発車まで、あと
発車まで、あと5分。
スマホに表示された時刻を確認して、私は内心ほっとする。もう改札は通ったから、このペースなら確実に電車に乗れる。駅のホームは2階にあり、本来なら長くつらい階段を上る必要があるのだが、最近できたエレベーターに乗ればかなりの時間短縮になる。人がほとんどいない待合室の横を通り過ぎて、私はまっすぐエレベーターへと向かう。
片道1時間ほどの実家から大学に通っているため、電車代やその他諸々の経費が馬鹿にならない。だから入学と同時に大学近くのスーパーでバイトを始めた。
講義の帰りにそのまま働けるし、時給がそこそこ良いところも魅力的だった。家に帰るためのローカル電車は30分間隔で走っているため、1本逃がすと帰宅が致命的に遅くなるという欠点はあるが、毎日自転車を走らせ、最低賃金ギリギリで働くよりはずっと良い。
幸い終電を気にするような時間帯働くことは滅多にないので、間に合わないことにそこまで焦る必要もない。でも、早く帰れるに越したことはない。だから私はこうして足を急がせているのだ。
エレベーターは運よく1階に停まっていた。中に乗り込み、「2」と書かれたボタンを押す。これなら余裕だな、と閉まっていくドアを眺める。頭の中は既に帰宅後のことでいっぱいだった。
ドアが完全に閉まる直前、ドアにつけられた大きな窓の右端に何かが見えた。うなだれた、白髪交じりの頭だった。このエレベーターを逃したら、この人はきっと電車に間に合わないだろう。慌てて「開」を押すと、触れるはずだった長辺と長辺は再び西と東に引き裂かれていった。
「すいませんねぇ」
紫色のジャンパーと黒いズボンに身を包んだ年配の女性は、申し訳なさそうにエレベーターに乗り込んだ。私は苦笑いをして、ごまかすように「閉」を押す。まだらに染まった頭は、私の胸のあたりにあった。
ドアがぴっちりと閉まる。続いて、独特の浮遊感が身を包んだ。田舎だからかは知らないが、このエレベーターは結構遅い。今日は間に合うだろうが、ぎりぎりで飛び込んだときはかなり焦る。最新を謳うぐらいなら、もう少し早くてもいいのに。
「電車、もうすぐいってしまうかねぇ」
女性は私と同じ方を向いて、ぽつりと呟いた。エレベーターの出口からホームまでは10mほど距離がある。きっと彼女はそれを気にしているんだろう。私はポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。
発車まで、あと3分。
「大丈夫だと思いますよ」
時刻が分かれば、この人もほっとするはず。そう思って声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
「そうかい?」
「ええ。あと3分もありますから」
私がスマホの画面を見せると、彼女は目元にカラスの足跡をつけた。
「いやいや、これじゃ間に合わないねぇ」
「え?」
「お嬢ちゃんならともかく、わたしはこんな足だから」
ズキ、と胸の奥が痛むような錯覚を覚える。唇をわずかに動かした途端、不快感がぎゅっと押し付けられる。ドアが開いたのだ。
彼女は左手に握った真っ黒な杖でゆっくりと歩き出す。私はなぜかその小さい背中を追い越せずに、彼女の右手にかかったスーパーの袋をぼんやりと見ていた。
「お嬢ちゃんは気にしないで早くお乗りなさい。電車がいってしまうよ」
彼女はにっこり笑うと、懸命に片足をひきずりながら電車へと急ぎ始めた。袋から飛び出したネギがビニールと一緒にがさがさと音を立てる。
発車まで、あと2分。
我に返って電車へと走り出す。既に数メートルあった差を追い越すとき、彼女の顔が見られなかった。ホームのスピーカーからは聞き慣れた音楽が流れ、すぐに迫った出発時刻を繰り返す。
真っ暗な溝を飛び越えて、少し揺れている車体に両足を預ける。振り返ると、彼女は少し離れたところまで来ていた。杖とコンクリートがコツコツとぶつかりあう音が、人のいないホームに響く。
発車まで、あと1分。
私は両拳を固く握って、彼女の様子をじっと見つめていた。
杖が前へ。後ろへ。前へ。後ろへ。
少しずつ、でも確実に距離は縮まっている。この調子ならきっと間に合う。自分にそう言い聞かせ、指に一層力を込める。
そのときだった。不安定に刺さっていたネギが、ぽろりと地面に落ちた。それまで電車の方を向いていた彼女の視線が地面に移る。周りには誰もいない。電車内の人々は、誰も落ちたネギに気づかない。
拾いに行かなきゃ。頭とは裏腹に、足はぴくりとも動かない。打算じみた考えが全身を絡めとり、私に行動を許さない。
発車まで、あと10秒。
ふと、彼女と目が合った。
「いいんだよ」
半月の瞳の奥は温かかった。温かくて優しい何かがたっぷりと詰まっているのが分かった。
「あ」
金縛りが溶けるのと同時に、ぷしゅーという音がして、目の前でドアが閉まる。
『発車致します』
気の抜けたアナウンスと共に、電車は全身を揺らしてホームから去っていく。
最後に見えたのは、彼女が腰をかがめてネギを拾う姿だった。
あなたなら、どうしましたか?