問題児の秘密
「こら、柏木!!」
背中から怒号が聞こえた。
学校に着いてほんの5分後。
校門を入り、靴箱まで来たところで呼び止められた。
声の主はいつもと同じ。数学教諭の三木先生。
私はゆっくりと、だるそうに振り向く。
「何よ、朝からうるさいなあ」
「うるさいとはなんだ、教師に向かって!」
三木先生はいつも通り、スーツを着ている。
でも、クールビズなのか、ネクタイは外して、ジャケットも着ていない。
先生の白いシャツが、校舎に差し込む光に反射してまぶしい。
「お前、そのスカートの丈は違反してるって、何度言ったらわかるんだ!」
「うるさいなあ、暑いんだもん、いいじゃん!先生だってネクタイしてないし!」
「ばか、これはいいんだよ!校長先生がクールビズを推奨していらっしゃるんだ。」
「ええ~なにそれ、先生ばっかりずるいじゃん。生徒にもクールビズ推奨するよう、校長に言っといてよ、三木ちゃん。」
「三木ちゃんって呼ぶな!三木先生!」
予鈴のチャイムが鳴る。
周りの生徒たちが一斉に慌てて、教室まで走り出す。
「やばっ!三木ちゃんにかまってたら遅刻しちゃうよ!またね!」
急いで上靴に履き替え、先生にペロリと舌を出してから、走り出す。
「あ、おいこら!丈直せよ!!」
先生の声を背中に聞きながら、教室までの階段を駆け上がる。
踊り場まで着いてふと振り返ると、そこに先生の姿はもうなかった。
自分の教室に急いで去って行ったのだろう。
教師が遅刻ぎりぎりとか、だっさいなあ。
私はふっと微笑んで、再び教室を目指して走り出した。
これが私の日常。
いつもと変わらない、先生と私の朝の挨拶。
「莉奈、ぎりぎりセーフ!」
私が教室に飛び込んで席に着くと、前の席の亜希が微笑みながら振り返る。
「ほんと、焦った。今日も三木ちゃんに止められてさあ~」
「え、また?莉奈、目つけられてるね!」
亜希は、高校に入ってから仲良くなった友達だ。
空手部に所属していて、その腕前は顧問も一目置くほどだという。
中学の時に不良グループを制圧したとかなんとか、とにかくめちゃくちゃ強いらしい。
その中身とは裏腹に、見た目は意外とかわいくて女らしい。
もともと色素が薄い茶色の髪の毛は、窓から差し込む光できらきらと光っている。
肩のあたりで綺麗に切りそろえられ、今流行りのボブヘアってやつだ。
そして、亜希の一番の魅力はその瞳だ。
決して大きくはないが、髪と同じ色の茶色の瞳には、見つめられると動けなくなりそうな、奥深い輝きを秘めている。
しかも、どうやら最近好きな人ができたらしく、亜希の女らしさには一層磨きがかかっている。
化粧をしているわけではないと思うのだが、表情も明るいし、好きな人の話をするときには体全体からハッピーオーラが出ているのが目に見えるほどだ。
これが恋する乙女なのね、と、私はいつも感心してしまう。
「莉奈は好きな人いないの?」
その日の昼休み。
お弁当箱を開けたところで、亜希が聞いてきた。
いつもなら、亜希の好きな人トークが始まるのだが、今日は少し違っていた。
「え?」
そのことに驚きながらも答えようとし、声が少し裏返ってしまった。
「わ、私?いないよ、そんな人。」
「なんで?好きな人できたほうが楽しいよ!」
嬉々として話す亜希の様子を見ていれば、恋が楽しいものだということはよく分かる。
きらきらしていて、周りの景色さえ違って見える。
その人の言動に一喜一憂して、些細なことに幸せを感じられる。
学校に来るのも倍楽しくなるし、長い休みなんていらないって思う。
これが、亜希の言う恋だ。
私は…私の恋は…そんなに明るく楽しいものでなない。
誰にも言えない、言っちゃいけない。
自分の心の中に、ずっと隠しておかなきゃいけない。
亜希にも言えない。言うつもりはない。
「莉奈?どうしたの?」
亜希の声で、ハッと我に返る。
「あ、ごめん、なんでもないよ。ちょっとぼーっとしてた!」
亜希に明るく返事をして、私はお弁当を食べ始める。
一瞬、亜希の瞳が輝くのを見た。
これ以上目を合わしていては、見抜かれてしまいそうだ。
「でもさあ、莉奈、男の子に人気あるじゃん」
亜希が、ウインナーを口に運びながら言う。
「ええ?そんなわけないって。私、ギャルだって噂されてるでしょ。そのせいで誰も寄って来ないし、来てもバカみたいなチャラ男ばっかだよ。」
そう。私はいわゆるギャルとして、この学校では有名な方だ。
スカートの丈はいつも短くて先生に怒られ、髪の毛も脱色して金色に近い。
化粧も毎朝バッチリ決めて、今日もつけまつげの調子は良好だ。
こんな見た目のせいで、軽い女だと思われることが多い。
だから、私に寄って来るのは、簡単に手を出せそうだと勘違いしたチャラ男ばかりだ。
そんな男たちを相手にするつもりはない。
派手なのは見た目だけで、内面はすごく真面目なのだ。
人に見せたことはないが、家ではこつこつ勉強し、中でも数学の成績は学年上位だ。
あまり勉強が得意ではない亜希に、テスト前はつきっきりで教えることもある。
空手部のエースと学校一のギャルが仲良しの秘密は、こういうことだ。
「そうなのかなあ~莉奈にもいつか好きな人できるといいのに!」
「そりゃ、いつかはね!でも、まだまだ先だよ、そんなの!」
私は笑顔を見せて、卵焼きを口に含んだ。
5時間目。三木先生の数学の時間。
先生が、私の教室に入ってくる。
「起立、礼!」
クラス委員の号令で、授業が始まる。
先生が黒板に問題を書く間、私は先生の背中を見つめる。
大きくて、広い背中。
三木先生は、3年前に大学を卒業してこの学校に赴任してきたらしい。
まだ若手の新米教師だ。
別に、顔が特別かっこいいわけではないが、若くて面白い。
授業中は必ずみんなを笑わせようと仕掛けてくるし、わかりにくいところは熱心に指導してくれる。
年が近いということもあり、生徒たちとの間に壁がない。
そのせいで、女子生徒には絶大な人気を誇り、放課後には先生の周りに質問とかこつけて集まる女子生徒の群れができるほどだ。
私も、そんな生徒の一人だった。
1年の時に数学を担当してくれて、授業中、純粋にわからないところがあった私は、放課後、三木先生のもとを訪れた。
面白いし、女子生徒に人気があるし、なにより聞きやすいと思ったからだ。
質問に行くと、先生の机の周りには学年を問わず女子生徒が集まっており、先生の姿が見えないほどだった。
予想していたが、これほどまでとは…
私が諦めて帰ろうとしたとき、「柏木!」と呼び止められた。
声のする方を振り向くと、体育教師の幸田先生だった。
彼は、体育教師の中で最も権力を持ち、生徒指導も担当していた。
特に女子生徒の服装指導には厳しく、個室に連れて行ってはセクハラまがいのことをしている、なんて噂のある先生だった。
当然私は目をつけられていたが、セクハラされるのはごめんなので、幸田先生がいそうなところではなるべくスカートの丈を下ろし、おとなしくして、難を逃れてきた。
髪の色を注意する以前に、幸田先生の視線はスカートにしか行かないことも、知っていた。
だから、そのとき、迂闊だったと後悔した。
三木先生に質問することで頭がいっぱいで、幸田先生がもしかしたら職員室にいるかもしれないなんて、考える余裕がなかった。
いつも通りのスカートで来てしまった。
幸田先生が近づいて来た。その顔にうっすらと笑みが浮かんでいる。
私は背筋が凍りついた。やばい。
「お前、そのスカートの丈はなんだ、けしからん!ちょっとこっちに来なさい」
ぐい、と右手を引っ張られた。
「ちょ…」
やばい、やばい、やばい。個室に連れ込まれる図が脳裏に浮かんだ。
そしてその先は____?
さっと全身から血の気が引いていくのを感じた。
「幸田先生」
私の腕を引っ張っていた先生の動きが止まった。
声の主は、三木先生だった。
取り巻きの女子生徒の中から、立ち上がってこちらを見ていた。
そのとき、私は初めて、三木先生の顔に静かな怒りが浮かんでいるのを見た気がした。
いつも笑っている三木先生から、見たこともない雰囲気が醸し出されていた。
「な、なんですか、三木先生」
三木先生の雰囲気に威圧されたのか、幸田先生はたじろいだ。
三木先生は、私が抱えていた数学の教科書をちらりと見ると、いつも通りの笑顔を見せた。
「柏木さんは、僕に質問に来たみたいです。」
先生が、いつもの雰囲気に戻ったことを感じて、幸田先生は強気になって言い返した。
「しかし、この生徒は校則違反をしているんです。生徒の違反を正すのが私の役目ですから、先生への質問はそれからでもいいでしょう。」
すると、三木先生の目つきが、鋭くなった。
「ええ、ですが、今はテスト期間前の大事な時期です。分からないことはその日のうちになくしておかなくてはいけません。僕はこの後、用事があるので外出し、そのまま直帰の予定です。その前に、柏木さんの疑問に答えてあげたいと思うのですが。」
「だが…」
「生徒指導ももちろん重要です。しかし、ここは僕に任せていただけませんか?、彼女の質問に答えた後、僕がきっちり注意しておきますから。」
ぐっと、幸田先生が言葉を飲み込むのが分かった。
三木先生みたいな新人教師の言うことなんて、普通はきかないだろう。
だが、今目の前にいるのは本当に三木先生なのだろうか?
いつもの笑顔は見る影もなく、口答えもできないような威圧的なオーラを放っている。
「おい、柏木、今度俺の前でその恰好をしていたら、許さないからな」
そう言うと、根負けした幸田先生は、私の腕を離し、職員室から出て行った。
今起こった出来事が信じられず、ポカンとしていると、三木先生が言った。
「ほら、こっちにおいで、何がわからないんだ?」
その顔には、いつもの明るい笑顔が浮かんでいた。
取り巻きの女子生徒たちはいつの間にかいなくなっており、私は全く予想していなかった展開で、三木先生を独り占めしたのである。
「あ、あの、ありがとうございました」
私がおずおずとお礼を言うと、三木先生はにっこり微笑んだ。
「いいよ。その代り、柏木の服装指導は俺が受け持ったから。これからもその恰好を続けるなら、口うるさく指導していくからな。」
職員室の窓から、西日が差しこんでいる。
遠くのグラウンドから、部活動中の生徒の声が聞こえる。
三木先生の笑顔を前にして、私は胸が苦しくなる。
こうして私は、静かに恋に落ちたのだった。
「莉奈は好きな人いないの?」
昼休みの亜希の声が脳裏によみがえる。
いる、いるよ。ずっと前から。
亜希、嘘ついてごめんね。
でも、言えないんだ。言っちゃだめなんだ。
亜希にも、三木先生にも、誰にも。
先生に恋をしているだなんて。
毎日、先生の気を引くためにスカートの丈を一段上げてるなんて。
毎日、かわいいって思ってほしくて、化粧を研究しているなんて。
でも、優等生って思われたくて、数学の勉強だけは何があっても手を抜かないなんて。
分からないことなんてなくても、質問に行ってるなんて。
こんなこと、絶対言えない。
本当は、毎日先生の顔を見るたびに、胸が締め付けられるほど苦しい。
でも、ふっと笑ってくれたとき、その痛みが幸せに変わってしまう。
好きになっちゃだめだったんだ。
でも、もう、遅いんだよ…。
「こら、柏木!」
「へっ??」
「お前、聞いてなかっただろ!この問題、解けるか?」
三木先生が、黒板に書かれた問題を指さしながら、こっちを見ている。
「ん~分かんない!今日の放課後質問に行きます!」
私が元気よく答えたところで、授業終わりのチャイムがなった。
「うまく逃げやがって、本当に来るんだろうな?他にも、今の問題分からないってやつは、遠慮なく質問に来ること!以上!」
授業が終わって一気に騒がしくなった教室から、三木先生が出て行った。
「莉奈、さっきの問題分からなかったの?珍しいね」
亜希が不思議そうに尋ねてきた。
「うん、あんまり聞いてなかったから、分かんなかった!今日の放課後質問行って、こってり教えてもらってくるよ!」
「そっか、じゃあまた私にも教えてね!放課後は部活だから…」
「わかってるって!任せなさい!」
笑顔でそう答えると、亜希は安心したように微笑んだ。
また嘘をついた。
本当は分かっていた。
先生の授業は、予習も復習も、いつも完璧だから。
でも、それでも。
今日も私は先生に会いに行く。
ばれないように、見せないように。
「よしっ!!」
「あ、莉奈またスカートの丈あげてる!パンツ見えたらどうすんのよ!それに、また三木ちゃんに怒られるよ?」
「いいのいいの、三木ちゃんどうせ怖くないし!」
へへへ、と笑う私につられて、も~と言いながら亜希も笑う。
騒がしい教室の中。
私の秘密を知っている人は、誰もいない。
教室の外では、セミがうるさいくらいに鳴いている。
私は静かに、朝の光に反射する先生の白シャツを思い出す。
まぶしい。まぶしすぎて、手が届かない。
でも、これでいい。
届かなくていい。
今日も私は、想いを隠して笑う。
吹き抜けた風が、冴えわたるような夏の空に溶けて消えた。