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「日和ちゃん、まだ時間かかりそう?」
「あ、もう少しで終わります」
「そう? じゃあ、あと頼んじゃっていいかな?」
仕事の終わった社長がわたしに声をかけてくる。
「慶介は同業の若い連中と、そのまま食事に行くって言ってたし。日和ちゃん、戸締りお願いするよ」
「はい。わかりました」
「じゃあ、お先に」
「お疲れさまでした」
軽く手を上げて、事務所を出て行く社長。わたしも残りの仕事を片づけると、事務所の戸締りをして外へ出た。
――今晩から慶介さんとこ、泊めてもらえよ。
奏多にはそう言われたけれど、やっぱり社長のお宅に迷惑をかけるわけにはいかない。
事情を話せば、社長も綾子さんも、快くわたしを家に呼んでくれるだろうけど、ずっとそんなことを続けていられるわけはない。
わたしがもっとしっかりしないと。
歩き始めると雨が少し降ってきた。バッグの中から折りたたみ傘を取り出して開く。
雨の落ちる空は、もうすっかり暗くなっていた。
バス通りにさしかかった時、クラクションを鳴らした車がわたしの脇に停まった。
「よう、日和。今、帰り?」
「慶介くん」
会社のワンボックスカーの中をのぞくと、慶介くんと仲のいい同業者の人たちが、わたしに笑いかけ会釈してくれた。
「これから飯食いに行くんだけど、お前も行く?」
「ううん。わたしはいい」
そう言って、もう一度車の中をのぞきこみ、「お先に失礼します」と挨拶した。
「そっか。じゃあ気をつけて帰れよ」
「うん。お疲れさまです」
クラクションを軽く鳴らし、慶介くんの車が去って行く。わたしは傘の中からそれを見送り、ちょうどやってきたバスに飛び乗った。
バスを降りてから家までの道は早足で歩いた。
またあの男に追いかけられたら……と考えると足がすくんで、慶介くんの車に乗せてもらえばよかったかな、なんて少し後悔する。
だけどあたりにそれらしき人影はなく、やがて暗闇の中に我が家が見えてホッとした時、わたしはその場に立ち止った。
「日和。待ってたよ」
家の前に立ち、黒い傘の陰から顔を見せたのは――あの男だった。
「昨日も言ったけど、本当に困ってるんだ。なぁ日和、助けてくれないか?」
わたしは傘の中で、首を何回も横に振る。雨の音が、さっきより強くなっている。
やがてそんな雨音の中に、男の声が混じり合ってきた。
「千景の保険金が、入ってるんだろ?」
わたしが顔を上げると、男は意味ありげに口元をゆるませた。
母はこの男と別れてから、全く連絡をとっていなかった。自宅も教えていなかったし、母が亡くなったことも知らせていなかった。
それなのに……どこかで母が亡くなったことを聞いたんだ。
「少し貸してくれよ。なぁ、日和?」
「お金なんて……ありません」
「そんなわけないだろ?」
「昨日も言ったはずです。嫌なんです。あなたに貸すお金なんて、ありません」
声は震えていたけれど、きっぱりと言ったつもりだった。
この男にされていた事実を、母が知った日。
母はわたしに「気づいてあげられなくて、ごめんね」と何度も謝って、そして父と喧嘩をして、逃げるようにあの家を出た。
日和、ごめんね。ダメな母親でごめんね。
あなたに父親なんていなかった。もう忘れるのよ。あなたはわたしと二人で幸せになるの。
母は飛び乗ったバスの中でわたしの手を握り、泣きながらそう言った。
それからの母と二人の生活は、裕福ではなかったけれど幸せだった。
それなのに、どうして今さら、わたしの前に現れるの?
この人は父親なんかじゃない。この人とはもう、二度と関わりたくない。
ここで断ち切らなければ、きっといつか迷惑がかかる。奏多にも――。
「もう二度とここに来ないで! 警察を呼びます!」
「なんだと?」
男が傘を叩きつけ、わたしに向かって手を伸ばす。幼い頃の記憶がまたよみがえり、わたしは両手で頭を抱え、うずくまる。
その時、車のヘッドライトがあたりを照らし、うずくまるわたしの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。




