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「それじゃあ、日和ちゃん、あとよろしく」
「はい。いってらっしゃい」
現場へ向かう社長を見送ると、事務所の中はわたし一人になった。
柔らかな日差しを窓越しに浴びながら、わたしはパソコンの前に座る。
あの雨の夜以降、父と名乗るあの男は、一度も現れていない。
慶介くんのハッタリがきいたのか、それとも単に、わたしからお金を借りることをあきらめたのか。
毎晩家へ帰ると、わたしは奏多にメールを送った。「ただいま、無事に家に着いたよ」って。
だけど返事はいつも、そっけなくて短い「了解」っていう二文字だけ。
自分からメールしてって言ったくせに。何事もなければ、それでよしってことなのかな。もともと奏多は、マメに返信する子じゃなかったし。
そんなことを考えながら、窓の外をながめる。街路樹の緑は、日に日に深みを増していた。
「あれ、社長は?」
突然の声に振り向くと、すぐ後ろに慶介くんが立っていた。
「あ、今、出て行ったところ」
「なんだ、入れ違いかぁ」
慶介くんがそう言いながら、わたしに缶コーヒーを差し出す。
「いいの?」
「いらない?」
「いる。ありがと」
慶介くんの手から受け取ったコーヒーは、ホットではなくアイスだった。もうそんな季節なんだな、なんてふと思う。
「日和。今度の日曜、ヒマ?」
「え?」
空いている椅子に腰かけた慶介くんが、缶コーヒーを開けながら言う。
「うちに飯食いに来いって、お袋が」
「ああ……」
奏多が出て行って一人になってから、綾子さんはずっとわたしを、食事に誘ってくれていた。
「うん、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「奏多も連れて来いよ」
慶介くんの声に、あの夜のことを思い出す。あれから慶介くんは、奏多のことを話題にしていなかった。
「……いいの?」
喉を鳴らしてコーヒーを一口飲むと、慶介くんはわたしを見て、いたずらっぽく笑った。
「まぁおれも、大人げなかったって、少しは反省してるわけだけど」
わたしは黙って慶介くんを見る。
「でもあいつ見てると、なんかいじめてやりたくなっちゃうっていうか」
慶介くんが、コトンとコーヒーを机の上に置いた。
「だって腹立つだろ。なんで十も年下のガキに、好きな女譲らなきゃなんねぇんだよ」
「……慶介くん」
ふっとわたしに笑いかける慶介くん。
「まぁしょうがねぇか。確かにお前の一番そばで、一番ずっと一緒にいたのは、あいつだもんな」
もう一度、缶コーヒーに口をつけると、慶介くんはそれを飲み干し、椅子から立ち上がった。
「じゃあ日曜日、あいつ誘っとけよ。断ったらおれが許さんって言っておけ」
「うん、ありがと。慶介くん」
そう言って笑いかけると、慶介くんもちょっと笑って、そして事務所を出て行った。




