8
「ただいま……」
玄関にある、奏多の濡れた靴を確認してから、居間に顔を出す。
奏多と会うことに、なんとなく気が引けてしまうのは、どうしてだろう。
「奏多? 帰ってたんだね」
居間で横になって、テレビを見ている背中に声をかける。すると、わたしに振り向かないまま、奏多がぼそっとつぶやいた。
「慶介さんと会ってたんだ?」
「え?」
「うちの前に、車が止まったのが見えたから」
「ああ、ご飯食べに行って来たの。奏多もいれば、一緒に誘ったのに」
わたしの声に、奏多がふっと笑った気がした。
「行くわけねぇだろ」
「ど、どうして?」
リモコンをつかんでテレビを消すと、奏多は体を起こして振り向いた。
「付き合ってんの? 慶介さんと」
わたしのことを見る奏多と、久しぶりに目が合う。
「付き合ってなんかないよ? ラーメン食べに行っただけ」
「ふうん? ラーメンねぇ……」
信用してない顔つきで奏多が言うから、なんだか悔しくなってきた。
「奏多こそ、今日どこに行ってたの? 女の子と、会ってたんじゃないの?」
奏多が黙ってわたしを見ている。肯定も否定もしようとしない、奏多の顔を見ていたら、無性にイライラしてきて、つい思っていることを口にしてしまった。
「ふうこちゃんって、誰?」
言ってから、すぐに後悔したけど、もう遅い。
奏多の表情が変わって、わたしのことを、にらみつけるようにして言った。
「おれの部屋、入った?」
「だって開いてたし、ぐちゃぐちゃだったし、部屋を片付けようとしたら、机の上にカードがあったから……」
手に持っていたリモコンを、奏多が畳の上に叩きつけた。わたしは驚いて肩をすくめる。
「人のもの、勝手に見てんじゃねぇよ!」
「な、なによ。そんなに見られたくないものだったら、ちゃんとしまっておけばいいでしょ」
卓袱台の上に両手をついて、奏多が立ち上がった。そしてわたしの前に来て、ぎゅっと両手を握りしめる。
「な、なに?」
奏多のことを、見上げるようにして言う。大切に大切に見守ってきた奏多が、今、わたしを見下ろしてにらんでいる。
奏多の体がすっと動いた。わたしはぎゅっと目を閉じる。肩と肩がちょっとぶつかって、そのまま奏多は大きな足音を立てて、二階へ行ってしまった。
「はぁぁぁ……」
一気に力が抜けて、その場に座り込む。胸がドキドキして、指先が震えている。
怖かった。目の前に立つ奏多のことを、すごく怖いと思った。
気がつくと涙が出ていて、あわてて手の甲でそれをぬぐう。
……わたし、どうしたらいいの?
必死に涙をこらえながら、棚の上からわたしを見ている、母の写真を見上げる。
「お母さん……」
お母さんなら、こんな時どうするの? お母さんなら、奏多に向かって何て言う?
教えて欲しい。今すぐここに来て、わたしに教えて欲しい。
そんなことを思ったら、こらえていた涙があふれ、わたしは声を押し殺して一人で泣いた。
卓袱台の上に並んだ夕食を眺めながら、わたしは小さく息を吐く。
柱にかかった時計を見て、奏多の分のおかずに、一つ一つラップをかける。
あれから奏多は、一度も自分の部屋から出てこなかった。
わたしはラップをかけたおかずを持って、冷蔵庫を開けた。中には、さっき慶介くんに寄ってもらって買った、ケーキ屋さんの箱。
奏多の誕生日には毎年買っている、チョコレートケーキが入っているのだ。
わたしは静かに冷蔵庫の扉を閉めると、台所と居間の電気を消した。
「奏多?」
階段を上り、奏多の部屋のドアを軽く叩く。足元からは、ほんのり灯りがもれている。
「夕飯のおかず、冷蔵庫に入れといたからね?」
ドア越しにかけた声に、反応はない。
「奏多……あの……さっきはごめんね?」
古いドアにそっと右手を当てて、それをゆっくりとすべらせる。
「もうわたし、奏多の邪魔はしないから。だから……ごめんなさい」
そっと手を離し、心の中だけでつぶやく。
――十八歳の誕生日、おめでとう。
「もう寝るね。おやすみ」
奏多の部屋に背中を向け、自分の部屋のドアを開け中へ入る。
ぱたんとドアが閉じられると、なんだかものすごく寂しくなった。