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「おっさん、そこどいてくれないかな?」
細かい雨の降る中、ゆっくり顔を上げると、車から降りた慶介くんが立っていた。
「なんだ、お前」
「そこおれんちなんだわ。邪魔だから帰ってくれないかな?」
そう言いながら、さりげなくわたしの前に立つ、慶介くんの背中を見上げる。
「なんだと? おれは日和の父親だぞ?」
「へぇ? 彼女はそう思ってないみたいだけど?」
慶介くんは地面に転がった黒い傘を拾い上げると、男に向かって差し出した。
「日和は誰にも頼らずに、ずっと一人で頑張ってきたんだ。今さら父親面して金を借りようなんて、虫が良すぎるだろ? 他を当たってくれよ」
突っ立ったままの男に、慶介くんが傘を押し付ける。
「それから、いま日和はおれと暮らしてるから。何か用があるなら、先におれに言ってくれ」
「一緒に暮らしてる?」
「そうだよ」
わたしは黙って慶介くんの声を聞いていた。じんわりと雨に濡れていく、慶介くんのシャツを見つめながら。
「ちっ」
ひったくるように傘を奪って、男はわたしたちに背中を向ける。
「おっさん。今度また、日和を待ち伏せするようなことしたら、ストーカー行為で警察に訴えるからな」
「うるせぇ」
雨の中、背中を丸めて歩き出す男。そこに、わたしを脅した時のような勢いはなく、なんだか寂しげにさえ見えてしまった。
「日和」
顔を上げたら、わたしの前に慶介くんの手が差し出されていた。
その手にそっと、濡れた手を重ねると、慶介くんはぐっとわたしの体を引っ張り上げた。
「車乗れ」
「え……」
「びしょ濡れだろ? とにかくおれの車乗れ」
「でも……」
「どっか連れてったりしねぇから。心配しないで早く乗れ」
家の前に停められた車に、わたしは慶介くんに言われるまま乗り込んだ。雨に濡れたせいか、怯えたせいか、体がまだ震えていた。
「あのさぁ、お前、なんでそういうこと言わねぇんだよ?」
運転席に座ってドアを閉めると、慶介くんはふてくされたような態度で言った。
「ろくでもねぇ自称父親って男に、付きまとわれてたんだろ?」
「……なんで知ってるの?」
「奏多に聞いた」
「え……」
薄暗い車の中で、隣にいる慶介くんの横顔を見る。慶介くんはシートにもたれて、雨に濡れるフロントガラスを眺めながら言う。
「今、飯食おうと思って、あの焼肉屋に行ったんだよ。奏多の様子も気になってたし。そしたらあいつが聞くからさ。日和はおれんちに行ったかって」
奏多が……。
「は? 日和なら一人で家に帰ったけど? って言ったら、あいつ血相変えて命令するんだもんな。すぐに日和を追いかけて、様子見て来いって。まったくあいつ、何様のつもりだよ」
ふっと小さく笑った慶介くんが、ゆっくりとわたしを見る。
「全部聞いたよ、奏多から。なんでおれらに頼ってくれないんだよ?」
「だって……慶介くんちに、迷惑はかけたくないから」
「誰が迷惑だって言った? おれもお袋も親父も、お前や奏多のこと、一度も迷惑だなんて思ったことねぇよ?」
うつむいたわたしの耳に、慶介くんのため息まじりの声が聞こえる。
「それとも……奏多には頼れるのに、おれには頼れないってわけ?」
「そんな……」
顔を上げると、わたしをじっと見ている慶介くんと目が合った。
狭い車の中に、雨の音だけが響く。
「はっ、バッカみてぇ」
そうつぶやいた慶介くんが、急に笑い出した。
「なにおれ嫉妬めいたこと言っちゃってんの? あんなガキ相手に」
「あ、あの、慶介くん」
わたしの声に、慶介くんがこちらを向く。
「あの、わたし……慶介くんのことは……すごくいい人だと思ってる」
ふっと息を吐くように、慶介くんが笑う。
「綾子さんも、社長さんも、みんなわたしに優しくしてくれて……本当に感謝してるの」
「だけど、それだけ?」
慶介くんの視線が、窓の外へ移る。
「おれはただのいい人止まり?」
「慶介くん……」
小さく息を吐き、わたしは慶介くんに言う。
「ごめんなさい。わたし、慶介くんとは付き合えない」
屋根を叩く雨の音。薄暗い車内に差し込む、ほんのわずかな街灯の灯り。窓の外を見つめたままの、慶介くんの横顔。
しばらく黙り込んだ後、慶介くんは片手を助手席の背もたれに回した。そしてぐっと体を近づけて、わたしの顔をのぞきこむ。
「なんかムカつくな」
「え?」
「いじめてやりたくなった。お前らのこと」
慶介くんが口元をゆるませる。そしてそのまま、わたしの体にのしかかるようにしながら、顔を近づけてきた。
「え……なに?」
顔、すごく近い。どうして? わたしキスされる?
車内にコツンと音が響いた。
少し曇った運転席側の窓を、外から誰かが叩いている。
「……奏多」
わたしに触れそうで触れなかった慶介くんの唇が、ゆっくりと離れていく。
薄暗い雨の中。自転車から降りた奏多が、窓の外からじっとわたしたちを見つめていた。




