それでも彼女は生きていたい
テーブルに冷やしたお茶を置くと、安里さんは今度は少しずつちびちびと飲み始めた。目を伏せて、やはりまだ泣きそうなのを我慢している。湯飲みを持った両手の袖が、水を吸って染まっていた。
「熱っ! ねえ、熱いのやめてって言ったでしょー?」
あれは無視だ。
「私、死んだんですか」
そう、ポツリと呟く。俺に問いかけるというより、独り言のように。
「うん。死んだね。死体の様子、聞きたい?」
神様が追い討ちをかけるように尋ねると、彼女はフルフルと顔を横に振った。
「いいえ。もう死んでるんなら、どうにも出来ませんから……」
「そっかそっか、まあ、聞きたくないならそれはいいや」
神様はお茶を一口啜っては、ピンク色の舌をンベッと出して顰めっ面を繰り返している。嫌なら飲まなきゃいいのに。
「それでそれで、これからどうするか決めた? ボクらの話、聞いてたでしょ?」
「……ああ、はい。冥界がどうとか、私が生きていられるの、この部屋限定だとか……」
「そう、今君には選択肢が二つある」
ビシッと神様は三本の指を立てて、何事もなかったかのように薬指を折り曲げた。
「……おい」
「一つはこの部屋の外に出て、通常通り消滅すること。もう一つは、この部屋の中で暮らすことだよ」
「もう一つないか?」
俺が口を挟むと、神様はニヤリと笑いながら俺を見た。
「へえ、予想は出来るけど言ってごらんよ」
「その冥界システムとやらで、彼女の生活範囲をこの部屋の外まで広げてやればいいだろ」
「それは無理だね」
神様は両手を顔の横で広げて、やれやれ、とでも言いたげに溜め息をつく。
「さっき宇宙まで使ったって言ったろうが」
つまり、今の俺では正確な大きさがわからないほど広大な宇宙の果てまで使ったという事例がある。広げられないはずがないのに、何故だ。
「もちろん、広げることはできるよ? 広げられるんだけど、それは影響が大きすぎる。この冥界に、個人を識別するような検閲機能は無いんだ。彼女一人だけに作用しているんじゃないんだよ」
彼女一人だけではない。……とすると、他の人までに影響があるってことか?
「つまり、もしも町一つまで広げると」
「これから死んだ人間が、全員町をうろつくことになるね。やがて死者が溢れることになる。まさしく、死者の国さ」
死者の国。その単語を聞いて、安里さんが一瞬身震いする。俺の脳内にも、昔話によく出てくるような、おどろおどろしい場面が浮かんだ。
枯れ木が並ぶ墓地の中、薄暗い闇の中を血を流した亡者達が歩いている。呻き声を上げながら、そのボロボロになった肌を掻き毟り、それでまた苦しみの声を上げる。
今の安里さんを見れば、もちろんそんなことはないだろう。一見健康な肉体に正常な思考、普通の人間が暮らしているのと何ら変わりは無い。
けれども確かに、よく考えてみれば、彼らは全員死の経験があるのだ。
自然死ばかりではないだろう。今目の前にいる安里さんを含め、幸福な死ばかりではないのだ。原因となった誰かに、危害を加えに行く可能性だって有る。
善良な人間ばかりではない。面白半分に人を襲う者すらいるだろう。どうせ復活するのだからと、軽々しく他人に死を与える人間。考えたくはないが、いてもおかしくはない。
様々な理由で死者が生者を襲い、死者を増やしていく。そしてそれは、この世の終わりまで無限に続く。生者は死者として復活し、死者が返り討ちになろうともまた死者として復活する。
永遠に繰り返される死と復活。それは、地獄とも言えるのではないだろうか。
「そしてボクのやったことは、完璧にじゃないけど次のループに影響が残る。まだ三恒河砂回過ぎたぐらいなんて、人間でも数えられるときに作った冥界が未だに神話に残っている。それがいい例だよ」
「……そんな大規模にするわけにはいかないってことか」
そんな失敗をしていれば、神様が冥界に消極的な理由もわかる。
だからこそ、俺のために、この小さな部屋を冥界にしたことに怒りも沸くのだが。
「あ、あの」
「ん? 何だい?」
黙って話を聞いていた安里さんが、意を決したように口を開いた。
「次のループとか冥界とか、わからない単語ばかりなんですけど……お二人は、もしかして人間じゃないんでしょうか……?」
「いい質問だね!」
ビシッと指を差しながら、喜色満面の笑みを浮かべて神様は応えた。そして薄い胸をはって、鼻高々に宣言する。
「こっちの孝明君は多分人間だけど、ボクは神様だよ!」
「ええ!?」
「おい、多分って何だ、多分って」
俺は人間だ。多分。
それから神様は、俺にしたような創世神話を安里さんに長々と聞かせた。
途中いくつも、「えぇ!?」とか「はい!」とか、安里さんの驚く声と感心の声が混ざっていたが、それがまた神様を喜ばせるらしい。俺の時とほぼ同じ事を言っているはずだが、やたら大仰な話し方になっていた。
「そして人間の数えられないループの果てに! なんと!」
「はい、はい!」
「この、孝明君が歴史に出現したんだよ!」
「おー!」
どこからかバーンと効果音が出ている。こんな所で神様の力を使うなよ。
安里さんも、拍手なんかしなくていい。
「すごいですね! 辺見さんには、きっと何かあるんですよ!」
俺の手を握り、両手でぶんぶんと上下に振りながら安里さんははしゃいでいる。どうして、こんなにも。
「ねえ、少しは疑ったりとかしないの?」
簡単に信じ込んでいるのだろう。
もちろん事実とは違うが、まだ俺たちが安里さんを拉致して監禁しているだけという可能性も残っているのに、彼女はあまりにも無防備すぎる。
「疑う……ですか? そんなものだろうと納得してしまいましたが、どこか疑うような所は……」
彼女は一点の曇りも無い目でそう言う。
これは、何故。
疑問に思う俺の肩を、後ろからポンと叩く奴がいる。笑顔のうざい気配がする。
ゆっくりと振り向くと、そこにはやはり満面の笑みを浮かべた神様のドアップがあった。
「説明が欲しい? 欲しいよね!」
「欲しいが、まずはこの指を外せ」
具体的には、振り向いた俺の頬に突き立てられた人差し指を。
「キミ達と僕とでは、存在の重さが違うんだよ」
「存在の重さ?」
「うん。他の人に与える影響力っていうか、世界に与える影響力っていうか、まあそんなものだね」
「よくわからんのだが、それがあると具体的にどうなるんだ?」
それが今の安里さんの様子と関わりがあるってことは……。
「影響力が強い……ってことは……?」
安里さんは首を傾げた後、何かに気がついたかのようにぴょこんと顔を小さく上下に動かした。俺よりも勘が鋭いらしい。というか、俺の理解力が鈍いのか。
「イルちゃんは気がついたみたいだね。そう、ボクの言葉はみんな無意識に信じちゃうんだよ。魂の力が強いから、ともいうね」
「……洗脳じゃねえか」
もしくは強力な催眠。無意識への刷り込みが、こいつのパッシブな技能ってわけか。
「ボクの言葉は通常疑問に思えない。まだ魂の力が強い、ボクの主観的に古い人物はそれでも逆らえるんだけど、これだけの回数ループして魂の力が平均化されちゃった今では、そんな存在はいない」
「じゃあもしかして、俺も操作されているのか?」
無意識への働きかけだ。受けた本人には気がつけない精神攻撃。俺も受けている可能性がある。
そう思ったら、また一気にこの神様がうさんくさく見えてきた。
しかし、神様はまた予想外の返事をする。
「いいや? この影響力はボクの存在自体がもつ力だから、ボクにも調整することは出来ない。にも関わらず、孝明君。キミは何故かほとんど影響を受けていない。そういう意味でも、キミは希有な存在だよ!」
喜んでいいのかわからないが、無意識に俺の認識が操作されているなんて事態よりはいいんだろう。……そう思うことにしよう。
「で、話が脱線しちゃったけど……君はどうしたいのかな?」
神様は軽い口調で安里さんに問いかける。まるで、今日の夕食でも尋ねるかのように、気軽な雰囲気で。
安里さんの表情が曇る。そしてもう一度、下を向いて、深く息をしてから小さな声で言った。
「……私は、生きていたいです。外に出られないっていうんなら、それは構いません。でも、私は私のままでいたいです」
言い切って、顔を上げた。また目には、大粒の涙が溜まっている。
「いきなり殺されて、それで私が消えちゃうなんて、理不尽じゃ無いですか」
ボロボロと大粒の涙を零しながら、今度は大きな声で。
「だから、私はまだ生きていたいです!」
「……うん。いいと思うよ」
神様は微笑みながら、そう答えた。
「というわけで、孝明君はこれから二人暮らしになるよー!」
脳天気な神様の声に合わせて、どこからか、パフパフとバイシクルホーンの音が聞こえてくる。
「頑張れよー。期待してるぞー」
ニヒと笑いながら適当なことを言う神様の横で、安里さんが深々とお辞儀をしていた。
「えと、よろしくお願いします!」
「いいけど、誰も俺の都合とか聞かないのな……」
寝床の準備とか、色々あるのに。
そうして俺の、二人暮らしは始まったのだった。