ベルリンの壁
私は壁だ。この界隈では有名な壁だ。よく「ベルリンの壁」と呼ばれる。たかが壁にわざわざ名前を付ける辺り、私の用途が特殊であるのを示唆している。私はベルリンという町の西地区をぐるっと取り囲む様に建造されている。
私は一夜にして建設された。普通、壁は何ヶ月か掛けて建設される。なので記憶の最初になれば成る程ボンヤリと霞がかかったように曖昧になるものらしい。しかし私は何分一夜にして建設されたもので、生まれた翌日から記憶がハッキリとしている。
生まれたばかりの私といえば貧弱で、場所によっては鉄条網が張り巡らされているだけで心もとないこと甚だしかった。歳月を経ていくに連れ、私の体はますます頑丈に、そして鼠一匹這い出せない位緻密になっていった。有刺鉄線と精々ブロック塀しかなかった私の体は補強されて鉄筋コンクリート製になった。もう暫くすると私は二重の壁で構成される様になった。つまり、内側の壁と外側の壁、そして2つの壁の間にある何もない通路という具合に。通路には常に2人一組となった兵士が巡回していた。
人々が私を見る目は凄まじいものだった。それはそうだろう。ある日突然町の西半分を取り囲む壁が出来てしまうのだから。何処まで記憶を遡っても、私を見る目が暖かなものであった記憶はない。絶望だの、諦めだの、そんな感情がない混ぜになった目で私を見ることばかりだった気がする。ただアーティスト気取りの若者やら、不良やらにとっては、私はさしずめ格好のキャンパスと映ったようだ。彼らはスプレーを片手に私の体に好き勝手放題書いた。とはいえ、そんな光景が見られるのは内側だけで、外側ではついぞそんな光景はみられなかったのだけれども。
最初私は自分自身の事を軍事施設かなにかと思っていた。壁の外側からの侵略を防ぐ為に作られたのだと。しかし奇妙なことに、私を作ったのは外側の住民らしい。普通に考えて、私を作ったのは内側の連中ではないのか?
外側では、私の事を「祖国の首都を資本主義社会の悪影響から未然に防ぐ為の壁」云々などと盛んに宣伝していたからだ。“資本主義”だの“共産主義”といった単語が解らなかったし今だって解っちゃいないが、要するに険悪な仲の2つの団体がいるんだろうという位の見当はついた。そして外側の連中は内側を遮断したがっていることも。
興味深いことに、外側の住民達は内側へ移住するためには手段を選ばなかった。中には手製の長いトンネルを掘って内側へ移住した連中すらいた。有る時など、内側と外側の間の通路を監視する筈の国境警備兵が、相方の兵士を突然撃ち殺して内側へ脱走しようとしたことすらあった。そして外側から内側へ移住しようとする住民はいても、内側から外側へ移住しようとする住民はついぞ見かけることが出来なかった。
その頃には既に私も自分が何のために建設されたのか理解できる様になっていた。―私は、外側の住民が内側へ移住するのを防ぐ為に作られたのだ。
理由は分からないが外側よりも内側の方が人間にとっては快適らしい。少なくとも命の危険を賭してでも移住する価値がある様だ。そして外側の連中はその事を苦々しく思っている。ならば私の様な壁を建設せずに、最初から町ごと占領してしまえば良いのではないかと常々感じていたのだが、そう単純には物事は進まないらしい。どうやら内側の世界は空を飛ぶ翼の生えた筒やら、大地の中を通る車輪付きの箱などでここを離れた何処かの世界と繋がっているようなのだ。下手に内側に手出しをすると、ど偉いことになるらしい。私には良く解らないが、内側と外側を問わずその事態を恐れているのはひしひしと感じられた。
そのまま何年もの月日が流れた。内側の世界は背の高いビルやら何やらが出来ては取り壊されるといった塩梅で目まぐるしく変化していった。外側の世界は時間が緩慢にしか流れないのか、あいも変わらずの光景がずっと続いていた。しかし基本的に、私が町を分断しているという事態は変わらなかった。ずっとこのまま永遠にこうした時間が流れていくのだろうと思っていた。
それにしても今朝はいつになく外側の壁が騒がしい。一体何があったというのか?何千何万という群衆が私自身によじ登っている。こんなことは三十年間ついぞなかったことだ。人の波が絶えず押し寄せて来て止まるということがない。一人が私をハンマーで叩き壊そうとしている。つられて他の者も私の体を削り取ったり、怖そうとし始めた。皆、とても誇らしげな顔つきになっている。高揚して歌を歌い始めた一団まで出てきた。
ああ、今になって理解した。私は生まれたその瞬間から歓迎などされていなかったのだ。でなければ皆が嬉々として私を壊そうなどとは思わないだろう。私という壁はあと数日で取り壊されてしまうに違いない。