23
「よう、奏多。バイト終わったのか?」
運転席の窓を細く開けた慶介くんが、少し笑って奏多に言う。
「何やってんの?」
「あ?」
「何やってんだよ?」
雨音に混じって、奏多の張りつめたような声が聞こえるのに、わたしは顔を上げることができない。
「何って……日和が男に絡まれてたら、そいつ追い払って一緒にいてくれって言ったの、お前だろ?」
「キスしろとは言ってない」
「のぞいてたのか? いやらしいやつだな。おれたちは大人なんだから、キスぐらいはするさ」
「慶介くん!」
あわてて顔を上げたわたしの隣で、慶介くんがつぶやく。
「一人じゃ何にもできねぇ子どものくせに……十年早えんだよ」
雨の中、奏多の手が伸び、運転席のドアが開く。雨はさっきより強くなっていて、髪を濡らした奏多の姿が、街灯の灯りにぼんやりと映った。
「大人だからって何してもいいのかよ! 日和のこと、何にも知らないくせに。おれはあんたよりずっと長く、日和と一緒にいるんだぞ!」
「それがどうした。日和はかわいそうなお前のことを、仕方なく面倒みてただけだ」
「違う!」
「違わない。そんなこともわかんねぇのか? これだから頭の悪いガキは……」
奏多の手が慶介くんの胸元をつかみ、ぐっと引っ張りあげる。
「お? やるのか?」
「外出ろよ」
「おもしれぇ」
ちょっ、ちょっと、なんなの?
車から降りる慶介くんの後を追い、わたしも助手席から飛び降りた。
雨の中、向かい合って立つ、慶介くんと奏多の姿。やがて慶介くんの手がゆっくりと上がり……。
「慶介くん、やめて!」
思わず叫んだ声と同時に、慶介くんは伸ばした人差し指で、奏多の額をつんっと小突いた。二、三歩よろけた奏多の体を、駆け寄ったわたしが受け止める。
「バーカ。おれにケンカ売るなんて、百年早いわ」
わたしの前で、気が抜けたような顔をして慶介くんを見ている奏多。
「まったく、この恩知らずが。本当は二、三発ぶん殴ってやりたいところだが、勘弁してやる」
「な、なんだよ。偉そうに……」
慶介くんが、わたしと奏多の顔を見比べるように見て、ふっとあきれたように笑う。
「あー、もう、やってらんねぇ。おれもう帰るわ」
「あ、あのっ、慶介くん……」
慶介くんはわたしに笑いかけ、その後、もう一度奏多に言った。
「だがな、奏多。日和を悲しませるようなことしたら、二、三発じゃすまないからな? よく覚えとけ」
そしてわたしたちに背中を向け、車に乗り込むと、そのまま走り去った。
「なんなんだよ……あの人」
雨の中、慶介くんの車を見送りながら、奏多がつぶやく。
「あの、あのね。慶介くんがあの男を追い返してくれたの。でも慶介くんに、ここに来るように言ってくれたのは、奏多なんでしょ?」
ちらりとわたしを見た奏多に、小さく言う。
「ありがと……奏多」
奏多はふうっとため息をついて、あきれたような表情をする。
「だから今朝言っただろ? しばらくこの家には帰ってくるなって」
「……ごめん。でも大丈夫。もう来ないと思う」
「慶介さんが追い払ってくれたから?」
もう一度息を吐いた奏多は、わたしから視線をそらしてつぶやく。
「……キス、したの?」
「え?」
「慶介さんと」
「してないよ!」
ああ、もう。慶介くんがヘンなこと言うから……。
「じゃあ、かわいそうなおれのことを、仕方なく面倒みてた、ってのは?」
隣に立つ、雨に濡れた奏多の顔。その顔を見ながら、わたしは答える。
「それも、違うよ?」
奏多が黙ってわたしに振り向く。
「奏多だって……わかってるでしょう?」
ずっとずっと長く、わたしたちは一緒にいたんだから。
「中、入れば? びしょ濡れだよ」
わたしの言葉に奏多が答える。
「おれはいい。このまま自転車で帰るから」
「でも……」
奏多はそばに停めてあった自転車に手をかけ、わたしを見る。
「日和こそびしょ濡れだろ。さっさと家帰って鍵かけて、風呂入って寝ろよ」
「……うん」
やっぱりあのアパートに帰っちゃうんだ。奏多の家はここなのに……。
「奏多も……ちゃんとお風呂入って、あったまりなさいよ。寝る時はしっかり布団かけて……あんたこの季節に、いっつも風邪ひくでしょ?」
自転車にまたがった奏多がふっと笑う。
「わかってんよ。小学生じゃないんだから」
そして前を向きかけてから、もう一度わたしの顔を見て言った。
「あのさ、日和」
「ん?」
「明日から、家に着いたらおれにメールして」
「え?」
「ストーカー親父のことも心配だし……それ以上に慶介さんが日和に手を出してきそうで……」
そこで言葉を切ったあと、奏多はすっとわたしから視線をそらす。
「確かにおれはまだ子どもだけど……でもあの人には絶対負けないから。あの人が偉そうなこと言えなくなるような、ちゃんとした大人になるから」
「奏多……」
「だから、あいつとキスなんかするなよ?」
しとしとと降る雨の音にまぎれ、奏多の声が耳に響く。
「しないよ。そんなこと」
照れくさそうにそっぽを向いている奏多に言う。
「絶対?」
「絶対」
「絶対するなよ?」
「しつこいなー、もう」
でもこの二人、負けず嫌いなところがよく似てるんだ。
わたしは奏多に近寄って、雨で濡れたその頬にそっとキスする。奏多は驚いたような顔で、わたしのことを見た。
「じゃあ、おやすみ」
「……うん」
奏多に背中を向けて、家の中へ駆け込んだ。
もう大人のはずなのに、胸がドキドキして、ちょっとだけ切なかった。




