集団乱舞 「ええじゃないか」
1867年6月
薄暗い部屋の中に数人の男たちが話し合いをしていた。
「長州と薩摩は同盟を結んだ。我々が倒幕するためにはあと一歩というところだが、どうすればよいだろうか?」
この言葉は長州藩の桂小五郎である。
「そうですねぇ……」
長州藩士、木梨精一郎は唸った。
正直に言って幕府は既に弱体化している。
あとひと押しではあるのだが……
1853年のペリーの来航がきっかけにより政情は非常に不安定になっていた。
貿易の失敗などもあり、物価は激しく上がっていたのだ。
さらに1854年から1855年にかけて、東海、南海、豊予(現在の大分県と愛媛県)、関東と立て続けに地震は起こった。
それにより津波、大雨、洪水といった天変地異が相次ぎ、甚大な被害をもたらした。
だがこうした中、幕府はどうしようもないとして大した策を取れなかった。
「生活をどうにかしてほしい!」
という民衆の怒りは頂点に達していたのである。
そんな中にも減少を冷静にとらえ、訝しがる者たちもいた。
「これは誰かが仕組んだ煽動ではないか?」と。
しかし、そういった者たちは何故か、突然死や事故により姿を消していくのである。
「疑いを持つと天罰が下る」
と思い人々は恐怖のどん底に叩き落とされ、発狂していたのでした。
「自分たちが生きるためにはどうすればいい?」と考えた民衆たちは行動を起こすのである。
豪商や地主たちから奪えばよいではないか!と。
「金を盗ってもええじゃないか!」
「や、やめて下さい」
「米をいただいてもええじゃないか!」
このように持たざる者達は、持つ者たちから金品などを強奪するようになった。
まるで地獄絵図のように……
裕福な家の人々は乱暴狼藉を恐れ、家の門の前に棚や仏殿をしつらえ、酒やお金、餅などをばら撒き対処をとりました。
しかし、それだけでは苦しむ人達は納得がいかず、騒動は全く収まりませんでした。
「どうにかなりませんか?」
豪商や地主達は幕府に陳情しましたが、幕府の力では収めることができませんでした。
幕府に統治能力があれば、人々がここまで暴徒化することはなかったというのに……
このように幕府の権威は失墜しているが、向こうにもまだ倒幕派に対抗できるだけの軍事力がある。
「この世の中は変わらなければならぬ!世界にも対抗せねばならぬのに、今の惨状ではそれもかなわぬ。日の本の民のためにも幕府を倒さねばならぬぞ」
桂さんは意気込んで言った。
「そのためにも、やるべきことは……」
良いことを思いついたぞ!
「木梨に任せては貰えないでしょうか?」
保証はないが、上手くやってみせる。
「では、任せよう」
桂さんがそういった時には夜が白んでいっていた。
1867年7月14日 東海道、三河
「皆の者、準備は出来たな?」
「はい、指定の場所に置いてきました」
予定通りに事が進んだようだな。
これが倒幕の狼煙だ!
「では、始めるぞ!」
「皆の者あそこの木に何かがかかっておるぞ!儂が取ってこよう」
そう言いながら、精一郎は気を登り始めた。
なんだ、なんだとぞろぞろと人が集まってくる。
「上手くいっておるな……」
精一郎は誰にも気づかれないような小声で言った。
「これは……お札じゃ、伊勢神宮のお札じゃ!吉兆の前触れに違いない!」
そう言いながらお札の入った笊を空へと放り投げた。
そして、あらかじめ仕掛けておいた者がこう言った。
「これは天からの贈り物ぞ!」
民衆達の間では歓喜に包まれ、皆一斉にお札を拾いはじめた。
他に仕組んでいたものも次々と発見された。
「こっちには仏像があったぞ!」
「こちらは仏画じゃ!」
「小判も見つかったぞ!」
その他にも沢山のものが見つかっていった。
するとどこからか、こう聞こえてきた。
「日本国の世治りはええじゃないか、豊年踊りはお目出たい、おかげ参りすりゃええじゃないか、はぁ、ええじゃないか」
これは桂さんの声であった。
儂も何か言いたいな……
そうだこう言うかな。
「長州がのぼた、ものが安うなる、ええじゃないか」
「長州さんの御登り、ええじゃないか、長と薩とええじゃないか」
ちょっと目立ち過ぎたかな?
まぁ長州藩の事を言っておかないと無駄になっては困るからな。
この騒動は東は箱根、西は尾道まで約30カ国に飛び火した。
「世の中をひっくり返そう」
老女は娘の格好をし、男は女装、女は男装し、三味線の音に合わせ、「ええじゃないか」と言いながら狂喜乱舞した。
この民衆運動を収束するために対応に追われた幕府はさらに弱体化しました。
同年10月15日に徳川慶喜の大政奉還により、倒幕はなされました。
そして、12月9日には王政復古の大号令がなされました。
「ええじゃないか」
長州藩の木梨精一郎の策略により今の日本があるのかもしれません。