29
夜空の下を、ゆっくり歩いているうちに、我が家が見えてきた。
ずうっと昔、わたしの祖母が住んでいて、父から逃げるように母とわたしが引っ越してきた古い家。
「じゃあな」
家の前で奏多が立ち止る。
「うん、また」
そう言ったけれど、別々の家へ帰るのは、いつまでたっても不思議な気分だ。
わたしと奏多は、それほど長く、一緒に暮らしてきたから。
「日和?」
「あれ、なんかわたしおかしいな……酔っぱらってんのかなぁ」
奏多の前で笑おうとしたのに、上手くいかない。その代わりに勝手に涙が、ぽろぽろこぼれてくる。
奏多がわたしから離れたのは、わたしのことを大切に想ってくれたから。その気持ちはものすごく嬉しいし、わたしもそうしなくちゃいけないって、頭ではわかってる。
奏多はまだ保護者を必要とする高校生で、わたしはそんな奏多より八つも年上で。
もっとしっかりしなくちゃ。泣いたりしたらダメだ。奏多に迷惑かけないように。わたしはもう大人なんだから。
「ごめ、ごめんね? やだなぁ、なに泣いてんだろ、わたし」
「日和」
「奏多がお母さんの話なんかするから、思い出しちゃったのかな」
泣きながら笑って、奏多に言う。
「ごめんね。おやすみっ」
逃げるように後ろを向いて、玄関へ駆け込もうとしたわたしの腕を、奏多がつかんだ。そして体を引き寄せられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。
「か、奏多?」
「やめてくれないかな、そういうの」
「な、なにが?」
「おれが必死に我慢してるの、わかんないの?」
奏多の腕の中で、心臓の音が高鳴る。だけどそれと同じくらい、奏多の心臓の音も速く聞こえる。
「おれ、襲っちゃうぞ? お前のこと」
「え……」
耳元でささやくような奏多の声。背中に当たる手に力がこもり、痛いほど強く抱きしめられる。
「奏多……」
息を吐くようにその名前を呼んだら、涙で濡れたわたしの頬に、奏多の唇が触れた。
――ひよちゃんの髪の毛、ウサギさんみたい。
あれから十四年。長いようで短かった。だからこれからあと二年、奏多がハタチになるまでなんて、きっとあっという間だ。
「や、だめっ。こんなところで……」
わたしの胸元に伸びた奏多の手をどけ、体を離す。薄暗い街灯の灯りの下で、奏多がわたしの顔をじっと見ている。
「こんなところじゃなかったら、いいの?」
「どこでもダメ。わたし待つって言ったでしょ。あと二年」
奏多が小さくため息をつき、その手をすっとわたしの頭にのせる。
「わかってんよ。だから泣くな」
「え」
「離れてても、日和は一人なんかじゃないから。だから泣くな、おれが戻ってくるまで」
「奏多……」
のぞきこむようにして、わたしの顔を見る奏多。
「わかった?」
「……うん」
返事をしてうなずいたら、わたしの髪を奏多がぐしゃぐしゃとかき回した。
「ちょっ、やめてよ」
「このくらいさせろ。人の気も知らないで」
わたしの頭を気が済むまで撫で回すと、手を離した奏多がふっと笑った。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
くるりと後ろを向いて、奏多は今来た道を戻りはじめる。
去って行く背中が、淡い月明かりに照らされる。それを見ていたら、また涙が出そうになって、わたしはあわてて声をかける。
「おやすみ! かなたん!」
振り向いた奏多が眉をひそめて、声を出さずに「バーカ」と言う。
わたしはそんな奏多に、心からの笑顔で手を振った。
毎晩「おやすみなさい」が言える幸せは、あと少しだけ先にとっておこう。




