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「あー、食った、食った」
店を出るなりそう言って、慶介くんがお腹を叩く。
「なんか慶介くん、おじさんみたい」
「ああ、よく言われる。腹の出具合が、親父にそっくりだって」
わたしの隣でおかしそうに笑う慶介くんを見て、なんだかわたしも笑ってしまう。
「そんじゃ、ここで」
笑い終わった後、慶介くんが言った。慶介くんの家とわたしの家は、反対方向だ。
「うん。今日はおごってくれてありがとう」
「いいよ。ただし次は日和のおごりな」
軽く手を上げて、歩き出そうとした慶介くんが、なぜかもう一度振り返る。
「……送っていこうか?」
「え?」
「送っていってやろうか?」
慶介くんの言葉はすごく嬉しかった。でも。
「ううん、大丈夫。奏多と帰る。もうすぐバイト終わる時間だから」
「そっか」
店先の明るい看板の下で、慶介くんが笑う。
「じゃあ、気をつけてな」
「うん。ごちそうさま」
もう一度手を上げると、慶介くんはわたしに背中を向けて歩き出した。わたしは黙ってその背中を見送る。
奏多とは違う、男の人の背中を――。
チリンと自転車のベルが鳴った。振り返ると、自転車にまたがった奏多が、わたしのことをじっと見ている。
「あ、奏多。おつかれ。待ってたんだよ」
「一緒に帰ればよかったのに。慶介さんと」
「え?」
ぐんっと足を踏み込んで、奏多が自転車を走らせる。
「あ、ちょっと待って!」
ウソ、ひどい。奏多はスピードを上げて、わたしを振り切るように走って行く。
「奏多! 待って! 待ちなさい!」
必死に背中を追いかけながら、なんだかすごく情けなくなった。
何やってるんだろう……わたし。
歩道の途中で立ち止まる。やたらと息がきれて、それも情けなくて、涙が出そうだ。
しばらくその場で息を整え、薄暗い道を歩き出す。ほどよい酔いが一気にさめて、なんとなく気分が悪い。
やっぱりわからない。わたし全然、奏多のこと。
真っ直ぐ続く歩道をとぼとぼと歩いた。見上げた空にぼんやりとした月が浮かんでいて、小さい頃に聞いた、奏多の言葉を思い出す。
「お月さまにはね、ウサギさんが住んでるんだよ?」
「へぇ……」
「保育園の絵本に書いてあったの」
その頃、奏多のお母さんは入院していて、奏多はずっとわたしの家に泊まりにきていた。
毎晩一緒にご飯を食べて、並んだ布団に一緒にもぐりこむ。だけどいつの間にか、奏多はわたしの布団に入ってきて……結局いつも一つの布団で、寄り添い合うように眠ったのだ。
「どうしたの?」
じっとわたしの顔を見つめる、奏多に聞いた。
「ひよちゃんの髪」
「ん?」
「夜はウサギさんじゃないんだね」
奏多の小さな手がすうっと伸び、わたしの髪に触れる。なんだかそれが心地よくて、わたしは奏多の前で目を閉じた。
バス停のそばで立ち止まる。薄暗い街灯の下に自転車を止め、奏多が携帯をいじっている。
奏多がわたしのことを待っているって、すぐにわかった。わかったけど、素直に駆け寄るのも悔しくて、わたしは奏多を無視して、その前を通り過ぎる。
「頼まれたんだよ」
わたしの背中に、奏多の言い訳がましい声が聞こえた。
「慶介さんからメールで。この辺不審者が多いから、ちゃんと日和と帰ってやれって」
立ち止って後ろを振り向く。携帯をポケットに突っ込んだ奏多が、自転車を押してわたしに近づいてくる。
わたしはすっと前を向き、何も言わないまま歩き始めた。奏多も自転車を押しながら、そんなわたしと並ぶように歩く。
バス停を通り過ぎると、街灯の灯りが少なくなり、わたしたちはぼんやりとした月明かりだけに照らされた。
時々車が通り過ぎるだけの、静かな夜。生暖かい夜風が吹き、近くも遠くもない奏多との距離が、なんだか切ない。
また少し、背が伸びたみたい……声の高さも、力の強さも、わたしの知らないうちにどんどん変わっていく。
――お月さまにはね、ウサギさんが住んでるんだよ?
奏多はもうそんなことを言わない。そんなことは信じていない。
わたしも奏多も、あの頃よりも少し、大人になってしまったから。
そしていつか奏多は、わたしの隣から去って行く。それは嬉しいことのはずなのに……どうしようもなく寂しい。
春の空気を吸い込んで、夜空を見上げた。ふと隣を見ると、奏多も同じように空を見ている。
今夜の奏多の目に、あのお月さまは、どんなふうに映っているの?
それが知りたかった。
翌朝、事務所の前を掃き掃除していると、聞き慣れた声がわたしの背中にかかった。
「おっす! 元気か? 日和!」
「あ、慶介くん、おはよう」
右手を上げてわたしに笑いかける慶介くんは、今朝も元気だってすぐにわかる。
「あの、昨日はどうもありがとう」
「いいって、いいって。次は日和におごってもらうって言ったろ?」
「違うの。そのことじゃなくて」
ほうきを掃く手を止めて、慶介くんのことを見上げる。
「メール、くれたでしょ? 奏多に」
「メール?」
「昨日の夜。わたしと一緒にちゃんと帰れって」
慶介くんはきょとんとした顔をしてわたしを見ている。
「なんだ、それ。おれ、そんなメールしてねぇぞ?」
「え……」
少し考え込むようなしぐさをした後、「あー」っと言って、慶介くんは頭をかいた。
「あいつ……まどろっこしいことしやがって」
「慶介くんに頼まれたわけじゃないんだ?」
「素直に一緒に帰ればいいのによ。何照れてんだか。どうせおんなじ家に帰るくせに」
慶介くんが笑って、「しょーがねー、ガキだ」なんて言いながら事務所へ入っていく。
だけどわたしはその場に立ち尽くしたままだった。
――どうせおんなじ家に帰るくせに。
そうなんだ。わたしと奏多は同じ家に帰る。だけどわたしたちは家族でも姉弟でもない。
今まで何の疑問も持たず、当たり前のようにそうしてきたけれど……昨日感じたかすかな違和感。あれは何だったんだろう。