいのだ」
リュスコフを見たアゼルスタンが、笑顔で近寄ってリュスコフに話しかける。リュスコフはサッと跪いて
「はい、兄ともども殿下に働いた無礼については、殿下をお守りすることで少しでもお許しいただきたく存じます」
そうあいさつする。アゼルスタンは首を振り、
「そなたは僕を討とうとしたヤヴォーロフにはっきりと反対の意を表した。そのことと、僕に力を貸してくれることで罪は償っている。昔のことは気にせず、未来のウラルのために前へと進もう」
そう言うと、リュスコフは顔を上げて
「はい、殿下のお心が身に染みました」
そう感激の面持ちで答えた。
(ふん、いい君主ぶりじゃないか。ザールにはまだ及ばないにしても、ファールス王国周辺の国では賢君の部類に入る皇帝になるだろうね)
ホルンは、アゼルスタンとリュスコフの間に流れる感情のつながりを敏感に察知して、心の中で微笑んでいた。
そこに、アニラが口を挟む。
「……麗しい情景だが、少しいいかな?」
アゼルスタンはアニラを見て、恐縮したように言う。
「これは済みません。アニラ様からのお話は何でしょうか?」
するとアニラは、厳しい目でリュスコフを見つめて訊いた。
「そなたから異質な魔力を感じる。そなた、『魔竜の宝玉』を所持しておるな?」
リュスコフはうなずくと、先ほどホルンに見せたように、胸元から怪しく光る水晶を取り出し、アニラへと手渡した。
「私が持っていても詮無いもの。何かお役に立つのであれば差し上げます」
リュスコフの言葉に、アニラは表情を緩めて
「ふむ、この魔力が人間の扱うべきものではないと知っているようだな。それなら我も遠慮なく譲り受けよう。これで『摂理の黄昏』の謎に一つ迫れることだろうて」
そう笑った。
「……『摂理の黄昏』……私がオプリーチニキに所属していた時、イヴァン殿下から密かにそのことについて調査せよとのご依頼があったことがあります。実際には当時のトロツキー副司令官とイワーナ大魔導士、それからゲオルグ・ジュルコフ筆頭魔導士が調査に当たったようですが」
アニラの言葉を聞いてリュスコフがそうつぶやく。
「けれど、その結果については隊内でも秘密にされている。内容について知っているのは今じゃ摂政殿下とジュルコフとか言う魔導士だけってことだね?」
ホルンが言うと、リュスコフはうなずいて答えた。
「はい、ジュルコフ殿は現在、大魔導士として魔導士隊を総括する位置におられます。ただ、陛下への忠誠心があれほど強かったジュルコフ殿が、陛下の意思を無視するような命令にも従っておられることが不思議と言えば不思議です」
「ついでに訊くよ。魔戦士隊のトップは誰だい?」
「魔竜剣士のイヴァン・コルネフ様です。その下に魔剣士長としてパーヴェル・レンネンカンプ殿、先任魔剣士ミハイル・カツコフ殿がおられます」
「その三人の人となりを教えてくれないかい?」
「コルネフ様は生粋の戦士です。慎重で、かつ果敢、自らを律すること厳しく、常識に富まれています。作戦は緻密で実行は大胆、そして部下に対しても慈愛と規律をもって臨まれています。隊員の信頼は篤いものがあります」
リュスコフの評を聞いて、ガルムが左目を細めてつぶやく。
「それが事実なら、コルネフは相当な強敵だな。ホルンさん、コルネフって奴の人となりはザール陛下に似ていないかい?」
ホルンはガルムの言葉にうなずいて、リュスコフに先を促す。
「ああ、小型のザールってところかな? それであと二人は?」
「はい、レンネンカンプ殿はまさに猛将です。隊に対する忠誠心も篤く、率先して艱難に当たるお方です。やや強情なところがありますが、総じて隊員の受けはいいです。
カツコフ殿は物静かですが剣を取っては隊内随一で、コルネフ様の片腕として魔戦士隊の作戦面を一手に引き受けています。注意深く、時には狡猾とも受け取られかねない性格から、隊内での人気はそれほどではありませんが、一部の隊員は非常に彼を慕っています」
リュスコフが二人を評し終えると、ホルンはアゼルスタンの顔を見て肩をすくめると言った。
「聞いたかい? 殿下。私が見るところ相手の中で最も危険なのはジュルコフ、手強いのはコルネフだね。いずれにしてもすべては治安部隊を叩いてからさ。強敵を叩く前に、まずは目の前の敵に全力を注ごう。手始めに、陣地の見直しだね」
★ ★ ★ ★ ★
アストラハンを出発したアラン・ニンフエール率いる第45治安旅団は、5日ほどの強行軍で前進基地となるアティラウに到着した。
「本隊の到着後、すぐに作戦行動がとれるよう、官舎の借り上げや物資の集積を行う。輜重隊は物資の集積にかかれ、官舎借り上げなどの庶務は司令部で行う」
アランは、部隊が事前に借り上げていた宿舎に入ると、まずそう命令を出すとともに、アティラウの実質的な支配者であるアドウルフ・ルーンと面会し、
「今回の行動は貴殿の領土に野心があるのではなく、帝国に刃向かう賊軍の討伐だ。その点は安心したまえ」
そう相手の警戒を解くとともに、
「ただ、軍事行動であるからには機密保持の必要がある。作戦期間中、この町からの出入りはわが治安部隊の許可が必要であることは理解してほしい。それ以上に住民に迷惑をかけることはしない」
そう釘を刺すことは忘れなかった。
アドウルフは堀の深い顔に心配そうな表情を見せていたが、アランの説明に納得したのか表情を緩め、
「了解いたしました。私からも町からの出入りに対して貴軍の許可を得ること、貴軍の存在をみだりに口にしないことなどについて布告を出しましょう」
そう言うと、小声で付け加えた。
「アニラ様からお話は承っています。ペイノイの陣地北側から東に抜けると、沼沢地があります。迷子になるには十分な広さだそうです」
びっくりするアランに、アドウルフは目配せをする。その意を悟ったアランもまた笑顔で答えた。
「そうしていただくと非常に助かる。私の部隊は一両日中に出発するが、2・3日もすればチェトバンナ司令官殿の部隊が到着するはずだ。そちらの方の対応もよろしくお願いしておくぞ」
アランはアドウルフから思わぬ情報を得て、急いで部隊に戻るとペイノイ方面の要図を広げる。そこには沼沢地の記載はなかった。
(帝国の兵要地誌を管轄する後方部調査課も、ここまで調査員は派遣していないらしいな)
アランはそう思うと、今後の行動を大まかに決めた。
アティラウに滞在すること3日、必要な物資を集積したアランは、部隊の攻撃発起地点とされたクルサリへの物資輸送を手配し、自らは1週間分の物資と共に第45旅団を連れて直接東へと進撃を開始した。
一方で、第45旅団に遅れること2日、チェトバンナたち第4軍司令部と第41旅団、43旅団はアストラハンに入城した。
ガイウルフは、この時も城門へと部隊を迎えに出て、チェトバンナ軍司令官、フョードロフ第41旅団長、フランソワ第43旅団長たち指揮官や幕僚を歓待した。
そのため、兵士の休養と装備の補充のために2日間を予定していた滞在期間が、4日間に伸びてしまった。
(ここで2日稼いだ。後はアドウルフがどれだけ頑張ってくれるかだな)
いい気持ちで東へと出発する第4軍を見送った後、ガイウルフは東の空を見上げてそう考えていた。
アティラウに到着した治安部隊は、アドウルフからまたもや下にも置かぬもてなしを受けた。
「第45旅団長のニンフエール様から、皆様にも十分なもてなしをと依頼されておりました。今回の征旅が所期の目的を達成されるようにご祈念申し上げています」
アドウルフからそうあいさつされたチェトバンナ司令官は、喜びも露わに
「それはありがたいことだ。第45旅団はどうしている?」
そう訊くと、アドウルフはニコリと笑って、
「皆様がクルサリへと進出しやすいよう、既に物資を配送しています。ニンフエール様は2日前にいずこかへと出発されました」
そう答える。それを聞いたチェトバンナは、
(ふむ、それでは第41旅団と第43旅団も早めにクルサリに展開しておく必要があるな)
そう考えると、フョードロフとフランソワの両旅団長を呼び出した。
呼び出された二人は、渋い顔をそろえてチェトバンナのもとに顔を出す。
「どうした二人とも、何かあったのか?」
チェトバンナは、二人の顔色を見て命令を言う前にそう訊く。先任のフョードロフが苦々しい顔で答えた。
「司令官殿、この町挙げて歓迎してもらうのは結構なんですが、兵士たちが勝手に酒を手に入れて、ほとんどの奴らが酔いつぶれています。俺たちも部下たちには注意をしますので、司令官殿からもこの町の責任者に対して兵士相手に酒を売ることは厳に慎むよう注意していただけませんか?」
それを聞いて、チェトバンナも渋い顔をして
「ふむ、兵士たちは日常、楽しみが少ない。酒という誘惑には勝てんのだろうな。分かった、私からアドウルフ殿に申し入れておく。いつ頃出発できそうだ?」
そう訊く。今度はフランソワが答えた。
「結構強い酒らしく、今から断酒させても酒が抜けるのは明日の午後でしょう。明後日には必ず出発できるようにいたします」
それから2日後、やっと2個旅団がクルサリに向けて出発するのを見送りながら、
(ここでも1日は稼いだ。都合3日の時間を、殿下たちがどう生かすか……そこが見ものだな……)
アドウルフはそう考えていた。
ペイノイの陣地では、第4治安軍の動きは手に取るように分かっていた。ガイウルフ、アドウルフからの使者がひっきりなしに陣地を訪問し、治安軍の状態を通報してくれていたからである。
「この戦いは、前の対オプリーチニキ戦以上に大事な戦いだよ。殿下の武威を天下に知らしめるため、みんな心を一つにして戦っておくれ」
アゼルスタンの幕舎での作戦会議の冒頭、ホルンはそう言って全員の顔を見る。それを受けて総大将格のバグラチオンがうなずいて立ち上がる。
「ソフィア様のおかげで、敵である第4治安軍の動向は手に取るように分かっています。彼らは2個旅団でクルサリに前進しそこから出撃してくることも、1個旅団が北の平原を迂回して東側に回り込もうとしていることも、既に各将軍に知らせたところです」
その言葉を受けて、各将軍……ホルン、ガルム、カンネー、フランソワ・リュスコフそしてアゼルスタンがうなずく。
そのうなずきを見て、バグラチオンはちょっと戸惑ったような視線をアゼルスタンとホルンに向ける。そして二人が笑顔でうなずくのを見て、思い切ったように言った。
「この陣地は、殿下と私が2千の兵で守る。残りの4千は、ホルン様の指揮のもと、敵2個旅団を野戦によって殲滅する。前進陣地はコルケッドとする」
「うん、それでいいよ。情報によれば奴らはアティラウを昨日出発したらしい。まあ、だいたい4・5日、急がなければ1週間でクルサリに着くだろう。そこから中継陣地も作らずにここを襲うってことはないはずだよ、遠すぎるからね。中継陣地の地点までまた2・3日、陣地構築と休養に2日は必要だろうから、会敵はだいたい10日後だね。テンポが悪いけれど、普通の軍隊ってそんなもんさ」
ホルンがのんびりした声でそう言う。そんなホルンにソフィアが心配そうに言った。
「数が違い過ぎます。皆さんが知恵を絞った作戦を疑うわけではございませんが、わずか4千で2万を相手にどう戦うのでしょうか?」
すると、リュスコフの後ろから、副将としてつけられたマルガリータが笑って言う。
「心配要りません。本来ならば第4軍はすでにボランクイに進出しているはずですが、行程にして4・5日分は遅れています。この遅れが私たちにとっては幸運をもたらし、敵にとっては致命的な時間の浪費となるでしょう」
「うむ、我の『天空の眼』にも、マルガリータ殿の言った幸運と不運が見えておる。心配せずに殿下と共に今後の方策を考えておくことだ」
自信を顔に表して言うマルガリータとアニラの言葉に、ソフィアはまだ不安を残した顔ではあったが、
「そうですか……私の師匠がそうまでおっしゃるなら、何か奇策があるのでしょうね」
そう言ってうなずいた。
誰ももう意見を言う者がいないと見て取ったホルンは、ゆっくりと立ち上がると
「さて、それじゃ行こうか。カンネー、あなたに先鋒を任せるよ」
ホルンを中心とする兵団4千は、ペイノイの陣地から北西に20キロほど進んだ寂れた村落、コルケッドに到着すると、そこに野戦陣地を築いた。
「ルーン公国の協力で敵の行動も分かったし、行軍も遅滞しているからやりやすいね。おかげで陣地構築の時間が稼げたし」
ホルンが出来上がった陣地の中でつぶやくと、
「ホルンさん、戦は水物だ。こちらは姫様をはじめとして『魔力の揺らぎ』を扱える者は多いが、そもそもの兵数の差を忘れちゃいけないぜ。兵たちも敵が余りに多いとびっくりして戦意を喪失するかもしれないしな」
ガルムが左目を細めて言う。
「俺たちもそれを心配しています。特に俺たちの部隊には戦なんてしたことがない奴らばかりが配属されていますからね。士気が阻喪した時、どうやって統制を保とうかって心配していますよ」
カンネーもアズライールと共に心配顔で言う。
「そんなに心配しなくていいよ。敵さんの度肝を抜いて、敵さんこそ動けなくすればお互いに損害は出ない。そうだろう?」
ホルンはのんびりとした声で言うと、ガルムは呆れたように答えた。
「ホルンさん、そりゃあなたは『終末預言戦争』を生き抜いた戦士だ。けれどいくらホルンさんが強いといっても限度がある。無茶してあなたが怪我でもしたら、その途端にこの陣地はぺしゃんこに潰されちまうぜ?」
「あれ、いつ私が戦うと言ったかしら? 私が今回、期待しているのは……」
ホルンはそう言いながら天空を見て、
「ブリュンヒルデさ。相手は数が多いといっても人間、それがドラゴンに敵うとでも思うかい?」
そう笑う。それを聞いてガルムたちはホッとした顔をする。
「私はどうやら、『蒼炎の魔竜騎士』って二つ名で呼ばれることになるらしいからね。それならブリュンヒルデにもどんどん力になってもらおうって思ったわけさ」
★ ★ ★ ★ ★
アティラウを出発したアラン・ニンフエール率いる第45治安旅団は、一路東を目指して行軍を続けたが、湿地帯にはまり込んでいた。
「こんな所に湿地帯があるなんて、後方部測量課や調査課が調製した地図には載っていないものです」
尖兵中隊からの報告を受け、実際に湿地帯を目にしたアランは、どうするべきかを決めかねるふりをする。
「先任参謀、どうしたものかな。我々の任務は敵陣の偵察と前路索敵、このままでは旅団は二進も三進もいかなくなるが」
先任参謀も困り顔で、尖兵中隊からの報告を吟味していたが、
「測量課の地図が役に立たないとしても、ペイノイの台地は東側からしか接敵経路はありません。それは確実なことですので、何とか東へと回り込む必要はあります」
湿地帯の全貌がつかめないので、そうとしか答えようがなかった。
「今我々は湿地帯の西側の外れにいる。湿地帯に沿って南下して切れ目を探すのが無難な行動だが、湿地帯が台地北側まで続いているとしたら、行軍そのものの意味がなくなる。北の縁を探してそこを東に進むべきではないか?」
アランが言うと、先任参謀は首を振って答える。
「北へと続いていたら、その距離如何では任務そのものを達成できなくなります。無駄になるかもしれませんが、このまま南下しましょう。そうすれば最悪、味方との連絡は途切れませんし、場合によっては攻勢に参加することも可能です」
先任参謀の言葉は合理的だったし、いつものアランならばそのような決断を下しただろう。けれど、
(皇太子殿下を攻撃するような無道な作戦には、部下たちを投入したくない)
そう考えるアランにとって、先任参謀案は受け入れ難い。
(どうすべきか……いつもと違う決断をすれば後々怪しまれることにもなりかねないし、自明なことにいつまでも迷っていても部下たちは不審を抱くだろう……)
そう困り切っていたアランに、願ってもない情報が届いた。
「旅団長殿、大変ですっ!」
慌てて天幕に駆け込んできた副官に、アランは不機嫌な声で訊く。
「何だ、何事が起った?」
「尖兵中隊が、旅団長殿の停止命令に反して湿地帯へと入り込んでいきました」
アランは、(しめた!)と心を逸らせたが、一応こう命令する。
「何⁉ すぐに呼び戻して、中隊長を私のところに出頭させよ!」
しかし副官は、アランにとって都合がいいことに、
「何度か伝令を出しましたが、中隊はそのまま進んでいます。中隊長は『湿地があるなら敵は油断しているはず。越えられない湿地などあるはずがない』と申しているそうです」
そう答える。アランは苦り切った顔で命令を下した。
「仕方ない、こんなことで尖兵中隊を見殺しにもできない、我々も尖兵中隊を追うぞ。こちらには連絡として1個中隊を残しておくことにする」
そして1時間もしないうちに、第45旅団主力は行軍を再開し、どれほどの広さがあるか不明な湿地帯へと足を踏み入れた。
一方で、第4軍司令部と2個旅団は、攻撃発起準備地点と位置付けたクルサリまで進出したが、
「ふむ、ここからではペイノイの敵陣を攻めるには遠すぎるな」
クルサリからペイノイまで約150キロ、さすがにそのことに気付いたチェトバンナ司令官は、第43旅団長フランソワに急遽命じた。
「フランソワ、そなたの旅団は緊急にペイノイから40キロの地点にあるボランクルまで進出し、陣地を構築せよ。陣地構築が終わり次第、フョードロフの旅団を追及させる」
「了解いたしました」
フランソワは、一息つく暇もなく、部下たちと共にクルサリを後にする。
「旅団長殿、司令官殿も人使いが荒いですな」
先任参謀が言うと、フランソワは苦笑しながら
「はは、それは仕方ない。ひょっとしたら敵が出撃してきているかもしれないと想定していたからな。前路索敵をしている第45旅団から何も連絡がないということは、敵は陣地戦を選んだということだ。ペイノイを攻略するのであれば、途中で2か所は中継陣地を造る必要がある。守る相手に時間を与えるわけにはいかないから、行軍は急がないといけないな」
そう言う。先任参謀は呑み込み良く、
「では、スムーズに前進できるよう輜重隊や工兵隊にも手配しておきましょう」
そう言いながら、フランソワの側を離れて行った。
「まったく、今度の任務は行軍ばかりだな。兵士たちの疲れが残らぬように気を付けておかねばな」
フランソワはそうつぶやきながら、ゆっくりと馬を進め始めた。
その一方で第41旅団長のフョードロフは、ずっと東を進んでいるはずの第45旅団と、いつの間にか連絡が取れなくなっていることに気が付いた。
「司令官殿、気になることがありますが」
臨時の指揮所とした民家に、フョードロフが入って来て言うのに、チェトバンナは不思議そうに訊く。
「どうした、フョードロフ。何が気になるのだ? 補給もちゃんとついているし、第43旅団の展開も順調に進んでいるが」
フョードロフ旅団長は、チェトバンナ司令官の前に突っ立つと、
「ニンフエール旅団のことです。第45旅団は私たちより5日は早くアティラウを離れて東へと前路捜索を開始しましたが、今の今まで一度も連絡がないのは不思議ではありませんか? これから本格的に攻勢が始まるってのに、敵情の一つもよこさないのは、いつものニンフエールに似合わないと思います」
そう、不思議に思っていることを述べる。
チェトバンナは、今さらのように気付いてうなずく。
「そうだったな、第45旅団は何をしているのだろう? 何か問題があったとしても、ニンフエールのことだから報告をしてこないことはないはずだ。これは第45旅団に不測の事態が起こっているのかも知れんな。わかった、軍司令部から捜索班を出してみよう」
チェトバンナはそう言うと、参謀の一人に捜索班の編制と東に向けて第45旅団の位置特定を命令した。
こちらはアラン・ニンフエールの第45旅団である。彼は命令に従わずに沼沢地へと入り込んだ尖兵中隊を追って、旅団そのものを沼沢地へと指向していた。クルサリの第4軍司令部とはすでに直線で150キロは離れてしまっている。
もちろん、後々この行動が問題視されることを勘案して、1個中隊を連絡隊として沼沢地西側を南下行軍させているが、その部隊との距離もすでに30キロは離れてしまっていた。徒歩で連絡を取ろうとしたら2・3日、馬での連絡でも丸1日かかるほど彼我の距離は離れてしまっている。
(さすがに連絡中隊との距離が離れすぎだ。これ以上いつもの私と違うことをしていては、後々言い逃れができなくなる)
アランはそう思い、先任参謀に訊いた。
「尖兵中隊との連絡は取れたか?」
先任参謀は渋い顔で首を振る。
「いえ、随分と先に進んでしまったか、あるいは昨日の霧で道を失ってしまったのか……とにかく旅団本隊がこれ以上先に進むのは考えものです。沼沢地が切れているとはっきりしているのなら話は別ですが」
その答えを聞いて、アランは仕方なくうなずいて命令した。
「ふむ、現在地は水が来ていない。とりあえずこの場所に数日留まろう。尖兵中隊にはわが部隊を探しやすいように夜は陣内にかがり火をたくようにしてくれ。それと西岸の連絡中隊は行進を停止させ、旅団の現状を軍司令官殿に報告しておこう」
アランがそう言っているところに、副官が駆け込んできた。
「旅団長殿、尖兵中隊からの伝令が到着しました」
「何ッ⁉ すぐにこの場に通せ!」
アランの言葉に、副官はすぐ天幕を出て行き、しばらくして泥にまみれた兵士を案内してきた。
「さ、中隊長からの伝言を旅団長殿に申し上げよ」
副官が言うと、その兵士は畏まって
「はい、ユリウス尖兵中隊は一昨日、湿地帯の東端に到達しました。現在、橋頭堡を作りながら本隊の追及を心待ちにしておられます」
そう述べた。
アランは驚いて訊き返す。
「何、沼沢地を踏破したのか? 中隊の周囲に敵はいるか?」
すると兵士は、
「はい、中隊の周囲には敵影はございませんが、後ろに沼沢地を控えている関係上、万が一を考慮して陣地を構築しています。食料はあと2日分です」
そう答える。アランはうなずいて言った。
「分かった。私の命令に反して東に進んだことは看過しがたいが、何にせよ沼沢地が思ったより狭いことが分かっただけでも朗報だ。すぐに旅団も追及しよう。ここから中隊まではどのくらい離れている?」
「はい、約40キロほどだと思います」
「ならば急いだ方がいいな。後方参謀、輜重隊の状況はどうだ?」
アランが訊くと、補給を司っている後方参謀は、
「餌が手に入りませんでしたから輓馬が弱ってしまっています。仕方なく兵食用の食材を転用していましたが、疝痛が心配ですね。あちらに着いたら現地徴発が必要になるかもしれません」
「2・3日は持ちそうか?」
アランが訊くと、後方参謀は
「2日が限度かと。馬を失ったら旅団は動けなくなりますが」
それを聞いて、アランはしばらく考えていたが、
「輓馬の負担を軽くするため運輸車には小行李だけを積め。幸い、周囲には敵がいないから、大行李は中隊ごとに区分けしてみんなで担いでいくしかないな」
そう命令を下した。
それから行軍すること2日、アランの第45旅団本隊は沼沢地を踏破し、尖兵中隊の陣地へと進入した。
「お待ちしていました。陣地構築後に周囲を偵察しましたが、敵性勢力の存在は確認できません。北に10キロほど行くと集落がありましたので、食料と輓馬用の餌を入手しておきました。もちろん、徴発ではなく交易という形でです」
アランのところに出頭したユリウス尖兵中隊長は、ニコニコしながら申告する。
アランはわざと厳しい顔をして
「クラウディウス、私は君の中隊に進軍を許可した覚えはないが、停止命令を無視した理由を聞かせてもらおう」
そう言うと、尖兵中隊長は頭をかきながら答えた。
「は、それは申し開きのしようもございません。けれど私は調査課にいた時分、この方面を調査したことがありまして、この沼沢地は東西の広がりと比べると南北に長いことは分かっていましたので、4・5日で踏破できると踏んだのです」
アランは鋭い顔で尖兵中隊長を睨み据えて言った。ただし、声はそれほど冷たくも厳しくもなかった。
「今は作戦中だ、わが旅団には敵情偵察と前路索敵という任務がある。沼沢地の広さを調査するのが目的ではないぞ。ただ、敵の真北に忍び込めたことと、沼沢地東端に到達後の行動は模範的だ。それに免じて今回の命令違反には目をつぶる。分かったら行きたまえ」
それを聞いて、尖兵中隊長はニコリと笑って敬礼した。
アランは、沼沢地西側と沼沢の途中で見つけた小島にそれぞれ一個中隊を分派していた。そして東端の陣地にも尖兵中隊を基幹とした3個中隊を残すこととして、旅団の行軍を再開した。目指すはペイノイ陣地の東側である。
(うまく立ち回って、殿下を攻撃するという失態を演じないようにしつつ、味方からも疑われないようにしなければならない。これからが正念場だな)
沼沢地から離れて1日行程のところに陣を張りながら、アランは遠く見えてきたペイノイの台地を見つめてそう思っていた。
★ ★ ★ ★ ★
「ニンフエールの旅団は陣地の北側に進出しているみたいだね」
コルケッドの野戦陣地の中で、ホルンがそう言う。
「大丈夫ですか? 本当にその旅団は攻撃してこないのでしょうね?」
カンネーが訊くと、ホルンはうなずいて
「ああ、アランって言う旅団長がレオン・ニンフエールと同じ心性をしている男なら、ウラルの皇帝陛下や皇太子殿下に真実の忠誠を捧げている人物さ」
そう言って、静かに座っているフランソワ・リュスコフを見て
「あなたみたいにね? あなたはアラン・ニンフエールのことを知っているかい?」
そう言う。
リュスコフは首を振って、
「いえ、あまり詳しいことは知りません。ただ、治安部隊でも1・2を争う戦上手であり、陛下への忠誠に厚いという噂は聞いたことがあります」
そう答える。
「リュスコフ、それは治安部隊での噂かい? それともオプリーチニキでの噂かい?」
ガルムが訊くと、リュスコフは短く答えた。
「両方です」
「ふむ、それなら噂は信用が置けるな。ペイノイの北に陣を張り、攻めると見せかけて攻めず、小競り合いをしながら本隊の戦闘経過を観察するだけにしそうだな」
ガルムが言うと、ホルンはうなずいて、
「だから、アラン・ニンフエール殿のためにもこちらで決定的な勝利を、しかも速やかに挙げる必要があるね。マルガリータ、何か策はないかい?」
そう、リュスコフの副将として後ろに控えているマルガリータ・ルージュに訊く。彼女は黒いさらさらとした髪を揺らして首をかしげ、
「はて、コドランがファイアブレスを一発お見舞いすれば、そこで勝負はつくのでは?」
そう、ニコリとして言う。
ホルンは苦笑しながら
「まあ、そうだけれどさ。ただ、敵を効果的にやっつけるためにはこちらとしても工夫が必要だよ。1個旅団を壊滅させても、それで残りの旅団が対抗策を講じてきたら、戦が無駄に長引くからね」
そう言う。マルガリータも微笑んで続けた。
「私が最も懸念するのは、敵が数個コホルス隊でこの陣地を囲み、主力はこの陣地をスルーすることです。もちろんその場合はコドランに協力してもらってこの陣地を畳み、全軍でペイノイ陣地にこもる必要がありますが、そんな美しくない勝ち方は私のシュミじゃありません」
「私もそうだよ。この陣地で敵の死命を制したい」
ホルンが言うと、マルガリータはくっくっと喉で笑ってホルンを見る。その仕草は彼女の魔術や兵術の師匠であるロザリアにそっくりだった。
「ホルン様、私が皆さんに指示を出してもようございますか?」
ホルンは翠色の瞳を持つ目を細めて、
「ふふ、だんだんと師匠に似てきたねマルガリータ。いいよ、あなたはまだ私に隠していることがあるみたいだし、ここまで出てきたのもあなたが勧めるからそうしたんだから、思うとおりに指示を出して」
そう言うと、マルガリータは白い顔に微笑を湛えながらうなずき、おもむろに立ち上がった。
「この戦いは、今後の戦いの起点になります。戦術的な目標は、敵治安部隊の殲滅です」
「殲滅……2万5千をここにいる4千で?」
カンネーが信じられないといった顔でつぶやく。マルガリータは誇大妄想を患っているのかといぶかしんでいる顔だった。
マルガリータはそんなカンネーに、
「私は確固たる見通しを付けています。心配せずに私の指示どおり動いてください」
そう言うと、続けて
「カンネーさん、あなたは明日、この陣地を出て街道沿いに進んでください。恐らく行軍1日で敵の先鋒、第43旅団とぶつかるはずです。敵が目に入ったらそのままこちらに引き返してください」
そう言うと、カンネーは面白くなさそうな顔をして言う。
「おいおい、旅団単位の敵とは言っても、先鋒はせいぜい大隊程度と相場が決まっている。それを見過ごしてただ行って帰って来いって言うのは受け入れられないぜ?」
「先鋒は恐らく増強大隊、6百から8百と言ったところでしょう。弓兵と騎兵を中心にしているはずです。それに1千の歩兵でかかっても確実な勝利は望めません。だからいったん引き返してもらうのです」
マルガリータはそう言うと、ガルムを見て、
「ガルム様には、カンネー隊の後詰として出ていただきます。ただし、カンネー隊の海側後ろを進んでください。カンネー隊が下がり始めたら部隊を停止し、敵の先鋒の後ろに出てください」
そう言うと、ガルムはうなずいた。
「分かった、カンネーと挟み撃ちするわけだな。だが俺の隊の後ろからは敵の第一陣が来るぜ、それはどうしたらいい?」
当然の問いに、マルガリータはリュスコフに言った。
「リュスコフ様は、陸側を進んでください。敵の第一陣が現れたらその出端を叩き、ガルム隊と共にこの陣地まで下がります」
「心得た」
リュスコフはただそう答えた。恐らくこの作戦のあらましは、すでにマルガリータから聞いているのだろう。
「3隊が横並びになっても敵を抑えきれないと思うぜ? なんせこちらは3千、相手は第43旅団だけでも1万もいるからな」
カンネーが言うと、
「抑える必要はありません。ただ敵の行き足を一時的に止めるのです。そこを叩くのはコドランの役目……」
そう言いながらマルガリータはホルンを見て、
「ホルン様には、陸側を大きく迂回して敵の前進拠点であるクルサリを叩いてください。占領する必要はありませんし、兵糧・物資を焼き討ちする必要もございません。それらの物資は敵が我が方のために蓄えてくれたもの。そっくりそのままいただきましょう」
そう言うと、カンネーがばかばかしそうに言う。
「おいおい、それじゃ誰がこの陣地を守るんだ? それにホルン陛下を最前線に立たせるつもりか?」
「クルサリが叩かれれば、第41旅団と第4軍司令部はホルン様の隊に意識を集中させるはずです。ホルン様の部隊はそのまま第43旅団の後ろをコドランと共に叩いてください。第4軍司令部や第41旅団、1万5千は、援軍が始末してくれます」
マルガリータが言うと、ホルンやリュスコフを除く全員が耳を疑った。
「援軍?」
ガルムが訊くと、マルガリータは可愛らしい顔を緩めてうなずき、ただ繰り返した。
「はい、援軍です。その部隊がクルサリを占領したら、殿下はクルサリに入っていただき、残りはアティラウを攻略します」
何か言いたそうにするカンネーを、ホルンは笑いながら抑えて言った。
「ふっふっ、面白いじゃないか。カンネー、マルガリータはここに来る前にはロザリアやジュチとも話をしているみたいだ。黙って彼女の言うことを聞いてみよう。きっと思いもよらぬ援軍が現れるのだろうからね?」
(『14 会心の会戦』に続く)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
段々ときな臭くなってきましたが、まだ序の口と言ったところですね。
今後、ホルンたちやウラル帝国摂政がどんな動きを見せるか、そして何よりも『摂理の黄昏』が何を意味し、どう関わってくるのかをお楽しみに。