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「おはようございますっ!」
息を切らして事務所へ駆け込むと、小さな部屋の中にコーヒーの良い香りが漂っていた。
「おはよう。日和ちゃん」
「あ、すみませんっ。また遅くなっちゃって」
「いいの、いいの。日和ちゃんも、コーヒー飲む? あ、ミルクティーがあったわね」
脱いだコートを、部屋の隅にあるハンガーにかけながら、わたしは綾子さんにもう一度「すみません」と頭を下げた。
わたしの職場は、社長家族と年配の職人さんが二人いる、小さな工務店だ。
自称OLのわたしだけれど、事務所は決して綺麗とは言えないし、社員はおじさんばかりだし、オフィスラブなんて想像もつかない。
だけどわたしには、この場所がとても合っていると思う。
高校を卒業したばかりの、何にもわからない小娘を、ここの人たちは優しく迎えてくれた。
わたしが担当する事務の仕事は、今まで社長の奥さんである綾子さんが全部やっていた。だけど彼女がそろそろ引退するために、わたしがそれを引き継ぐことになったのだ。
一言で事務と言っても、小さい会社の中で、やるべきことは山ほどある。
電話応対から書類作成、パソコン入力などはもちろん、ちょっとしたおつかいや、事務所のお掃除、たまには営業の仕事まで……とにかく何でもやらなくてはいけない。
バタバタしているうちに、一日があっという間に終わってしまい、結局できなかった仕事を綾子さんに手伝ってもらっていた。
最近やっと一人でこなせるようになってきたけど、今朝も綾子さんにお茶くみなんてさせちゃって……。
「はい。日和ちゃんは、ミルクティーね」
「ありがとうございます」
出勤して何も働かないうちにミルクティーが運ばれてくるなんて……こんな恵まれた環境でいいのかな、なんて思いつつ、綾子さんにいれてもらったあたたかいミルクティーを手のひらで包む。
「おはよーっす」
事務所のドアが開き、大きな声が部屋に響いた。
ああ、そうそう、忘れてた。この会社には若い男の人が一人いたんだっけ。
作業服姿の慶介くんは、わたしより二つ年上。一番奥の席でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる、社長の息子だ。
「お、朝から優雅にお茶か? いい身分だな」
ミルクティーに口をつけているわたしに、慶介くんが言う。
「こ、これは綾子さんが……」
ごにょごにょと言い訳をしようとしているわたしの前で、慶介くんがおかしそうに笑う。
「ああ、そう言えばさ。奏多のやつ、ちゃんとバイト続けてる?」
わたしはカップを机に置き、慶介くんに答えた。
「うん、おかげさまで。ちゃんと行ってるよ」
「そっか。今度店に寄ってみるかな。あいつの働きぶりを偵察しねーと」
はははっと笑って去って行く慶介くんは、実は奏多と仲が良い。
ついこの間も、慶介くんの友達が働いている焼肉店のバイトを、奏多に紹介してくれた。
そして奏多も慶介くんのことを、本当のお兄さんのように慕っているのだ。
「社長。おれ、朝イチで柴田さんとこ寄ってから、現場合流するから」
「お、もうそんな時間か?」
社長が新聞を畳んで、席を立つ。他の二人もコーヒーを飲み干し、上着を羽織る。さっきまでくつろいでいたおじさんたちが、一斉に職人さんの顔つきになる。
「日和ちゃん、青葉の岡崎さんとこの、見積もり出しといてね」
「はい」
あわただしく外へ出て行く慶介くんに続いて、気の優しい社長がわたしに声をかけてくれる。
「いってらっしゃい」
「うん。あと頼む」
みんなが出て行くと、事務所の中はわたしと綾子さんの二人だけだ。そんな綾子さんも、最近は忙しい時しか顔を出さない。
「もう安心して日和ちゃんに任せられるわ」
「そんなことないです。わたし、会社でも家でもバタバタで……」
「大丈夫。日和ちゃんは、頑張り屋さんだもの」
そう言って微笑む綾子さん。頑張り屋さんだなんて……家ではごろごろお昼寝ばかりしてるわたしを、綾子さんは知らないからだ。
わたしの家庭の事情も理解してくれている綾子さんには、何から何までお世話になりっぱなし。
数年前、奏多が中学生だった頃、どうしたらいいのかわからなくて悩みまくっていたわたしを、救ってくれたのも綾子さんだった。
あの頃、奏多は荒れていた。
家に寄りつかなくなり、一晩中帰って来ない日もあった。
学校に呼ばれ先生から注意を受け、喧嘩をして傷つけたという相手の親に、一緒に頭を下げた。
どうして? あんなに優しくて、おとなしかった奏多が……どうして?
ただただ意味がわからなくて、戸惑っているだけだったわたし。そんなわたしに綾子さんが言った。
「男の子なんて、そんなもんよ。慶介なんて、もっとひどかったんだから」
綾子さんは笑いながら、慶介くんが若い頃に犯した、あんなことやこんなことを話してくれた。
「こっちの気も知らないで、自分一人で大きくなったような顔しちゃって。あの頃は本当に腹がたったけど……」
綾子さんが穏やかな笑顔を見せる。
「わたしたちが動揺してたらダメ。こっちはどんっと大きく構えて、ご飯作って待ってればいいのよ。お腹がすけば戻ってくるんだから、男の子なんて」
そんなもんなのかな……でも、わたしの母が生きていたら、きっと綾子さんと同じことを言ったと思う。
それに今の慶介くんを見ればわかる。格好はちょっと派手で、口も悪いけど、真面目に仕事をして、しっかり前を向いて生きている。
もう、小さくて泣き虫だった「かなたん」じゃないんだな。
奏多は奏多なりに悩みながら、必死に自分の道を探そうとしてるんだ。
そう思ったら、なんだか気分が楽になった。かといって、毎日の生活が突然変わるわけもなかったけど、わたしは毎日食事を作って、奏多が帰ってくるのを待った。
奏多が慶介くんと知り合ったのも、その頃だ。年上の慶介くんが、遊びに誘ってくれるようになり、奏多の世界が広がった。それは決して悪い方向へではなく。
「今度また、奏多くん連れて、ご飯食べにいらっしゃいよ」
綾子さんがそう言って、わたしの前でにっこり微笑む。
「慶介も喜ぶと思うし」
「はい。そうさせていただきます」
わたしも奏多も、一人で生きているわけではない。
たくさんの人たちに支えられて、生きているんだ。