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 夜空の下を、ゆっくり歩いているうちに、我が家が見えてきた。

 ずうっと昔、わたしの祖母が住んでいて、父から逃げるように母とわたしが引っ越してきた古い家。

「じゃあな」

 家の前で奏多が立ち止る。

「うん、また」

 そう言ったけれど、別々の家へ帰るのは、いつまでたっても不思議な気分だ。

 わたしと奏多は、それほど長く、一緒に暮らしてきたから。

「日和?」

「あれ、なんかわたしおかしいな……酔っぱらってんのかなぁ」

 奏多の前で笑おうとしたのに、上手くいかない。その代わりに勝手に涙が、ぽろぽろこぼれてくる。

 奏多がわたしから離れたのは、わたしのことを大切に想ってくれたから。その気持ちはものすごく嬉しいし、わたしもそうしなくちゃいけないって、頭ではわかってる。

 奏多はまだ保護者を必要とする高校生で、わたしはそんな奏多より八つも年上で。

 もっとしっかりしなくちゃ。泣いたりしたらダメだ。奏多に迷惑かけないように。わたしはもう大人なんだから。

「ごめ、ごめんね? やだなぁ、なに泣いてんだろ、わたし」

「日和」

「奏多がお母さんの話なんかするから、思い出しちゃったのかな」

 泣きながら笑って、奏多に言う。

「ごめんね。おやすみっ」

 逃げるように後ろを向いて、玄関へ駆け込もうとしたわたしの腕を、奏多がつかんだ。そして体を引き寄せられて、そのままぎゅっと抱きしめられた。


「か、奏多?」

「やめてくれないかな、そういうの」

「な、なにが?」

「おれが必死に我慢してるの、わかんないの?」

 奏多の腕の中で、心臓の音が高鳴る。だけどそれと同じくらい、奏多の心臓の音も速く聞こえる。

「おれ、襲っちゃうぞ? お前のこと」

「え……」

 耳元でささやくような奏多の声。背中に当たる手に力がこもり、痛いほど強く抱きしめられる。

「奏多……」

 息を吐くようにその名前を呼んだら、涙で濡れたわたしの頬に、奏多の唇が触れた。

 ――ひよちゃんの髪の毛、ウサギさんみたい。

 あれから十四年。長いようで短かった。だからこれからあと二年、奏多がハタチになるまでなんて、きっとあっという間だ。

「や、だめっ。こんなところで……」

 わたしの胸元に伸びた奏多の手をどけ、体を離す。薄暗い街灯の灯りの下で、奏多がわたしの顔をじっと見ている。


「こんなところじゃなかったら、いいの?」

「どこでもダメ。わたし待つって言ったでしょ。あと二年」

 奏多が小さくため息をつき、その手をすっとわたしの頭にのせる。

「わかってんよ。だから泣くな」

「え」

「離れてても、日和は一人なんかじゃないから。だから泣くな、おれが戻ってくるまで」

「奏多……」

 のぞきこむようにして、わたしの顔を見る奏多。

「わかった?」

「……うん」

 返事をしてうなずいたら、わたしの髪を奏多がぐしゃぐしゃとかき回した。


「ちょっ、やめてよ」

「このくらいさせろ。人の気も知らないで」

 わたしの頭を気が済むまで撫で回すと、手を離した奏多がふっと笑った。

「じゃあ、また」

「うん。またね」

 くるりと後ろを向いて、奏多は今来た道を戻りはじめる。

 去って行く背中が、淡い月明かりに照らされる。それを見ていたら、また涙が出そうになって、わたしはあわてて声をかける。

「おやすみ! かなたん!」

 振り向いた奏多が眉をひそめて、声を出さずに「バーカ」と言う。

 わたしはそんな奏多に、心からの笑顔で手を振った。


 毎晩「おやすみなさい」が言える幸せは、あと少しだけ先にとっておこう。

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